「は、はい……時々、買い物で会うようにちゃんと……」
「そう。じゃあ、ちゃんと自分が勤めている家の姉は最悪だったって愚痴を言うのよ~。あんたが清須川家の女中だってことは、まだ明かさなくていいから。仲を深めて信用された時に打ち明けたほうが効果的だし」
「わかり……ました……」
紗江子がつらそうに視線を床に落としているのなど気づきもせず、茜は手にした着物を身体に当ててクルリと軽やかに回った。
「ふふっ、あ~楽しみ」
雪人と並んで歩く姿を想像する。道行く人達が振り返るお似合いの美男美女だ。
きっと雪人も、自分を隣に置くほうが気持ちいいことに気付くはずだ。
そうして、茜は流行りの束髪くづしに結い、香水をふり、化粧も濃いめに仕上げて待ち合わせ場所の『喫茶ブルーエ』を訪ねた。
しかし、そこで雪人に告げられた言葉は、茜が想像していた甘いものではなかった。
「――え?」
茜は、雪人相手に作っていた極上の笑顔を凍り付かせた。
「君が噂の『チヨ』だね?」
雪人ともうひとりの男の冷めた視線が、否定すら許さないとばかりに身体に突き刺さる。
(なんで……なんでこんなことに……っ!)
勇一郎ですら自分を疑ったことなどないのに。自分の手に掛かれば、男などどうとでもできた。好きなように操れた。
なのに、どうしてこの男は自分の思い通りに動かないのか。すべてにおいて姉よりも自分のほうが秀でているというのに。絶対に、雪人には自分のほうが相応しいのに。
茜は雪人の隣に立って、余裕の笑みで見下ろしてくる青年を睨み上げた。
(まさか、ここまでしてくるだなんて……っ)
茜は卓の下で拳を握りしめた。
【第四章:本性】
1
喫茶ブルーエは、まだ時間が昼間ということもあり、仕事合間の休憩に立ち寄っただろう男達や、旧友と恋愛談義に花を咲かせる女達が多かった。ただでさえ賑やかな中、女給の、注文を取る若さを感じさせる溌剌とした声が、客達の雑多な会話の上を通り過ぎカウンターの奥へと吸い込まれていく。
そこには酒の妖艶な空気もなければ男女の淫靡さもなく、男女が向かい合って珈琲を飲んでいても、いたって健全な光景でしか見えない。
雪人がカップをソーサーに戻す。
カチャンという微かな音に、向かいの女――茜は我に返ったように、目を瞬かせる。
その顔は一般的に美しいと言える容貌で、こうして座っているだけでも、傍らを通り過ぎる男達のチラチラとした視線を受けている。
千代とは姉妹のはずだが、姉妹だと言われていなければ、誰もそうは思わないだろう。
とはいえ、雪人にとっては一般的な顔の造作などどうでもよく、千代のほうが美しい上に可愛いと思っていた。
それに、すべてを隠すように、しっかりと塗り固めたように化粧をする女は苦手だった。
(化粧……な)
女の化粧技術がどれほどのものかは知らないが、忠臣が言うに、化粧次第では別人になりすますことも、誰かに似せることも可能らしい。
「茜さん、二人きりで話したことがあるとのことでしたが……」
「ええ、そうなんです、お義兄さま」
彼女は聞いてくれとばかりに、テーブルに覆い被さるように上半身を前傾させる。拍子に、ふわりと甘ったるい香水の匂いが香ってきた。鼻の奥にまとわりつくようで、珈琲の香りも台無しだ。
(世の男達は、こんな香りが良いのか?)
きっと、もっと良い香りを知らないのだろう。
安らぐような、清廉で透き通るような香りを。
脳裏に描いた彼女の姿に、思わず雪人の表情が和らいだ。
それを、茜は自分への好意故と勘違いしたのだろう。顎を引き上目遣いになり、眉を下げて庇護欲を刺激するような表情になる。
あざとい――それが、雪人が茜の表情に唯一持った感情だ。
「お義兄さまは、お姉さまのことをどれ程ご存知でしょうか」
「どれ程というと?」
「その……」と、茜は躊躇いがちに視線を一度伏せ、そして再び雪人をまっすぐに捉える。
「お姉さま、昔から家にいないことが多くて……」
「昔から?」
「女学生の頃からです。学校が終わっても日が暮れるまで帰ってきませんでしたし、一度ですが、すっかり夜になって帰ってきたこともあったんです! 今、私も学生の身分なのでわかりますが、同級生の方々もそんな時間まで学校には残りませんし、夜までなんて何をなさっていたのか……」
思わず、雪人はゴホッと咳き込んでしまった。千代の、一度だけの遅い帰宅には身に覚えがある。
このような場で不謹慎だと思いつつも、『一度だけ』ということを嬉しく思ってしまった。彼女の時間をそれほど長く拘束できたのは、自分だけだったのかという特別感とも優越感ともいえない喜びがこみ上げ、ニヤけそうになる顔を咳で誤魔化した。
突然咳き込んだ雪人を不思議そうな目で見る茜に、雪人は手を差し出して『どうぞ』と話を促す。
「それで……今、街でお姉さまのことが噂になっているんです」
「噂……」
「夜な夜な家を抜け出して男漁りをしていると……きっと、学生の頃からです! お父さまが何も言わないからって、そんなふしだらなことを……っ」
「ですが、千代はもう結婚しましたから。結婚前の恋愛事情など、こちらが口出しできたことではありませんし」
「それが、噂によると今もまだ喫茶店に現れるようで。私、その噂を聞いた時、お義兄さまが可哀想で可哀想で……っ」
茜は声を震わせ、指で目尻を拭っていた。
雪人は「なるほど」と言って珈琲に口を付け、その後しばらくは口を開かなかった。
二人の間に会話がなくなると、騒然とした店内の音が嫌に際立って聞こえる。ワイワイ、ガヤガヤ、アハハハと実に楽しそうだ。
「さぞ……驚かれたことでしょう、お義兄さま」
店内の雰囲気とは正反対の、悲哀がこもった声だった。同情的な声とも言える。
「そう。じゃあ、ちゃんと自分が勤めている家の姉は最悪だったって愚痴を言うのよ~。あんたが清須川家の女中だってことは、まだ明かさなくていいから。仲を深めて信用された時に打ち明けたほうが効果的だし」
「わかり……ました……」
紗江子がつらそうに視線を床に落としているのなど気づきもせず、茜は手にした着物を身体に当ててクルリと軽やかに回った。
「ふふっ、あ~楽しみ」
雪人と並んで歩く姿を想像する。道行く人達が振り返るお似合いの美男美女だ。
きっと雪人も、自分を隣に置くほうが気持ちいいことに気付くはずだ。
そうして、茜は流行りの束髪くづしに結い、香水をふり、化粧も濃いめに仕上げて待ち合わせ場所の『喫茶ブルーエ』を訪ねた。
しかし、そこで雪人に告げられた言葉は、茜が想像していた甘いものではなかった。
「――え?」
茜は、雪人相手に作っていた極上の笑顔を凍り付かせた。
「君が噂の『チヨ』だね?」
雪人ともうひとりの男の冷めた視線が、否定すら許さないとばかりに身体に突き刺さる。
(なんで……なんでこんなことに……っ!)
勇一郎ですら自分を疑ったことなどないのに。自分の手に掛かれば、男などどうとでもできた。好きなように操れた。
なのに、どうしてこの男は自分の思い通りに動かないのか。すべてにおいて姉よりも自分のほうが秀でているというのに。絶対に、雪人には自分のほうが相応しいのに。
茜は雪人の隣に立って、余裕の笑みで見下ろしてくる青年を睨み上げた。
(まさか、ここまでしてくるだなんて……っ)
茜は卓の下で拳を握りしめた。
【第四章:本性】
1
喫茶ブルーエは、まだ時間が昼間ということもあり、仕事合間の休憩に立ち寄っただろう男達や、旧友と恋愛談義に花を咲かせる女達が多かった。ただでさえ賑やかな中、女給の、注文を取る若さを感じさせる溌剌とした声が、客達の雑多な会話の上を通り過ぎカウンターの奥へと吸い込まれていく。
そこには酒の妖艶な空気もなければ男女の淫靡さもなく、男女が向かい合って珈琲を飲んでいても、いたって健全な光景でしか見えない。
雪人がカップをソーサーに戻す。
カチャンという微かな音に、向かいの女――茜は我に返ったように、目を瞬かせる。
その顔は一般的に美しいと言える容貌で、こうして座っているだけでも、傍らを通り過ぎる男達のチラチラとした視線を受けている。
千代とは姉妹のはずだが、姉妹だと言われていなければ、誰もそうは思わないだろう。
とはいえ、雪人にとっては一般的な顔の造作などどうでもよく、千代のほうが美しい上に可愛いと思っていた。
それに、すべてを隠すように、しっかりと塗り固めたように化粧をする女は苦手だった。
(化粧……な)
女の化粧技術がどれほどのものかは知らないが、忠臣が言うに、化粧次第では別人になりすますことも、誰かに似せることも可能らしい。
「茜さん、二人きりで話したことがあるとのことでしたが……」
「ええ、そうなんです、お義兄さま」
彼女は聞いてくれとばかりに、テーブルに覆い被さるように上半身を前傾させる。拍子に、ふわりと甘ったるい香水の匂いが香ってきた。鼻の奥にまとわりつくようで、珈琲の香りも台無しだ。
(世の男達は、こんな香りが良いのか?)
きっと、もっと良い香りを知らないのだろう。
安らぐような、清廉で透き通るような香りを。
脳裏に描いた彼女の姿に、思わず雪人の表情が和らいだ。
それを、茜は自分への好意故と勘違いしたのだろう。顎を引き上目遣いになり、眉を下げて庇護欲を刺激するような表情になる。
あざとい――それが、雪人が茜の表情に唯一持った感情だ。
「お義兄さまは、お姉さまのことをどれ程ご存知でしょうか」
「どれ程というと?」
「その……」と、茜は躊躇いがちに視線を一度伏せ、そして再び雪人をまっすぐに捉える。
「お姉さま、昔から家にいないことが多くて……」
「昔から?」
「女学生の頃からです。学校が終わっても日が暮れるまで帰ってきませんでしたし、一度ですが、すっかり夜になって帰ってきたこともあったんです! 今、私も学生の身分なのでわかりますが、同級生の方々もそんな時間まで学校には残りませんし、夜までなんて何をなさっていたのか……」
思わず、雪人はゴホッと咳き込んでしまった。千代の、一度だけの遅い帰宅には身に覚えがある。
このような場で不謹慎だと思いつつも、『一度だけ』ということを嬉しく思ってしまった。彼女の時間をそれほど長く拘束できたのは、自分だけだったのかという特別感とも優越感ともいえない喜びがこみ上げ、ニヤけそうになる顔を咳で誤魔化した。
突然咳き込んだ雪人を不思議そうな目で見る茜に、雪人は手を差し出して『どうぞ』と話を促す。
「それで……今、街でお姉さまのことが噂になっているんです」
「噂……」
「夜な夜な家を抜け出して男漁りをしていると……きっと、学生の頃からです! お父さまが何も言わないからって、そんなふしだらなことを……っ」
「ですが、千代はもう結婚しましたから。結婚前の恋愛事情など、こちらが口出しできたことではありませんし」
「それが、噂によると今もまだ喫茶店に現れるようで。私、その噂を聞いた時、お義兄さまが可哀想で可哀想で……っ」
茜は声を震わせ、指で目尻を拭っていた。
雪人は「なるほど」と言って珈琲に口を付け、その後しばらくは口を開かなかった。
二人の間に会話がなくなると、騒然とした店内の音が嫌に際立って聞こえる。ワイワイ、ガヤガヤ、アハハハと実に楽しそうだ。
「さぞ……驚かれたことでしょう、お義兄さま」
店内の雰囲気とは正反対の、悲哀がこもった声だった。同情的な声とも言える。


