私の運命は、白紙だった。
天命殿の冷たい石床に膝をつき、私は目を伏せたまま順番を待っている。周囲には春の夜気が満ちていて、松明の炎が壁に揺れる影を落としていた。高い天井から吊るされた燭台の明かりが、祭壇に鎮座する巨大な書物を照らし出している。あれが天命帳——この世界の全ての人間の運命が記された、絶対の書だ。石造りの神殿は広く、集まった人々の息遣いまでもが反響して聞こえてくる。
読み上げの声が、厳かに響いた。
「橘・香澄。汝の天命を読み上げる」
中央写命家の当主である九条清雅様が、天命帳のページをゆっくりとめくられた。その所作は優雅で、まるで舞を見ているかのように美しい。私は視線を上げることなく、ただ自分の番が来るのを待ち続けた。指先が冷たくて、握りしめた拳が震えている。
「十七歳にて医師の道を志し、二十五歳にて開業する。三十歳にて良縁を得て、二人の子を授かる。六十五歳、安らかに眠りにつく」
清雅様の声が途切れると同時に、周囲から祝福の声が上がった。香澄は涙を流しながら立ち上がり、家族に抱きしめられている。彼女の運命は、こうして皆に祝福された。定められた道を歩む安心感が、彼女の表情に浮かんでいる。
次々と名前が呼ばれ、運命が読み上げられていく。誰もが自分の未来を知り、安堵の表情を浮かべていた。ある者は喜び、ある者は静かに頷き、ある者は涙を流す。けれど全員に共通しているのは、自分の人生に意味があると知った時の安心感だった。運命があるということは、この世界で生きる価値があるということ——皆がそう信じている。
周囲の喜びの声を聞きながら、私は小さく息を吐いた。もうすぐ、私の番が来る。そして皆が知ることになる——私には運命がないということを。
そして——私の番が来た。
「白峯・小夜。汝の天命を読み上げる」
清雅様の声が響いた瞬間、私は顔を上げた。祭壇の前に立つ清雅様と目が合う。あの方は相変わらず美しかった。漆黒の髪、整った顔立ち、そして何より——冷たく澄んだ瞳。かつて私に優しい言葉をかけてくれた、あの方。けれど今、その瞳には何の感情も映っていない。
清雅様がページをめくる音が聞こえた。紙が擦れる音が、静まり返った神殿に響く。
そして、沈黙。
長い、長い沈黙が神殿を支配する。私は息を止めて、その瞬間を待った。けれど清雅様は何も言わない。ただページを見つめたまま、微かに眉をひそめている。その表情の変化は一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻った。
やがて周囲がざわめき始めた。
「やはり……白紙なのか」
「存在しない女だ」
「不吉な」
ひそひそと交わされる声が、私の耳に届く。慣れているはずだった。何度も経験してきたことだ。それでも、胸の奥が冷たく締め付けられるのを感じる。爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめて、私はじっと耐えた。
清雅様がゆっくりとページを閉じた。
「白峯・小夜の天命は——記されていない」
その言葉が告げられた瞬間、神殿の空気が変わった。祝福の雰囲気が一瞬で消え去り、代わりに冷ややかな視線が私に注がれる。私は俯いたまま、ただ耐えることしかできなかった。視線の重さが、肩にのしかかってくる。
儀式が終わり、人々が散っていく中で、私は一人その場に残されていた。誰も声をかけてこない。家族ですら、私を置いて先に帰ってしまった。母の後ろ姿が遠ざかっていくのを、私は黙って見送った。
石床の冷たさが、膝から全身に染み渡っていく。春の夜だというのに、身体の芯から冷えていくような感覚があった。
◇
白紙——それが私の全てだった。
物心ついた時から、私は自分が「普通ではない」ことを知っていた。写命家の分家に生まれた子供たちは皆、特別な教育を受けることができる。天命帳を読み解く術や、運命を写し取る技術を学ぶのだ。けれど私だけは、その輪から外された。理由は簡単で、運命がない者に写命の術を教える意味がないからだ。
五歳の時だった。子供たちが集まる場で、皆が自分の運命を誇らしげに語っていた。広い庭に敷かれた毛氈の上で、同じ年頃の子供たちが輪になって座っている。春の陽射しが暖かく、桜の花びらが風に舞っていた。乳母たちが少し離れた場所で見守る中、子供たちは無邪気に笑い合っている。
「僕は将来、学者になるんだ。天命帳にそう書いてあるんだよ」
隣の屋敷の息子が、得意げに胸を張った。彼は私より一つ年上で、いつも自信に満ちた態度をとっていた。
「すごいね。僕は商人になるって書いてあった」
「私は美しい花嫁になるの。十八歳で良縁に恵まれるって」
向かいに座る女の子が、頬を赤らめながら言った。彼女の手には、母親から贈られたという絹のハンカチが握られている。
楽しそうに話す声が飛び交う中、一人の女の子が私に尋ねた。彼女は人懐っこい笑顔で、私の顔を覗き込んでくる。
「小夜ちゃんは? どんな運命なの?」
私は答えられなかった。口を開こうとしたが、声が出てこない。周囲の子供たちの視線が一斉に私に注がれて、息が詰まるような感覚に襲われた。ただ首を横に振ることしかできなくて、やがて涙があふれてきた。
「どうして泣いてるの?」
「小夜ちゃん、大丈夫?」
子供たちは戸惑った様子で顔を見合わせた。そして少し離れた場所にいた大人たちの、ひそひそ話が聞こえてくる。
「あの子は白紙だから」
「運命がないなんて、不吉だわ」
「分家の恥ね。よくあんな子を表に出せるものだわ」
「まあ、可哀想に。生まれた時から呪われているようなものでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、涙が止まらなくなった。私は毛氈から立ち上がって、庭の奥へと走り出した。後ろから乳母が呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。
その日から、私は皆と違う存在になった。子供たちの輪に入ることはなくなり、いつも一人で庭の隅に座っているようになった。誰も私に話しかけなくなり、私も誰にも話しかけなくなった。ただ静かに、花を眺めたり、鳥の声を聞いたりして時間を過ごした。
八歳になると、その違いはさらに明確になった。写命家の子供たちは皆、特別な教室で運命の読み方を学び始める。古い書物が並ぶ部屋で、熟練の写命師から手ほどきを受けるのだ。書物の扱い方、文字の読み方、運命を写し取る際の心構え——そういったことを、時間をかけて学んでいく。
けれど私だけは、その教室に入ることを許されなかった。
ある日、教室の前まで行ってみた。扉の隙間から中を覗くと、同い年の子供たちが真剣な表情で書物に向かっている。写命師の老人が、優しい声で何かを教えていた。
「運命とは、天が定めた道です。それを読み解くことは、神聖な行為なのです」
私もあの中に入りたい——そう思った瞬間、背後から声がかかった。
「白峯様、ここで何をなさっているのですか」
振り向くと、使用人の女性が立っていた。彼女の目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。
「白峯様は、使用人の子供たちと一緒に掃除をなさってください。運命のない方に、写命の術を学ぶ資格はありません」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。抗う術を知らなかったし、抗ったところで何も変わらないことも理解していた。使用人の子供たちと一緒に箒を持ち、廊下を掃除する日々が始まった。朝から晩まで、膝をついて床を磨き、窓を拭き、庭の落ち葉を集める。
けれど、使用人の子供たちですら私を見下していた。
ある日、一緒に掃除をしていた女の子が、私に向かって言った。
「私たちには運命があるけど、小夜様にはないんだもんね」
彼女は私より三つも年下だったが、その目には明らかな優越感が浮かんでいた。
「だから小夜様は、ここで私たちと掃除してるんだよね」
もう一人の子供が、笑いながら言った。
「でも変だよね。お嬢様なのに、使用人と同じことしてるなんて」
「お嬢様じゃないよ。運命がないんだから、ただの人だよ」
そんな会話を聞きながら、私は黙々と床を磨き続けた。涙をこらえて、歯を食いしばって。箒を握る手に力が入り、爪が手のひらに食い込むほどだった。
私は何のために生まれてきたのだろう——そう思わずにはいられなかった。
そんな日々の中で、唯一の救いがあった。十二歳の春に、中央写命家の若き当主候補である九条清雅様が分家を訪れたのだ。
私は庭の片隅で、一人静かに座っていた。誰とも話さず、ただ花を眺めているだけの時間が好きだった。白い椿の花が咲いていて、その清楚な美しさに見とれていた。花びらが風に揺れる様子を眺めていると、少しだけ心が落ち着く。
そこに、清雅様が現れた。
「君が、白紙の少女か」
その声に驚いて顔を上げると、目の前に美しい青年が立っていた。整った顔立ちに、知性を感じさせる瞳。私は怯えて何も言えずにいたが、清雅様は優しく微笑んだ。その笑顔には、これまで向けられたことのない温かさがあった。
「面白い。君は、この世界で唯一の『余白』だ」
余白——その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。けれど清雅様が差し伸べた手には、侮蔑の色がなかった。初めて、誰かが私を「特別」だと言ってくれた。その瞬間、私の心に小さな光が灯った気がした。
「怖がらなくていい。私は、君に興味があるんだ」
清雅様は私の隣に座り、同じように椿の花を見つめた。風が吹いて、花びらが一枚、地面に落ちる。清雅様はそれを拾い上げて、指先で優しく撫でた。
「白紙であるということは、何にも縛られていないということだ。誰よりも自由な存在——そうは思わないか?」
私は首を横に振った。
「自由なんかじゃ、ありません。私は……何もないんです」
「何もない?」
清雅様は少し考えるように間を置いてから、穏やかに言った。
「いや、違う。何も書かれていないということは、これから何でも書けるということだ。君は可能性の塊なんだよ、小夜」
初めて、名前で呼ばれた。それだけで、胸が熱くなった。
「でも……私には、何もできません」
「それは、まだ試していないだけだ」
清雅様は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「君は特別だ。それを忘れないで」
その言葉の意味を、私は理解できなかった。けれど清雅様の声には不思議な説得力があって、少しだけ心が軽くなった気がした。
それから三年が経ち、十五歳の春に信じられないことが起きた。九条家と白峯家の間で、政略結婚の話が持ち上がったのだ。そして清雅様が選んだ相手は——私だった。
その知らせを聞いた時、私は耳を疑った。白紙の私に、そんな価値があるはずがない。何かの間違いではないかと思った。
「小夜、おめでとう」
母がそう言った時、私は夢を見ているのではないかと思った。母は複雑そうな表情を浮かべていたが、それでも祝福の言葉をかけてくれた。父は何も言わなかったが、少なくとも反対はしなかった。
白紙の私に、居場所ができる。誰かに必要とされる。その喜びは何物にも代えがたかった。
けれど周囲の目は、相変わらず冷たかった。
「清雅様が、あんな娘を選ぶなんて」
「何か企みがあるに違いない」
「白紙の女を妻にするなど、正気とは思えない」
「きっと、何か利用価値があるのよ」
そんな声が聞こえても、私は気にしなかった。清雅様が私を選んでくれた——それだけで十分だった。初めて、自分の人生に意味があると感じられた。初めて、未来に希望を持つことができた。
婚約の儀式が執り行われた日、清雅様は私の手を取って言った。
「君がいれば、新しい未来が開ける」
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。ただ清雅様が私を必要としてくれている——そう信じて疑わなかった。清雅様の手は温かくて、私はその温もりに安心感を覚えた。
幸せな日々が続いた。清雅様は時々分家を訪れて、私と話をしてくれた。世界のこと、天命帳のこと、様々なことを教えてくれた。私は清雅様の話を聞くのが好きで、一言一句を心に刻み込んだ。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
十七歳の冬、清雅様から突然の通告を受けた。呼び出された部屋で、清雅様は冷たい声で言った。
「婚約は破棄する」
理由は告げられなかった。ただ冷たい声でそう言われただけだった。私は何が起きたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「なぜ……ですか」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「理由を話す必要はない。ただ、もう用がなくなっただけだ」
清雅様は私の方を見ようともせず、そう言い放った。あの優しかった瞳は、もうどこにもない。
「清雅様……私、何か間違ったことを……」
「君は何も間違っていない。ただ、私が君を必要としなくなっただけだ」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
再び、私は「何もない女」に戻った。いや、それよりも悪い状態になった。一度は認められたと思ったのに、やはり必要とされなかった——その事実が、私の心を深く傷つけた。
◇
儀式の翌日、私は白峯家の屋敷で目を覚ました。狭い部屋の窓から差し込む朝日が、埃の舞う空気を照らしている。かつては広い部屋を与えられていたが、婚約破棄の後、私はこの小さな部屋に移された。家具もほとんどなく、寝台と小さな机があるだけだ。壁には染みがあり、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。
起き上がって身支度を整えると、廊下を歩いて食堂へ向かう。廊下には誰もいなくて、私の足音だけが響いていた。かつては使用人たちが忙しく行き交っていた廊下も、今では私が通ると皆が避けるように脇に寄る。
けれど食堂に入った瞬間、私の足が止まった。
長いテーブルに、家族が揃って座っている。父、母、そして二人の弟。朝の光が窓から差し込んでいて、温かな食事の匂いが漂っていた。焼き魚、味噌汁、炊きたての飯——家族は楽しそうに会話しながら食事をしている。
けれど私の席だけが、そこにはなかった。テーブルには四つの椅子しか置かれていない。
「白紙様は、こちらでお願いします」
使用人の一人が、私を台所へと案内した。そこには粗末な椅子と、昨夜の残り物が置かれている。冷めた汁と、固くなった飯。器も欠けていて、箸は古びている。
私は何も言わず、黙ってそこに座った。冷めた食事を口に運びながら、隣の部屋から聞こえてくる家族の笑い声に耳を傾ける。
「今日は天気がいいから、庭で遊ぼう」
弟の一人が、はしゃいだ声で言った。
「そうね。お父様も一緒に来てくださる?」
母の優しい声が続く。
私は一人、冷たい食事を食べ続けた。
食事を終えて部屋に戻ると、庭が見える小さな窓の前に立った。春の花が咲き誇る庭で、弟たちが楽しそうに遊んでいる。母がその様子を優しく見守っていて、時折笑い声が聞こえてくる。父も仕事の手を休めて、庭に出てきた。弟たちが父に駆け寄り、抱きつく。
私だけが、その輪の外にいる。
ふと、ある考えが頭をよぎった。もし私がいなくなったら、家族は楽になるのだろうか——そう思った瞬間、胸が苦しくなった。けれど同時に、それが真実なのだとも感じていた。私は家族にとって、重荷でしかない。存在しないはずの人間が、ここにいること自体が間違っているのかもしれない。
けれど、死ぬことすら許されない。天命帳に死の運命が書かれていない以上、私は生き続けるしかないのだ。どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、ただ生きるしかない。終わりのない苦しみを、永遠に背負い続けるしかない。
◇
満月の夜、私は決意した。
自分の運命を、この目で確かめたい——そう思った私は、誰もいない時間を狙って天命殿へ向かった。夜の屋敷は静まり返っていて、私の足音だけが廊下に響く。月明かりが窓から差し込んで、床に青白い光を落としている。
警備は厳重だったが、「存在しない女」である私に気づく者はいなかった。影のように壁際を歩き、見張りの目を避けて進んでいく。見張りの兵士が二人、門の前に立っていたが、彼らは退屈そうに欠伸をしているだけだった。私はその脇をすり抜けて、天命殿の敷地に入った。
天命殿の扉を開けると、静寂が私を迎えた。松明の明かりだけが、祭壇を照らしている。そこに鎮座する巨大な天命帳が、まるで生き物のように存在感を放っていた。革装丁の表紙は古く、長い年月を経た重みを感じさせる。金の装飾が月明かりに反射して、鈍く光っている。
私は恐る恐る近づいた。一歩、また一歩と、祭壇に近づいていく。心臓が激しく鳴っていて、自分の鼓動が耳に響く。
そして天命帳の前に立ち、ページをめくり始めた。重い表紙を開くと、無数の名前と運命が記されている。一人一人の人生が、ここに刻まれている。生まれてから死ぬまで、全てが文字として残されている。
私は自分の名前を探して、ページをめくり続けた。白峯家の項目を見つけて、家族の名前を確認する。父の運命、母の運命、弟たちの運命——全て、細かく書かれている。
そして、自分の名前を見つけた。
白峯・小夜——その下には、何も書かれていなかった。真っ白なページが、ただそこにあるだけだった。他の人々のページにはびっしりと文字が書かれているのに、私のページだけが空白だ。まるで、最初から存在していないかのように。
私は震える手を、そのページに置いた。もしかしたら、触れることで何か変わるかもしれない——そんな淡い期待を抱いていた。もしかしたら、文字が浮かび上がってくるかもしれない。もしかしたら、私にも運命があるのかもしれない。
その瞬間、天命帳が激しく反応した。
風もないのにページが激しくめくれ、無数の文字が浮かび上がっては消えていく。光が走り、空気が震える。私の手が弾かれて、身体ごと後ろに飛ばされた。背中から床に倒れ込み、激しい痛みが全身を襲う。
床に倒れ込んだ私は、痛みを堪えながら天命帳を見上げた。あの書物は、私を拒絶している。世界そのものが、私の存在を認めていない——そう感じた瞬間、涙があふれてきた。
「……触るな」
闇の中から、低い声が聞こえた気がした。男の声だった。けれど振り向いても、誰もいない。松明の明かりが揺れているだけで、神殿には私一人しかいなかった。
私は泣き崩れたまま、しばらくその場を動けなかった。身体中が痛くて、心も痛くて、ただ泣くことしかできなかった。涙が床に落ちて、小さな染みを作る。
どれくらいそうしていただろう。やがて涙も枯れて、私はゆっくりと立ち上がった。身体中が痛むが、それでも立たなければならない。ここにいるところを見つかれば、さらに酷いことになる。
私は天命殿を後にして、屋敷へと戻った。誰にも見つからないように、静かに、静かに。部屋に戻ると、寝台に倒れ込んだ。身体の痛みよりも、心の痛みの方が大きかった。
◇
翌朝、私は父の前に引き出された。
使用人が部屋に来て、荒々しく私を起こした。寝台から引きずり降ろされ、廊下を歩かされる。抵抗する力もなく、ただ引かれるままに歩いた。
白峯家当主の間には、父だけでなく母や弟たちも揃っている。全員が私を冷たい目で見つめていた。部屋の空気が重く、息苦しさを感じる。
「貴様、昨夜天命殿に侵入したそうだな」
父の声は怒りに満ちていた。私は何も答えられず、ただ俯いているしかなかった。膝が震えて、立っているのがやっとだった。
「何をした。天命帳を汚したのか」
「私は、ただ自分の運命を——」
「黙れ」
父の怒声が、部屋中に響いた。私は思わず身体を竦ませる。
「お前には運命などない。それを何度言えばわかるのだ。天命帳は神聖なもので、お前のような穢れた存在が触れていいものではない」
母も冷たく言い放った。
「この子は、本当に災いしか運ばないのね。生まれた時から、ずっと」
弟の一人が、小さな声で呟いた。
「姉さんがいなければ、僕たちはもっと幸せだったのに」
もう一人の弟が、それに続く。
「そうだよ。姉さんのせいで、僕たち白峯家は笑い者なんだ」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。私は何も言い返せなかった。言い返す言葉も、言い返す資格もない。
やがて、中央写命家からの返答が届いた。使者が持ってきた書状を、父が広げる。部屋の全員が、その内容に注目していた。そこには簡潔な命令が記されていた。
白紙の女を、処刑せよ——と。
その文字を見た瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。清雅様が、私の死を命じた。かつて優しい言葉をかけてくれた、あの方が。私を「余白」だと言ってくれた、あの方が。
「三日後に処刑する。それまで牢に入れておけ」
父の命令により、私は二人の兵士に両腕を掴まれた。抵抗する力もなく、ただ引きずられるように廊下を歩かされる。屋敷の地下へと続く階段を降りて、暗い牢へと連れて行かれた。
牢の扉が開けられ、私は中に押し込まれた。扉が閉まる音が響き、鍵がかけられる。兵士たちの足音が遠ざかっていって、やがて完全な静寂が訪れた。
◇
暗くて狭い空間に、私は一人取り残された。
湿った空気が肌に纏わりつき、遠くで水の滴る音が聞こえる。壁は冷たく、床も冷たい。小さな窓から差し込む月明かりだけが、唯一の光源だった。
私は石の床に座り込んで、膝を抱えた。
三日後——その時、全てが終わる。
不思議と、恐怖よりも安堵の方が大きかった。やっと、この苦しみから解放される。もう誰にも蔑まれることはない。もう誰からも拒絶されることはない。痛みも、悲しみも、全て終わる。
けれど心のどこかで、小さな声が聞こえる——本当にそれでいいのか、と。
私は何のために生まれてきたのだろう。何のために、この十七年間を生きてきたのだろう。
誰にも愛されなかった日々。誰にも必要とされなかった時間。ただ生きているだけで、周囲に迷惑をかけ続けた人生。
それでも、ほんの一瞬だけ——清雅様が私に優しくしてくれた、あの時だけは幸せだった。あの時だけは、自分が人として扱われていると感じられた。
「君は、この世界で唯一の『余白』だ」
あの言葉が、今も耳に残っている。
余白——何も書かれていないということは、何にでもなれるということなのだろうか。それとも、何にもなれないということなのだろうか。
答えは、わからない。
わからないまま、私は消えていく。
目を閉じると、様々な記憶が蘇ってくる。五歳の時、皆の前で泣いたこと。八歳の時、教室から追い出されたこと。十二歳の時、清雅様に出会ったこと。十五歳の時、婚約したこと。そして十七歳の冬、全てを失ったこと。
全てが、走馬灯のように流れていく。
私の人生は、白紙だった。何も書かれることなく、ただ空白のまま過ぎていった。誰かに読まれることもなく、誰かに必要とされることもなく。
でも、その答えを知る前に、私は消える。
白紙のまま、誰にも読まれることなく。
天命殿の冷たい石床に膝をつき、私は目を伏せたまま順番を待っている。周囲には春の夜気が満ちていて、松明の炎が壁に揺れる影を落としていた。高い天井から吊るされた燭台の明かりが、祭壇に鎮座する巨大な書物を照らし出している。あれが天命帳——この世界の全ての人間の運命が記された、絶対の書だ。石造りの神殿は広く、集まった人々の息遣いまでもが反響して聞こえてくる。
読み上げの声が、厳かに響いた。
「橘・香澄。汝の天命を読み上げる」
中央写命家の当主である九条清雅様が、天命帳のページをゆっくりとめくられた。その所作は優雅で、まるで舞を見ているかのように美しい。私は視線を上げることなく、ただ自分の番が来るのを待ち続けた。指先が冷たくて、握りしめた拳が震えている。
「十七歳にて医師の道を志し、二十五歳にて開業する。三十歳にて良縁を得て、二人の子を授かる。六十五歳、安らかに眠りにつく」
清雅様の声が途切れると同時に、周囲から祝福の声が上がった。香澄は涙を流しながら立ち上がり、家族に抱きしめられている。彼女の運命は、こうして皆に祝福された。定められた道を歩む安心感が、彼女の表情に浮かんでいる。
次々と名前が呼ばれ、運命が読み上げられていく。誰もが自分の未来を知り、安堵の表情を浮かべていた。ある者は喜び、ある者は静かに頷き、ある者は涙を流す。けれど全員に共通しているのは、自分の人生に意味があると知った時の安心感だった。運命があるということは、この世界で生きる価値があるということ——皆がそう信じている。
周囲の喜びの声を聞きながら、私は小さく息を吐いた。もうすぐ、私の番が来る。そして皆が知ることになる——私には運命がないということを。
そして——私の番が来た。
「白峯・小夜。汝の天命を読み上げる」
清雅様の声が響いた瞬間、私は顔を上げた。祭壇の前に立つ清雅様と目が合う。あの方は相変わらず美しかった。漆黒の髪、整った顔立ち、そして何より——冷たく澄んだ瞳。かつて私に優しい言葉をかけてくれた、あの方。けれど今、その瞳には何の感情も映っていない。
清雅様がページをめくる音が聞こえた。紙が擦れる音が、静まり返った神殿に響く。
そして、沈黙。
長い、長い沈黙が神殿を支配する。私は息を止めて、その瞬間を待った。けれど清雅様は何も言わない。ただページを見つめたまま、微かに眉をひそめている。その表情の変化は一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻った。
やがて周囲がざわめき始めた。
「やはり……白紙なのか」
「存在しない女だ」
「不吉な」
ひそひそと交わされる声が、私の耳に届く。慣れているはずだった。何度も経験してきたことだ。それでも、胸の奥が冷たく締め付けられるのを感じる。爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめて、私はじっと耐えた。
清雅様がゆっくりとページを閉じた。
「白峯・小夜の天命は——記されていない」
その言葉が告げられた瞬間、神殿の空気が変わった。祝福の雰囲気が一瞬で消え去り、代わりに冷ややかな視線が私に注がれる。私は俯いたまま、ただ耐えることしかできなかった。視線の重さが、肩にのしかかってくる。
儀式が終わり、人々が散っていく中で、私は一人その場に残されていた。誰も声をかけてこない。家族ですら、私を置いて先に帰ってしまった。母の後ろ姿が遠ざかっていくのを、私は黙って見送った。
石床の冷たさが、膝から全身に染み渡っていく。春の夜だというのに、身体の芯から冷えていくような感覚があった。
◇
白紙——それが私の全てだった。
物心ついた時から、私は自分が「普通ではない」ことを知っていた。写命家の分家に生まれた子供たちは皆、特別な教育を受けることができる。天命帳を読み解く術や、運命を写し取る技術を学ぶのだ。けれど私だけは、その輪から外された。理由は簡単で、運命がない者に写命の術を教える意味がないからだ。
五歳の時だった。子供たちが集まる場で、皆が自分の運命を誇らしげに語っていた。広い庭に敷かれた毛氈の上で、同じ年頃の子供たちが輪になって座っている。春の陽射しが暖かく、桜の花びらが風に舞っていた。乳母たちが少し離れた場所で見守る中、子供たちは無邪気に笑い合っている。
「僕は将来、学者になるんだ。天命帳にそう書いてあるんだよ」
隣の屋敷の息子が、得意げに胸を張った。彼は私より一つ年上で、いつも自信に満ちた態度をとっていた。
「すごいね。僕は商人になるって書いてあった」
「私は美しい花嫁になるの。十八歳で良縁に恵まれるって」
向かいに座る女の子が、頬を赤らめながら言った。彼女の手には、母親から贈られたという絹のハンカチが握られている。
楽しそうに話す声が飛び交う中、一人の女の子が私に尋ねた。彼女は人懐っこい笑顔で、私の顔を覗き込んでくる。
「小夜ちゃんは? どんな運命なの?」
私は答えられなかった。口を開こうとしたが、声が出てこない。周囲の子供たちの視線が一斉に私に注がれて、息が詰まるような感覚に襲われた。ただ首を横に振ることしかできなくて、やがて涙があふれてきた。
「どうして泣いてるの?」
「小夜ちゃん、大丈夫?」
子供たちは戸惑った様子で顔を見合わせた。そして少し離れた場所にいた大人たちの、ひそひそ話が聞こえてくる。
「あの子は白紙だから」
「運命がないなんて、不吉だわ」
「分家の恥ね。よくあんな子を表に出せるものだわ」
「まあ、可哀想に。生まれた時から呪われているようなものでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、涙が止まらなくなった。私は毛氈から立ち上がって、庭の奥へと走り出した。後ろから乳母が呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。
その日から、私は皆と違う存在になった。子供たちの輪に入ることはなくなり、いつも一人で庭の隅に座っているようになった。誰も私に話しかけなくなり、私も誰にも話しかけなくなった。ただ静かに、花を眺めたり、鳥の声を聞いたりして時間を過ごした。
八歳になると、その違いはさらに明確になった。写命家の子供たちは皆、特別な教室で運命の読み方を学び始める。古い書物が並ぶ部屋で、熟練の写命師から手ほどきを受けるのだ。書物の扱い方、文字の読み方、運命を写し取る際の心構え——そういったことを、時間をかけて学んでいく。
けれど私だけは、その教室に入ることを許されなかった。
ある日、教室の前まで行ってみた。扉の隙間から中を覗くと、同い年の子供たちが真剣な表情で書物に向かっている。写命師の老人が、優しい声で何かを教えていた。
「運命とは、天が定めた道です。それを読み解くことは、神聖な行為なのです」
私もあの中に入りたい——そう思った瞬間、背後から声がかかった。
「白峯様、ここで何をなさっているのですか」
振り向くと、使用人の女性が立っていた。彼女の目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。
「白峯様は、使用人の子供たちと一緒に掃除をなさってください。運命のない方に、写命の術を学ぶ資格はありません」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。抗う術を知らなかったし、抗ったところで何も変わらないことも理解していた。使用人の子供たちと一緒に箒を持ち、廊下を掃除する日々が始まった。朝から晩まで、膝をついて床を磨き、窓を拭き、庭の落ち葉を集める。
けれど、使用人の子供たちですら私を見下していた。
ある日、一緒に掃除をしていた女の子が、私に向かって言った。
「私たちには運命があるけど、小夜様にはないんだもんね」
彼女は私より三つも年下だったが、その目には明らかな優越感が浮かんでいた。
「だから小夜様は、ここで私たちと掃除してるんだよね」
もう一人の子供が、笑いながら言った。
「でも変だよね。お嬢様なのに、使用人と同じことしてるなんて」
「お嬢様じゃないよ。運命がないんだから、ただの人だよ」
そんな会話を聞きながら、私は黙々と床を磨き続けた。涙をこらえて、歯を食いしばって。箒を握る手に力が入り、爪が手のひらに食い込むほどだった。
私は何のために生まれてきたのだろう——そう思わずにはいられなかった。
そんな日々の中で、唯一の救いがあった。十二歳の春に、中央写命家の若き当主候補である九条清雅様が分家を訪れたのだ。
私は庭の片隅で、一人静かに座っていた。誰とも話さず、ただ花を眺めているだけの時間が好きだった。白い椿の花が咲いていて、その清楚な美しさに見とれていた。花びらが風に揺れる様子を眺めていると、少しだけ心が落ち着く。
そこに、清雅様が現れた。
「君が、白紙の少女か」
その声に驚いて顔を上げると、目の前に美しい青年が立っていた。整った顔立ちに、知性を感じさせる瞳。私は怯えて何も言えずにいたが、清雅様は優しく微笑んだ。その笑顔には、これまで向けられたことのない温かさがあった。
「面白い。君は、この世界で唯一の『余白』だ」
余白——その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。けれど清雅様が差し伸べた手には、侮蔑の色がなかった。初めて、誰かが私を「特別」だと言ってくれた。その瞬間、私の心に小さな光が灯った気がした。
「怖がらなくていい。私は、君に興味があるんだ」
清雅様は私の隣に座り、同じように椿の花を見つめた。風が吹いて、花びらが一枚、地面に落ちる。清雅様はそれを拾い上げて、指先で優しく撫でた。
「白紙であるということは、何にも縛られていないということだ。誰よりも自由な存在——そうは思わないか?」
私は首を横に振った。
「自由なんかじゃ、ありません。私は……何もないんです」
「何もない?」
清雅様は少し考えるように間を置いてから、穏やかに言った。
「いや、違う。何も書かれていないということは、これから何でも書けるということだ。君は可能性の塊なんだよ、小夜」
初めて、名前で呼ばれた。それだけで、胸が熱くなった。
「でも……私には、何もできません」
「それは、まだ試していないだけだ」
清雅様は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「君は特別だ。それを忘れないで」
その言葉の意味を、私は理解できなかった。けれど清雅様の声には不思議な説得力があって、少しだけ心が軽くなった気がした。
それから三年が経ち、十五歳の春に信じられないことが起きた。九条家と白峯家の間で、政略結婚の話が持ち上がったのだ。そして清雅様が選んだ相手は——私だった。
その知らせを聞いた時、私は耳を疑った。白紙の私に、そんな価値があるはずがない。何かの間違いではないかと思った。
「小夜、おめでとう」
母がそう言った時、私は夢を見ているのではないかと思った。母は複雑そうな表情を浮かべていたが、それでも祝福の言葉をかけてくれた。父は何も言わなかったが、少なくとも反対はしなかった。
白紙の私に、居場所ができる。誰かに必要とされる。その喜びは何物にも代えがたかった。
けれど周囲の目は、相変わらず冷たかった。
「清雅様が、あんな娘を選ぶなんて」
「何か企みがあるに違いない」
「白紙の女を妻にするなど、正気とは思えない」
「きっと、何か利用価値があるのよ」
そんな声が聞こえても、私は気にしなかった。清雅様が私を選んでくれた——それだけで十分だった。初めて、自分の人生に意味があると感じられた。初めて、未来に希望を持つことができた。
婚約の儀式が執り行われた日、清雅様は私の手を取って言った。
「君がいれば、新しい未来が開ける」
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。ただ清雅様が私を必要としてくれている——そう信じて疑わなかった。清雅様の手は温かくて、私はその温もりに安心感を覚えた。
幸せな日々が続いた。清雅様は時々分家を訪れて、私と話をしてくれた。世界のこと、天命帳のこと、様々なことを教えてくれた。私は清雅様の話を聞くのが好きで、一言一句を心に刻み込んだ。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
十七歳の冬、清雅様から突然の通告を受けた。呼び出された部屋で、清雅様は冷たい声で言った。
「婚約は破棄する」
理由は告げられなかった。ただ冷たい声でそう言われただけだった。私は何が起きたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「なぜ……ですか」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「理由を話す必要はない。ただ、もう用がなくなっただけだ」
清雅様は私の方を見ようともせず、そう言い放った。あの優しかった瞳は、もうどこにもない。
「清雅様……私、何か間違ったことを……」
「君は何も間違っていない。ただ、私が君を必要としなくなっただけだ」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
再び、私は「何もない女」に戻った。いや、それよりも悪い状態になった。一度は認められたと思ったのに、やはり必要とされなかった——その事実が、私の心を深く傷つけた。
◇
儀式の翌日、私は白峯家の屋敷で目を覚ました。狭い部屋の窓から差し込む朝日が、埃の舞う空気を照らしている。かつては広い部屋を与えられていたが、婚約破棄の後、私はこの小さな部屋に移された。家具もほとんどなく、寝台と小さな机があるだけだ。壁には染みがあり、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。
起き上がって身支度を整えると、廊下を歩いて食堂へ向かう。廊下には誰もいなくて、私の足音だけが響いていた。かつては使用人たちが忙しく行き交っていた廊下も、今では私が通ると皆が避けるように脇に寄る。
けれど食堂に入った瞬間、私の足が止まった。
長いテーブルに、家族が揃って座っている。父、母、そして二人の弟。朝の光が窓から差し込んでいて、温かな食事の匂いが漂っていた。焼き魚、味噌汁、炊きたての飯——家族は楽しそうに会話しながら食事をしている。
けれど私の席だけが、そこにはなかった。テーブルには四つの椅子しか置かれていない。
「白紙様は、こちらでお願いします」
使用人の一人が、私を台所へと案内した。そこには粗末な椅子と、昨夜の残り物が置かれている。冷めた汁と、固くなった飯。器も欠けていて、箸は古びている。
私は何も言わず、黙ってそこに座った。冷めた食事を口に運びながら、隣の部屋から聞こえてくる家族の笑い声に耳を傾ける。
「今日は天気がいいから、庭で遊ぼう」
弟の一人が、はしゃいだ声で言った。
「そうね。お父様も一緒に来てくださる?」
母の優しい声が続く。
私は一人、冷たい食事を食べ続けた。
食事を終えて部屋に戻ると、庭が見える小さな窓の前に立った。春の花が咲き誇る庭で、弟たちが楽しそうに遊んでいる。母がその様子を優しく見守っていて、時折笑い声が聞こえてくる。父も仕事の手を休めて、庭に出てきた。弟たちが父に駆け寄り、抱きつく。
私だけが、その輪の外にいる。
ふと、ある考えが頭をよぎった。もし私がいなくなったら、家族は楽になるのだろうか——そう思った瞬間、胸が苦しくなった。けれど同時に、それが真実なのだとも感じていた。私は家族にとって、重荷でしかない。存在しないはずの人間が、ここにいること自体が間違っているのかもしれない。
けれど、死ぬことすら許されない。天命帳に死の運命が書かれていない以上、私は生き続けるしかないのだ。どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、ただ生きるしかない。終わりのない苦しみを、永遠に背負い続けるしかない。
◇
満月の夜、私は決意した。
自分の運命を、この目で確かめたい——そう思った私は、誰もいない時間を狙って天命殿へ向かった。夜の屋敷は静まり返っていて、私の足音だけが廊下に響く。月明かりが窓から差し込んで、床に青白い光を落としている。
警備は厳重だったが、「存在しない女」である私に気づく者はいなかった。影のように壁際を歩き、見張りの目を避けて進んでいく。見張りの兵士が二人、門の前に立っていたが、彼らは退屈そうに欠伸をしているだけだった。私はその脇をすり抜けて、天命殿の敷地に入った。
天命殿の扉を開けると、静寂が私を迎えた。松明の明かりだけが、祭壇を照らしている。そこに鎮座する巨大な天命帳が、まるで生き物のように存在感を放っていた。革装丁の表紙は古く、長い年月を経た重みを感じさせる。金の装飾が月明かりに反射して、鈍く光っている。
私は恐る恐る近づいた。一歩、また一歩と、祭壇に近づいていく。心臓が激しく鳴っていて、自分の鼓動が耳に響く。
そして天命帳の前に立ち、ページをめくり始めた。重い表紙を開くと、無数の名前と運命が記されている。一人一人の人生が、ここに刻まれている。生まれてから死ぬまで、全てが文字として残されている。
私は自分の名前を探して、ページをめくり続けた。白峯家の項目を見つけて、家族の名前を確認する。父の運命、母の運命、弟たちの運命——全て、細かく書かれている。
そして、自分の名前を見つけた。
白峯・小夜——その下には、何も書かれていなかった。真っ白なページが、ただそこにあるだけだった。他の人々のページにはびっしりと文字が書かれているのに、私のページだけが空白だ。まるで、最初から存在していないかのように。
私は震える手を、そのページに置いた。もしかしたら、触れることで何か変わるかもしれない——そんな淡い期待を抱いていた。もしかしたら、文字が浮かび上がってくるかもしれない。もしかしたら、私にも運命があるのかもしれない。
その瞬間、天命帳が激しく反応した。
風もないのにページが激しくめくれ、無数の文字が浮かび上がっては消えていく。光が走り、空気が震える。私の手が弾かれて、身体ごと後ろに飛ばされた。背中から床に倒れ込み、激しい痛みが全身を襲う。
床に倒れ込んだ私は、痛みを堪えながら天命帳を見上げた。あの書物は、私を拒絶している。世界そのものが、私の存在を認めていない——そう感じた瞬間、涙があふれてきた。
「……触るな」
闇の中から、低い声が聞こえた気がした。男の声だった。けれど振り向いても、誰もいない。松明の明かりが揺れているだけで、神殿には私一人しかいなかった。
私は泣き崩れたまま、しばらくその場を動けなかった。身体中が痛くて、心も痛くて、ただ泣くことしかできなかった。涙が床に落ちて、小さな染みを作る。
どれくらいそうしていただろう。やがて涙も枯れて、私はゆっくりと立ち上がった。身体中が痛むが、それでも立たなければならない。ここにいるところを見つかれば、さらに酷いことになる。
私は天命殿を後にして、屋敷へと戻った。誰にも見つからないように、静かに、静かに。部屋に戻ると、寝台に倒れ込んだ。身体の痛みよりも、心の痛みの方が大きかった。
◇
翌朝、私は父の前に引き出された。
使用人が部屋に来て、荒々しく私を起こした。寝台から引きずり降ろされ、廊下を歩かされる。抵抗する力もなく、ただ引かれるままに歩いた。
白峯家当主の間には、父だけでなく母や弟たちも揃っている。全員が私を冷たい目で見つめていた。部屋の空気が重く、息苦しさを感じる。
「貴様、昨夜天命殿に侵入したそうだな」
父の声は怒りに満ちていた。私は何も答えられず、ただ俯いているしかなかった。膝が震えて、立っているのがやっとだった。
「何をした。天命帳を汚したのか」
「私は、ただ自分の運命を——」
「黙れ」
父の怒声が、部屋中に響いた。私は思わず身体を竦ませる。
「お前には運命などない。それを何度言えばわかるのだ。天命帳は神聖なもので、お前のような穢れた存在が触れていいものではない」
母も冷たく言い放った。
「この子は、本当に災いしか運ばないのね。生まれた時から、ずっと」
弟の一人が、小さな声で呟いた。
「姉さんがいなければ、僕たちはもっと幸せだったのに」
もう一人の弟が、それに続く。
「そうだよ。姉さんのせいで、僕たち白峯家は笑い者なんだ」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。私は何も言い返せなかった。言い返す言葉も、言い返す資格もない。
やがて、中央写命家からの返答が届いた。使者が持ってきた書状を、父が広げる。部屋の全員が、その内容に注目していた。そこには簡潔な命令が記されていた。
白紙の女を、処刑せよ——と。
その文字を見た瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。清雅様が、私の死を命じた。かつて優しい言葉をかけてくれた、あの方が。私を「余白」だと言ってくれた、あの方が。
「三日後に処刑する。それまで牢に入れておけ」
父の命令により、私は二人の兵士に両腕を掴まれた。抵抗する力もなく、ただ引きずられるように廊下を歩かされる。屋敷の地下へと続く階段を降りて、暗い牢へと連れて行かれた。
牢の扉が開けられ、私は中に押し込まれた。扉が閉まる音が響き、鍵がかけられる。兵士たちの足音が遠ざかっていって、やがて完全な静寂が訪れた。
◇
暗くて狭い空間に、私は一人取り残された。
湿った空気が肌に纏わりつき、遠くで水の滴る音が聞こえる。壁は冷たく、床も冷たい。小さな窓から差し込む月明かりだけが、唯一の光源だった。
私は石の床に座り込んで、膝を抱えた。
三日後——その時、全てが終わる。
不思議と、恐怖よりも安堵の方が大きかった。やっと、この苦しみから解放される。もう誰にも蔑まれることはない。もう誰からも拒絶されることはない。痛みも、悲しみも、全て終わる。
けれど心のどこかで、小さな声が聞こえる——本当にそれでいいのか、と。
私は何のために生まれてきたのだろう。何のために、この十七年間を生きてきたのだろう。
誰にも愛されなかった日々。誰にも必要とされなかった時間。ただ生きているだけで、周囲に迷惑をかけ続けた人生。
それでも、ほんの一瞬だけ——清雅様が私に優しくしてくれた、あの時だけは幸せだった。あの時だけは、自分が人として扱われていると感じられた。
「君は、この世界で唯一の『余白』だ」
あの言葉が、今も耳に残っている。
余白——何も書かれていないということは、何にでもなれるということなのだろうか。それとも、何にもなれないということなのだろうか。
答えは、わからない。
わからないまま、私は消えていく。
目を閉じると、様々な記憶が蘇ってくる。五歳の時、皆の前で泣いたこと。八歳の時、教室から追い出されたこと。十二歳の時、清雅様に出会ったこと。十五歳の時、婚約したこと。そして十七歳の冬、全てを失ったこと。
全てが、走馬灯のように流れていく。
私の人生は、白紙だった。何も書かれることなく、ただ空白のまま過ぎていった。誰かに読まれることもなく、誰かに必要とされることもなく。
でも、その答えを知る前に、私は消える。
白紙のまま、誰にも読まれることなく。



