「本当です本当です! 触れられたこともありませんし、贈り物をもらったことなどもありませんでした。三年ほど婚約者でしたが、その間に彼が私を訪ねてきたのは数えるほどで……季節の変わり目に義務的に顔を合わせる程度だったんですから」
正直なところ、勇一郎に対する感情は『婚約者だな』くらいしか持ち合わせていない。だから、婚約破棄と言われても、心配事はあったが悲しみはまったくなかった。
「じゃあ、なんて呼ばれていた」
「それは千代、と」
「千代」
「は、はい」
急になんだろうか。
「千代」
「ええっと……はい」
「千代」
「はい……あの、どうされたのですか?」
何かあるのかと構えていたのだが、名前しか呼ばれない。
雪人の顔が遠ざかっていき、隣の千代ではなく誰もいない正面を向く。その口元は不機嫌そうに歪んでいる。
「その男が、俺よりも君の、いや、千代の名前を呼んだのかと思うと腹立たしくてね」
千代は口をポカンと開け、唖然とした。
今までも彼は可愛いや美しいなど言うこともあったが、それは自分の言動などに対してであり、嫌われてはいないのだろうとは思っていたが……。
しかし、この言い様だとまるで……。
「もしかして嫉妬を……」
そう、まるで勇一郎に嫉妬しているみたいで。
(それはつまり、雪人さんは私のことを好きって……こと?)
カァッと身体が熱くなったが、千代は頭をぶんぶんと横に振り、都合の良すぎる考えを追い出す。
「あ、あはは、そ、そんなわけないですよ――――んっ」
突然、視界が雪人だけになった。いや、彼かどうかもわからない。だって、彼の閉じた目しか見えないのだから。
ただでさえ熱かったのに、唇に触れる柔らかなそれはもっと熱かった。
微かな水音を立てて熱は離れていき、ヒヤリとした唇が寂しく、胸が切なくなる。
二人の間で、はぁ、という熱っぽい吐息の音だけが落ちた。
コツン、と額がくっつく。
否が応でも彼の黒い瞳と目が合った。
「悪いか。君は俺の妻だ」
雪人は、バタバタと慌ただしく寝室を出て行った。
ただ、戸を閉める音はとても優しく、パタンと部屋に音が響いた瞬間、千代はベッドに倒れ込んでしまった。
胸の内側を激しく心臓が叩いていた。
痛いのか、甘いのか、むずむずするのか。
「胸が壊れちゃいそう……っ」
口づけとは、こんなに甘くて幸せなものだったのかと、はじめて知った。
4
「……面白くない」
千代を訪ねた日から数日が経ち、今日は学校もちゃんと休みの日曜日だった。
茜は朝から自室の畳の上で横たわり、畳の目に爪を引っ掛けては、ガリガリと猫が爪を研ぐように畳を掻いていた。
「面白くないっ」
何もかもが。
千代が一乗家でどれだけ冷遇されているのか、取り繕われないように突然訪ねていったというのに、予想していたものではなかった。相変わらず地味な着物姿ではあったが、普通に応接室なんか使っているし、女中とも普通に会話なんかしていた。清須川家では、皆千代に対して、腫れ物を扱うような態度か、いない者として扱っていたというのに。
「しかも、何あのオヤジ……ッ、せっかく良いことを教えてやったのに」
一乗の義父――善路に言われた言葉を思い出し、腹の底が苛ついてきた。
まるでこっちが悪者みたいに言われ、しかも下品とまで言われたのだ。
「拝金主義者の平民風情が……っ」
茜は親指を噛んだ。パキッという音と共に爪が折れた。それでも茜は爪を囓り続ける。
「一瞬、あたしが一乗家に嫁いでればと思ったけど、やっぱり平民は無教養でダメね。商売人はどんな情報でも耳を傾けなきゃっていうのに……一代で成り上がったって話だけど、あれじゃ会社もすぐに潰れるわね」
よく父が勇一郎に、いかに早く情報を仕入れるかが商売では大事だと言っていた。どのような情報が大事かまでは茜にはわからないが――事業に関わるつもりもないし、わからなくて構わないのだが――頭から疑ってかかるのは論外だろう。
何より、士族令嬢に対して態度が失礼すぎた。
「ハッ! 一乗が清須川に仕事の相談に来ても、絶対助けてやんない」
勇一郎は自分に惚れ込んでいる。自分の言うことなら、犬のように尻尾を振って頷く。
それに、雪人もだ。
洋装の美女が訪ねてきたというのに、挨拶どころかその場にいた社員に紹介すらしなかった。しかし、やはり自分のほうが千代よりも目立つのも当然で、社員達は鼻の下を伸ばして自分を褒めちぎっていた。
「ま、ありきたりな褒め言葉でつまんなかったけど」
やはり、金がない奴は粋もないのだろう。
しかし、無いよりかは良い。一応それで一乗家での溜飲も多少は下がった。はずだったのに……。
社長夫人である千代よりも社員に愛されている自分を、彼女はどのような目で見ているのか、さぞ悔しがっているだろうと思って様子を窺ってみれば、千代はこちらを気にした様子もなく、雪人と談笑していた。
会話の内容は聞こえなかったが、俯いた千代を見つめる雪人のふやけた眼差しを見て、ふざけるなと思った。
千代は蔑まれ冷遇されるべきであって、決してそのような眼差しを受けていい人物ではない。その眼差しは千代ではなく自分に向けられるべきものだ。
だから、彼の妻がどのように噂されているのか、親切に噂を教えてやろうとしたのに。仕事を理由に躱されてしまった。
「何が『予定が詰まってて』よ」
これが、自分以外の女――同級生程度だったら通じただろうが、そんな明らかな嘘、自分には通じない。手紙でと言っていたが、二人きりで話したいと言ったことを手紙で知らせるバカがいるか。
証拠を残すような、浅はかな真似をする娘だと思われたのかもしれない。
「親子揃って最低……ただ、顔だけは良いのよね、あの男」
それ以外は自分とは釣り合わないが、顔だけは認めてやろう。その顔が良い男が千代の夫ということが、また腹を苛立たせた。
正直なところ、勇一郎に対する感情は『婚約者だな』くらいしか持ち合わせていない。だから、婚約破棄と言われても、心配事はあったが悲しみはまったくなかった。
「じゃあ、なんて呼ばれていた」
「それは千代、と」
「千代」
「は、はい」
急になんだろうか。
「千代」
「ええっと……はい」
「千代」
「はい……あの、どうされたのですか?」
何かあるのかと構えていたのだが、名前しか呼ばれない。
雪人の顔が遠ざかっていき、隣の千代ではなく誰もいない正面を向く。その口元は不機嫌そうに歪んでいる。
「その男が、俺よりも君の、いや、千代の名前を呼んだのかと思うと腹立たしくてね」
千代は口をポカンと開け、唖然とした。
今までも彼は可愛いや美しいなど言うこともあったが、それは自分の言動などに対してであり、嫌われてはいないのだろうとは思っていたが……。
しかし、この言い様だとまるで……。
「もしかして嫉妬を……」
そう、まるで勇一郎に嫉妬しているみたいで。
(それはつまり、雪人さんは私のことを好きって……こと?)
カァッと身体が熱くなったが、千代は頭をぶんぶんと横に振り、都合の良すぎる考えを追い出す。
「あ、あはは、そ、そんなわけないですよ――――んっ」
突然、視界が雪人だけになった。いや、彼かどうかもわからない。だって、彼の閉じた目しか見えないのだから。
ただでさえ熱かったのに、唇に触れる柔らかなそれはもっと熱かった。
微かな水音を立てて熱は離れていき、ヒヤリとした唇が寂しく、胸が切なくなる。
二人の間で、はぁ、という熱っぽい吐息の音だけが落ちた。
コツン、と額がくっつく。
否が応でも彼の黒い瞳と目が合った。
「悪いか。君は俺の妻だ」
雪人は、バタバタと慌ただしく寝室を出て行った。
ただ、戸を閉める音はとても優しく、パタンと部屋に音が響いた瞬間、千代はベッドに倒れ込んでしまった。
胸の内側を激しく心臓が叩いていた。
痛いのか、甘いのか、むずむずするのか。
「胸が壊れちゃいそう……っ」
口づけとは、こんなに甘くて幸せなものだったのかと、はじめて知った。
4
「……面白くない」
千代を訪ねた日から数日が経ち、今日は学校もちゃんと休みの日曜日だった。
茜は朝から自室の畳の上で横たわり、畳の目に爪を引っ掛けては、ガリガリと猫が爪を研ぐように畳を掻いていた。
「面白くないっ」
何もかもが。
千代が一乗家でどれだけ冷遇されているのか、取り繕われないように突然訪ねていったというのに、予想していたものではなかった。相変わらず地味な着物姿ではあったが、普通に応接室なんか使っているし、女中とも普通に会話なんかしていた。清須川家では、皆千代に対して、腫れ物を扱うような態度か、いない者として扱っていたというのに。
「しかも、何あのオヤジ……ッ、せっかく良いことを教えてやったのに」
一乗の義父――善路に言われた言葉を思い出し、腹の底が苛ついてきた。
まるでこっちが悪者みたいに言われ、しかも下品とまで言われたのだ。
「拝金主義者の平民風情が……っ」
茜は親指を噛んだ。パキッという音と共に爪が折れた。それでも茜は爪を囓り続ける。
「一瞬、あたしが一乗家に嫁いでればと思ったけど、やっぱり平民は無教養でダメね。商売人はどんな情報でも耳を傾けなきゃっていうのに……一代で成り上がったって話だけど、あれじゃ会社もすぐに潰れるわね」
よく父が勇一郎に、いかに早く情報を仕入れるかが商売では大事だと言っていた。どのような情報が大事かまでは茜にはわからないが――事業に関わるつもりもないし、わからなくて構わないのだが――頭から疑ってかかるのは論外だろう。
何より、士族令嬢に対して態度が失礼すぎた。
「ハッ! 一乗が清須川に仕事の相談に来ても、絶対助けてやんない」
勇一郎は自分に惚れ込んでいる。自分の言うことなら、犬のように尻尾を振って頷く。
それに、雪人もだ。
洋装の美女が訪ねてきたというのに、挨拶どころかその場にいた社員に紹介すらしなかった。しかし、やはり自分のほうが千代よりも目立つのも当然で、社員達は鼻の下を伸ばして自分を褒めちぎっていた。
「ま、ありきたりな褒め言葉でつまんなかったけど」
やはり、金がない奴は粋もないのだろう。
しかし、無いよりかは良い。一応それで一乗家での溜飲も多少は下がった。はずだったのに……。
社長夫人である千代よりも社員に愛されている自分を、彼女はどのような目で見ているのか、さぞ悔しがっているだろうと思って様子を窺ってみれば、千代はこちらを気にした様子もなく、雪人と談笑していた。
会話の内容は聞こえなかったが、俯いた千代を見つめる雪人のふやけた眼差しを見て、ふざけるなと思った。
千代は蔑まれ冷遇されるべきであって、決してそのような眼差しを受けていい人物ではない。その眼差しは千代ではなく自分に向けられるべきものだ。
だから、彼の妻がどのように噂されているのか、親切に噂を教えてやろうとしたのに。仕事を理由に躱されてしまった。
「何が『予定が詰まってて』よ」
これが、自分以外の女――同級生程度だったら通じただろうが、そんな明らかな嘘、自分には通じない。手紙でと言っていたが、二人きりで話したいと言ったことを手紙で知らせるバカがいるか。
証拠を残すような、浅はかな真似をする娘だと思われたのかもしれない。
「親子揃って最低……ただ、顔だけは良いのよね、あの男」
それ以外は自分とは釣り合わないが、顔だけは認めてやろう。その顔が良い男が千代の夫ということが、また腹を苛立たせた。


