「は? 婚約破棄? 自分より前に千代と婚約していた男がいたんですか?」
つまり、彼女は自分以外の男の妻になる可能性もあったということか。
鳩尾あたりが不快感でぐらつく。
「ああ。二井子爵家の勇一郎という次男のようだ。だが、その男遊びの噂のせいで、千代さんから茜さんへと婚約者が変わったのだとか」
二井勇一郎、と雪人は口の中で呟いた。
「茜さんに会社で『二人きりで話したいことがある』と言われましたが、もしかしてそんな風に千代を庇うふりして、噂を吹き込むつもりだったのかもしれませんね」
「ははっ! どうせ、お前が千代さんに甘い態度をしていたから、噂を知らないと思われたんだろう。それで、お前は話を聞いたのか?」
「聞くわけないじゃないですか。千代以外の女というだけで興味ないのに、さらに二人きりでなんて言われたら勘弁してくれって話ですよ」
父は文机をバンバンと手で叩きながら、豪快に笑っていた。
そこまで面白い話ではないと思うのだが……。
父はひとしきり笑った後、顎を撫でながら石燈がぽつぽつと灯る庭を見つめていた。
「祝言の時は、茜さんは大人しくしていたからな、気付かなかった。いや、今日も彼女の話を聞いただけでは確信は持てなかったかもしれん」
「え、ではいつ確信を?」
父はクッと片口をつり上げて、おかしそうにクツクツと喉を鳴らした。それは先ほどの笑いよりも幾分か皮肉がこもったものだ。
「盗み聞きするつもりはなかったが、声が漏れてきていたからなあ。入る頃合いを窺っていたんだよ、戸の前で」
父の悪い顔から、雪人は『本当か?』と内心で苦笑した。
「それで、父さんは何を聞いたんですか」
「千代さんはまだ元婚約者に未練があって、平民なんかに嫁いだことをつらく思っているのだろう……と。私の前では笑顔で、内心では平民風情と見下しておったらしい」
「なるほど」
相当ご立腹のようだ。口は笑っているのに目が笑っていない。
父も昔から平民だということで、色々と煮え湯を飲まされてきたから、身分で嘲弄を向けて来る者には容赦をしない。自分も未だに上の身分を持つ相手と仕事をする時、平民だとわかると嘲りを向けられることがある。随分と身分壁が薄くなった今でこれなのだから、父の時代の頃などもっと顕著だったのだろう。
「あれが千代さんの妹……なあ」
ぼそりと呟かれた言葉の意味が、雪人にはよくわかった。
妹なのに、姉とまったく性格が似ていないのはなぜか――ということだろう。
姉妹で顔が似ていないのはよくあることだが、同じ環境で生まれ育ったのに、ここまで正反対の性格や雰囲気になることがあるのだろうか。
「妹は洋装を纏い、姉の箪笥には着物が三枚だけ。おそらく、清須川家では妹のほうが千代よりも可愛がられていたんでしょうね。であれば、妹が実家に残る理由もわかる。ただ、それだと嫉妬で姉が妹を……というのならまだわかるが、なぜ妹が千代を……?」
「犯人の目星はついたんだ。本人に聞けばいいだろう」
「それもそうですね」
これで、彼女を苦しめるものが一つ減る。
「あ、それとひとつ聞きたいことが……」
「ん、なんだ?」
雪人は見上げてくる父の視線から逃げるように、ふいっと顔を逸らす。
「……わ、若い女性が好みそうな物ってなんですか」
次の瞬間、父の哄笑が和館に響き渡った。
◆
夜、千代が寝ようとしていると、戸を叩く音がした。こんな時間に誰だろうか、と思いながら返事をしたら、入ってきたのはなんと雪人だった。
彼は「少し聞きたいことがあるんだ」と言って、ベッドの縁に腰掛けた。布団に入りかけていた千代も慌てて抜け出し、彼の隣に正座する。
(な、何かしら)
彼がこの部屋に来るのは初夜以来だ。
そう思うとなんだか急激に恥ずかしくなってきて、つい寝間着の前をキュッと締めてしまう。
「その……」
「はっ、はい!」
千代の背筋が反るほどに伸びた。
「き、君はまだ…………のか」
「え?」
ぼそぼそとしていてよく聞こえなかった。いつもはっきりと喋る彼がどうしたことか、珍しい。
「すみません、よく聞き取れなくって。もう一度言ってもらっていいですか?」
雪人は一瞬だけ横目で千代を捉えると、はぁと腹の底からの長い長いため息を吐き、身体事千代へと向き直った。
「――っ君は! まだ勇一郎って男のことが好きなのか!」
「え、ええ!? どうしていきなり勇一郎様が!?」
今日はよくその名を聞く。
千代にとってすっかり過去の人でしかなかったのに、なんだというのか。
「君の元婚約者だと聞いたんだが」
「あ、ああ……そういうことですね。すみません、黙っていたわけではなくて……言う機会がなかったといいますか……」
きっと善路から今朝のことを聞いたのだろう。であればきっと、どういった理由で婚約破棄をされた女だということも、知っているに違いない。
「申し訳ありません。あの噂のことも聞かれました……よね。実はその噂――」
「いや、噂なんてどうでもいい。どうせ嘘だろうしな」
「へ!?」
食い気味に一刀両断された。
「それより、君は未だその男のことが好きなのか?」
それどころか、『それより』と言って噂を一蹴された。善路も取り合ってはいなかったが、それでも自分の妻にそのような不埒な噂があると知ったら、誰でも嫌悪するだろうと思っていたのに。
強い力で両肩を掴まれ、ずいっと顔を寄せられる。
「そいつはどんな男なんだ。君をなんて呼んでいた。君に何を贈った。君のどこに触れた。君とどれだけ一緒にいたんだ」
てっきり噂のことを問い詰められるかと思いきや、雪人は千代が予想もしないことばかりを聞いてくる。
「ままま、待ってください、雪人さんっ。勇一郎様とは家が決めた婚約でして、そのような深い仲ではまったくなく……」
「本当か?」
顰められていた眉間の皺が少し浅くなる。
つまり、彼女は自分以外の男の妻になる可能性もあったということか。
鳩尾あたりが不快感でぐらつく。
「ああ。二井子爵家の勇一郎という次男のようだ。だが、その男遊びの噂のせいで、千代さんから茜さんへと婚約者が変わったのだとか」
二井勇一郎、と雪人は口の中で呟いた。
「茜さんに会社で『二人きりで話したいことがある』と言われましたが、もしかしてそんな風に千代を庇うふりして、噂を吹き込むつもりだったのかもしれませんね」
「ははっ! どうせ、お前が千代さんに甘い態度をしていたから、噂を知らないと思われたんだろう。それで、お前は話を聞いたのか?」
「聞くわけないじゃないですか。千代以外の女というだけで興味ないのに、さらに二人きりでなんて言われたら勘弁してくれって話ですよ」
父は文机をバンバンと手で叩きながら、豪快に笑っていた。
そこまで面白い話ではないと思うのだが……。
父はひとしきり笑った後、顎を撫でながら石燈がぽつぽつと灯る庭を見つめていた。
「祝言の時は、茜さんは大人しくしていたからな、気付かなかった。いや、今日も彼女の話を聞いただけでは確信は持てなかったかもしれん」
「え、ではいつ確信を?」
父はクッと片口をつり上げて、おかしそうにクツクツと喉を鳴らした。それは先ほどの笑いよりも幾分か皮肉がこもったものだ。
「盗み聞きするつもりはなかったが、声が漏れてきていたからなあ。入る頃合いを窺っていたんだよ、戸の前で」
父の悪い顔から、雪人は『本当か?』と内心で苦笑した。
「それで、父さんは何を聞いたんですか」
「千代さんはまだ元婚約者に未練があって、平民なんかに嫁いだことをつらく思っているのだろう……と。私の前では笑顔で、内心では平民風情と見下しておったらしい」
「なるほど」
相当ご立腹のようだ。口は笑っているのに目が笑っていない。
父も昔から平民だということで、色々と煮え湯を飲まされてきたから、身分で嘲弄を向けて来る者には容赦をしない。自分も未だに上の身分を持つ相手と仕事をする時、平民だとわかると嘲りを向けられることがある。随分と身分壁が薄くなった今でこれなのだから、父の時代の頃などもっと顕著だったのだろう。
「あれが千代さんの妹……なあ」
ぼそりと呟かれた言葉の意味が、雪人にはよくわかった。
妹なのに、姉とまったく性格が似ていないのはなぜか――ということだろう。
姉妹で顔が似ていないのはよくあることだが、同じ環境で生まれ育ったのに、ここまで正反対の性格や雰囲気になることがあるのだろうか。
「妹は洋装を纏い、姉の箪笥には着物が三枚だけ。おそらく、清須川家では妹のほうが千代よりも可愛がられていたんでしょうね。であれば、妹が実家に残る理由もわかる。ただ、それだと嫉妬で姉が妹を……というのならまだわかるが、なぜ妹が千代を……?」
「犯人の目星はついたんだ。本人に聞けばいいだろう」
「それもそうですね」
これで、彼女を苦しめるものが一つ減る。
「あ、それとひとつ聞きたいことが……」
「ん、なんだ?」
雪人は見上げてくる父の視線から逃げるように、ふいっと顔を逸らす。
「……わ、若い女性が好みそうな物ってなんですか」
次の瞬間、父の哄笑が和館に響き渡った。
◆
夜、千代が寝ようとしていると、戸を叩く音がした。こんな時間に誰だろうか、と思いながら返事をしたら、入ってきたのはなんと雪人だった。
彼は「少し聞きたいことがあるんだ」と言って、ベッドの縁に腰掛けた。布団に入りかけていた千代も慌てて抜け出し、彼の隣に正座する。
(な、何かしら)
彼がこの部屋に来るのは初夜以来だ。
そう思うとなんだか急激に恥ずかしくなってきて、つい寝間着の前をキュッと締めてしまう。
「その……」
「はっ、はい!」
千代の背筋が反るほどに伸びた。
「き、君はまだ…………のか」
「え?」
ぼそぼそとしていてよく聞こえなかった。いつもはっきりと喋る彼がどうしたことか、珍しい。
「すみません、よく聞き取れなくって。もう一度言ってもらっていいですか?」
雪人は一瞬だけ横目で千代を捉えると、はぁと腹の底からの長い長いため息を吐き、身体事千代へと向き直った。
「――っ君は! まだ勇一郎って男のことが好きなのか!」
「え、ええ!? どうしていきなり勇一郎様が!?」
今日はよくその名を聞く。
千代にとってすっかり過去の人でしかなかったのに、なんだというのか。
「君の元婚約者だと聞いたんだが」
「あ、ああ……そういうことですね。すみません、黙っていたわけではなくて……言う機会がなかったといいますか……」
きっと善路から今朝のことを聞いたのだろう。であればきっと、どういった理由で婚約破棄をされた女だということも、知っているに違いない。
「申し訳ありません。あの噂のことも聞かれました……よね。実はその噂――」
「いや、噂なんてどうでもいい。どうせ嘘だろうしな」
「へ!?」
食い気味に一刀両断された。
「それより、君は未だその男のことが好きなのか?」
それどころか、『それより』と言って噂を一蹴された。善路も取り合ってはいなかったが、それでも自分の妻にそのような不埒な噂があると知ったら、誰でも嫌悪するだろうと思っていたのに。
強い力で両肩を掴まれ、ずいっと顔を寄せられる。
「そいつはどんな男なんだ。君をなんて呼んでいた。君に何を贈った。君のどこに触れた。君とどれだけ一緒にいたんだ」
てっきり噂のことを問い詰められるかと思いきや、雪人は千代が予想もしないことばかりを聞いてくる。
「ままま、待ってください、雪人さんっ。勇一郎様とは家が決めた婚約でして、そのような深い仲ではまったくなく……」
「本当か?」
顰められていた眉間の皺が少し浅くなる。


