一乗家のかわいい花嫁

 自分の時は三年も婚約期間があったのに、茜の時は随分と早急なと思ったが、それも祝言を挙げる金がなかったからだろう。父のことだ、見栄えのする祝言を挙げようとしていたに違いない。
「申し訳ありません、一乗家のお心遣いに背くような真似を……っ」
 千代は深々と頭を下げた。
「それに、清須川製糸がこのような状況ですので、私と結婚しても一乗家にはなんの利を運ぶこともできず……」
 今や有名無実となった清須川家と結ぶ利得など、どこにもないというのに。心の底から、申し訳ないと思うばかりだ。
 すると、「待ってくれ」と雪人の切羽詰まった声と一緒に、グッと肩を押し上げられた。
 両肩を掴まれ、彼と正面から向き合う格好となったのだが、怒りや落胆が浮かんでいると思った彼の顔には、なぜか困惑の色が見える。
「千代は、俺が清須川の名前だけで、君と結婚したと思ってたのか!?」
「え、っと……」
 父には、清須川家との繋がりがほしくて申し入れられた結婚話だと聞いていた。くわえて、最初は義父のほうが相手だと皆が思っていたため、病人の世話要員とも言われた。
 雪人は千代が言い淀んだのを見て、目元を覆って「はぁ」と天を仰いだ。
「確かに……打診の時点では、そういう思いがあったのは否定しない。元より、そのような家の娘を探してくれと、父には伝えていたからな。だが、結納の時、君を見てから俺はずっと君と結婚したかった」
 目元を覆っていた雪人の手は、彼の顔が正面へと向き直ると一緒に、次は千代の頬にそっと触れた。彼の大きな手は、千代の小さな顔など覆ってしまいそうなくらいで、頬をすっぽりと包み込んでいた。
 頬がじんわりと熱くなるのは、彼の体温が自分よりも高いからか。それとも、彼が向ける瞳の奥に、チラチラと火先を揺らしている、今にも燃え上がりそうな赤い欲に当てられたからか。
 恥ずかしいのに、雪人から目をそらせなかった。
「どうして……はじめて会った女のことをそこまで……」
 困ったように雪人の眉が下がった。
「はじめて……ね。正確に言うのなら五年前のあの日からずっと、俺は結ばれるなら君とが良いって思っていたんだけどな」
「五年前?」
 五年前というと、自分はまだ学生で……そう、ちょうど図書室で働かせてもらっていた頃だ。
 当時は、毎日家と学校との往復ばかりで、母の看病やその後は図書室での手伝いと、学友とさえ学校の外で会うこともなかった。そんな中、異性と出会うような機会はなかったと思うのだが。
「五年前だと、雪人さんは大学生でしょうか」
「ああ」と雪人は頷く。
 清須川家の取引先の令息だろうか。
 いや、一乗家は一年前に東京から横濱に来たと言っていたから、きっと東京の大学に通っていたのだろう。ただでさえ大学生と出会うことなどないし、さらに遠く離れた東京ならば、ますます接点はないように思われた、が――。
(あ……)
 脳裏に、記憶の断片がひらりと舞った。
 自分の数少ない異性との出会いの中に、ひとりだけ、詰め襟の制服を着た青年がいた。
 キラキラとした記憶のガラス片は、当時の『楽しかった』という感情を表すように輝いていた。割れていたガラス片がひとつ二つと現れ、カチッカチッと組み合わさり一枚の記憶を呼び起こす。
 頭の中に白い光りが満ちた。
『け、建築書を……コンドルの……』
『ありがとう。とても……良い時間だった』
『君、名前は……っ!』
 レオンの知り合いだという青年は、建築書を探していた。
 探して渡したら、おすすめの本はないかと聞いてきた。自分の意見をほしがる者が新鮮で、面白いと思ったものを片っ端から勧めた。彼は一冊一冊中を覗いては、『面白そうだ』とか『これは読んだな』とか、わざわざひとつずつに言葉を返してくれた。
「も、し、かして……っ」
 そういえば以前、書斎の机の上に一冊の建築書が置いてあった。
 それこそ、当時の彼が探していた本ではなかっただろうか。
 千代の気づきを察した雪人の目が、幸せそうに細められた。
 いつも横一文字に引かれている口も、緩やかな弧を描いている。
 あの青年の姿に、今の雪人と重なる部分はない。
 しかし、目の前の雪人は確かにあの青年だと、千代の心が確信していた。
「あの時、図書室で一緒に本を探したお兄さん……ですか」
「ああ……っ、良かった」
「覚えていてくれた」と言って、雪人は千代を抱き締めた。
 耳元で聞こえた雪人の声は、心の底から絞り出したように掠れていて、どれだけ彼が待ってくれていたのかが伝わってくる。
 抱き締めてくる腕の強さは、痛くはないが絶対に離さないとでもいうように力強く、今までも抱き締められたことはあったが、それとはまるで違っていた。肩と腰を抱かれ、寸分の隙間も惜しむように、全身を引き寄せられる。
 全身で、好きだと言われているようで、息が苦しくなる。
 触れた彼の温かさが、耳元で聞こえる彼の息遣いが、すべてが千代の涙腺を刺激した。
 悲しいわけではないのに、胸が痛くて、わけも分からず泣きたくなる。
「好きだ。ずっと……ずっと前から、君のことが好きだった。結婚して、毎日君の新たな一面を発見するたびに、もっと好きになっていった」
「雪人さん……っ」
 それは自分も同じだ。
「愛してるよ、千代」
 千代は自ら雪人の背に手を回し、唇を近づけた。

        ◆

 初夜の日以降、千代だけで使っていた広すぎるベッドは、今朝は本来あるべき人数で使用されていた。
 隣ですやすやと愛らしい寝息を立てる千代を、先に目を覚ました雪人は、仔猫を見つめるようなふやけた顔でしばらく眺めていた。
 カーテンの隙間からは、朝ぼらけの薄光が漏れ入っている。
 布団から出た千代の肩は一糸もまとっておらず、次第に明るくなってきた薄明の元で見ていたら、ズクリと欲がうずいた。
 昨夜の彼女の様子が思い出される。