一乗家のかわいい花嫁

「まあでも、これで彼女も二度とチヨにはならないだろうさ。噂は時間が薄めてくれるだろうし、もし君に何か言う奴がいたら、俺が守るから」
「はい」
 千代は、嬉しそうに目尻をすぼませ、ほっと薄い肩を落として安堵の息を吐いた。
 憂いのひとつはこれで解消した。
 実は、千代の憂いは噂の件ひとつだけではない。
『結納金はそれなりに渡したはずだが……』
 善路の声が脳内で反芻した。
 結婚してからも、ずっと頭の片隅にそのことが引っ掛かっていた。騙しているわけでも隠しているわけでもないのだが、それでも言わないのは不誠実だと思えたのだ。
「雪人さん、私からもお話ししたいことがあるんです」
 雪人の手が重ねられた下で、拳がじわりとした汗を握る。心臓も汗をかいたように、嫌な緊張が泥のようにまとわりつくようだ。
「改まってどうしたんだ、千代」
 これを告げることで、この優しい声音が二度と自分に向けられることがなくなったらどうしようと、言葉を飲み込みそうになるが、千代は、噂を鵜呑みにせずそれどころか自分を信じて調べてくれていた雪人を信じ、口を開いた。
「清須川製糸は、おそらく長くはもちません」
 
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 横濱で清須川家の名を一躍有名にしたのは、清須川製糸の隆興によるものだ。
 清須川製糸は、祖父が興した紡績会社である。当時は国策として殖産興業を後押しする風潮があり、それに上手くのったかたちで、一躍横濱では有名な会社となった。また、立地の要因も大きかった。国際港を持ち、国内外の生糸の集積地であった横濱だからこそ、急速に発展できた部分はある。
 しかし、時代も変わり殖産興業は斜陽となってきていた。
 もちろん、その中でも上手く経営できている会社もあるのだが、父には祖父のような経営能力はなかった。
 右肩下がりの経営でも未だに清須川が体面を保てているのは、祖父の代で貯めたものがあるおかげだ。それを今は少しずつ食い潰している状況にある。
 祖父が築いた人脈は、父にとって功罪であった。
 誰もが自分を知り、街でもよく声をかけられ、横濱では名高い会社を経営しているという状況は、父の自尊心を無限に増大させた。父は周囲を見下すように尊大な振る舞いをし、それは家族や使用人に対する態度を見ても、どのように他人に接しているか容易に想像できた。
 父の傲慢な態度に、祖父を慕っていた者達も段々と離れていき、清須川家が持っていた人脈という財は今、半分以下になっている。祖父の頃は、毎年分厚い洋書のように年賀状が来ていたのに、去年はもう摘まむ程度にしか来なかった。年々痩せ細っていく手紙や葉書の厚みに、千代は会社の未来を見ていた。
 事務仕事を手伝っていた母が病に伏せった時、彼女に実は経営状況が良くないと打ち明けられた。だから、これ以上使用人は雇えないし、女学校に行かせる最低限のことしかできないと謝られた。
 そして、母が亡くなり、仕事を引き継ぐと、母の言ったことは本当だったと理解できた。
 父は、決して母や自分を家業に携わる仲間と認めていたわけではなかった。事務員に払う給料を少しでも節約するために、体の良い労働力と見なされていただけだった。
「母が亡くなって、私事に使えるお金はなくなりました。それまでは、母が頑張って工面してくれていたようなんですが……それでも着物に穴が空いてもバレないように繕って、学校に行っていたんですけどね。なので、以降は自分に関わる費用はすべて自分で稼ぐ必要があって、学生時代は図書室で、司書のお仕事を手伝わせてもらったりしてたんです」
 当時の先生達の優しさを思い出し、千代はふふと頬を緩めた。
「でも、お金の稼ぎ方もわからず、事情を話して、先生方にどこか学生でも働けるところを紹介してくれないかとお願いしたんです。そうしたら、ある先生が……外国人教師のレオン先生という方がいたんですが、だったら図書室で働けば良いと言ってくださって。他の先生方にも了承をいただけ、それで皆には内緒でこっそりと司書手伝いとして働くことができたんです」
 本当に、今でも女学校の先生達には感謝している。
 おかげで、新しい帳面や鉛筆も買うことができ、なんとか学校にも通えた。清須川家の娘という体面を守らせるためか、女学校の学費だけは父が出してくれていた。千代は比較的安価な公立で、茜が今通っているのは裕福な士族や華族の令嬢が多い私立だが。
「そのことを……茜さんや二井勇一郎は知っているのか」
「いえ、知りません」
 茜は会社関係のことは何も知らないと言っていた。
 まあ、父が彼女に手伝いをさせるわけないし、家の窮状をわざわざ伝えるはずもない。それは勇一郎が相手でも同じだ。
「勇一郎様との婚約は二井家からの申し出でした」
「ああ」と、雪人は納得したように頷いていた。
 そういえば、先日、彼は二井家が土地を売ったと言っていたのだったか。
「父は華族との繋がりがほしくて、会社の状況を隠したまま婚約話を受け入れたようです。勇一郎様や茜は、うちにまだたくさんお金があると思っているようですが、実際は穴の空いた桶も一緒なんです」
 二人が結婚して、勇一郎が会社を継いだら否が応でもわかることだ。
 ただ、それまでは決して父は現状を伝えないだろう。
 父も色々と手を打とうとしているようだが、経営悪化は止められずの状況だ。はたして、勇一郎へと会社が引き継がれた時、傾きはどのくらいになっているのやら。
 以前は、『その時、茜が困ることにならなければ良いな』と心配していたのだが……どうやら、もうその心配も必要ないらしい。
 理由はわからないが、自分は妹によっぽど嫌われているようだ。
 今まで、彼女への違和感を見て見ぬふりしてきた自分に、自嘲が漏れた。
「いただいた結納金ですが、白無垢を誂えたあとの残りは父が……来年の茜と勇一郎様の祝言に使うようで」
 茜が女学校を卒業してすぐ、二人は祝言を挙げるという話だった。