「社長~、誰か有名人でも来てました? なんか社員の様子がおかしいんですけど。キャッキャしてる奴らとヒソヒソしてる奴らがいるっていうか」
千代が社屋から出て妹を追いかける姿を、雪人が社長室の窓から眺めていると、ノックの音と同時に間延びした声が入ってきた。
自分に対し、このような無礼な態度をとる者はこの社屋にはひとりしかいない。というよりも、振り向く前に声で既に誰だかわかっているのだが。
「臣、どうした。今日まで休みだったはずだろう」
案の定、入り口に立っていたのは秘書の瀬古忠臣だった。
彼は千代の噂の再調査で負担をかけたから、三日の休みを与えていた。今日までがその休みだったはずなのだが……。
「いやぁ、独り身なんで時間を持て余しちゃいまして。さすがに馴染みの女の店にも、昼から通うわけにゃいきませんからね」
頭を掻きながらへらりと笑う顔は、愛嬌があり憎めない。というか、この男は花街に通っているのか。しかも、馴染みの娼妓がいるとはよっぽどのようだ。
「そんなに働きたいってのなら好きにしろ」
「で、誰が来てたんですか?」
「……妻だ。なるほど、キャッキャとヒソヒソか……幾人かの社員達は例の噂を知ってるってことか」
それもそうだ。夜な夜なということは、現れたのは一度だけではないということ。仕事終わりに飲みに出た社員が、噂を聞いていても不思議ではない。
社員には清須川家の令嬢と結婚したなどとは言わず、ただ結婚したとだけ伝えていた。
さぞかし驚いたことだろう。
社員から自分がなんと思われようが痛くも痒くもないが、彼らの下世話な矛先が自分の妻に向けられるとなると、いい気はしない。
早急に、本物の『清須川のチヨ』を捕まえなければならない。
「ああ……もしかして、さっき社屋の入り口ですれ違ったお嬢さんが奥様ですか? 洋装の美女の……」
「いや、洋装ではなく着物のほうが千代だ」
「えっ! 嘘、あっち!? 自分が会ったチヨと、まったく違うじゃないですか!」
そうだった、と雪人は思い出した。
忠臣は千代を見たことがなかった。結納の後、絶対に噂のチヨとは別だと言っても、彼は騙されてるのではと信じていなかったくらいだ。
「だから、最初から俺はそう言っていただろう」
「えっ、いや、そ、それはそうですけど……」
忠臣は混乱真っ最中の頭を抱えて、髪をぐしゃぐしゃにしていた。
つい『そら見たことか』と鼻から笑いがでてしまう。
「……自分、聞き込みの中で、例のチヨと会ったって言ったじゃないですか」
「そうだったな」
急にどうしたことか。忠臣の声音がいやに落ち着いたものになる。
「確かに、『チヨ』は奥様じゃないです」
ハッキリとした断言だった。
「チヨはあんな綺麗な空気をまとってなかった。むしろあの女の雰囲気は商売女っていうか……それこそ、一緒にいた派手なお嬢さんのほうが雰囲気はよく似てましたけど。ほら、自分はそういう匂いには馴染み深いっていいますか……」
忠臣の言葉を聞いて、雪人の目の下がピクリと痙攣する。
「社長……一緒にいたもうひとりのお嬢さんは誰ですか」
ボサボサ頭を上げて、忠臣は雪人に探るような目を向けた。
「千代の妹だが……」
二人は『まさか』と顔を見合わせた。
3
その日、雪人は屋敷に帰ると、その足でまっすぐ和館へと向かった。珍しく父は寝所ではなく、隣の文机やちょっとした書架が置かれた私室にいた。どうやら調子が良い日だったのだろう。
雪人は、父に今日会社であったことと、『チヨ』に関する忠臣の言葉を伝えた。
「これでハッキリしたな。実際に噂のチヨと会った忠臣君が否定するのなら、噂のチヨと千代さんが別人なのは間違いないな。忠臣君の女性に関する勘は信頼できるからな」
忠臣は、まだ東京にいた幼い頃に、父が見つけてきた者だ。
商談帰りの夜、父は屋敷への近道に長屋通りを使ったのだが、そこで所在なげに長屋の陰でうずくまっている忠臣を見つけたそうだ。彼の母親が客の男と逢瀬を交わす間、追い出されたらしい。雪がチラつく真冬のことだった。
私娼は法律で禁止されていたが、まあ、実態はこんなものだ。官警の目の行き届かないところに法律などありはしない。
忠臣にとって、こういったのははじめてではなく日常であり、とても母親に大切にされているとは言いがたい生活をしていた。当然、父親など誰だかわからないものだった。
話を聞いた父は、すぐに忠臣の母親と話をつけ、昔で言う丁(でっ)稚(ち)として忠臣を一乗家に引き取った。
雪人が十歳の時の話で、それから忠臣が大学を卒業して一乗家から出るまで、ずっと一緒に生活していた。
「臣は花街にも通っているようですから、俺よりも詳しいでしょうし」
父は「それもそれで男の甲斐性かな」と苦笑していた。
「それで、忠臣君は、妹の茜さんのほうが噂のチヨに雰囲気が似ていると言ったんだな?」
「ええ。もしかしてチヨのふりをして噂を流したのは妹なのでは、と俺と臣は考えているんですが」
姉妹でそのようなことをする意味はわからない。
むしろ、清須川家には不利になるような噂だと思うが。
「もちろん、まったくの他人が千代のふりをしていることも考えられますが。しかし……」
「いや、茜さんであれば納得だ」
常に情報を精査して物事は疑って掛かるという慎重派の父が断言したことに、雪人は軽く息をのんだ。
そう思える何かを、父は知っているのだろうか。
目に感情が表れていたようで、尋ねる前に父は口を開いた。
「今日、彼女が千代さんを訪ねて来ていたんだよ」
「屋敷(うち)にですか」
雪人は、そこで千代と茜と父との間でどのようなやり取りがあったか伝えられ、父が断言するのも頷けると思った。
「私の千代さんに対する態度を見て、チヨの噂を知らないと思ったのだろうな。巧みに、姉の境遇を嘆いてやるふりして、私に千代さんが『男遊びをして婚約破棄された下品な女』だということを伝えてきおった」
千代が社屋から出て妹を追いかける姿を、雪人が社長室の窓から眺めていると、ノックの音と同時に間延びした声が入ってきた。
自分に対し、このような無礼な態度をとる者はこの社屋にはひとりしかいない。というよりも、振り向く前に声で既に誰だかわかっているのだが。
「臣、どうした。今日まで休みだったはずだろう」
案の定、入り口に立っていたのは秘書の瀬古忠臣だった。
彼は千代の噂の再調査で負担をかけたから、三日の休みを与えていた。今日までがその休みだったはずなのだが……。
「いやぁ、独り身なんで時間を持て余しちゃいまして。さすがに馴染みの女の店にも、昼から通うわけにゃいきませんからね」
頭を掻きながらへらりと笑う顔は、愛嬌があり憎めない。というか、この男は花街に通っているのか。しかも、馴染みの娼妓がいるとはよっぽどのようだ。
「そんなに働きたいってのなら好きにしろ」
「で、誰が来てたんですか?」
「……妻だ。なるほど、キャッキャとヒソヒソか……幾人かの社員達は例の噂を知ってるってことか」
それもそうだ。夜な夜なということは、現れたのは一度だけではないということ。仕事終わりに飲みに出た社員が、噂を聞いていても不思議ではない。
社員には清須川家の令嬢と結婚したなどとは言わず、ただ結婚したとだけ伝えていた。
さぞかし驚いたことだろう。
社員から自分がなんと思われようが痛くも痒くもないが、彼らの下世話な矛先が自分の妻に向けられるとなると、いい気はしない。
早急に、本物の『清須川のチヨ』を捕まえなければならない。
「ああ……もしかして、さっき社屋の入り口ですれ違ったお嬢さんが奥様ですか? 洋装の美女の……」
「いや、洋装ではなく着物のほうが千代だ」
「えっ! 嘘、あっち!? 自分が会ったチヨと、まったく違うじゃないですか!」
そうだった、と雪人は思い出した。
忠臣は千代を見たことがなかった。結納の後、絶対に噂のチヨとは別だと言っても、彼は騙されてるのではと信じていなかったくらいだ。
「だから、最初から俺はそう言っていただろう」
「えっ、いや、そ、それはそうですけど……」
忠臣は混乱真っ最中の頭を抱えて、髪をぐしゃぐしゃにしていた。
つい『そら見たことか』と鼻から笑いがでてしまう。
「……自分、聞き込みの中で、例のチヨと会ったって言ったじゃないですか」
「そうだったな」
急にどうしたことか。忠臣の声音がいやに落ち着いたものになる。
「確かに、『チヨ』は奥様じゃないです」
ハッキリとした断言だった。
「チヨはあんな綺麗な空気をまとってなかった。むしろあの女の雰囲気は商売女っていうか……それこそ、一緒にいた派手なお嬢さんのほうが雰囲気はよく似てましたけど。ほら、自分はそういう匂いには馴染み深いっていいますか……」
忠臣の言葉を聞いて、雪人の目の下がピクリと痙攣する。
「社長……一緒にいたもうひとりのお嬢さんは誰ですか」
ボサボサ頭を上げて、忠臣は雪人に探るような目を向けた。
「千代の妹だが……」
二人は『まさか』と顔を見合わせた。
3
その日、雪人は屋敷に帰ると、その足でまっすぐ和館へと向かった。珍しく父は寝所ではなく、隣の文机やちょっとした書架が置かれた私室にいた。どうやら調子が良い日だったのだろう。
雪人は、父に今日会社であったことと、『チヨ』に関する忠臣の言葉を伝えた。
「これでハッキリしたな。実際に噂のチヨと会った忠臣君が否定するのなら、噂のチヨと千代さんが別人なのは間違いないな。忠臣君の女性に関する勘は信頼できるからな」
忠臣は、まだ東京にいた幼い頃に、父が見つけてきた者だ。
商談帰りの夜、父は屋敷への近道に長屋通りを使ったのだが、そこで所在なげに長屋の陰でうずくまっている忠臣を見つけたそうだ。彼の母親が客の男と逢瀬を交わす間、追い出されたらしい。雪がチラつく真冬のことだった。
私娼は法律で禁止されていたが、まあ、実態はこんなものだ。官警の目の行き届かないところに法律などありはしない。
忠臣にとって、こういったのははじめてではなく日常であり、とても母親に大切にされているとは言いがたい生活をしていた。当然、父親など誰だかわからないものだった。
話を聞いた父は、すぐに忠臣の母親と話をつけ、昔で言う丁(でっ)稚(ち)として忠臣を一乗家に引き取った。
雪人が十歳の時の話で、それから忠臣が大学を卒業して一乗家から出るまで、ずっと一緒に生活していた。
「臣は花街にも通っているようですから、俺よりも詳しいでしょうし」
父は「それもそれで男の甲斐性かな」と苦笑していた。
「それで、忠臣君は、妹の茜さんのほうが噂のチヨに雰囲気が似ていると言ったんだな?」
「ええ。もしかしてチヨのふりをして噂を流したのは妹なのでは、と俺と臣は考えているんですが」
姉妹でそのようなことをする意味はわからない。
むしろ、清須川家には不利になるような噂だと思うが。
「もちろん、まったくの他人が千代のふりをしていることも考えられますが。しかし……」
「いや、茜さんであれば納得だ」
常に情報を精査して物事は疑って掛かるという慎重派の父が断言したことに、雪人は軽く息をのんだ。
そう思える何かを、父は知っているのだろうか。
目に感情が表れていたようで、尋ねる前に父は口を開いた。
「今日、彼女が千代さんを訪ねて来ていたんだよ」
「屋敷(うち)にですか」
雪人は、そこで千代と茜と父との間でどのようなやり取りがあったか伝えられ、父が断言するのも頷けると思った。
「私の千代さんに対する態度を見て、チヨの噂を知らないと思ったのだろうな。巧みに、姉の境遇を嘆いてやるふりして、私に千代さんが『男遊びをして婚約破棄された下品な女』だということを伝えてきおった」


