そのキス、イエローカードです!

「はい、そこまでー」
 間延びした教師の声に、ほぅ、と小さく息を吐く。
 やっと終わった……。
 そんな達成感に浸るのは、追試に向けて猛勉強したからではない。ようやくこの格好から解放されることへの安堵からだった。テストについては、あまりにも問題が簡単すぎて最初の10分で全て解き終わり、余った時間は自分で数学の問題を作って解いていた。
 後ろの席から回って来た答案用紙を、なるべく顔を振り向かせないようにして手だけ差し出して受け取り、自分のと重ねて前へと回す。
「不合格の人は必ず補習に参加するように。サボったら留年しても文句言えんぞ」
 数学教師の池辺は軽く脅すと、束にした答案用紙を手に教室を出て行った。 
 前期の期末試験で赤点を取ったか、欠席で試験を受けられなかったなどの事情で追試験を受けたのは、一年生全体で30人ほどだった。学期末の今日は、追試のない生徒は午前中で授業を終え、下校している。
 周りで次々に席を立つ音や話し声がし始める。僕も席を立つタイミングを見計らっていたら、誰かに肩をポンと叩かれた。
 恐る恐る顔を振り向かせた先には、茶髪にギャル系のメイクを施した派手めの女子。かく言う僕も、今は似たような見た目なのだが。
咲月(さつき)、何してんの? 帰んないの?」
 彼女が声をかけて来ることも言われる内容も予想していたので、返事は用意してある。
「私、今日風邪引いてるでしょ。うつすといけないから、先に帰って」
 マスクの下で喉に力を入れて掠れ声を出す。コホコホとわざと咳き込んでみせると、派手め女子は一瞬だけ気の毒そうな顔をし、「じゃあ、先行くね」と笑顔で帰って行った。
 彼女が教室を出たのを見届け、僕も腰を上げる。鞄を胸の前に抱き猫背で歩くのは、胸の膨らみと顔を隠すためだった。せめてブレザーを着ていれば、もう少し膨らみが気にならなくなるのだろうが。9月下旬のこの時期は、昨今の温暖化事情でブレザーを着るには暑すぎる。
 襟下に臙脂のリボンをつけた白シャツの胸元には、普段はない膨らみがある。それを意識するたびに男がブラジャーをつけているという事実も思い出し、発狂しそうになる。スカートを穿いたのももちろん初めてで、歩くたびにひらひらと裾が揺れるのが何とも心もとない。
 教室には男子の4人組が残っていて、机に腰かけて雑談していた。「C組の伊藤は胸はデカいけど顔が残念」とか話しているから、女子の品評会らしい。
 横顔に品定めするような下卑た視線を感じながら、足早に教室を後にし、トイレへと直行する。
 トイレには先客が一人いて、小便器で用を足しているところだった。その人物が知った顔だったことに一瞬ドキッとしたが、こちらに顔を向けたその人のほうが、何故か僕以上にギョッとしていた。
 ……もしかして僕のこと覚えてくれているのかな。いやでも、覚えていたとしても、トイレで会ったくらいでそんなに驚くか?
 不可解に思いつつ、人が用を足しているところをまじまじと見る趣味はないので、すぐに視線を逸らす。逸らせた先で、手洗い場の鏡に映る自分の姿が目に入った。
 普段の地味眼鏡陰キャの面影もない。軽くウェーブした明るい髪は胸元まであり、丸っこい目はつけ睫毛のおかげで普段以上にパッチリしている。どこからどう見ても女子だ。自分で言うのもなんだが、僕のいる特進クラスなら断トツでクラス一可愛い。
 風邪を引いている設定でマスクをつけているが、マスクを外したとしても、おそらく誰にもバレなかったのではなかろうか。そのくらい、鏡の中の人物は、双子の妹にそっくりだった。
 瞬きするたびにつけまつ毛の違和感を感じていたが、メイクは崩れていなかったようでよかった。――と、安堵した瞬間……、気づいてしまった。
 そうだ! 僕は今、咲月だった!
 彼が――桐生嘉晴(きりゅうよしはる)が驚いた顔をしたのは、僕のことを覚えていたからではない。男子トイレに女子が入って来たから驚いたのだ。無事にテストが終わったことで気が抜けて、ついいつもの習慣で男子トイレに入ってしまっていた。
「ヤ、ヤダー。間違えて男子トイレに入っちゃった。ごめんなさい」
 焦り過ぎて、咄嗟に出した声はそれまで使っていた掠れ声ではなく、鼻にかかったようないわゆる『オネエ声』になってしまった。もしかしたら声で男だと気づかれてしまったかもしれないけど、今は『男子トイレに間違えて入ったうっかり女子』の設定でこの場を乗り切るしかない。しかし、踵を返しトイレから出ようとしたところ、廊下から足音と話し声が聞こえてくる。
「あ、俺、トイレ行きたいからちょっと待ってて」
「俺も行く」
 声からして、さっき教室に残っていた4人組だ。まさしく『前門の虎、後門の狼』だった。
 桐生君はともかく、女子の品評会をするような彼らのことだ。咲月が男子トイレに入った恥女だという噂は秋休み明けには学年全体に広まっていることだろう。
 許せ、咲月。そもそもはお前が夏休みに遊び惚けて赤点なんか取るから、こんなことになるんだ。
 覚悟を決め、トイレの入り口で彼らと対峙しようとしたとき。急に、後ろから腕を引っ張られた。
 腕を引かれるままに足を動かし、気づけばトイレの個室に入っていた。なぜか、桐生君と二人で。
 女子と変わらない背丈の僕からすると、彼は高校1年生にして見上げるほどに背が高く、体つきも筋肉質でがっしりとしている。
 胸の前に抱えていた荷物は、個室に引っ張り込まれた勢いで桐生君の背中側に回っていて、詰め物の胸が彼のお腹にあたっていた。桐生君も行き場のない腕を僕の背中に回すしかなく、完全に抱き合っている構図だった。詰め物がバレないか気が気でないが、桐生君と密着しているという事実に頭も体もフリーズし、身動きひとつできない。
 トイレ特有の匂いを感じなくなり、かわりに衣服の洗剤の香りと、それに混じる桐生君の汗の匂い、彼の体温が空間を満たし、息苦しさを覚える。不快ではないが、それらは僕の心臓の動きを怖いほどに加速させた。
 4人組は結局全員がトイレに来たようで、4人分の声がする。彼らの話題は女子の品評会から今度参加するらしい合コンのことへと移っていた。
「桐生がフリーなら桐生も呼んでほしいって言われたけど、誘うわけねーだろって話だよな。あんなヤツいたら独り勝ちじゃん」
 尿が便器に落ちる音に混じり聞こえてきた声に、一瞬身を強張らせる。
 マンモス校なのでもしかしたら同じ学年に桐生君がもう一人いるのかもしれないけど。「合コンで独り勝ち」という情報から浮かぶのは、僕の知る限り目の前の人物しかいない。
「にしても、桐生って、意外と頭のレベルは俺らと同類だったんだな」
「才能が全部、顔にいったんじゃねーの? 中学の頃はサッカーで有名だったらしいけどな。女と遊べないから部活やめたって話」
 追加された情報により、悪口の相手は目の前の人物で確定した。でも、その中には明らかな誤解もあった。
 桐生君が秀でているのは顔だけじゃない。「女と遊べないから部活やめた」というのも、僕が聞いた話とは違っている。
 腹立たしさから、無意識に両手を上へと伸ばしていた。
 耳にかかる髪の隙間から指を差し込み、彼の両耳を手で塞ぐ。至近距離で目が合い、国宝級イケメンのドアップに、顔がぶわっと沸騰しそうになった。
 僕と違って色の濃い、漆黒の黒髪と、男らしくキリリとした眉。切れ長の眼は目尻が少し上がっていて、真顔でも眼光鋭い。鼻筋も通っていて唇は薄く、僕とは真逆の、男らしく凛々しい顔立ち。今はその顔が、驚いたように軽く目を見張り、僕を見下ろしている。マスクをしていることが、せめてもの救いだった。
 今すぐ手を離し、個室から逃げ出したい衝動に駆られながらも、桐生君に会話を聞いてほしくない気持ちに軍配が上がる。
「まぁ俺も、あの顔に生まれてたら、部活も勉強もやめて遊びまくってただろうな」
「お前、どうせその顔でも、部活も勉強もしてないじゃん」
「うっせー、ばか」
 笑い声が手洗い場へと移動し、水を使う音が聞こえてくる。話し声が遠ざかっていくのに合わせ、そろそろと両手を下ろした。
「あんなん、言われ慣れてるから、どってことねーのに」
「ご、ごめん……」
 大胆な上に余計なことをしてしまった気恥ずかしさから、顔を俯かせた。
 最初の混乱は落ち着き、いきなり個室に引っ張り込まれた理由も、今は理解している。
 助けてくれたのだろう。咲月が、恥女にならなくてすむように。彼まで一緒に入る必要はなかったと思うが。やはり、彼は「顔だけ」ではない。思っていたとおりの優しい人だった。
「匿ってくれて、ありがとう」
 設定を取り戻したか細い掠れ声でお礼を言う。あとは彼がいなくなってくれたら、男子の制服に着替え、妹が持たせてくれたメイク落とし用のシートで顔を拭いて、僕の任務(ミッション)は終了する。……はずだった。
 けれど、桐生君は個室から出ていくそぶりを見せず。
「お前、神楽(かぐら)の兄貴のほうだろ。何で妹のフリしてるんだ?」
 予想外の質問が頭上に降って来た。
 俯かせていた顔をガバッと上げる。
 あまりに距離が近いから見破られたのだろうか……。いやでも、トイレの鏡で見た自分は、誰が見ても咲月だった。だとしたら、バレた理由は声しか考えられない。
「わ……、私、今日は風邪を引いていて、声がおかしくて……」
 声がおかしい言い訳をし、咲月の友達にしたように、コホコホとマスクの下で咳き込んでみせた。
「別に声で気づいたわけじゃない。教室にいたときから気づいてた。妹はそんなにウエスト細くないし、胸もないだろ?」
 あんのバカ妹が~! と思わず雄叫びをあげそうになった。
 家の姿見で確認したとき、僕も同じことを指摘したのだ。「お前はもう少し腰が太いし、胸もこんなに大きくないだろ」と。
 しかし妹は、「私のウエストがおにいより太いって言うの⁉」と逆ギレし、「着痩せしてるけど、胸だって本当はこのくらいあるのよ」という謎の理由でブラの中に詰められるだけの詰め物を入れやがった。
 これ以上、咲月で押し通すことは不可能と判断し、僕は作戦を変更することにした。
「実は咲月はここ数日、本当に風邪を引いていて……、追試の勉強も頑張っていたけど、今日は熱もあって試験を受けられそうになくて、それで、僕が代わりに……」
 実際に彼女は、ここ数日は学校でもマスクをしていたはずだし、僕に追試を代わりに受けてほしいと泣きついてきたときも、「風邪を引いて勉強ができなかったから、無理して受けても不合格になる」と言い訳していた。しかしそれは、僕を替え玉にするための「仕込み」で、風邪が仮病であることも、双子である僕にはお見通しだった。
 昔から勉強だけが僕の取り柄で、二人とも同じ高校に通っていても、咲月は普通科、僕は成績のいい生徒が集まる特進クラスで、奨学生として入学金や授業料が免除されている。
 追試で不合格になっても、秋休みが補習で潰れるだけで留年が決まっているわけではない。「勉強していないのが悪いんだから、不合格になったら補習を受けろ」と諭すのが正しい選択だとわかっているのだが……。
 妹の身勝手な頼み事を邪険にできないのは、子供の頃からの習いだ。嘘泣きする彼女を突っぱねることができず、結局は女装までして代わりに試験を受ける羽目になった。
「次の試験は絶対に勉強させて自分で受けさせるから、今回だけは見逃してもらえませんか?」
 バレてしまった以上は、見逃してもらえるよう泣き落としするしかない。
 替え玉を頼んできたときの咲月を思い出し、眉根を寄せて縋るような目で桐生君を見上げる。
 すぐには返事はなく、彼は考えを巡らせるように明後日の方向を睨んだ。
 やがて再びこちらに視線を戻した顔は、口元に不遜な笑みを浮かべていた。
「黙っておいてもいいよ。そのかわり、一つ頼みを聞いてもらっていい?」
「そのままの恰好のほうがいい」と言われて、僕は女子の制服にウィッグをかぶり化粧もしたまま、桐生君と一緒に学校を出た。

 僕たちが住んでいる地域は学校まで電車とバスを乗り継いで1時間ほどの場所にあり、僕も桐生君も地元の駅から電車で通学している。
 中心市街地から離れた小高い山の上にあるこの学校は、運動部の活動がさかんで、練習のための施設が充実しており、敷地も驚くほど広い。昇降口を出てグラウンドやテニスコート、運動部の寮などを横目に見ながら5分ほど歩き、正門前のバス停に辿り着いた。ほどなくして最寄り駅に向かうバスが来て、桐生君と連れ立って乗り込む。
 帰宅ラッシュにはまだ早く、車内は席に余裕があった。駅までは20分ほどで立っていてもよかったのだが、一人分空いていた席の前に連れて行かれ、「座って」と顎で示される。おそらく、胸の前にバッグを抱えた僕がバスの揺れでバランスを崩さないか、心配してくれたのだろう。「ありがとう」と彼にだけ聞こえる小声で言い、素直に腰を下ろした。
「優しくてイケメンの彼氏、羨ましすぎる~」
 後ろの席にいた女子たちがこちらを見て、コソコソと話す声が聞こえてくる。内容から察するに、僕たちのことをカップルと勘違いしているようだ。
 女装しているから仕方ないとは言え、悪い気はしなかった。桐生君の彼女に間違われたのなら、男であってもむしろ光栄なことに思える。
 僕は背も低く、黒縁眼鏡をかけた地味な陰キャで、桐生君のようなスクールカーストのトップにいる人とは真逆のところに生息している。高校に入ってからの彼は更に雲の上の人になり、電車や校舎内でたまに見かけても、目を合わせる勇気すらなかった。トイレでのハプニングがなければ、おそらく卒業まで話をすることもなかっただろう。
 つり革に掴まって前に立つ男の顔を、上目遣いでこっそり盗み見る。ぼんやりとしたその視線は、流れていく車窓の景色に向けられている。
 目にかかる長めの前髪にシャツの襟を隠す後ろ髪。たまたま伸びているのではなく、サッカーをやめてからの彼の髪は、ずっとこの長さだ。その、運動部ではあまり見かけない長めの髪型が、サッカーをしないアピールのように思えて、見かけるたびに少しだけ残念に思っていた。
 僕と桐生君は同じ中学出身だが、クラスは一緒になったことがない。でも、背が高く運動神経抜群で、一年生のときからサッカー部のレギュラーだった彼は、中学の頃から学校の有名人だった。
 僕は生まれつき心臓に重い病気があり、赤ん坊の頃に大きな手術を受けている。手術後しばらくは問題なかったそうだが、物心ついた頃には激しく泣いたり風邪を引いたりすると息苦しくなり、時には意識を失うこともあった。検査で肺にいく動脈が狭くなっていることがわかり、これまで三度、カテーテル治療で血管を広げたが、完全に治癒したわけではない。運動や呼吸器感染など酸素が必要な状況になると酸素不足に陥るため、歩行よりハードな運動は制限されていた。医者からは、狭くなった肺動脈を広げる手術を勧められているが、怖くて踏み切れないでいる。
 小学校の高学年になる頃には入院が必要なほどの風邪を引くことはなくなったため、「手術を受けるくらいなら運動を諦めて生きるほうがマシだ」と自分に言い訳し、結論を先延ばししていた。
 もちろん、体育はほとんど見学。最初の準備体操のみ参加し、球技は立ったままのパス練習くらいならできる。しかし、野球はボールを取れずに顔面に当たり、バレーやバスケットは突き指をしたので、それすらも許可してもらえなくなった。そんな中でサッカーだけは唯一、怪我することなくパス練習に参加できていた。
 中学生の頃、体育の授業は男女別に2クラス合同で行われていた。授業でサッカーが始まり、パスとトラップだけなら空振りせずにできるようになった頃、隣のクラスだった桐生君が急に話しかけてきた。
「ゲームに加わりたいか?」と訊かれて、僕は「走れないから無理だよ」と即答した。
『ボールを蹴ってトラップできるのなら、ゲームにも参加できるぞ。一度だけやってみたらどうだ?』
 人気者の彼にそこまで言われたら、陰キャの僕に断る勇気はない。
 桐生君は体育教師に直談判し、走らないことを条件に僕のゲームへの参加を認めさせてくれた。
 キックオフと同時に敵のゴール前に行くように言われて、ただそこに立っていた。敵のゴールキーパーがサッカー部で、ボールが来ない間、「このへんを狙ったらいい」とアドバイスをくれたけど、そのアドバイスが役に立つことはないだろうと思っていた。
 桐生君にボールが渡ると、彼の独断場だった。誰にもボールを触らせず、まるでボールが足にくっついているかのようなボールさばきで次々に敵を抜き去る。それまでの授業のサッカーでは明らかに手加減していて、なるべくパスを回したり、わざと抜かれたりしていたから意外だった。最後の一人をパスでかわし、そしてそのパスは、狙ったように僕の足元に来た。
 本当は前に敵のいない状態で味方からパスを受けると「オフサイド」という反則になる。体育の授業なんだから、なるべくみんながシュートを打てるよう、オフサイドが適用されないように桐生君が先生に交渉してくれていた。
 僕は人生で初めて、サッカーの試合の中でパスを受け、そしてキーパーの彼が「このへんを狙え」と言っていたゴールの隅に向かって蹴り込んだ。
 パス練習ではインサイドキックという足の内側で蹴る蹴り方しか練習していなかったから、ボールの勢いは弱い。サッカー部の彼なら二、三歩足を動かすだけでボールを取れていたはずだ。けれど、キーパーはボールを取るふりをしてボールに手が届かないところで倒れ込み、コロコロとボールはゴールの中へと転がっていった。
 桐生君のパスもキーパーがボールを取れなかったことも、僕にゴールさせようという意図がありありだった。でも、茶番の中でしかスポーツをできない悔しさよりも、生まれて初めてサッカーの試合に参加し、ゴールできた喜びのほうが、ずっとずっと大きかった。まるで本物のサッカーの試合のように桐生君に祝福のハグをされて、一生大切にしたい思い出ができた。
 けれど、そんな将来有望なサッカー部員だった桐生君は、中2でサッカー部をやめた。部内のいじめが原因だという噂を耳にした。それと関係しているのかはわからないが、その頃、サッカー部はしばらく活動を禁止されていて、その年の中体連にも出られなかった。
 うちの高校は文武両道をうたっていて、サッカーも全国大会に出場するくらいに強い。桐生君が同じ高校に入学したと知り、サッカーに復帰するために彼はこの高校を選んだんじゃないかと秘かに喜んでいた。でも、それは僕の勝手な思い込みだったようだ。高校生になってからも彼は帰宅部で、女の子と遊んでいる噂ばかりが耳に入ってくる。

 最寄りの駅でバスを降りる。普段ならここから八王子方面行の電車に乗るのだが、改札を通った桐生君が向かったのは、それとは逆の東京方面のホームだった。
 あまり帰りが遅くなるのは母親が心配するので困る。そんな不安を込めた眼差しで見上げていたら、三つ先の駅まで行くことと、用事はすぐに済むことを説明してくれた。
 目的の駅で降り、改札を出て向かったのは、歩いて3分ほどの場所にあるチェーンのファミレスだった。
 桐生君はレジにいた店員に「待ち合わせです」と告げて店内を見渡すと、すぐにまた歩き出す。女子高生がひとりで座っている四人掛けテーブルの前で、彼は足を止めた。
 目を引くほどの美人でもあるが、あからさまにこちらを睨みつけていたため、向かう前から彼女が待ち合わせの相手だと予感していた。恋愛に疎い僕でも、その眼差しに込められたものが敵意であることはすぐにわかった。
 驚く様子がないところを見るに、桐生君が女連れ――正確には女装した男子だが――で来ることは事前に知らされていたのだろう。出会ったそばから漂う緊迫した空気に、早くも逃げ出したい気分になる。
 桐生君は彼女の向かいのソファに腰を下ろした。ポンポンと座面を叩かれ、僕もバッグを胸の前に抱えたまま、恐る恐る彼の隣に座る。
 彼女はストレートの黒髪を胸のあたりまで伸ばした、大人びた雰囲気の美人だった。睨まれているせいか、アーモンド形の目元が少しキツく感じられる。
 制服を着ていなければ大学生にも見えそうなので、学年は上かもしれない。見慣れないデザインで、ファッションに無頓着な僕にはどこの高校のものかはわからなかった。 
 桐生君からメニューを渡され、メニューを開いて一番安いものを探す。何も喉を通りそうにないが、飲み物でも頼まなければ場がもたない。彼女の前には水のグラスと紅茶のセットが置かれていた。
「決まった?」
 頬が触れそうなほどの距離で桐生君が覗き込んでくる。声も、さっきまでとは打って変わって甘く、優しい。
 僕はおずおずとオレンジジュースを指差し、水を運んできた店員に、桐生君が「コーヒーとオレンジジュース」と僕の分まで注文を伝えた。
「私、納得できないんだけど」
 店員が去ったのを見計らい、清楚系美人が苛立ちをあらわにした。
 眼差しと同じく、背筋が寒くなるような冷ややかな声だ。
「私がその女より劣っているとは思えない。頭も悪そうだし、顔もどうせメイクで盛ってるだけでしょ」
 いきなり浴びせられた悪口に、僕は唖然として彼女を見た。マスクで隠れているが、口はぽかんと開いている。
 咲月やその友達に対して、常日頃、僕も似たようなことを思ってはいるけれども。本人たちにそれを言いたいと思ったことは一度もない。
 ……というか、咲月は頭は悪いが、すっぴんでも顔はそれほど悪くないぞ。
「そうか? スタイルはこいつのほうがいいぞ」
 馴れ馴れしく肩に腕を回され、反射的に彼を見やる。
 こいつ、いきなり何を言っているんだ!?
「最っ低! 結局、あんたにとって女はそれだけの存在なの? ヤレるなら誰だっていいんでしょ!?」
 今度はギョッと目を剥き、彼女の方へ。
 まるで暴風の中の風見鶏よろしく、彼と彼女の間で、顔の向きをキョロキョロとせわしなく動かす。
「俺は、『誰でもいい』じゃなくて、『他に好きな女ができた』つっただろ。『どうしても納得できないからそいつに会わせろ』つったのはそっちじゃん。会っても納得できないんだったら意味なくね?」
 そこでようやく、僕は女装のままここに連れて来られた理由を理解した。
 彼女との別れ話のためだろう。テストの替え玉の次は、桐生君の彼女の替え玉をさせられているわけだ。
 気が強そうだけど、美人で頭も良さそうな人で、座った状態で見る分には、特に彼女のスタイルが悪そうにも見えない。いったい彼女の何が不満で別れようとしているのだろう。
 そのタイミングでコーヒーとオレンジジュースが運ばれてきた。
 僕は完全に巻き込まれ事故で、役目は果たしたのだから、あとはご両人で好きに話し合ってくれ、という気分だった。我関せずを決め込み、ジュースを飲むためにマスクを取る。
「納得できないんだったら……」
 桐生君が身じろぎし、耳元で声がした。
 肩に回されていた腕が寄って来て、顎を掴まれたと思ったら、無理やり顔を彼の方へと向けさせられる。
 いきなり何――⁉ と思ったときには、焦点の定まらない距離に彼の顔が近付いてきていた。視界が暗くなると同時に、唇にやわらかいものが触れる。
 触れて。押し付けられて。下唇を啄むように引っ張られる。最後はあわいを濡れたもので撫でられ、桐生君の顔は離れて行った。
 何が起こったのかを理解したのは、こちらに顔を向けたままの彼が、自身の唇をゆっくりと舌でなぞったときだ。艶めかしいその視線と仕草で、自分がいわゆる『キス』をされていたのだと気が付いた。
 一気に顔が赤くなり、唇がわなわなと震える。
 なっ……なななな……、いきなり何をするんだーーー!!! 
 叫んだつもりが、驚きすぎて声にはならなかった。
 言葉を失い、はくはくと口を開いたり閉じたりする僕に、彼は、ふっ、と微笑を浮かべて見せた。
「こういう、いちいち反応が初々しいところも、気に入ってる」
 彼が前を向き、僕の視線の先は彼の横顔になる。
「――で。あと何をすれば、俺がこいつにぞっこんだと納得してもらえるんだ? お前が見てる前でヤれって言うんなら、別にヤッてもい……」
 その瞬間――、ビシャッと音がして、彼の顔に水がかかった。 
 コップの水を浴びせた彼女は、無言で席を立ち、自分の分の伝票を掴んで去っていく。
 コーヒーではなく水にしてくれたことに感謝すべきだと思った。