最悪の出会いが恋に変わるとき


 季節が夏に向かう頃、三年生最後の夏の大会に向け部活がより一層盛んになる。
 僕率いる剣道部の目標は、団体で県大会優勝。もちろん僕もレギュラーを勝ち取った。
「暑い~!」 
 そう言いながら面と面手ぬぐいを外す。この瞬間がたまらなく気持ちがいい。
 夏の剣道部はとにかく最悪だ。暑いだけでなく着けている防具は臭くなるし……。でも、もうすぐそれも終わる。僕は、それがすごく寂しかった。
 武道場の時計を見るともうすぐ十九時半。これから掃除をして片付けなんかをしていると、きっとまた家に着くのは二十時ギリギリになってしまうだろう。
「急がなくちゃ」
 僕は慌てて帰り支度を始めた。
 他の部員たちはこれからみんなで、お好み焼きを食べに行くようだが、僕は門限があるため参加することができない。
 いつも「ごめんね。用事があるんだ」と断っている。それを続けていたら誰にも声をかけられなくなってしまった。寂しいけれど仕方がない。だって、僕には門限があるんだから。
「お疲れ様」
 そうみんなに声をかけてから、武道場を後にする。みんなの楽しそうな声は、聞こえないふりをした。


 走って家に向かったけれど、到着したのは二十時丁度。きっと今頃みんな、お好み焼き屋さんで楽しんでいるだろうか? そう考えると、どっと疲れが出てきてしまう。
「ただいま」
 靴を脱いで玄関に上がると、父親がリビングからものすごい勢いで僕の方に向かってやってくる。
 余程憤怒しているのだろう。顔は真っ赤だし、今にも怒鳴りつけられそうな勢いだ。
(怖い……)
 僕は無意識に後退る。これは幼い頃から身についてしまった習慣だ。
 父親は僕が優等生でなければ許せない。だから生徒会の会長にならなければならないし、剣道部では部長にならなければならない。成績だって、いつも学年トップをキープしなければならなかった。
 とにかく、常に僕は完璧を求められてきたのだ。
 しかし、この前の傑との一件があって以来、父親の監視が今まで以上に厳しくなった。
 更に、傑が転校してきたせいでテストの順位が下がってしまった。どうやらそれも気に食わないらしい。
 異常なほどに、僕の行動を監視しているような気がする。
「傑、もう二十時だぞ? 最近帰ってくるのが遅いんじゃないか?」
「それは、もうすぐ夏の大会があるから練習時間が長引いてて……」
「そんなことを言って、またあの不良と遊び歩いてるんじゃないのか?」
「違う。僕はちゃんと部活をしている。それに、傑だっていい奴なんだ!」
「なんだと? あんなチャラチャラした不良が、いい奴なわけないだろう⁉」
「そんなことない。傑のことを悪く言うな!」
 僕の言葉を聞いた瞬間、父親の表情が鬼のようになる。
 その剣幕に一瞬たじろいでしまったけれど、僕にだって考えていることはある。
 今までは大人しく父親の言うことを聞いてきたけれど、僕は変わりたい。傑のように、強くて優しい人になりたいんだ。
 でも情けないことに父親が怖くて、体が小さく震えている。
 怖い。でも、僕は変わりたいんだ。
 僕は拳を握りしめてから、父親を睨み返した。今まで、こんな風に反抗なんてしたことがない。
 だけど僕は、傑のことを悪く言われることが許せなかった。
「もういい」
「なんだと?」
「僕はいつまでも子供じゃないんだから、父さんの言うことばかりを聞いてられない」
 騒ぎを聞きつけたのか、母親が玄関にやってきて真っ青な顔をしている。「律君……」と小さな声で僕の名前を呼んだけれど、僕の気持ちは変わらなかった。
「もういい。この家から出ていくから」
「好きにしろ」
「わかった」
 僕は父親に背を向けて走り出す。
 背後から「律君」という母親の心配そうな声が聞こえてきたけれど、僕は振り返るつもりなんてなかった。


(傑に会いたい)
 目頭が熱くなって、涙が溢れ出してくる。
 傑は今日もホームルームの後すぐに帰ってしまったから、きっとバイトに行ってしまったはずだ。
 家族の為にバイトを頑張っている傑と、親に縛り付けられて自由さえない僕。
 二人のこの差が、悔しかったし、恥ずかしかった。
(僕だって、傑みたいに強くなりたいんだ)
 僕は無意識にある場所へと向かう。
 傑に会いたい一心で。
 無我夢中で走り続けた。

 
 気が付いた時には、傑がバイトしているラーメン屋の前にいた。
 傑はもう帰ってしまっただろうか?
 確認したかったけれど、飲食店に一人で行ったことがない僕は躊躇ってしまう。
(傑が出てくるかもしれないから、もう少し待とう)
 僕はその場にしゃがみ込む。
 空を見上げるとキラキラと星々が輝いている。
 昼間は蒸し暑かったけれど、夜はまだ冷え込む。僕は自分の体を抱き締めて蹲った。
(傑、早く出てきて……)
 そう願っていると──。
「ありがとうございました」という傑の声が聞こえてくる。
 僕がハッと顔を上げると、どうやら最後の客を送り出したらしく、傑が店の暖簾をしまっているところだった。
「傑!」
 僕は咄嗟にその名前を呼ぶ。
 会いたくて仕方がなかった傑が、今目の前にいる。
 僕は思わず傑の元へと走り寄った。
「律、どうしてこんな所にいるの?」
「い、家出してきた……」
「家出って……。 いつからそこにいたの?」
「三十分くらい前から」
「そんなに待っててくれたの?」
 傑が驚いたように目を見開く。
「まぁいいや。片付けがもうすぐ終わるから、もう少し待ってられる?」
「うん。待ってる」
「じゃあ、すぐ片付けを終わらせてくるからね」
「うん」
 そう言うと、傑は慌てて店の中に戻っていく。


 傑に会えた……。
 僕は嬉しくて鼓動が速くなる。
 つい先ほどまで一緒に学校にいたのに、傑に会えたことがこんなにも嬉しいなんて……。なんでだろう?
「不思議だな……」
 僕は高鳴る鼓動を抑えながら、傑が来るのを待ったのだった。

◇◆◇◆ 

「お待たせ。遅くなってごめんね」
「いや、だって僕が勝手に来ただけだし。かえって迷惑だったよね」
「そんなことないよ。ただ、来る前に連絡くれればよかったのに……」
 傑は余程僕のことが心配だったのか、いつもの笑顔が見られない。
 でも、傑に連絡をする前に、体が勝手にこの店に向かって走り出してしまったのだ。
 それなのに「傑に会いたかった」と、素直になれない自分が歯痒い。


「家出だなんていきなりどうしたの?」 
「親の束縛が辛くなった」
「まぁ、確かに高校三年生にもなって、門限二十時はないと思うけどね……」
 傑は僕の父親と違って話を否定せず、ちゃんと聞いてくれる。
 僕はそれが嬉しかった。
「親は門限、門限って言うけれど、僕はもっと傑と一緒にいたい。またファーストフード店にも、ゲーセンにも行きたい。僕は、傑ともっともっとやりたいことがあるんだ」
「そっか。それで親と揉めて家出してきたんだ?」
「うん」
「じゃあ、家出してきたのは俺のせいだね。ごめん律。律に嫌な思いさせちゃった」
「別に傑のせいじゃない! 僕が勝手に家を飛び出してきたんだ」
「でも、責任を感じるなぁ……」


 一瞬傑が困ったような顔をしたから、僕は咄嗟に彼に迷惑をかけてしまったんだと感じた。「迷惑かけてごめんね」と慌てて帰ろうとした時、傑にそっと手を握られる。
(……え?) 
 びっくりしていると、心配そうに僕を見つめる傑がいる。
 突然家出をしてきたなんて言ったから、責任を感じてしまったのかもしれない。
 逆に迷惑をかけてしまったな……と、心の中で反省する。
「もう大丈夫だから」と手を振り払おうとすると、傑が僕の顔を覗き込んできた。
「律はこれからどこに行くの? ちゃんと家に帰れる?」
「うーん……。少しこの辺をぶらぶらしたら帰るよ」
「じゃあさ」
 傑が僕の顔を見てにっこりと微笑む。それは、僕が大好きな笑顔だった。


「この前、すごくいい所を見つけたんだ」
「いい所?」
「うん。これから傑も一緒に行かない?」
「え? これから?」
「そう。少しだけ歩くけど、ついてくる?」
 僕は一瞬躊躇ってしまう。
 こんな時間に傑は一体どこに行くというのだろうか?
 ファーストフード店? それともゲームセンター?
「どうする?」
 傑に握られた手に、少しだけ力が入る。
(こんな風に誘われたら、断れるはずなんてない)
 僕は傑に向かって笑いかける。
 門限を破って父親に叱られたって構わない。
 だって、僕は傑と一緒にいたいんだから──。
「傑と一緒に行く」
「わかった」
 傑は頷きながら、いつものように微笑んだ。

◇◆◇◆

「わぁ、凄い……」
「でしょ? 丁度俺の家の裏山で、最近俺が見つけた秘密のスポットなんだ」
 あの後、僕たちは人目を避けるように、こっそりと山道を登った。息を切らしながらも、隣にいる傑の気配が心地いい。
 山頂に辿り着くと、目の前には息を呑むような絶景が広がっていた。
 街の灯りがまるで宝石を散りばめたように、先ほどよりもはるかに強くキラキラと輝いている。その一つ一つが、僕たちの秘密の光のように見えた。
 山頂に着く頃には、僕は汗だくになってしまう。頬を伝う汗を、手の甲で汗を拭った。
 それから隣に立つ傑にそっと視線を送る。彼の横顔に見惚れて、心臓がトクンと高鳴った。
 まるで時間が止まったかのように、この瞬間のドキドキが永遠に続けばいいのに……と、心から願った。


 次の瞬間傑が僕の方を見てクスッと笑う。なんだ? と思い目を丸くしていると、「律、汗びっしょりかいている」と笑っている。
 それから僕の前髪をクシャッと掻き上げた。
「額から汗が垂れてる。ほら、こっち向いて」
「え?」
 傑は鞄からタオルを取り出すと、僕の頭を優しく拭いてくれる。
 タオルから香る優しい柔軟剤の香りが僕の鼻腔を擽り、心臓が大きく鼓動した。
 じわじわと、その温かさが心の奥まで染み込んでいく。
 そのドキドキする感覚が胸いっぱいに広がっていった。
 このまま時計の針が止まってしまえばいいのに……。門限さえなければ傑とずっと一緒にいられるのだから。
 僕は、ずっとずっと傑と一緒にいたい。
 多分、それは、僕が傑のことを……。


「ここに連れてきてくれてありがとう」と伝えようとした時、傑が静かに話し出す。
 僕はその耳障りのいい声に、耳を傾ける。
「律、ありがとう」
 なんだよ、それ。僕が今、言いたかった言葉だったのに……。
「俺はこんな見た目だから、みんな怖がって近寄ってこなかった。でも律は違う。ご両親と喧嘩をしてまで、俺と一緒にいてくれようとしてくれる。俺はそれがすごく嬉しい」
 傑の言葉が僕の胸に突き刺さる。


『最悪だ』


 僕も傑を見た瞬間、そう思ってしまった。
 茶髪にピアスなんて、絶対にろくでもない奴だと、決めてかかってしまったのだから。
 でも今は違う。だって、僕は本当の傑を知っているから。
 たった今、『最悪』が違うものに形を変えようとしている。
 ゆっくりと、ゆっくりと……。
「このまま時間が止まっちゃえばいいのにね」
 あ、また僕が言いたいことを言われちゃった。
 傑、ずるいよ……。
 僕たちは手を繋いだまま、目の前に広がる夜景を見つめる。
 傑の長い髪がサラサラと揺れる。そんな光景もとても綺麗だ。
 この光輝く宝石は、僕たちの宝物。この光景を、僕は心の中に焼き付ける。
 僕は傑の手を握る手に、ギュッと力を込めた。
「傑、ここに連れてきてくれてありがとう」
「ううん。また一緒に来ようね」
「うん」
 傑の手は、大きくて、温かくて、とても優しい。


「律」
 ふと傑が僕の名前を呼ぶ。「なに?」と僕が傑の顔を見上げると、彼の優しい瞳と視線が絡み合う。
 次の瞬間、傑の顔がゆっくりと近づいてきて、温かい唇が僕の唇にふわりと触れた。
(……あ)
 柔らかくて、甘い感触。
 それは、僕にとって初めてのキスだった。
 あまりに突然の出来事に、僕の心臓は高鳴り、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
 まるで時間が止まったかのように、この瞬間のドキドキが永遠に続けばいいのに……と、心から願った。
 そしてもう一度、柔らかく唇が重なる。
「あ、ふ……ッ」
 今度のキスは、さっきのキスより少し長くて、胸が甘く締め付けられる。
 今の僕は生徒会の会長でも、剣道部の部長でも、成績が学年トップでみんなの模範となるような生徒でもない。
 もうそんな地位や名誉なんて、この夜景の前では、ちっぽけなもののように感じられた。
 夜景の輝きも、傑の存在も、全てが僕を満たしていく。
「ここは俺と律の秘密の場所だね」
「うん」
 二人で見つめ合って笑う。
 なんて穏やかな時間なんだろう──。 


 この日僕は初めて門限を破った。
 その罪悪感で、胸のドキドキが止まらない。
 でもこの胸の高鳴りは、きっと門限を破ったことだけが原因ではないだろう。
「恋、なのかな……」
 優しい笑みを浮かべながら夜景を見つめる傑の横顔に、僕はそっと問いかけた。