最悪の出会いが恋に変わるとき


 二人で夜景を見た昨日の夜、僕たちは仲直りをすることができた。
 でも、僕の心は上の空だった。
 だって、僕と傑はキスをしたのだ。
 しかもその場の雰囲気に流されたのではない。僕は傑とキスをしたいと思った。きっと、それは傑も同じだと思う。
(友達ってキスしないよな?)
 一つ問題が解決すると、また違う問題が出てきてしまう。
 人間関係ってやっぱり面倒くさいと、改めて感じた。
(どうやって傑と接すればいいんだ……)
 僕の頭の中はパニックだった。
 キスをしたことで、せっかく仲直りできたのに、また関係がギクシャクするのは嫌だ。
 かと言って、今まで通り普通に友達として付き合っていくことができるだろうか?
 僕の頭は色々な思いが駆け巡り、パニック寸前だ。
「数学の公式が使えたら、もっと簡単なのに……」
 そう思いながら傑の机に視線を送る。
 傑はまだ登校していないから、きっと弟を保育所に送っているのだろう。
 今までは「また寝坊かよ」と思っていた自分が情けない。
 でも、一体どうやって傑と接すればいいのだろうか? 昨日イメージトレーニングをしてきたけれど、果たして上手く実践できるだろうか。
 その時。


「おはよう」
 傑が慌てた様子で教室に駆け込んでくる。
「あ、おはよう」
 僕は何とかその言葉を振り絞る。
 本当なら「昨日はごめんね」や「綺麗な夜景を見せてくれてありがとう」と言うつもりだったのに、傑の顔を見た瞬間、言葉が詰まって出てこない。
 ただやけに傑の唇を意識して、視線を送ってしまう。
(あの唇とキスしたんだ……)
 どんどん顔が熱くなってきたから、思わず俯いた。
 それでも傑は普段と変わらず僕に話しかけてくる。昨日のキスなんて、なかったかのように……。


「あの後、お父さんに叱られなかった?」
「うん。全然大丈夫だったよ。それに門限が夜の九時に伸びたんだ」
「へぇ、よかった。でも急にどうして?」
「多分、母さんが父さんに何かを言ってくれたんだと思う」
「そっか。でもよかったね。じゃあまた今度、帰りにゲーセンに行こうよ。律の好きそうなぬいぐるみがあったんだ」
「本当に? 行ってみたい」
「うん。じゃあ俺がバイトのない日で、律の部活が早く終わる日に行こう」
「うん!」
 僕は嬉しくなってしまい、つい口角が上がってしまう。
 今まで傑のことを大型犬みたいだと思って見ていたけれど、今の自分は小さな尻尾をフリフリと振っている小型犬だ。そう思うと可笑しくなってしまう。
 昨日の出来事は恥ずかしいから、胸の奥に押し込んで──。僕はもう少し、傑と友達でいたいと感じていた。

◇◆◇◆

 数日後、その日はやって来た。
 今日は部活の顧問がいないから部活が早く終わる予定だし、傑もバイトがないって言っていた。
「きょ、今日、部活が早く終わりそうだから、傑がバイトないならゲームセンターに行かない?」
 昼休みに傑に声をかける。
 僕の心臓はドキドキしていて、今にも口から心臓が飛び出してきそうだ。
(断られたらどうしよう)
 緊張のあまり、制服のズボンをギュッと掴む。
 傑は「ちょっと待って」と少し考えてから、「うん。今日は俺もバイト休みだからいいよ」と返事をくれる。
「やったー!」と椅子から立ち上がりたくなる衝動を押し殺して、大きく深呼吸を繰り返す。
「じゃあ、部活が終わるまで、武道場の近くで待っててくれる?」
「オッケー!」
 たったこれだけの会話なのに、今日一日分の力を使い果たしてしまった気分だ。
(疲れた……)
 僕はお弁当を食べるのも忘れて、机に突っ伏したのだった。


 部活は予想以上に早く終わり、僕は帰り支度を始める。
(ゲームセンター楽しみだなぁ)
 部活中もそんなことばかり考えていて、頭がいっぱいだった。
 ぬいぐるみも欲しいけど、この前ゲームセンターを見た時には、フィギュアもたくさん置いてあった。フィギュアを部屋に飾るのも楽しそうだ。
 それにお腹が空いたら、またファーストフード店にも行ってみたい。
 僕の心はまるで羽が生えたかのように、体も軽い。
「じゃあ、お疲れ様」
 僕は誰よりも早く武道場を飛び出したのだった。


「ごめん、待たせた?」
「ううん、全然大丈夫。ゲームして待ってたから」
 武道場の階段に座っていた傑に声をかけると、にっこりと微笑みながらスマホを制服のポケットにしまっている。
 夕陽に傑の茶髪がキラキラと輝いて、とても綺麗だ。それにたくさんつけられたピアスだって、見慣れてしまえば何も感じなくなってしまう。
 僕が傑に駆け寄ると、傑も「よいしょ」と掛け声と共に立ち上がる。
 傑は僕よりかなり背が高い。それに運動神経も抜群だ。
 家庭の事情がなければ運動部に所属して、きっと活躍できたことだろう。
「じゃあ、行くか?」
「うん」
 傑に声をかけられ一緒に歩き出す。今日も傑は僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いているようだ。


 でも本当に不思議だなって思う。
 だって、僕と傑は本当に正反対なのだ。
 僕は黒髪に、制服は第一ボタンまで止めて、ネクタイもきちんと絞められている。まさに学生の模範のような生徒だ。
 それなのに、隣を歩いている傑は校則違反の茶髪に、耳にはたくさんつけられたピアス。ネクタイはだらしなく緩められ、ズボンだって今にもずり落ちてきてしまいそうだ。
 この前行われた生徒指導で、傑は先生にかなり叱られていたけれど、反省している様子なんて見られなかった。翌日、また同じような服装で登校していた彼は、相当肝っ玉が据わっているようだ。
 一度だけ「なんで校則違反をするのか?」と尋ねたことがある。
 その時は、「自分のやりたいようにやってるだけ。俺、型にはまるってことができないんだよね」と笑っていた。
 傑は、人の目を気にしないし、常に自分を持っていて、そのポリシーを曲げないという強さを持っている。僕のように、『他生徒の見本となるべき存在』と肩肘を張る必要性を感じていない。
 その強さは尊敬するところでもあるけれど、どうしてもっと器用に生きることができないのだろう、と疑問に思うこともある。
 型にはまって生きていけば、もっと楽に生きることもできるかもしれない。
 でも今は、その不器用さも彼の魅力のように思えてならない。


 正反対の僕たち。
 僕に持っていないものを持っている傑──。
 そんな傑に僕はどうしても惹かれてしまう。
 隣を見ると楽しそうに話をしている傑。
 はじめは会話すら嚙み合わないだろうと思っていたけれど、二人でいると話が尽きないくらいだ。
 不思議だな……。
 そう僕は思う。
 傑の最初のイメージは、『最悪』だったはずなのに。
 今では一緒にいることが、こんなにも心地いい。


 ゲームセンターでどんな物が欲しいとか、帰りにファーストフード店に寄ろうなんて話で盛り上がっている時、ふと背後から「傑」と彼を呼ぶ女の子の声が聞こえてくる。
「なんだ?」と僕と傑が振り返ると、一人の女の子が傑の方に向かって駆け寄ってくる。そして、そのまま傑に強く抱き着いた。
(え? 一体何が起きてるんだ……?)
 僕は呆然とその光景を見つめた。
 女の子は傑と同じ茶髪で、耳にはたくさんのピアスがついている。それに綺麗に化粧も施されていた。
 顔は良く見えないけれど、華奢で可愛らしい見た目をしている子だ。
「あ、この制服。聖光学院高校だ……」
 傑に抱き着いている女の子の制服を見て、僕は思わず息を呑む。聖光学院高校は、傑が転校してくる前にいた高校。この子は、その高校の生徒だ……。
 彼女は泣きながら傑に体を寄せる。
 僕はその光景に呆然として、足が動かなくなった。
(……もしかして、彼女?)
 そんな不安が胸に押し寄せてくる。
 傑くらいイケメンなら、彼女がいたっておかしくなんかない。彼の顔を見上げると、困惑したような表情で僕を見つめている。
 その瞬間、僕の心は不安と焦りでいっぱいになり、どうしても落ち着かない。
 これまでの楽しい時間や、温かい思い出が、一瞬で消えそうになるような恐怖が僕を襲った。
 

「その子は誰なの?」そう傑に問いかけたいのに、言葉が出てこない。
 ただ傑に抱き着いて泣いている女子を呆然と見つめていた。
 でも僕は感じる。この子と傑は住んでいる世界が同じだ──。
 僕と傑が一緒にいると違和感を覚えるけれど、この子と傑が一緒にいても不自然さを感じない。
 彼女もまた、今どきの高校生だ。
 しかもこんなに無遠慮に傑に抱き着けるのだから、きっとこの二人は深い関係だったのだろうと、簡単に察しがついた。
莉乃(りの)、ちょっと離れて。みんなが見てるし」
「だって莉乃、傑に会いたくてわざわざここまで会いに来たんだよ」
「でも、ここだと目立つから、いったん離れよう」
 そう言うと、傑は莉乃と呼んだ女の子を自分の体から離す。 
 莉乃は僕の予想した通り、とても可愛らしい顔立ちをした子だった。
「とりあえず、人目がない所に移動しよう」
「……わかった」
 傑は莉乃の腕を引き歩き始める。
 それから、僕の方を振り返った。
「律、すぐ終わらせるからちょっと待ってて」
「うん。ここで待ってるね」
「本当にごめんね」
 傑は莉乃を連れて人目のつかない所に行ってしまう。「行かないで」と引き留めたい衝動に駆られたけれど、僕にそんなことができるはずがない。


 考えてみたら、傑に彼女がいるかなんて考えたこともなかった。
 あれだけのイケメンなんだから、きっとモテることだろう。だから彼女がいたっておかしくないはずだ。
 そう思った瞬間、僕の心がズキッと痛む。
 不安の波が心の中に静かに広がっていくような、そんなイメージ。
 そう。これは嫉妬だ。僕は莉乃という子に嫉妬をしているんだ。
 二人が何を話しているのかは聞こえないけれど、莉乃が泣いているのがわかる。そんな彼女の肩に手を乗せ、優しく宥める傑──。
 僕はその光景に強い衝撃を受ける。
(傑が僕以外の奴に触るなんて許せない)
 醜い嫉妬の炎が心を焼き尽くしていく。
 嫌だ、傑をあの子に取られたくない……!


 話が済んだのか傑が僕の方に戻ってきた。
 莉乃は「傑の馬鹿!」とその場に座り込んで泣き出してしまっている。傑はそんな莉乃には構わずに「行こう」と今度は僕の腕を引いた。
(え? でも、あの子泣いてるじゃん)
 泣いている女の子を放っておいていいいのかな? と、心配になってしまう。
 僕は傑に「ねぇ、あの子泣いているよ。あのままでいいの?」と声をかけると、彼は無言のままどんどん歩いて行く。
 不安になった僕は、傑の手を振り払った。
「あの子泣いてたよ? 放っておいていいの?」
「別にいいよ。もう俺には関係ないし」
「関係ないって……」
 いつもは優しい傑の初めて見る険しい表情に、僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「なんで? どうしてあの子にそんなに冷たいの?」
「…………」
「傑ってば!」
 僕が傑の腕にしがみつくと、ようやく立ち止まる。
 いつもと違う傑に、僕は戸惑いを隠せなかった。


「あいつ、元カノなんだ」
「元カノ……?」
「そう。まだ付き合って二か月くらいだったけど」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓は嫌な音を立てて波打ち、モヤモヤとした感情が胸いっぱいに広がる。
 傑は「もう関係ない」と言ったけれど、僕の心は落ち着かない。
 身を焦がすような嫉妬心が湧き上がり、言葉にならなかった。
「なんで別れたのに、また傑に会いにきたの?」
「よくわからないけど、俺に未練があるって」
「未練?」
「俺にもよくわかんねぇよ!」
 珍しく感情を露わにする傑。彼がこんな風に怒りをぶちまけるくらいだから、彼女との間に何かがあったはずだ。
 僕には関係ない。そう頭ではわかっているけれど、心が真実を知りたいと叫び声を上げている。
 我慢ができなくなった僕は、傑に問いかけた。


「あの子との間に何かあったの?」
「別に……」
「教えてよ、傑」
 僕は傑の手をギュッと握りしめる。
 突然の僕の行動に、傑はびっくりしたような顔をしている。
 でも僕は知りたいんだ。傑とあの子の間で何が起こったかを──。
 僕が真剣な眼差しで傑を見つめると「あー、もう」と頭を掻きむしる。それから大きく息を吐きながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「俺が転校した原因は、あいつだったんだよ」
「え? どういうこと?」
 傑が言っていることが理解できず、僕は夢中でその顔を覗き込む。
「あいつ、莉乃っていうんだけど、二年の終わりの頃に向こうから告ってきたから付き合ったんだ。まぁまぁ可愛かったし、その時、付き合ってる奴はいなかったから」
 付き合っていた──。
 傑の言葉が、僕の心に突き刺さっていく。
 心が痛くて、泣きたくなってしまった。


「でも莉乃は、三年の不良グループのリーダー格の奴と付き合ってたらしくて。それを知らなかった俺は、放課後そいつに呼び出された」
「それってもしかして……」
「そう。しかもそいつは、仲間を四人も引き連れてきて、俺を取り囲んだ。莉乃は『俺にそそのかされた』って泣いているし……。本当に最悪だよな」
 少しずつ、傑が転校してきた理由が紐解かれていく。
 それは、僕にとって辛い現実を突きつけられることだった。
「五人に囲まれちまったら逃げることもできないから、仕方なく全員をボコした。そしたら、その五人の奴の中にちょっと偉い親がいてさ。全部俺が悪いことにされた」
「そんな……」
「それで聖光学院高校にいられなくなって、白陵高校に転校したってわけ」
 傑は余程イライラしているのかもしれない。地面に落ちていた石を思い切り蹴飛ばした。
「それなのに、まだ俺に未練があるから復縁したいだなんて言いやがって、本当に勝手な女だよな」
「傑は、もうその子に未練はないの?」
「当たり前だろう? あいつのせいで、三年にもなって転校させられたんだぜ? いい迷惑だよ」
 そう悔しそうに吐き出した。
 これで、僕が今まで不思議に思っていたことが一本の糸で繋がった気がした。
「傑が転校してきた理由は、女の子絡みだったんだね……」
「え?」
 つい先ほどまであんなに楽しかったのに、急激に心が凍り付いていくのを感じる。
「元カノ、か……」
 心の中がぐちゃぐちゃになって、上手く頭の中で整理することができない。


 傑は、付き合っていた子がいた。その子は莉乃といって、とても可愛らしい子だ。
 傑の話から、きっと傑は何人かの女の子と交際した経験があるらしい。
「傑の元カノは何人いるの?」
 聞いてみたいけれど、怖くて聞くことなんてできない。
 それなのに、僕は高校三年生になって初めてキスをした。
 この差を埋めることは、できるのだろうか?
 醜い嫉妬が、どんどん僕の心を侵食していく。
 傑は莉乃とは別れたんだから、もう関係ないじゃないか? という冷静な自分が、嫉妬の炎に焼き尽くされていく。


 それに、あんなに可愛い彼女がいたくせに、なんで男の僕にキスなんかしたんだよ。
 あのキスはなんだったの?
 単なる気まぐれ?
 遊び慣れていない僕をからかっただけ?
 そう考えると、自分が情けないやら、恥ずかしいやらで目頭が熱くなってくる。
 涙が溢れてきたから、慌てて制服の袖で涙を拭った。


「やっぱり僕と傑は、住んでる世界が違うんだよ」
「律、突然どうしたんだよ?」
 止められない感情の波が押し寄せ、気付けば「もう傑なんか知らない!」と叫び、彼から顔を背けた。
 目の奥が熱くなり、滲む視界の中で傑の困惑した顔がぼんやりと見える。
 僕はこの感情をどこへぶつけたらいいのかがわからなかった。
「僕みたいな優等生には、喧嘩して転校してくる奴とは釣り合わないんだよ」
「律……」
「やっぱり、僕と傑は住んでいる世界が違うんだ」
 これ以上言葉を発してはいけない。
 優しい傑を傷つけてはいけない、と思っても嫉妬の炎は簡単には消えてくれない。
「僕は生徒会の会長で、剣道部の部長。他の生徒の見本となるような生徒だ、そんな僕が、茶髪でピアスをつけてる奴と友達になるなんてやっぱり無理なんだよ」
「律、ちょっと待って」
「もうこれ以上、傑の傍にはいられない」
 僕は溢れ出しそうな涙を堪えて、律を睨みつけた。


「今まで親切にしてくれてありがとう。でもこれからは、ただのクラスメイトに戻ろう? 僕と君とは住んでいる世界が違うんだから」
 傑の言葉も、傑の元カノの涙も、何もかもが僕の心に深く突き刺さり、息もできないほどに苦しかった。
 目の前が歪み、我慢していた涙が止めどなく溢れてくる。
 もうこの場に一秒たりともいられない。
 傑の困惑した顔を見ることも、元カノの存在を感じることも、全てが僕を深く傷つけた。
 僕の心臓は嫌な音を立てて波打ち、その場にいること自体が、僕を窒息させるかのように感じられた。
 ただ、この痛みから逃れたい一心で「律!」という傑の静止の声も聞こえないふりをして、泣きながらその場から立ち去った。
「ゲームセンター、楽しみだったのになぁ……」
 夕陽が涙で滲んで、どこまでも遠く、冷たく見えた。
 
 ◇◆◇◆ 

 朝のホームルームが始まるチャイムがもうすぐ鳴ろうとしているけれど、傑はまだ登校していない。いつものように遅刻ギリギリで教室に飛び込んでくるのだろう。
 昨日あんな風に別れたまま、僕たちは何も話をしていない。
(なんて傑に声をかけたらいいんだろう)
 僕は心底悩んでしまう。
「おはよう」と何もなかったように声をかければいいのだろうか? それとも、あんな別れ方をしたのだから少し距離を置いた方がいいのだろうか?
 一晩、一生懸命考えてみたけれど、答えなんか出なかった。
 でも、よく考えてみれば傑は何も悪くない。
 寧ろ『退学』というそれ相応の罰を受けたのだ。今更僕が彼を責めるなんて、お門違いなのかもしれない。
 次の瞬間、教室のドアが開く。一瞬で空気が変わった。
 それはいつもと変わらない傑のはずだった。遅刻ギリギリで教室に駆け込んで、「危ねぇ」って、汗を拭いながら笑うんだ。
 それなのに、茶色く染め上げられた長い髪、耳につけられていたピアス──。それらがすべて傑の体から消えていた。
 短く切り揃えられた黒髪に、耳には何もつけていない。
 それはあまりにも新鮮で、清々しい姿だ。
「……え? なんで?」
 教室内がどよめき、好奇の目が傑に注がれる中、僕の心臓だけが大きく跳ねた。
 あれほど『自分』を守るように、鎧のように身に着けていた装飾を、傑は脱ぎ捨てたのだ。


『僕と傑は住んでいる世界が違うんだ』
 その言葉がきっかけで、傑は髪を黒く染め、髪も切り、ピアスも外したのだろうか? 上履きの踵だって踏まれてなんかいない。
 自分から言い出したくせに、傑が傑でなくなってしまったような気がした。
 傑は茶髪にロン毛、それに耳にはたくさんのピアス。何度も「校則違反だぞ」と注意したって「そんなに怒らないでよ」と笑顔でかわされてしまう。
 校則違反はいけないことだけれど、傑は憎み切れない。だから、つい許してしまう。そんなところが彼のいい所でもあった。 
 それなのに、僕がそんな彼の長所を壊してしまったのかもしれない。
 初めて会った、赤の他人──。
 傑を見てそう感じた僕は、泣きたくなってしまった。


 傑と目が合った瞬間、心臓の奥がギュッと締め付けられるような衝撃を感じた。
『どうしたの?』
 そんな呑気なことを聞ける状態ではない。
 僕が傑を壊してしまった。そう感じた僕は、自分を強く責め立てた。
 傑は僕を見つめたまま、少しだけ恥ずかしそうに微笑む。
 その黒髪の隙間から覗く素顔は、今まで見ていたどの表情よりもずっと正直で、僕の存在を真っ直ぐに見据えていた。
「おはよ」
「あ、うん、おはよう」
 傑はいつものように笑ってくれるのに、僕はその笑顔を直視することができずに慌てて顔を背ける。
「変、かな?」
「……え?」
「変だからって笑わないでね」
 前髪を気にしながらそうはにかむ傑の笑顔を見ていると、胸が張り裂けそうに痛んだ。


 その日は一日中、学校中がざわめいていた。
 それはそうだろう。茶髪にロン毛だった傑が、いきなり黒髪の短髪になったのだから。
 もちろん生徒指導の先生たちも驚いていたし、担任の先生は「何かあったのか?」と心配までしていた。
 更に人気のある傑は、あまりにも変貌をとげたその姿を一目見ようと、女子生徒が教室に殺到した。まるで傑が動物園のパンダになってしまったようだ。
 傑の黒髪に短髪姿を見た女子生徒たちは、「黒髪に短髪も全然あり!」「マジでかっこいいんだけどぉ!」と黄色い声を上げている。そんな女子生徒に向かって傑がヒラヒラと手を振れば、廊下中が「かっこいいー‼」と大騒ぎになった。
 僕はそんな傑をそっと盗み見る。
 今までの傑は茶髪に長い髪をハーフアップにしていた。でも今の傑は漆のように黒い髪に、すっきりとした襟足。前髪は真ん中で綺麗に分けられている。
(イケメンっていうのはどんな格好をしてもイケメンなんだなぁ……)
 などと感心してしまう。
 チャラチャラしていた傑もかっこよかったけれど、こんな風に優等生の姿をした傑もそれはそれでかっこいい。
 ただ、僕の胸はチクチクと痛み続けていた。
 これが学生のあるべき姿なんだ、と自分に何度も言い聞かせる。でもやっぱり見慣れない傑の姿に罪悪感に駆られてしまう。
 どうやって傑に接したらいいかわからず、僕はその日傑を避けてしまった。
 謝ることもできない自分が心底情けなくて……。目の前が涙で揺らいだ。


◇◆◇◆

 生徒会が終わる頃には、廊下が夕陽で真っ赤に照らされている頃だった。
 今日一日、傑は普通に僕に接してくれていたけれど、僕は傑を避けてしまった。どう傑と関わっていいのか分からなかったから。
 傑はいつものように話しかけてきてくれるのに、僕はそんな彼を素っ気なくあしらい続けた。その度に、傑は傷ついたような顔をしていたことが僕の心を締め付ける。
 何度も「僕のせいでごめんね」と言いかけたけれど、それは言葉になってはくれなかった。
「僕のせいでごめんね」
 ポツリと呟いてみたって、傑にはきっと届かないだろう。


 もうみんな下校してしまい、誰もいないであろう教室に入ろうとした瞬間、「律」と誰かに呼び止められる。その声にハッとして振り返ると、そこには傑が立っていた。
 やっぱり、黒髪で短髪の傑は見慣れない。本当に別人みたいだ。
 僕の胸がズキンズキンと痛む。
「傑……」
 僕が生徒会から戻ってくるのを待っていてくれたのだろうか? ひどく緊張したような面持ちの傑を見ただけで、僕の鼓動がどんどんと速くなっていく。
「律、ちょっと話があるんだ」
「……で、でも僕は傑と話すことなんてないよ」
「律、待ってよ!」
 僕は逃げるように自分の机のある窓際へと歩いた。
 けれど、後ろから迫ってくる足音は、以前のように上履きを引きずったようなものとは違っていた。
 背後に漂ういつも傑がつけている微かな香水の香り。
 後ろを振り返ろうとした瞬間、視界の端を彼の上着が通り過ぎ、僕の逃げ場を塞ぐように「ドン」という低い音が響いた。
 僕の心臓が跳ね上がる。
 傑は壁に両手をつき、いとも簡単にその中に僕を閉じ込めてしまう。
 背中に冷たい壁が当たった瞬間、目の前には黒く染まったばかりの、まだ少し染料の匂いが残る傑の髪があった。
 逃げようとした視線を、傑の眼差しが逃がさない。
「……俺を見て……」
 低く、震えるような声が鼓動に直接響く。
 かつての彼を象徴していたピアスも、派手な髪色も、全ては僕を繋ぎとめるための代償として捨てられたのだ。
「律の為に変わったから……」
「……え?」
「律の為に俺は変わったから。律の嫌がるものは、全部捨ててきた。……だから、もう俺を避けないで。仲直りしてよ」
 壁につかれた傑の手が、僅かに震えている。
 あんなにヤンチャだった彼が、今は僕に許しを請う、一人の男としてそこにいた。
 その必死な姿に僕の胸が熱くなる。
「お願い、許して……」
 傑の縋るような瞳に、僕は何も言えなかった。
 いつもはだらしく締められているネクタイが、今日はきっちりと締められている。そんな彼の変化に、ただただ胸が苦しい。
「もう怒ってないよ。僕のほうこそごめんね」
 僕は傑のネクタイに指を絡める。それから、そのネクタイをそっと自分の方へと引き寄せた。
「僕の為にありがとう」
 そう囁いてから、僕は傑の唇をそっと奪った。
「ありがとう。それから、本当にごめん……」 
 僕が小さな声でそう呟くと、傑は僕の髪にそっとキスをして。まるで宝物を扱うみたいに深く、優しく抱きしめ返してくれた。
 そんな傑の温もりを感じながら、僕は目を閉じて、その温もりに安心して身を委ねた。