上から下まで視線を移動させながら、本棚にそってカニのようにちょこちょこと横に移動する千代を、後ろから雪人はひっそりと見つめていた。
その眼差しは、可愛いと思っているのがありありとわかるようなもので、外は冬の寒空が広がっているというのに、ここだけは柔らかな春陽が射し込んだように温かく穏やかな空気が満ちていた。
『実務だったら英国で……これと、えっと確かこっちにも少し……あっ、あれも』
独り言を言いながら参考になりそうな本を集める千代だったが、一冊、背表紙は見えているのにどうしても手が届かない本があった。
『よっ』『ほっ』と飛び跳ねても手が届かず、大人しく踏み台を持って来ようと諦めた瞬間、背後から噴き出したような声が聞こえた後、視界に影が落ちた。
『この本か?』
振り向けば、いつの間に席を立ったのか、雪人が真後ろから千代が取ろうとしていた本に手を伸ばしていた。
『はぁッ』と変な息が漏れた。
『こういった場合は無理せず頼ってくれ』
本棚と雪人の身体に挟まれた狭い空間。少し見上げた先にある彼の喉仏が、耳に心地好い低めの声と共に動いていた。さらに千代の視線は上へと移動し、雪人の口で止まる。引き結ばれた薄い唇から目が離せない。
そして思い出す。
先日、その唇が自分の同じものに触れたことを。
『ああ、これか。確かに参考になりそうだな』
本を手にし、雪人と千代の距離は通常時のものへと戻った。
『そ……それは良かったです……ぅ』
が、千代の顔色は戻らなかった。
千代は顔を俯かせ、手にしていた本も雪人に差し出す。絶対に顔は見せられない。こんなに熱いのだ、きっと湯気が出ているに違いない。
幸い、雪人は本に夢中で千代の顔色までは気付かなかった。
(なんだか雪人さんといると、私、ずっと火照ってる気がするわ)
火照りだけではない。心臓もうるさい。
(私……雪人さんのこと……っ)
熱を冷ますように千代は頬を両手で包み、唇を噛んだ。
一方、再び席に戻った雪人は、千代が選んだ本をパラパラと捲ると、感嘆の声を漏らした。
『やはり君はすごいな。妻に仕事を手伝ってもらうなんて、結婚前は思ってもみなかったよ』
あ、と千代は勇一郎に婚約破棄を告げられた時、一緒に言われたことを思い出す。
『あのっ、会社の経営に口出しをするつもりなどありませんから、ご安心ください』
雪人は『え』と目を瞬かせた。
『そんなこと少しも思わなかったが……』
雪人は千代を手招きした。
『何か言われたことがあったのか?』
近付いてきた千代の手を雪人は優しく握り、俯く千代の顔を見上げる。
『その……勇一郎様との婚約がなくなったのは、それも原因のひとつでして。女の読書は無駄で、賢(さか)しく可愛げがないと……』
自分が捨てられた理由を言うのは怖かった。
もし、「そう思われるような女か」とでも思われたら、と千代は固唾を飲んだのだが、返ってきたのは『ハハッ』という笑い声だった。
『え』と千代は目をパチパチさせ、首を傾げる。
『やっぱりその男は見る目がないな』
雪人は嘲笑ではなく、本当におかしそうに笑っていた。今の話にどこか笑うようなところがあったのだろうかと思ったが、やはりわからない。
ようやく笑いを収めた彼は、握っていた千代の手を親指で丁寧に撫でる。
『千代、気にしなくていい。君のその知識は賢しさじゃなく誇るべきものだ。君の努力で得たもので、決して無駄なんかじゃない。実際こうして俺は助けてもらっているんだ』
『本当、ですか?』
『ああ、千代のおかげで助かっている。君が書斎の整理をしてくれるようになって、資料もとても探しやすいし、おまけに書類も整えてくれているだろ。今日だって、昼食から戻ってきたら、書類が綺麗に分別されてあって仕事に取りかかりやすかったよ』
雪人に書斎を任された日から、千代は本棚の整理だけでなく、机に無造作に置かれた書類の整理もやっていた。はじめの頃は見てはいけない書類かもと思っていたが、彼は書類整理は苦手なようだが、そのような機密事項をうっかり放置するような不用意なことは絶対にやらないとわかり、それからは残されたものは密かに片付けるようにしていた。
片付けるといっても、処理済みか未処理かで分けたり、事業分野ごとにまとめたりと簡単なものだが。
『俺はほら、前も言ったとおり整理とかは苦手で……会社でも終わるまでいろんな書類を広げたままにして、よく片付けながら仕事しろって臣に叱られたりするんだよ』
『まあっ』
なんでもできる完璧な人だと思っていたのだが、なんだか彼が怒られている姿を想像したら微笑ましく、クスクスと千代は笑みを漏らした。
まるで好きなことに夢中になる少年のようで、失礼かもしれないが、やはり彼は可愛らしい。
『ありがとう、千代。君が嫁いできてくれて本当に幸せだ』
千代は目をじわりと見開いた。
胸が熱かった。
彼と接すると身体が熱くなることなどしょっちゅうだが、この熱さはそれとは違った。じわじわと喜びがこみ上げてくる。
今までも――清須川家でも似たようなことをやってきた。しかし、一度だとて父に感謝されたことも褒められたこともなかった。
ましてや、いらないと家を追い出された始末だ。茜に自分のようなことをさせていないと聞き、自分などいてもいなくても良かったのだと突きつけられたのに……。
(私こそ……っ)
千代のここ最近の一日は、午前の善路への薬の差し入れにはじまり、午後は書斎を片付けながら本に触れるというものだった。空いた時間は読書ができるし、翌日その本の話題で善路と話しもできる。
こんな穏やかな日々が過ごせると、婚約破棄された時は誰が予想できただろうか。
千代は水膜が張った瞳を嬉しそうに細めた。目尻に涙が滲ききらきらと輝く。
『私こそ、ありがとうございます。私、雪人さんの妻になれて嬉しい……っ』
自分の手を優しく握ってくれる人がいると思わなかった。
その眼差しは、可愛いと思っているのがありありとわかるようなもので、外は冬の寒空が広がっているというのに、ここだけは柔らかな春陽が射し込んだように温かく穏やかな空気が満ちていた。
『実務だったら英国で……これと、えっと確かこっちにも少し……あっ、あれも』
独り言を言いながら参考になりそうな本を集める千代だったが、一冊、背表紙は見えているのにどうしても手が届かない本があった。
『よっ』『ほっ』と飛び跳ねても手が届かず、大人しく踏み台を持って来ようと諦めた瞬間、背後から噴き出したような声が聞こえた後、視界に影が落ちた。
『この本か?』
振り向けば、いつの間に席を立ったのか、雪人が真後ろから千代が取ろうとしていた本に手を伸ばしていた。
『はぁッ』と変な息が漏れた。
『こういった場合は無理せず頼ってくれ』
本棚と雪人の身体に挟まれた狭い空間。少し見上げた先にある彼の喉仏が、耳に心地好い低めの声と共に動いていた。さらに千代の視線は上へと移動し、雪人の口で止まる。引き結ばれた薄い唇から目が離せない。
そして思い出す。
先日、その唇が自分の同じものに触れたことを。
『ああ、これか。確かに参考になりそうだな』
本を手にし、雪人と千代の距離は通常時のものへと戻った。
『そ……それは良かったです……ぅ』
が、千代の顔色は戻らなかった。
千代は顔を俯かせ、手にしていた本も雪人に差し出す。絶対に顔は見せられない。こんなに熱いのだ、きっと湯気が出ているに違いない。
幸い、雪人は本に夢中で千代の顔色までは気付かなかった。
(なんだか雪人さんといると、私、ずっと火照ってる気がするわ)
火照りだけではない。心臓もうるさい。
(私……雪人さんのこと……っ)
熱を冷ますように千代は頬を両手で包み、唇を噛んだ。
一方、再び席に戻った雪人は、千代が選んだ本をパラパラと捲ると、感嘆の声を漏らした。
『やはり君はすごいな。妻に仕事を手伝ってもらうなんて、結婚前は思ってもみなかったよ』
あ、と千代は勇一郎に婚約破棄を告げられた時、一緒に言われたことを思い出す。
『あのっ、会社の経営に口出しをするつもりなどありませんから、ご安心ください』
雪人は『え』と目を瞬かせた。
『そんなこと少しも思わなかったが……』
雪人は千代を手招きした。
『何か言われたことがあったのか?』
近付いてきた千代の手を雪人は優しく握り、俯く千代の顔を見上げる。
『その……勇一郎様との婚約がなくなったのは、それも原因のひとつでして。女の読書は無駄で、賢(さか)しく可愛げがないと……』
自分が捨てられた理由を言うのは怖かった。
もし、「そう思われるような女か」とでも思われたら、と千代は固唾を飲んだのだが、返ってきたのは『ハハッ』という笑い声だった。
『え』と千代は目をパチパチさせ、首を傾げる。
『やっぱりその男は見る目がないな』
雪人は嘲笑ではなく、本当におかしそうに笑っていた。今の話にどこか笑うようなところがあったのだろうかと思ったが、やはりわからない。
ようやく笑いを収めた彼は、握っていた千代の手を親指で丁寧に撫でる。
『千代、気にしなくていい。君のその知識は賢しさじゃなく誇るべきものだ。君の努力で得たもので、決して無駄なんかじゃない。実際こうして俺は助けてもらっているんだ』
『本当、ですか?』
『ああ、千代のおかげで助かっている。君が書斎の整理をしてくれるようになって、資料もとても探しやすいし、おまけに書類も整えてくれているだろ。今日だって、昼食から戻ってきたら、書類が綺麗に分別されてあって仕事に取りかかりやすかったよ』
雪人に書斎を任された日から、千代は本棚の整理だけでなく、机に無造作に置かれた書類の整理もやっていた。はじめの頃は見てはいけない書類かもと思っていたが、彼は書類整理は苦手なようだが、そのような機密事項をうっかり放置するような不用意なことは絶対にやらないとわかり、それからは残されたものは密かに片付けるようにしていた。
片付けるといっても、処理済みか未処理かで分けたり、事業分野ごとにまとめたりと簡単なものだが。
『俺はほら、前も言ったとおり整理とかは苦手で……会社でも終わるまでいろんな書類を広げたままにして、よく片付けながら仕事しろって臣に叱られたりするんだよ』
『まあっ』
なんでもできる完璧な人だと思っていたのだが、なんだか彼が怒られている姿を想像したら微笑ましく、クスクスと千代は笑みを漏らした。
まるで好きなことに夢中になる少年のようで、失礼かもしれないが、やはり彼は可愛らしい。
『ありがとう、千代。君が嫁いできてくれて本当に幸せだ』
千代は目をじわりと見開いた。
胸が熱かった。
彼と接すると身体が熱くなることなどしょっちゅうだが、この熱さはそれとは違った。じわじわと喜びがこみ上げてくる。
今までも――清須川家でも似たようなことをやってきた。しかし、一度だとて父に感謝されたことも褒められたこともなかった。
ましてや、いらないと家を追い出された始末だ。茜に自分のようなことをさせていないと聞き、自分などいてもいなくても良かったのだと突きつけられたのに……。
(私こそ……っ)
千代のここ最近の一日は、午前の善路への薬の差し入れにはじまり、午後は書斎を片付けながら本に触れるというものだった。空いた時間は読書ができるし、翌日その本の話題で善路と話しもできる。
こんな穏やかな日々が過ごせると、婚約破棄された時は誰が予想できただろうか。
千代は水膜が張った瞳を嬉しそうに細めた。目尻に涙が滲ききらきらと輝く。
『私こそ、ありがとうございます。私、雪人さんの妻になれて嬉しい……っ』
自分の手を優しく握ってくれる人がいると思わなかった。


