以前、婚前に彼女のことを調べた時は、一週間程度で集めた情報だった。しかし、今回は三ヶ月もかかっていた。噂話ではなく、実際に彼女と関わった者を探していたのなら頷けた話だ。
忠臣が話を聞いた男というのは三人いた。
ひとり目は、中折れ帽子をかぶった若い男。
二人目は、眼鏡が似合うひとり目の男の友人。
そして三人目が、千代――噂の女と実際に遊んだ男だ。
帽子の男は以前から噂を知っており、また何度か夜の喫茶店で彼女を目撃していた。二人目の眼鏡の男は一度しか噂の女とは会ったことないが、それでも随分と印象的で覚えていると言った。
二人が言うには、噂の女は帝劇女優のように華々しくも清楚で美しかったという。群がる男達と軽やかに会話を弾ませ、その様子はまるで夜に咲く白い月下美人のようだったと、褒めちぎっていた。
洋装がとても似合っており、近づくとまずおしろいだろうか、化粧と甘い香水の匂いがしたという。香水など稀少なものをつけられる者は限られている。
男達はチラっと清須川家の令嬢だという噂も小耳に挟んでいたが、この香りで納得したそうだ。
普段、千代は薄化粧で目立ちにくいが、全体的に整った顔立ちをしていた。化粧を濃くすればきっととても美しく映えるだろう。千代が変装の一環で化粧を濃くしていたとも考えられるが、それだったらば自らチヨなどと名乗るまい。
それに、結納の時も祝言の時も、結婚してからも彼女から甘い香水の匂いなど感じたことはなかった。化粧の匂いは洗い流せば誤魔化せるだろうが、記憶に残るくらいの香水の匂いは風呂に入った程度では消えない。肌に染みついて、微かにでも残るものだ。石けんの淡く澄んだ香りなど、簡単に負けてしまうくらいには。
そして、三人目の証言が一番ありえなかった。
三人目も基本的に前の二人と同じことを言っていたが、ひとつ気になることを言っていたという。情事の最中、汗でぬれた彼女の頬を指で拭った時、化粧の下からほくろが現れたように見えたという。
千代にほくろなどない。
それは、化粧姿も湯上がり姿も確認したことがある雪人が一番知っている。
『あと、実は聞き込みをしている時、ちょうど噂の女と出くわしたんですよ』
『なんだと……! もちろん千代じゃなかったんだろう?』
『自分は社長の奥さんと会ったことないんで、わかりませんよ』
それもそうだと思ったところ、忠臣は『ただ』と何か気掛かりだと言わんばかりに目を細める。
『どうも玄人の女くさいんですよねぇ。ひと言二言、試しに話しかけてみたんですがね、男あしらいに慣れてる匂いがぷんぷんしたんですよ』
『玄人?』と、雪人は眉間に戸惑いを滲ませた。
忠臣の言う玄人の女というのは、男の夜の相手をする女のことだ。
玄人が素人の真似をして値をつり上げるという話はよく聞くが、素人が玄人のふりをしてという話は聞かない。それだけ素人が玄人の真似をするのは難しい。ましてや、初夜で石仏並みに固まっていた千代には、到底無理な話だ。
『その女とどんな会話をしたんだ』
『当たり障りない感じですよ。お互いの名前と趣味と……あと、よくこの店には来るのかって』
雪人は瞬きで頷いた。
忠臣もわかったもので、雪人の顔色だけで何を求めているのかを瞬時に察し、彼が欲している答えを述べる。
『やっぱり「チヨ」って名乗りましたよ。清須川家にも同じ名前のご令嬢がいたけどって鎌掛けたんですけど、そこにはのってきませんでしたね。想像にお任せするわ、って感じでした。趣味は「楽しいこと」って、どんな意味にでもとれるような返答でしたし、まああしらいが上手い。あの顔で、そんな意味深なことを笑顔で言われたら、並みの男ならふらふらといくでしょうね』
『お前は並みだったのか?』
雪人の片口が、揶揄いを滲ませクッと吊り上がった。
忠臣は両掌を上向け、眉を持ち上げたひょうきんな顔で鼻から息を吐いた。何も言っていないのに、「わかりきったことを聞かないでくださいよ」と聞こえるようだ。まるで芸人のようだなと、雪人はつい小さく噴き出してしまった。
『そして、「最近結婚したから、夜はあまり出歩けなくなった」とかも言ってましたね。堂々と不倫宣言ですよ』
『最近結婚した、ね。俺の妻も、つい最近結婚したばかりなんだがな……』
偶然の一致なのか、それとも誰かを想起させようとしているのか。
いや、ここまで来ると偶然の一致や、噂の一人歩きの結果とは考えられない。明らかにその女は、はっきりとした意思があって、千代に不名誉な評判をなすりつけようとしているのだ。
思案にふけっていると、『社長』と、忠臣が何か言いたそうな重苦しい声で呼んだ。
『ん、なんだ』
『社長の奥さん、ちゃんと夜は家にいるんですか? 実はこっそり抜け出したりしてませんか? 本当に本当にこのチヨじゃないんですよね?』
忠臣はぶつぶつと、『あの家は無駄に広いから、抜け出そうと思えばできるんだよなぁ。あの二階の部屋の前の木で……』と、過去の自分の若気の至りを暴露していた。
雪人は大きなため息を吐いた。
『安心しろ、臣。神に誓って、そのチヨは俺の妻じゃない』
絶対に別人だと自分は言い切れる。だが、彼は千代のことを知らないし、自分のことを心配してくれているだけなのだから、こうやって疑り深くなっても仕方ないのだろう。
『お前も一度会えばすぐにわかるさ。玄人なんてのとは対極にいるような女性だから』
それにしても、玄人の女と千代のどこに接点があるのだろうか。
なぜ、その女は千代の評判を落とそうとするのか。
千代は、決して他人から恨みを買うような質ではない。
一瞬、清須川家の家業絡みかと思ったが、それならば千代ではなく父親を狙うのが常道だ。ましてや女学校を卒業してからの千代は、外との付き合いもほとんどなかったようだし、なおさらその謎の女との接点が気になる。
『まあ、玄人かどうかってのは自分が感じただけなんで、その部分だけは半々くらいに思っておいてくださいね』
忠臣が話を聞いた男というのは三人いた。
ひとり目は、中折れ帽子をかぶった若い男。
二人目は、眼鏡が似合うひとり目の男の友人。
そして三人目が、千代――噂の女と実際に遊んだ男だ。
帽子の男は以前から噂を知っており、また何度か夜の喫茶店で彼女を目撃していた。二人目の眼鏡の男は一度しか噂の女とは会ったことないが、それでも随分と印象的で覚えていると言った。
二人が言うには、噂の女は帝劇女優のように華々しくも清楚で美しかったという。群がる男達と軽やかに会話を弾ませ、その様子はまるで夜に咲く白い月下美人のようだったと、褒めちぎっていた。
洋装がとても似合っており、近づくとまずおしろいだろうか、化粧と甘い香水の匂いがしたという。香水など稀少なものをつけられる者は限られている。
男達はチラっと清須川家の令嬢だという噂も小耳に挟んでいたが、この香りで納得したそうだ。
普段、千代は薄化粧で目立ちにくいが、全体的に整った顔立ちをしていた。化粧を濃くすればきっととても美しく映えるだろう。千代が変装の一環で化粧を濃くしていたとも考えられるが、それだったらば自らチヨなどと名乗るまい。
それに、結納の時も祝言の時も、結婚してからも彼女から甘い香水の匂いなど感じたことはなかった。化粧の匂いは洗い流せば誤魔化せるだろうが、記憶に残るくらいの香水の匂いは風呂に入った程度では消えない。肌に染みついて、微かにでも残るものだ。石けんの淡く澄んだ香りなど、簡単に負けてしまうくらいには。
そして、三人目の証言が一番ありえなかった。
三人目も基本的に前の二人と同じことを言っていたが、ひとつ気になることを言っていたという。情事の最中、汗でぬれた彼女の頬を指で拭った時、化粧の下からほくろが現れたように見えたという。
千代にほくろなどない。
それは、化粧姿も湯上がり姿も確認したことがある雪人が一番知っている。
『あと、実は聞き込みをしている時、ちょうど噂の女と出くわしたんですよ』
『なんだと……! もちろん千代じゃなかったんだろう?』
『自分は社長の奥さんと会ったことないんで、わかりませんよ』
それもそうだと思ったところ、忠臣は『ただ』と何か気掛かりだと言わんばかりに目を細める。
『どうも玄人の女くさいんですよねぇ。ひと言二言、試しに話しかけてみたんですがね、男あしらいに慣れてる匂いがぷんぷんしたんですよ』
『玄人?』と、雪人は眉間に戸惑いを滲ませた。
忠臣の言う玄人の女というのは、男の夜の相手をする女のことだ。
玄人が素人の真似をして値をつり上げるという話はよく聞くが、素人が玄人のふりをしてという話は聞かない。それだけ素人が玄人の真似をするのは難しい。ましてや、初夜で石仏並みに固まっていた千代には、到底無理な話だ。
『その女とどんな会話をしたんだ』
『当たり障りない感じですよ。お互いの名前と趣味と……あと、よくこの店には来るのかって』
雪人は瞬きで頷いた。
忠臣もわかったもので、雪人の顔色だけで何を求めているのかを瞬時に察し、彼が欲している答えを述べる。
『やっぱり「チヨ」って名乗りましたよ。清須川家にも同じ名前のご令嬢がいたけどって鎌掛けたんですけど、そこにはのってきませんでしたね。想像にお任せするわ、って感じでした。趣味は「楽しいこと」って、どんな意味にでもとれるような返答でしたし、まああしらいが上手い。あの顔で、そんな意味深なことを笑顔で言われたら、並みの男ならふらふらといくでしょうね』
『お前は並みだったのか?』
雪人の片口が、揶揄いを滲ませクッと吊り上がった。
忠臣は両掌を上向け、眉を持ち上げたひょうきんな顔で鼻から息を吐いた。何も言っていないのに、「わかりきったことを聞かないでくださいよ」と聞こえるようだ。まるで芸人のようだなと、雪人はつい小さく噴き出してしまった。
『そして、「最近結婚したから、夜はあまり出歩けなくなった」とかも言ってましたね。堂々と不倫宣言ですよ』
『最近結婚した、ね。俺の妻も、つい最近結婚したばかりなんだがな……』
偶然の一致なのか、それとも誰かを想起させようとしているのか。
いや、ここまで来ると偶然の一致や、噂の一人歩きの結果とは考えられない。明らかにその女は、はっきりとした意思があって、千代に不名誉な評判をなすりつけようとしているのだ。
思案にふけっていると、『社長』と、忠臣が何か言いたそうな重苦しい声で呼んだ。
『ん、なんだ』
『社長の奥さん、ちゃんと夜は家にいるんですか? 実はこっそり抜け出したりしてませんか? 本当に本当にこのチヨじゃないんですよね?』
忠臣はぶつぶつと、『あの家は無駄に広いから、抜け出そうと思えばできるんだよなぁ。あの二階の部屋の前の木で……』と、過去の自分の若気の至りを暴露していた。
雪人は大きなため息を吐いた。
『安心しろ、臣。神に誓って、そのチヨは俺の妻じゃない』
絶対に別人だと自分は言い切れる。だが、彼は千代のことを知らないし、自分のことを心配してくれているだけなのだから、こうやって疑り深くなっても仕方ないのだろう。
『お前も一度会えばすぐにわかるさ。玄人なんてのとは対極にいるような女性だから』
それにしても、玄人の女と千代のどこに接点があるのだろうか。
なぜ、その女は千代の評判を落とそうとするのか。
千代は、決して他人から恨みを買うような質ではない。
一瞬、清須川家の家業絡みかと思ったが、それならば千代ではなく父親を狙うのが常道だ。ましてや女学校を卒業してからの千代は、外との付き合いもほとんどなかったようだし、なおさらその謎の女との接点が気になる。
『まあ、玄人かどうかってのは自分が感じただけなんで、その部分だけは半々くらいに思っておいてくださいね』


