私がヒロインじゃない世界で、君は眩しい嘘をつく

「……はぁ。死ぬほど眠い」

 時刻は午前八時二十五分。私は食パンを口にくわえながら、桜の花びらが舞うアスファルトをとぼとぼ蹴っていた。
 いや、自分でもわかっている。今時、女子高生が食パンをくわえて登校するなんて、いつの時代の少女漫画だってことくらいは。
 唯一違うのは、「遅刻、遅刻〜」と言いながら無鉄砲に走っていないことくらいだろう。

「ああ、電動自転車ほしい」

 ぼやきながら歩き続けて、ふと思う。自転車に乗ったら食パンが食べられない、と。家で食べればいいのだろうが、そんな時間があるなら寝ていたいのだ。
 とまあ、これが私の日常である。
 天羽(あまは)奈々(なな)。よくある名前に、よくいるセミロングの黒髪、そして、普通の顔立ち。これと言って特徴のない高校二年生。
 趣味は、繰り返す毎日を退屈なドラマの再放送みたいに眺めること。
 いつからだろう。何を見ても何をしても、「はいはい、知ってる知ってる」という、酷いデジャヴと倦怠感に襲われるようになったのは。
 なんてセンチメンタルなことを考えても、日常は変わらないから日常なのだ。
 
 目の前の角を曲がれば、学校まで続く長い直線。
 遅刻はしたくないけど、走る気力もない。進級してからまだ五日目なのに、目新しい気持ちもない。
 そんなのでいいのか、私の青春。
 ため息をつきながら角を曲がった瞬間──視界の端で、突如誰かが飛び込んできた。
 
「……わっ!」

 ドンッ、と身体に何かがぶつかった衝撃が走る。手に持っていたはずの食パンが少し飛んだのを見送って、私は尻餅をついた。

「……いたぁ……」
「ごめん! 大丈夫!?」

 慌てた口調だったけれど、どこか軽やかさがあった。
 差し出された大きな手。見上げれば、目の前に立っていたのは、見たことのない男子だった。制服姿に少し跳ねた焦茶の髪。何より、夏の太陽みたいに眩しい笑顔。

「ごめん、急いでて! って、もしかしてパン落とした? うわあ、マジでごめん!」

 彼は私と同じ目線になるまで屈み込み、手のひらを合わせた。

「いえ……大丈夫ですから」
「いやいや、弁償させて。っていうか、あとで弁償する!」

 陽キャ──その言葉が真っ先に浮かんだ。
 私とは正反対の人種。無理に背伸びしたわけでも、頑張って明るくしているわけでもない。自然に周囲を明るくしてしまう種類の人間だ。

「俺、水無瀬(みなせ)(りょう)。よろしく」
 
 眩しいほどの笑顔が目に飛び込んできた瞬間。胸の奥で錆びついて止まっていた歯車が、かすかに回った気がした。

「……すみません、失礼します」

 私はそそくさと立ち上がって、男子を置き去りにした。
 
 あの制服は、間違いなくうちの高校のものだ。赤いネクタイをしていたから、きっと同学年。だけど名前を聞いてもピンとこなかった。
 まあ、私は男子全員の顔や名前を知っているわけではない。だから知らない生徒がいても、なんら不思議はないのだ。
 
 ──もしこれが転校生とかだったら、本当に昔の少女漫画じゃん。

 食パンをくわえながら登校する女子高生と、イケメンの転校生が曲がり角で衝突。
 そんな漫画みたいなこと、あるはずがない。しかも、この時代に、だ。仮にあったとしても、そのヒロインは私ではない。もっと明るくて、もっと可愛くて、人生をちゃんと楽しんでいる他の誰かだ。
 気にしてもしょうがない──そう思うのに、さっきの男子の顔が脳裏に引っかかってしまう。
 急ぐ気なんて全然なかったはずなのに、学校までの残りの直線はどうしてか早足になっていた。
 
 §

 遅刻ぎりぎりで入った教室は、いつになくざわめきが大きかった。

「知ってる? 転校生が来るんだって」
「聞いた聞いた、男子でしょ」

 そんな声が、あちこちから聞こえてくる。

「はい、おはよう。みんな席に着いて」

 本鈴のチャイムとほぼ同時に担任が教室に入ってきた。ざわついていた空気は、波が引くように少しずつ落ち着いていく。

「今日は、みんなに紹介する生徒が来てます」

 その一言で静まりかけた教室がまたざわめいた。
 
「転校生ですかー?」
「なんだ、やっぱりもう知ってたのか」

 担任の苦笑に、クラスの視線が一斉に教室のドアへ向く。合図と共にドアが開いた瞬間、心臓が飛び出そうなくらい大きく跳ねた。

 ──いやいや、そんな、まさか。まさか、そんなはず……。

 偶然、たまたまだ。そういうことにしておかないと、頭の整理が追いつかない。
 
「はじめまして、水無瀬遼です。これからよろしくお願いします」

 黒板の前でぺこりと頭を下げたのは間違いなく、さっき曲がり角でぶつかったあの男子だった。
 呆気に取られ目が点になっているところで、彼と視線が合う。何事もなかったみたいに、彼はにこりと微笑んだ。
 
 もし私が漫画のヒロインならば、「あー、今朝の!」と椅子から跳ね上がっていることだろう。
 でも、私は違う。何も言わず、目を逸らすだけだった。彼も彼で深く追及することもなく、用意された席へと向かう。
 隣の席になることもない。特別なイベントが起きるわけでもない。
 だって私は、ヒロインじゃない。だからここからコメディが、ましてやラブなんて始まるはずがないのだ。
 私は大きくため息をついた。いったい神様は、どんな手違いを犯したのだろうか。

 §

 昼休み。
 購買前はいつも通りの混雑で、私は人の流れに押されるようにして列の最後尾に並んでいた。

 ──メロンパンにしよう。

 今朝、手から飛んでいった食パンの代わりを欲していたのかもしれない。まあ、それを抜きにしても私はここのメロンパンが好きだから、パンを買うときは大体メロンパンになるのだけれど。
 ぼんやり順番を待っていると、ふいに背後から聞き覚えのある声がした。
 
「あ、やっぱり」

 振り返ると、そこにいたのは水無瀬遼だった。朝と変わらず無駄に明るい表情で、手にはすでに購買のパンを四つと、ミルクティーのペットボトル持っている。
 彼のすぐそばには、同じクラスの男子が数人。肩を並べて笑い合っていて、転校初日とは思えないほど自然に溶け込んでいる。すぐに自分の場所を作ってしまうタイプの人間だ。
 
「奇遇だね、天羽」
「……あ、はい」

 名前を呼ばれたことに、少しだけ驚いた。クラス名簿でも見たのだろうか。そう考えれば、別に不自然じゃない。
 実に陽キャらしい距離の詰め方、というだけの話だ。

「今朝のパンの件さ、気になってて」

 そう言って彼は手にしていた袋を軽く揺らした。中身はメロンパン二つと、惣菜パンが二つ。
 
「私は……気にしてませんから」
「いや、俺が気にするの」

 そう言って、彼は私にメロンパン一袋とミルクティーを差し出した。

「弁償。プラス慰謝料」
「慰謝料って……」

 思わず突っ込みそうになって、やめた。
 代わりに小さく首を振る。

「本当に、大丈夫です……」
「だめ。俺の気が済まないから」

 あっさり言い切られて返す言葉を失う。そのやり取りを、彼の隣にいた男子たちが「なんだなんだ?」と面白そうに眺めていた。

「なになに、ナンパ?」
「うるさいな」

 彼は笑いながら軽く手を振って追い払う。その仕草ひとつで場の空気が和らぐのを、私はぼんやりと見ていた。
 こういうところが私とは決定的に違う。

「買う手間も省けるでしょ。俺、天羽が受け取ってくれるまで退()くつもりないよ」

 冗談めいた口調なのに、どうしてか本気のようにも見える。周囲の視線も集まり始めていて、ここで押し問答を続けるのも居心地が悪かった。
 
「……ありがとう、ございます」

 結局、押し切られる形でパンを受け取った。袋越しに伝わる温もりに、胸がわずかにざわつく。
 
「どういたしまして」

 彼は満足そうに笑って、仲間のほうへ戻っていった。振り返ることもなく、すぐに笑い声の中心に溶け込んでいく。
 私はその背中を見送りながら、手の中のパンを見下ろした。

 ──メロンパンだ……。

 購買には何種類もパンが並んでいるのに、彼が弁償として選んだのは、私が好きなメロンパン。

 ──私の好きなもの、知ってる……?

 胸の奥に小さな引っかかりが残る。だが、すぐに否定した。
 特別なことなど何も起きていない。思い過ごしだ。
 ただの弁償。ただの会話。ただのクラスメイト。
 そう思ったとき、胸の奥の歯車がまたひとつ軋んだ気がした。

 §

 放課後。
 教室の喧騒を抜けて昇降口へ向かうと、下駄箱の前で足が止まった。

 ──あ……。

 視線の先にいたのは、水無瀬遼だった。彼もこちらに気づいたようで、ぱっと華やかな笑顔を見せながら手を振ってくる。

「天羽」
「……どうも」
「一緒に帰ろ」

 あまりにも自然な調子で言われて、一瞬思考が追いつかなかった。

「……え?」
「パンの件。ちゃんと最後まで責任取りたいから」

 最後までって何だろう。メロンパンにミルクティーまでもらって、あれで帳消しじゃなかったのだろうか。
 首を傾げている間に

「ほら、早くしないと混むよ。帰宅と部活ラッシュ」

 と急くように言って、彼はさっさと自分の靴に履き替えてしまう。
 
「ちょ、ちょっと……」

 断るタイミングを完全に逃したまま、私は彼の後ろについて昇降口を出た。半ば引っ張られるようなかたちだったが、直接腕を掴まれたわけではない。
 なのに、不思議と断る気にはなれなかった。

 
 校門を出て、少し離れた彼の後ろを歩く。
 夕方の風はまだ少し冷たくて、桜の花びらが歩道の隅に溜まっていた。遠くから、部活の掛け声らしきものが聞こえる。
 
 彼の足取りは軽快だった。まるで私の帰り道を知っているかのように迷いがない。そして強引に誘ったわりに、彼から話しかけてくることもない。
 半歩前を歩く彼の横顔からは、持ち前の明るさが消えていた。どこか切なそうに見えてしまう──のは、きっと傾きかけた夕日のせいだろう。

 しばらく歩き続けたけれど、この沈黙がだんだん気まずくなってきて、結局私のほうから口を開いてしまった。
 
「……水無瀬くんちも、こっちなんだね」
「俺? 俺んちは反対方向だよ」
「……え」

 思わず足が止まる。彼も気づいて振り返り、きょとんとした顔で首を傾げた。
 
「あー、気にしないで。ちょっと用事があってさ」

 あまりにも軽い言い方だった。視線が一瞬、私から逸らされる。
 
「用事……?」
「うん。ついで」

 いったい何のついでなんだろう。そもそも、その“ついで“に私を選ぶ必要がどこにあるのだろう。
 喉まで出かかった疑問を私は飲み込んだ。
 別に追及するような間柄じゃない。ただのクラスメイトで、たまたま昇降口で一緒になっただけだ。

 そうしてまた、会話もないまま歩き続ける。
 
「じゃあ、ここで」

 少し先の角で彼は足を止めた。
 家から目と鼻の先の場所だ。やはり彼は、私の家を知っているんじゃないか──そんな考えが、頭をよぎる。

「また明日」

 そう言って、彼は小さく手を振る。そして今来た道を戻るみたいに、反対方向へ歩き出した。

 ──考えすぎに決まってる。
 
 私はその背中を見送りながら、胸をかすめた小さな違和感をやり過ごすことにした。

 §

 桜はいつの間にか散り散りになっていて、代わりにしとしとと雨が降り注ぐ日が増えていた。
 
 彼が転校生だと騒がれていたのは最初の数日だけだった。水無瀬遼は、気づけば前からこのクラスにいたみたいに馴染んでいる。
 誰とでも話して、笑って、名前を呼ばれ、呼び返す。休み時間に席を立てば自然と人が集まり、彼はその中心にいる。
 転校生だったことすら忘れられ始めていた。

 それなのに。
 クラスでの私は相変わらずだった。
 一年生のときから、話しかけられることも避けられることもない。そこにいるだけの存在。
 だから、そんな私の隣に水無瀬遼がいるのは、どう考えても不自然だった。

「え、また一緒に帰ってる」
「仲いいよね」
「遼くんって、ああいうタイプが好きなの?」

 ひそひそとした声が耳に入る。興味と関心と、ほんの少しの悪意。
 私は、その視線が苦手だった。
 だってそんなの、私自身が一番わかっている。水無瀬遼みたいな人が私に構う理由なんて、どこにもないのだ。

 それに放課後だけじゃない。
 朝の「おはよう」だって、昼休みだって机に突っ伏していると当たり前みたいに声をかけてくる。

 ──どうして……。

 どうして、よりによって私なんだろう。
 明るくて、友達もいて、誰とでも笑って話せる人。クラスには、もっと話しやすくて、可愛くて、似合う相手がいるはずだ。
 私と一緒にいることで、彼の評価が下がるかもしれないのに。水無瀬遼は気にする様子もなく、当然のように私の隣にいる。
 その違和感が胸の奥にふつふつと溜まっていった。

 §
 
 それから数日後の放課後。
 いつものように、下駄箱の前に水無瀬遼がいた。待ち合わせをしたわけでもない。私が昇降口に向かう頃には、なぜか彼もそこにいる。

「帰ろ」

 それだけ言って彼は歩き出す。私も断りきれず、磁石に引かれるみたいに隣に並んでしまうのだった。

 梅雨明け前の空は、どんよりと重かった。
 二人だけの帰り道。彼は学校にいるときと打って変わっておとなしくなる。口数も少なく、並んで歩く足音だけがやけに耳につく。
 胸に溜め込んでいたものは限界まで膨らんでいた。このまま何も言わずに歩き続けるのにも、耐えられなくなっている。
 ぐっと息を詰め、私は意を決して彼に訊ねた。

「……どうして、私と帰るの?」
「ついでだよ」

 即答だった。作り物のような完璧な笑顔で、にこりと微笑んでいる。

「嘘だよ……いつも角で別れたら、すぐ戻ってるじゃん。それに、こっち方面に帰るの私だけじゃないし……」

 自分でも驚くくらい言葉が止まらなかった。溜まっていたものは言葉となって、雨のように(こぼ)れ落ちていく。
 彼は少しだけ歩く速度を落とした。視線は前を向いたまま、ひとつ息を吐く。

「……そう。ついでじゃないよ」

 ぽつりとこぼした彼は足を止めて、こちらへ振り返った。

「俺、天羽と帰りたいんだよね」
「……は!?」

 間抜けな声が出た自覚はある。それくらい唐突だった。

「そんな驚く?」
「驚くに決まってるよ……!」

 心臓が急激にうるさくなる。落ち着かなくて、視線の置き場が見つからない。私は無意味に足元を見たり、曇った空を見上げたりしていた。
 彼は一瞬だけ言葉に詰まったようにしてから、「……だよな」と小さく笑った。

「俺、天羽ともっと仲良くなりたくてさ。なんか、放っておけないっていうか」
「……同情してるの?」
「違う」

 また即答だった。だけど、今度はさっきみたいな軽い微笑みじゃない。真剣で、どこか苦しそうだった。

「同情とか、そんな安っぽい理由じゃない」

 一歩だけ距離を詰められる。触れられない。手は届かない。けれど、息がかかりそうなほど近くに感じられた。

「じゃあ……なに?」

 問いかけると、彼は少しだけ肩をすくめた。

「天羽のことが気になるから、じゃダメ?」
「……水無瀬くんって、こういうの慣れてそう」
「ひど」

 軽く眉を寄せて、彼はひとつ笑いを落とす。

「じゃあ、慣れてそうついでにお願い」

 彼の目の色が変わる。逃げ道を塞ぐみたいに、視線がまっすぐ向けられた。

「俺のこと、『遼』って呼んで」
「なんで……急に……」
「天羽には、水無瀬じゃなくて遼って呼んでほしいから」

 理由になっていないのに、不思議と拒む気は起きなかった。
 
「……遼、くん」

 彼の名前が、すんなり口から出ていた。さすがに呼び捨てなんてできやしなかったけれど。でも、自分でも驚くほど、その名前を呼ぶことに抵抗がなかった。
 彼は、ほっとしたみたいに笑った。
 
「うん。今は、それでいいや」

“今は”という言葉に、小さな引っかかりを覚える。私が呼び捨てにする日が来るのを、当たり前みたいに想定しているのだろうか。

「じゃあ、また明日」

 手を振った彼は、いつもの角で踵を返していく。私はこの日初めて、水無瀬遼──ではなく、遼くんの背中を見送った。

 §

 夏休み前は、雨が多くてうんざりする。
 雨は嫌いだ。
 理由を聞かれても、うまく答えられない。強いて言うなら、雨音に包まれていると、どうしてか胸がざわざわして落ち着かなくなるから、だろうか。
 理由を探ろうとすると、頭の中が霧がかってしまう。映しちゃいけないものにモザイクがかかるような感じだ。

 昇降口を出た途端、湿った空気が肌にまとわりついた。いつの間にか雨が降り出していたらしい。
 
「また降ってきたな」

 そう言って、遼くんは傘を広げながら昇降口を出る。

「気をつけて帰ろうな」

 振り返った微笑みに、ちくりと頭に痛みが走った。

 ──前にも……こんな感じ、あった気がする。

 よくある既視感。珍しいことではない。なのに、どうしてか今日のそれは胸に引っかかって全然離れなかった。既視感の元を辿ろうとすると、頭の奥がじんと鈍く(うず)く。
 私は振り払うように小さく首を振った。
 雨のせいだ。そう、きっと雨のせい。音が多すぎて、余計なことまで考えてしまうせいなんだ。
 傘を広げて、遼くんの隣へと足を向けた。

 並んで歩きながら、遼くんは何度もスマホに視線を落としていた。
 ちら、と見てポケットにしまう。それから一分も経たないうちに、またスマホの画面を覗く。特に操作はしていない。時間だけを見ているような仕草だった。
 
「なにかあるの、スマホ」
「え? あ、いや」

 一拍遅れて彼は笑う。
 
「天羽、足元滑りやすいから気をつけてね」
「……どうしたの、急に?」
「ほら、この雨だしさ」

 そう言いながら、ほんの少しだけ歩幅を合わせてくる。傘がぶつかるか、ぶつからないかの曖昧な距離。

 一緒に帰るようになって、もう数か月が経つ。
 私の中にあった警戒心や戸惑いは、いつの間にか形を失っていた。その代わりに、理由のわからない安心感と、前にも感じたことがあるような心の温もりを抱くようになっていた。
 
「私が雨なんかで転ぶと思う?」
「全然。俺のほうが転ぶ可能性高い」
「じゃあ遼くんも、滑りやすいから気をつけてね」

 くすくすと軽く笑い合う。そんな、どうでもいい会話。でも確かに、二人だけの会話だった。

 やがて、いつもの交差点が見えてくる。雨に濡れたアスファルトが信号の光を滲ませていた。
 横断歩道が青に変わっても、遼くんはすぐには動かなかった。

「……青だよ?」
「うん、あとちょっと待とう」
「なにそれ、おまじないか何か?」
「まあ、そんな感じ」

 変なの、と思いながらも、それ以上は聞かなかった。
 青信号の残り時間が半分を切ったころ。遼くんはスマホをちらりと見やって、にっこりと笑った。
 
「よし、行こ」

 彼は白線の上を選ぶように歩き出す。
 水たまりを避けるちょっと無邪気な背中に、思わず笑みがこぼれた。
 どんなおまじないだったのか、渡りきったら聞いてみよう。そう思って、私は一歩踏み出した。
 その瞬間、横殴りの突風が吹き上がった。
 
「……わっ」
 
 傘が裏返る。手元を取られ、視界が一瞬、天を仰いだ。反射的に、足が止まる。

「……天羽!!」

 名前を呼ぶ声を掻き消すように、耳をつんざく大きな音が鼓膜を震わせた。

 ──え……。
 
 アスファルトの摩擦音、目のくらむライト。
 それが止まらないものだと気づいたときには、全身に痛いほどの熱が走っていた。傘が、あのときの食パンよりも、ずっとゆっくりと空を舞っていた。
 地面がぐらりと揺れる。
 視界の隅、最後に映ったのは遼くんの顔。
 目前で起きた事故に驚いた顔じゃない。絶望に(ゆが)みながらも、なにかを覚悟したような遼くんの顔だった。

 §

「……はぁ。死ぬほど眠い」

 時刻は午前八時二十五分。私は食パンを口にくわえながら、桜の花びらが舞うアスファルトの上をとぼとぼと蹴っていた。
 いや、自分でもわかっている。今時、女子高生が食パンをくわえて登校するなんて、いつの時代の少女漫画だってことくらいは。
 唯一違うのは、「遅刻、遅刻〜」と言いながら無鉄砲に走っていないことくらいだろう。

「あー、電動自転車欲しいなあ」

 ぼやきながら歩き続けて、ふと思う。前にもこんなことを考えながら、この道を歩いていた気がする、と。
 目の前の角を曲がれば、学校まで続く長い直線。
 遅刻はしたくないけど、走る気力もない。進級してからまだ五日目なのに、目新しい気持ちもない。
 ため息をつきながら角を曲がろうとした瞬間、ふっと食パンが宙を舞う映像が脳内に流れてきた。

 ──またデジャヴ?

 と、いぶかしげに顔をしかめながら角に突き当たったと同時。

「……わっ!」
 
 ドンッ、と身体に何かがぶつかった衝撃が走る。手に持っていたはずの食パンが映像と同じように飛んでいくのを見送りながら、尻餅をついた。

「ごめん! 大丈夫!?」

 赤いネクタイをつけた見たことのない男子が、私と同じ目線になるまで屈み込んでいる。

 ──あれ……。

 違和感が頭の中を通り過ぎた。見たことないはずなのに、はじめましてじゃないのような気がした。
 だけど、私は全員の男子生徒の顔と名前を知っているわけではない。きっと一年のときに、廊下とかですれ違っていたのだろう。

「手、掴んで」

 その人は、私の前に手のひらを差し出した。けれど私は彼の手を取らずに、ひとりで立ち上がる。王子様みたいな仕草を素直に受け取れるほど、私は器用じゃない。
 彼は屈託のない笑顔を浮かべて、気にした様子もなく続けた。

「俺、水無瀬遼。遼って呼んで。食パンごめん、昼になったら……」
「……すみません、失礼します」

 言葉の途中で、私は逃げるように彼の横を素早く通り過ぎた。というか実際、その場から逃げたのだ。
 近すぎた。
 声も、距離も、差し出された手も──全部が出来すぎていて、息が詰まりそうだった。

 もし彼が転校生とかだったら、本当に昭和の少女漫画だ。
 だが、そんな漫画みたいなこと、あるはずがない。しかも、この時代に、だ。仮にあったとしても、そのヒロインは私ではない。
 そう、私であるはずがないんだ。
 
 §

 遅刻ぎりぎりで入った教室は、いつになくざわめきが大きかった。

「知ってる? 転校生が来るんだって」
「聞いた聞いた、男子でしょ」

 そんな声が、あちこちから聞こえてくる。

「はい、おはよう。みんな席に着いて」

 本鈴のチャイムとほぼ同時に担任が教室に入ってきた。

「今日は、みんなに紹介する生徒が来てます」
「転校生ですかー?」
「なんだ、やっぱりもう知ってたのか」

 担任の苦笑に、クラスの視線が一斉に教室のドアへ向く。合図と共にドアが開いた瞬間、心臓が飛び出そうなくらい大きく跳ねた。
 
「はじめまして、水無瀬遼です。これからよろしくお願いします」

 黒板の前でぺこりと頭を下げたのは間違いなく、さっき曲がり角でぶつかったあの男子だった。
 もし私が漫画のヒロインならば、「あー、今朝の!」と椅子から跳ね上がっていることだろう。
 でも、私は違う。何も言わず、目線を机の下に向けた。
 だって私は、ヒロインじゃない。だからここからコメディが、ましてやラブなんて始まるはずがないのだ。

「じゃあ、水無瀬の席は……」

 担任の声を(さえぎ)るように、彼は黒板の前を離れた。
 ざわつく教室の中を、迷いのない足取りでツカツカと歩く。その足は──私の机の前で止まった。
 ざわつきが一段階大きくなる。彼は気にも留めないように、一息ついて口を開いた。

「天羽奈々さん。俺と、付き合ってください」

 いったん教室が静まり返った。そして、間髪を入れず「ええー!?」と、驚きと歓声が一斉に弾ける。

 私はただ、呆然と彼の顔を見つめることしかできなかった。目の前の光景が現実だと理解するまでに、少し時間がかかったからだ。
 それでもひとつだけ、はっきりしていることがある。
 いったい神様は、どんな手違いを犯したのだろうか。