6時にサイカイ橋で。



『もし、一日だけ過去に戻れるとしたら、いつに戻りたい?』

 昼休みに、流行りの映画の話題で盛り上がる女子たちからそんな質問が飛んできた。

 なんでも、タイムスリップ系の話らしい。
 主人公は開発されたばかりのタイムマシーンに乗って過去の好きな時代に行ける。ただし、滞在時間は最長24時間。それを越えると組み込まれたシステムに誤差が生じ、元いた時代に帰ってこられなくなるとか。  

 咄嗟に思い浮かべた顔を頭の隅に追いやり、俺は「テストを受けた後で、受ける前日に戻りたい」と何の面白みもない答えを口にした。

『何それ夢がない』
『それいいね。私も、告白してフラれたら、告白した前日に戻って自分にやめとけって言う!』

 また好き勝手に盛り上がる女子たちに愛想笑いを返し、自然と会話から外れ窓の外へと視線を馳せた。

 入学式の日に桜の花びらが散っていた校庭は、今では乾いた土に葉桜の影が揺れている。
 高校生になったんだなぁと感慨に浸っているうちに、夏はもう目前。中学の3年間も、長いようで終わってみればあっという間だった。

 ひょんな質問によって呼び覚まされた後悔が、すぐには引かず、いつまでもじくじくと胸の奥でくすぶっている。

 もし、一日だけ過去に戻れるとしたら――。

 しばらく考えてみても、その問いに対する答えは一つだった。

 頬杖をついたまま片手でスマホを開き、メッセージアプリの、今はもう連絡が取れなくなってしまった相手との履歴を開く。

 毎年恒例の、花火を一緒に見に行く約束。

『6時にサイカイ橋で』

 俺が送ったメッセージと、『りょ!』のスタンプ。それ以降は、俺が送った未読のメッセージばかりが並んでいる。

 期待してアプリを開いては裏切られ――を繰り返すうちに、いつしか履歴も見なくなっていた。
 あいつは、今どこで、何をしているのだろう……。

 入学して1カ月が経ち、ゴールデンウイークを前にした教室はどこか浮足立っている。
 その空気に乗りきれないことに、自分だけが、あの夏に取り残されているような気がした。



 * * * 



 爽やかな朝の通学路を、俺は必死に駆けていた。
 チャイムはとっくに鳴り終わり、校門が金属音を響かせながら今にも閉まりかけている。

「ちょっ、あと30秒待っ……」

 叫んだつもりの声は、最後はぜえぜえと荒い息に変わった。

 文武両道を掲げるこの高校では、遅刻すれば放課後の部活動には参加できない決まりがある。
 遅刻した時点で、俺、小田朔太郎(おださくたろう)が学校に来る理由の八割は消え、日がな一日抜け殻のように過ごすことになるのである。

 中学でもバスケをやっていたが、三年の夏に引退して以降、体を動かすと言えば体育や気分転換のシュート練くらいで、持久力はしっかり落ちている。高校でまたバスケ部に入ったものの、入部一カ月の今はまだパス練とボール拾いばかり。

 駅からの全力疾走は部活の練習以上にきつく、校門が見えてくる頃には息が上がり、足ももつれそうになっていた。それでも、あと数メートル先のゴールに向かって、気持ちだけは必死に前へと進む。しかし無情にも、動き始めた門は勢いを止めることなく、目の前でぴたりと閉じたのだった。

「ギリギリアウトね。はい、学生証出して」

 門を隔てて立つ英語の斎藤が、眉一つ動かさず、校門越しにボールペンを指に挟んだ右手を差し出した。
 左腕にはクリップボード。学生証で名前とクラスを確認し記録するのだろう。

 授業を習ったことはないが、パンツスーツに黒髪をうなじで一つ結びにし、フチなし眼鏡をかけた、いかにも生真面目そうな女性教師だ。一緒に挨拶運動に立っていた風紀委員たちは校舎へと戻りはじめている。すなわち、俺の命運は、この人にかかっていた。

「遅れたのは痴漢のせいです! 人助けです! 電車で痴漢を見かけて捕まえようとしたら逃げられて、途中の駅で降りる羽目になったんすよ~」

 俺は門柵に両手をかけ、捨てられた子犬のような目で必死に訴えた。――実際にそう見えているかはわからないが、チビで童顔を武器にするなら今しかない!

「はいはい。今度は時間に余裕があるときに捕まえなさいねー」

 棒読みで返す教師は、俺の話を百パー信じてくれていない。

 満員電車の中、女子高生の後ろにぴったり張りつき、不自然に通勤バッグを持ち上げているおっさんが目に入った。「大丈夫?」と女子高生に声をかけた瞬間、男が慌てて何かをポケットに仕舞ったから、おそらくスマホだろう。
 あとで彼女から聞いた話によると、男が彼女の両足の間に靴先を入れ、足を閉じられないようにしていたらしい。彼女は涙混じりに、「怖くて振り向けなかった」と言っていた。

 男はすぐに人を押し分けて離れて行き、ドアが開くと同時にホームに飛び出した。今にも泣き出しそうな女の子を放っておくわけにもいかず、追うことは諦め、電車を降りて駅員に通報に行くのに付き添っていたら、遅刻ギリギリになってしまった。

 まぁ。痴漢を捕まえようとしたとして、遅刻は遅刻。諦めてICカードと学生証を入れている定期入れをポケットから取り出そうとした、そのとき――。背後から足音がした。

「それって、時間に余裕がないときは痴漢を見逃せって言ってるように聞こえますけど」

 聞き覚えのある声に、全身がぞわりと粟立った。

 伏せた視界の端に影が差し、隣に誰かが立つ。
 まさか、と思った瞬間、鼓動が一気に速くなった。

 そういえば、学校へ来る途中、長身の男子生徒をひとり追い越した。
 遅刻しそうなのにそいつは普通に歩いていて、遅刻しても平気なタイプかと思ったことを覚えている。

 気に留めなかったくらいだから、知っている後ろ姿とは全然違っていたはず。髪も長いし、体つきも細身だった気がする。
 人生で誰よりも近くにいた他人。記憶よりも体が、こいつの纏う空気を覚えている。
 そんな予感に、なかなか顔を向けることができなかった。

「こいつ、嘘はついてませんよ。逃げた痴漢を捕まえようとして電車に置いて行かれるの、俺も見ました」

 かばってくれているのだろうが、擁護というよりただ事実を淡々と報告しているような、平坦な声だった。そういうところも、あいつらしい。

 重くなった首を横に向け、視線を上げる。 
 喉がきゅうっと締まり、心臓が大きく跳ねる。目の前の光景が信じられなくず、ただ大きく目を見開いた。

 ――シバ……?

 一瞬、自分が白昼夢を見ているのかと思った。でも、なぜ今頃? と思う。
 会いたすぎて夢に見た時期はとうに過ぎ、最近ではたまにしか思い出さなくなっていたというのに。

「長谷川君がそう言うんなら仕方ないわね。今日だけはおまけよ」

 驚きすぎて声も出せずにいたのが、斎藤先生の言葉で現実に引き戻された。

 ――長谷川? ……って、誰? シバじゃねーの?

 さっきまで胸の奥にあった確信が、少しだけぐらついた。

 先生が校門をわずかに開き、俺より遅れてきた男が悠々と先に入って行く。

「あなたは遅刻扱いでいいの?」

「あっ、いや!」

 怪訝そうな声に急かされ、慌てて隙間に体を滑り込ませた。
 数歩進んだところで、はたと気づいて足を止めた。

「ちょ、ちょっと待って! 俺は痴漢を捕まえようとして遅刻したけど、あいつは普通に遅刻ですよね? 走ってもいねーし!」
「あら。だって長谷川君は……」
 
 教師の声を遮るように、前方から声がした。

「俺も、お年寄りの荷物が重そうだったので、運ぶの手伝って遅刻しました」

 棒読みだった。明らかに作り話っぽい。
 だが、彼を嘘つき呼ばわりすれば、自分で自分の首を絞めることになる。

「はいはい。二人とも今日はそういうことでいいから、早く教室に行きなさい」

 教師の鶴の一声で、俺たちは再び歩き出した。

 小走りで前を歩く男に追いつき、隣に並ぶ。歩きながらまじまじと、その横顔を見つめた。

 シャープな顎のラインは、記憶よりも見上げる位置にある気がする。前髪が目元にかかり、無造作に整えられた襟足のある髪型は、バスケを始める前の小学生の頃に戻ったみたいだった。
 それでも、鼻筋の通った横顔と、少し目つきの悪い切れ長の目元は全然変わっていない。女子たちが「そこらのアイドルよりイケメン」と騒いでいたあの頃のままだ。

 ドッペルゲンガーや生き別れた双子の兄弟などでなければ、今目の前にいるのは、中三の夏に転校していった幼なじみ――斯波知久(しばともひさ)だった。
 ただ一つだけ引っかかるのは、斎藤先生が「長谷川君」と呼んでいたことだ。

 転校先は千葉とだけ、当時の担任が教えてくれたことを思い出した。千葉から東京の高校に通う生徒もいるだろうが、都立のこの学校は、特にバスケの強豪校というわけでもなければ、進学実績が高いわけでもない。わざわざ千葉から通う奴なんて普通いない。

「お前……、シバだよな? 東京に戻ってきたのか?」

 思い切って尋ねた声は、少し自信なさげだった。
 一拍の間を置き、薄い唇が動く。

「人違いです。シバナンテヒトシリマセン」

 こちらを見向きもせずに返された片言の日本語のようなイントネーションに、逆にシバだと確信した。
 普通は全然知らない人と人違いされたら、驚いて否定するだろう。ただ、理由はわからないが、すぐに認めるつもりもないらしい。あまりそういう無意味な悪ふざけをする奴ではなかったはずだが……。

 考えこんだ末に、別の方向から切り込むことにした。

「じゃあ『ティップオフ』の推しキャラは?」
光石司(みついしつかさ)

 今度は即答される。
 『ティップオフ』は俺が小学生の頃からハマっているバスケ漫画で、新刊が出るたびにシバにも貸していた。

「だよな~。俺も光石推し。じゃ、安藤先生の名言は?」
「君たちの努力が実を結ぶ日が今日ではなかっただけです」
「相模北戦のときのな。めっちゃ泣けるやつ。じゃ、但馬Tの口癖」
「リングを愛するものはリングに愛される」
「やっぱシバじゃねーか!」

 俺はここぞとばかりに全力でツッコミを入れた。但馬Tというのは中学のときのバスケ部顧問で、鶴見西中のバスケ部員しか知りようがないローカルネタだ。
 俺を冷めた目で一瞥し、シバが面倒くさそうにチッと舌打ちする。本気で嫌がっているわけでないことは、長年の付き合いでわかる。

「お前、また背伸びた?」
「入学したときの計測で182㎝だったかな。サクは縮んだ?」
「縮むか!」

 脇腹に軽くグーパンチを見舞いながらも、内心では興奮と動揺が綯い交ぜになったような、落ち着かない気分だった。
 驚きのほうが大きく、シバに再会した実感が追い付かない。

「つーか、同じ学校だったのか? 1カ月以上気づかんかったわ。同じ路線に乗ってたんなら声かけろや」
「いや。俺、別方向だから」
「痴漢捕まえようとしてるの見たって言ったよな?」
「見てなくても、サクが嘘ついてないことくらいわかる」

 思わず足を止めた。
 俺を見ても、シバは驚いた顔ひとつしなかった。面識のないふりをし、再会を喜んでいるようにも見えなかった。だから、少しだけ思っていたのだ。
 もしかして、もう俺には会いたくなかったんじゃないかって。

 でも、その一言だけで、胸の奥が熱くなった。
 ああ、シバだ。
 ちゃんと、俺の知っているシバだ。

 シバもつられて足を止め、振り返った。「なに?」と言いたげな顔と視線が絡む。
 今になってようやく、シバと再会できたという実感がじわじわと込み上げてくる。嬉しいと思う一方で、確かに感じ取ってしまった相手との温度差に、喜びを素直に表に出すことはできなかった。
 再会できたら聞いてみたいとずっと思っていた質問も、喉奥に絡まって出てこない。

 ――なぁ、シバ。お前、あの日……。

 口に出すより先に、遠くから声が聞こえてきた。

「長谷川くーん!」

 声のほうに顔を向けると、1階の教室の窓から身を乗り出すようにして、三人の女子が手を振っていた。

「おはよー。早く来ないと担任来ちゃうよー」

 ここでも長谷川。
 助かったと思う反面、軽い苛立ちが胸をざわつかせる。

 俺は知らなかった。シバがこの学校に来ていたことも、長谷川になっていたことも。
 疎遠になっていた時間を考えれば当然のことなのに、昔は当然のことだった、「シバのことなら俺が一番知っている」という事実が今はそうではないことに、煮え切らないものを感じていた。

「あそこって1組だよな? 昼休みに教室行くから。そのときに色々聞かせて。あ、俺、10組な」

 10組は長い廊下を挟んで1組とは逆の端にあり、今いる場所からも遠い。シバは歩いても間に合うだろうが、俺は走らないとヤバい。
 俺は軽く片手を上げ、 返事を待たずに走り出した。


 息を切らして教室に滑り込み、窓際の自分の席に腰を下ろした。
 ゴールデンウイーク明けの教室はいつもより賑やかで、そこかしこにお喋りのグループができている。リュックを降ろして机の横にかけたところで前の扉が開き担任が入って来た。

「チャイム鳴っただろー。ゴールデンウィーク明けだからって緩みすぎだぞー」

 慌てて皆が席に着き、日直の号令で挨拶をする。
 間延びした声で担任が連絡事項を伝える間、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。
 開け放たれた窓から時折り五月の生ぬるい風が吹き込んでくる。

 ……シバ……同じ高校だったのか……。

 先ほどのやり取りを思い出してみても、あれが現実の出来事だったのか今一つ自信がなかった。ただ、高揚の名残だけが、未だ消えぬ熾火のように、胸の奥でくすぶっている。

 シバは俺を見ても、全く驚いている様子はなかった。
 俺が同じ学校にいることに、もっと前から気づいていたのだろうか……。でも、だったら、なぜ話しかけてこなかったのだろう。
 もしかしてシバは、俺とはもう会いたくなかったのだろうか。
 何も言わずに転校したのも、それが原因だったのだろうか……。

「……体育祭の練習も始まるから、各自体調管理するように。体育以外の時間も水分と塩分はこまめに取るんだぞ」

 担任の声をBGMに、頭の中では一年で随分と大人びていた元親友の顔と、次々と湧いてくる疑問がぐるぐると回る。

 ……もしかしてバスケ部に入らなかったのも、俺がいたから?

 最後に湧いた疑問が、一番ダメージがデカかった。
 連絡事項を言い終え、担任が教室を出て行くと、俺はへなへなと机に突っ伏したのだった。