一乗家のかわいい花嫁

「なぜ、ただの女学生ごときがそんなことを知っている……っ」
「秘密です」
 男は、ふふと無邪気に笑う女に、快楽ではなく口惜しさで顔を歪めた。
「横領のお話、新聞社に売ったら、いくらくらいお小遣いもらえるんだろう……ちょうど、ほしい着物があったんですよねえ」
「わかった」と男は呟いた。
「他の銀行も……手を回す。だから、誰から聞いたか教えてほしい。横領の話はもう十年も前の話――」
「やったぁ! 大好きです、林さまぁ!」
「――っ!」
 女は男の言葉には耳を傾けずに、男に抱きついた。
「わかってますよね……? 裏切ったら、平穏な日々はなくなるって」
 耳元で囁かれた可愛い声とは裏腹な言葉に、男は背筋に寒いものを覚える。首に絡みつく腕は、掴んだらポッキリ折れてしまいそうなほど華奢だというのに、鎖が絡みついたようにずっしりと重かった。
「……あたしを邪魔する奴は誰であっても許さないわ。あの女が不幸に泣いて泥水をすするまで、諦めるわけないのよ」
 ボソリと呟いた声は、茫然自失となった男の耳には届かなかった。

        ◆

 雪人が難しい顔をして善路の部屋に現れた日から、再び二人の寝室は別になってしまった。
 仕事から帰ってくるのも夜が更けてからの日が増え、帰ってからもしばらくは私室で仕事をしているようだ。おかげで、朝見送ったら翌朝まで雪人に会えないという、寂しい日々を千代は過ごしていた。
「一度、雪人さんが帰ってくるまで、起きて待っていたことがあるんだけど、少し怒られちゃって。心配で余計仕事が手につかなくなるからって」
「未だにその台詞が雪人様の口から出たものだなんて、信じらんないですねえ。ま、それだけ奥様への愛が大きいってことでしょうけど――あっ、あそこの八百屋に行きましょう。あそこの店主、よくおまけしてくれるんですよ」
「あっ、ちょっと待って、ナリさん……!」
 急に直角に方向転換したナリに、千代も慌てて進路を変える。
 千代は今、ナリと一緒に商店街へと夕食の買い物に来ていた。
 昼食の時に、ポソッと「夜まで暇だわ」なんて呟いたら、ナリが「だったら一緒に買い物に行きます?」と誘ってくれたのだ。
 書斎の片付けと読書で日々を過ごすのも、いくら読書好きを自負している千代でも、時には飽きるというもの。ミツヨも桂子も屋敷に籠もりっぱなしは身体に悪いからと、快く送り出してくれた。
 以前ほど、彼女達の手伝いをするのを遠慮されなくなったと思う。
 現に今日は、二人で行くのなら、とミツヨに買い物籠と覚え書きまで渡された。
 普通ならば、使用人が主人に向かってと怒るべきことなのだろうが、千代は、彼女達が奥様ではなく千代個人として接してくれている気がして、むしろ嬉しかった。
 清須川家では、女中とは主従関係以前の問題だったのだし。
「おっ、なんかあっちで催しやってますね。後で一緒に冷やかしに行きましょうよ。ねっ、奥様」
 遠慮などまったくないナリの態度に、千代はふふっと、くすぐったそうに肩を揺らした。
 女学生時代でも、心を許せるような友人はできなかったというのに、今になって友人といえる者が、しかも嫁ぎ先でできるとは。人生、何があるかわからないものだ。
「ええ、お使いが終わったら覗いてみましょう。私はあっちにあるお花屋さんに行ってくるから、ナリさんは野菜をお願い」
「りょーかいでーす。魚屋は少し離れてるんで、合流して最後に行きましょう」
 千代達は二手に分かれ、それぞれ目的の店へと向かった。
 さすがに花屋でも、冬は色彩は控えめである。
 一乗家には玄関や廊下、各部屋に季節の花が生けてある。桂子が担当しているようで、前の花が枯れそうだからと頼まれた。花の種類はなんでも良いと言っていたが、生けるのにちょうど良い花が数えるほどしかなかった。
「南天、福寿草、松……って、これじゃお正月になっちゃうわ。他には、水仙と……」
 店先に並べられた花々を端から眺めていく中で、キワッと赤く色づいた椿に目を惹かれた。ちょうど赤だけでなく白もある。
「これにしましょ。うん、単色でも紅白でも、桂子さんなら綺麗に飾ってくれるわ」
 椿はまだ三分咲きといったところで、長く楽しめるだろう。
「すみません、この椿を――」
「あらぁ、お姉さま。偶然」
 お願いします、と店主を呼び止めようとした声に、実になじみ深い女の声が被さった。声音もそうだが、自分を『姉』とする者はひとりしかいない。
「あ……茜……」
 紅白の椿から、声のした方へと顔を向けれれば、案の定そこにいたのは笑顔で手を振る茜だった。キワッと目を惹く化学染料で染め上げられた、紫地に流行りの緑とオレンジなどの鮮やかな椿柄が美しい着物姿。清須川家の窮状を知っている千代からしたら、眉をひそめたくなるものである。
 千代は二の句を継げずにいた。
 以前までならば、「あら、奇遇ね」と再会を喜べたのだが、すべてを知った後ではどのような顔をすればいいのかすらわからない。
 むしろ、今や会いたくない相手である。
 茜は、千代の顔色から色々と察したのだろう。
「ふーん」と口先を尖らせると、一瞬のうちに顔から笑みを消した。
「お義兄さま、お姉さまに話したんだ。てっきり、隠したままにするかと思ってたけど……」
「本当……なのね、茜」
 雪人の話を疑ったりはしていない。茜なら、と妙な納得感を覚えもした。
 それでもやはり、本人の口から肯定ととれることを言われると、臓腑に重石が乗ったような感覚に襲われた。
 千代はグッと瞼を閉じると小さく頭を振り、昔のように「どうして」と情けを見せそうになる自分を追い出す。
「茜、一乗家の皆さんに謝りなさい」
 次に茜を見つめた千代の目は、強い怒りに満ちていた。「へえ」と茜が意外そうな顔をする。
「私のことが嫌いでもいい。だけど、あなたが私の名を騙って嘘を流したことで、雪人さんもお義父様も嫌な思いをしたの。それに対しては謝ってちょうだい」