一乗家のかわいい花嫁

 繋がった相手が愛する者というだけで、ここまで満たされるものが違うのかと知った。あやうく耽溺しそうになったが、彼女ははじめてだということを何度も思い出し、どうにか理性の緒はちぎれずにすんだ。
「……そうか、はじめてか……」
 噛みしめるように呟いた言葉に、喜びが込み上がってくる。
 彼女の柔肌に触れたのは、後にも先にも自分だけという優越感と独占欲が、腹の底で高揚していた。
 シーツに流れる千代の髪を、起こさないようにそっと手で梳く。
 そろそろ千代が起きる時間のはずだが、その気配はまるでない。
 やはり少し無理をさせたか。
 雪人は千代のこめかみに軽い口づけを落とすと、布団を千代の肩まで引き上げ、自分は静かにベッドを出た。
 私室に戻り、手早く着替えを済ます。
 いつもより少し早い時間。雪人は足音に気を付けながら玄関へと向かう。
「あら、雪人様」
 玄関で靴を履く雪人の背に、ミツヨの声が掛けられた。
「……早いな。さすがミツヨさん」
「それはこちらの台詞です。何か問題でもありましたか」
「ああ、少し気になることがあって、今日は早目に会社へ行く」
「かしこまりました、お気を付けて」とミツヨは腰を折り、雪人は玄関の扉に手を掛けた。しかし、思い出したように顔だけで振り返る。
「ああ、そうだ。今日は、千代をゆっくり休ませてやってくれ」
「は?」と、ミツヨは唐突な雪人のお願いに首を傾げた。
「疲れてるだろうからな」
 しかし、雪人の嬉しそうな、それでいてどことなく勝ち誇ったような顔を見て、察するものがあったらしい。
「まあっ!」と、ミツヨが目も口も円くして声を上げた時には、雪人の姿は扉の向こうだった。


 雪人は、昨日の茜の言葉が引っ掛かっていた。
『ここは横濱で、昔ながらの伝手は一乗よりも多いということですよ』
 チヨの正体がばれた今、彼女は同じ手を使って、千代の悪い噂を広めることはしないだろう。これでひとまずは安心といった話なのだが、どうしてか嫌な予感がするのだ。
「彼女の目的はなんだ?」
 姉から婚約者を奪うことではないのか。
 奪うにしても、可愛がってくれた姉を貶めてまでやることか。
 しかも、あの台詞……誰が聞いても、これで終わりとは思えない言い様だった。
「伝手が多い? 千代から聞いた限りでは、今の清須川家よりもうちのほうが、伝手は多そうなんだが……やはり窮状を知らない者のはったりか?」
 昨日からずっとどんな結論も腑に落ちず、ひとりでは思考に埒があかなかった。
 ひとりで駄目なら二人だと、忠臣も今日は少し早く来いと既に連絡してある。
 部屋の窓から、会社前の道を見下ろした。人の往来も増えてきた。
 きっと、忠臣ももうすぐで現れるだろう。
「しまった。朝食も買ってくるよう言えばよかったな」
 ヨコハマベーカリーの『イングランド』というパンが絶品なのだ。
「あーでも、まだ開店時間じゃ――」
 ないかな、と言いかけた時、社長室の扉が勢いよく開いた。
「社長!」
 切羽詰まった声と共に、忠臣が駆け込んで来た。
 すぐに、何か良からぬことが起こったのだと理解する。
「どうした、臣」
「正金銀行からの我が社への予定融資が、取り消されました!」
 そんなはずはないと思いつつも、雪人の脳内には、茜の『これからはどうぞ頑張ってくださいね』という声が響いていた。

 
【第五章:策略】

        1

「あぁ、やらかしちゃったわ……」
 千代は読んでいた本で、熱くなった顔を覆った。
 書斎は静かで、独り言でも己の耳には大きな声で聞こえ、改めてやってしまったと後悔の念に苛まれる。
「お昼まで寝過ごすだなんて……ナリさんも起こしてくれたら良かったのに」
 いや、彼女のせいではない。自分がすべて悪いのだ。
 いつもは彼女達が起きて台所に入った頃合いに起き出すのだが、今日は目覚めた時、太陽は燦々と中天で輝いていた。
 慌てて支度をして階下に向かったら、女中の三人は笑顔で「あらあら、おはようございます」と言って、責めずにむしろ「お腹空いてますよね」と美味しそうな昼食を出してくれた。
 何がなんだかしばらく混乱していたが、彼女達の笑みがニコニコではなくニヤニヤと生温かいものだと気付いて、理解してしまった。
「~~っ絶対、ミツヨさん達はわかってるわよね」
 寝坊した理由を。
 彼女達は、あえて起こしに来なかったのだ。
「恥ずかしい……っ」
 起きたら、隣で寝ていたはずの雪人もいなかった。
 ミツヨに聞けば、既に会社に行ったという当然の答えが返ってきた。
 昨晩、あれだけ動いてよく……、とそこまで考えて一気に顔から火が噴き出した。

        ◆

 初夜の日以降、雪人と同じ寝床に入るのははじめてだった。
『あの……ゆ、雪人さん……っ、わた、私は、どどどのようにしていたら……』
 柔からかな手つきで雪人にベッドに押し倒された千代は、今にも泣きだしそうな真っ赤な顔で、上から覗き込んでくる雪人を見つめる。
 部屋は、ベッド脇にあるランプの頼りない明かりしかなく薄暗い。そんな中で見たからだろうか。目を細め、クスッと微笑む雪人の雰囲気が妙に艶っぽく見え、全身の熱が上がる。
『大丈夫、全部俺に任せてくれ。千代は――』
 そこで言葉を句切ると、雪人は千代の耳元に顔を寄せ……。
『可愛く鳴いてくれたらいいから』
 低い声で囁かれた。
『な――っんぅ』
「なく!?」と、驚きに上げそうになった声は、雪人の口づけによって喉奥へと引っ込んだ。
『ふぁ……んんっ……!』
 彼と唇を重ねたことは、これまでも幾度かあった。
 しかし、こんな口づけなど知らない。
 唇を舌でなぞられ、驚きに声を上げた瞬間、彼の舌が口内に侵入してくる。驚きに千代は舌を引っ込めようとするも、逃がさないとばかりに雪人の口がさらに深く押し付けられ、撫でるように舌を絡め取られる。
 口の中を食まれる感覚に、頭がくらくらする。
(熱い……っ)