最悪の出会いが恋に変わるとき


 「なんだ、これ……」
 朝登校すると、中間テスト前の英語と数学の小テストの結果が昇降口に貼り出されていた。
 それを見た僕は唖然としてしまう。
 驚いているのは何も僕だけではない。学校全体がまるで地震が起きたかのようにざわめいているのだ。
 女子たちは嬉しそうに「すごぉい!」と黄色い声援をあげている。
 三年生の英語の一位、冴木傑。数学の一位、冴木傑。
 僕は信じられなくて、何度も自分の目を擦る。でもいくら目を擦っても、テストの結果は変わらない。英語、数学共に傑が学年一位だ。
 ちなみに、僕は英語が四位で、数学が二位。完全に傑に負けてしまっている。
「なんだよ、これ……」
 この結果を見た戸田が、呻き声に近い声をあげている。でも、この結果を見た生徒全員が驚いていることは確かだ。
 確かに傑は一組に転校してきたし、偏差値の高い聖光学院高校から転校してきたとは言っていた。
 だからって、あの茶髪にピアスの傑が学年一位になるなんて。
 傑のせいで順位が落ちた戸田は「心外だ」、とばかりに怒っている。でも順位が落ちたのは戸田だけではない。
 傑がいなければ、僕は数学で一位だったはずだから。
(傑、いつ勉強してたんだ?)
 僕の中に湧き上がってきた思い。
 彼は普段授業を真剣に受けていない。
 でも午後のホームルームが終わると、誰よりも早く教室を後にする。
(もしかして、塾に通っているとか……?)
 いくら考えたって答えが出るわけがない。


 悶々としながら教室に向かうと、案の定傑はまだ来ていない。
 今日も遅刻ギリギリだろうと思っていると、始業のチャイムが鳴るのと同時に傑が教室に駆け込んでくる。
 きっとこの勢いでは、昇降口に貼り出されていた、小テストの結果なんて見てもいないだろう。寧ろ彼の性格的に「テストの結果なんて気にならない」と言った方がいいのかもしれない。
 いつものように遅刻寸前で登校してきた傑に「おはよう」とだけ声をかける。
「あ、おはよう。今日もギリギリだった。あぶねー!」
 あんな酷いことを言ってしまった僕にも、傑は普通に接してくれる。
 そんな傑に、僕は恐る恐る小テストの結果のことを聞いてみた。
「ねぇ、昇降口にこの前の小テストの結果が貼り出されてだんだけど……。傑、見た?」
「え? 小テスト? そんなのやったっけ?」
「やったよ。一週間位前に。傑、英語も数学も一位だったよ」
「へぇ。見てないからわからないや」
 テストの結果なんて全く興味がなさそうな傑。
 その姿を見ると、余計気になってしまう。
(きっと傑には、何か秘密があるはずだ)
 僕の心の中に、にょきにょきと好奇心の芽が生えてくるのを感じる。
(きっと、放課後に秘密があるに違いない)
 そう確信する。
 幸い、今日は部活が休みの日だ。
 傑には申し訳ないけれど後をつけて、彼が放課後何をしているか調べてみよう。
 僕はその作戦を実行することを、心に決めたのだった。

◇◆◇◆

 いつも通りホームルームが終わると同時に、傑は「じゃあ、律。また明日ね」と教室を後にする。
 僕も「また明日」と声をかけたものの、僕は作戦を実行しなければならない。
 これから傑の後をつけて、放課後彼が何をしているのかを徹底的に調査するのだ。
(ごめん、傑)
 心の中で傑に謝罪する。いわゆる尾行という行為が、どれだけ酷いものかなんて承知はしている。
 でも僕は知りたい。
 多分、これが他の生徒だったら、これほどまでに執着しなかっただろう。でも相手が傑だから……。僕は、傑の全てを知りたいと思ってしまう。
 口では「関わらないでほしい」なんて言ったくせに、本当は傑のことが気になって仕方がない。
 できることなら、今すぐにでも傑と仲直りがしたいんだ。
 でも、父親や戸田の言葉を思い出すと「やっぱり傑と仲良くしたいんだ」なんて言えるはずがない。
 だからこうやって傑の後を追いかけることしかできない。


 僕は生徒会の会長で、剣道部の部長。そんな地位や名誉を誇りに思って生きてきた。
 でも傑に出会って、僕は変わってしまう。
 今の僕は臆病者で、意気地なしだ。
 傑の前だと素直になれない。
 でも、彼のことをもっと知りたい。
 だけど、意気地なしの僕にはそれができない。
 僕の心の中は、まるで水性の絵の具を混ぜた時のように、ぐちゃぐちゃだった。


 傑の後をつける──と言っても、傑は僕より十センチ以上身長が高いし、足も長い。
 彼は歩いているつもりでも、僕にとってはマラソンだ。いくら剣道部で鍛えているからと言って、もうかれこれ何十分も走り続けている。
 そう考えると、傑はいつも僕の歩幅に合わせて歩いてくれていたんだな、と思い知った。
 傑はこの前行ったファーストフード店を過ぎて、駅の前を通り過ぎ、商店街に入って行く。
(どこまで行くんだ……)
 僕は肩で息をしながら、傑を追いかける。
 こんな商店街に塾があるはずもないし……。僕の頭の中は「(クエッションマーク)」だらけになってしまう。
 飲食店が軒を連ねている場所に差し掛かった時、僕は傑の姿を見失ってしまう。
 慌てて傑を探したけれど、どこにも見当たらない。
(どこに行ったんだろう)
 ここまで来て見失ってしまうなんて……。僕は途方に暮れてしまった。
 当てもなく商店街をうろうろしていると、暖簾を持った傑がラーメン屋から出てくるところを見つける。
 そのラーメン屋はつい数年前にオープンした、若者向けのお洒落なお店だ。
 僕はまだこの店に入ったことはないけれど、友人が「凄く美味しいラーメン屋」だと言っていたことを思い出す。
 暖簾を出すとすぐに客が店の中に入って行き、「いらっしゃいませー!」と傑は実に堂々とした姿で客を迎え入れている。
 僕は、その姿に見惚れてしまった。
 遠くから見ているだけでも、そのプロフェッショナルな雰囲気が伝わってくる。まるで長年この店を切り盛りしてきた店主のような、完璧な「ラーメン屋」の姿がそこにはある。
 僕は声もかけずに、ただその姿を見守っていた。


 しばらく店の様子を外から眺めていると、お客が次から次へと店内に入って行く。余程人気な店なのだろう。
 時々傑の「いらっしゃいませ」という威勢のいい声が聞こえてくる。
 どんどん活気づいていく店を、僕は遠くから眺めていることしかできない。
(塾に行ってたんじゃないのか)
 まさか傑がラーメン屋でバイトしているなんて思っていなかった俺は、びっくりしてしまう。それと同時に、確か、白陵高校(うち)ってバイト禁止のはずじゃ……。ということが頭を過る。
 また傑は校則違反をしていたのだ。
 でも、あんなふうに頑張っている姿を見ると校則違反を責める気なんて、全く起こらない。
 何かバイトをしなければならない事情があるのだろうか? そんなことを思っていると「毎度ありがとうございました」とお客を送り出す傑が店から出てくる。
(ヤバイ!)
 と思った時にはもう遅く、茫然と立ち尽くしている僕は、一瞬で傑に見つかってしまった。


 声をかけたほうがいいのか悩んでいると、傑の方から声をかけてきてくれる。
 いつものような変わらない笑顔に、僕の体から力が抜けていくのを感じた。
「律、こんな所でどうしたの?」
「あ、いや、別にこの商店街に用があって……」
「そっか。ラーメンでも食べてく? 奢るよ?」
「え? 大丈夫だよ」
「うーん、そっか……」
 傑は何かを考えているようだ。
 店名が入った黒いTシャツに黒い前掛け、頭には赤いバンダナを巻いた傑は凄くかっこいい。茶髪にピアスが更にその恰好を引き立てて見える。
 こんな店員さんがいたら、傑目当てでこの店に通うお客さんもいるのではないだろうか?
「じゃあ、今日は早くバイトを上がらせてもらうから、ちょっと待っててよ」
「え? なんで?」
「俺ん()で夕飯をご馳走するから」
「え? でも、それじゃあ、迷惑じゃ……」
「ここから俺ん()近いからさ。ちょっと待っててよ」
「で、でも……」
「気にしないで。バイトをしていることの口止め料だから」
「そういうことなら……。わかった」
「じゃあ、またね」
 僕は断ることもできず、笑顔で手を振る傑に、手を振り返したのだった。

◇◆◇◆

 僕は商店街の壁に寄りかかり、最近読み始めた推理小説を鞄から取り出す。
 いつになったら傑のバイトが終わるのかわからなかったけど、生憎他に暇を潰すものを持っていなかった。
 でもいざ小説を読み始めたところで「傑の家に行く」という緊張から、文字が頭に入ってこない。
 それにまだ、僕たちは仲直りをしていない。
 傑にあんなに酷い言葉を投げつけたのに、彼は変わらず僕に接してくれる。
 それはとても嬉しいけれど、心苦しくもある。
(傑に謝りたい……)
 でも、喉の奥に「ごめんね」という言葉が詰まってしまったかのように、素直にその言葉を言うことができない。
「まだ仲直りもしてないのに、傑の家に行って、一体どうしろっていうんだよ」
 僕は本をそっと閉じる。
 どうしても、本を読む気持ちになれなかったから──。


 それから一時間もしないうちに傑が「ごめんね、待たせて」と僕の方へ駆け寄ってくる。「大丈夫だよ」と声をかけると、いつものようににっこりと笑う。
 そんな傑からは、ラーメンのいい香りがした。
「俺ん()こっちなんだ。少し歩くけど大丈夫? それとも待ちくたびれちゃったなら、近くのカフェで少し休むけど……」
「全然大丈夫だよ。気にしないで」
「わかった。じゃあついてきて」
「うん」
 笑いながら手招きをする傑について歩きだす。でも今度は傑が意識してゆっくり歩いてくれているせいか、僕が小走りになることはない。
(傑は優しい)
 それはいつも僕が感じていることだった。
 でも、僕がこんなんだから……。そう思うと、悔しくて泣きたくなってくる。
 そんな僕を気にすることもなく、傑は話し続ける。


「俺ん()両親が離婚して、最近引っ越してきたばかりなんだ。一軒家なんだけど、汚いからってびっくりしないでね」
「そんなことないよ! ご両親が離婚してるのに、傑は頑張ってると思う」
「ありがとう。そんな風に言ってくれるのは、律だけだよ」
 そう言うと、僕の方に向かいにっこりと微笑む。その笑顔を見ていると僕の胸がズキッと痛んだ。
 こんなにも優しい傑を傷つけてしまったなんて……。でも、今まで友達付き合いもしてこなかった僕には、仲直りのタイミングさえわからない。
 一体いつ「ごめんね」と言えばいいのだろうか?
「ここだよ。ここが俺ん()
「え? ここ?」
 商店街を抜けて少し歩いた所に、傑の家はあった。築二十年と言ったところだろうか? 僕が想像していた以上に綺麗な建物で驚いてしまった。
「ボロくてびっくりしただろう?」
「そんなことないよ。立派なお宅じゃないか」
「でも、中を見たらびっくりするかも……」
「え? どういうこと?」
「こういうことだよ」
 傑が「ただいま」と玄関のドアを開けた瞬間──。


「兄ちゃん、おかえり!」
 そう言いながら、幼稚園から小学生くらいの小さな子供たちが、傑に向かって飛びついてくる。
 その子たちに傑は、「ただいま。いい子にしてたか?」と一人一人頭を撫でながら声をかけていく。
 子どもたちは傑を抜かして四人いて、男の子が三人。女の子が一人。
 みんな、元気でやんちゃそうだ。でも、どの子も雰囲気がどことなく傑に似ている。
 僕はその賑やかな光景を呆然と見つめていた。
 もしかして……。
「ねぇ、この子たちは傑の兄弟?」
「そうだよ。俺ん()六人兄弟なんだ」
「ろ、六人⁉」
「そう、こいつらの他に中学生の妹が一人いるんだ」
「すごい……。大家族だね」
「うるさくて申し訳ないけど、上がってもらえるかな? これからチャーハン作るから食べてってよ」
「え? でも、いいの?」
「いいよ。ラーメン屋秘伝のチャーハンだから、食べてって」
 傑が「じゃあ、みんなはリビングに戻るぞ」と声をかけると、彼の兄弟たちが嬉しそうにリビングの方へと向かって行く。
 僕がなかなか靴を脱げずにいると、みんなが振り返り「お兄ちゃんも早くおいで!」と手招きをしてくれる。わざわざ戻ってきて、僕の手を引いてくれる子までいる。
 その微笑ましい光景に、僕の頬は思わず緩んでしまった。


 後から中学生と思われる女の子がリビングにやってくる。僕の顔を見るなり「いらっしゃい」と笑顔で声をかけてくれた。その人懐こい笑顔が傑にそっくりで……。僕は驚きの連続だ。
 友達の家に、滅多に遊びに行ったことのない僕はどうしたらいいかわからず、部屋の隅で固まってしまった。
 その時僕はあることに気が付く。この子たちの母親がいないのだ。
 こんな小さな子どもたちを置いて、一体母親はどこに行ってしまったのだろう。
 疑問に思った僕は、僕のすぐ隣に座っている男の子に声をかける。
 年は小学校高学年くらいだろうか? 先ほどから兄弟たちの先頭に立ち、烏合の衆をまとめ上げている。その立派な姿に僕は感動してしまった。
「ねぇ、君の名前は?」
「俺は(たける)!」
「尊君は今小学生?」
「うん! 小学五年生だよ」
「へぇ。凄くしっかりしてるんだね」
「兄弟は全部で六人。一番上が傑兄ちゃんで、一番下は(かける)で保育園だよ」
「保育園? 随分年が離れてるんだね」
「うん! でも兄ちゃんと姉ちゃんがいるから寂しくないよ」
「そっか……」
 リビングにいる子どもたちを見ていると、みんなキラキラした笑顔をしている。
 両親の離婚という悲しい出来事を、みんなで乗り越えたんだなと思うと、僕の胸が熱くなった。


「ねぇ、尊くん。お母さんはいつ帰ってくるの?」
「お母さんは、今日は帰ってこないよ。夜勤だもん」
「夜勤?」
「うん。お母さん看護師やってるから、夜勤があるんだよ」
「じゃあ、その時は子どもたちだけなの?」
「そうだよ。でも兄ちゃんと姉ちゃんがいるから、全然寂しくないよ!」
 そう無邪気に笑う尊君の笑顔は、本当に傑にそっくりだ。
 それに「全然寂しくない」という言葉も嘘ではないだろう。だって、ここにいる子どもたちみんなの笑顔が生き生きとしているから。
「そっか……。みんなお兄ちゃんが大好きなんだね」
「うん! 傑兄ちゃん大好きだよ!」
 そんな尊君を見ていると、自分がいかに小さい人間なんだと思い知る。
 自分には両親がいて、お金に困ったことなんてない。
(傑は凄い)
 僕はキッチンで料理をする傑を見ながら、そう感じた。


「よーし、できたぞ!」
「やったぁ!」 
「お腹が空いた」
 傑がリビングに運んできたのは、大きなフライパン二つ。それをテーブルの上にドカッと置いた。
 子どもたちは自分の所定の位置にきちんと座り「いただきます」と手を合わせている。
「どうぞ、召し上がれ」
 傑がそう言った瞬間、一斉に子供がチャーハンに手を伸ばす。その勢いに僕は唖然としてしまう。
 これは食事ではない。競争だ。
 みんながみんなチャーハンを自分の皿によそっては、夢中で頬張っている。
 それでも、自分より小さな兄弟の世話をしながら、食事をしている姿はとても微笑ましい。
 みんなの「美味しい」という笑顔が弾けていた。
 一人っ子の僕は、今までこんな風に競争のように食事をとったことはない。
 ただ、食事のマナー違反をしないよう、親の顔色を窺いながら食事をとっていた。
 だからこんな風に、賑やかだけれど、楽しい食事風景を見たのは初めてだった。


「ごめんね、賑やかで。向こうに俺と律の分があるから。キッチン(あっち)でゆっくり食べよう」
「あ、うん。ありがとう。でもあの子たちは傑がいなくて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。みんな小さいなりに支え合って生きているから」
「そうなんだ」
「子だくさんの家って、そんなもんなんじゃない?」
 傑はキッチンにあるテーブルに、きちんと一人前分のチャーハンとスープまで用意してくれていた。
 リビングを見ると、まだ競争は続いている。きっとこの子たちは、元気にすくすくと成長していくことだろう。
 僕は「いただきます」と言ってから、熱々のチャーハンを頬張ると、口いっぱいに広がる香ばしい香りと、ご飯粒ひとつひとつが弾けるような食感に、思わず「美味しい」と感動してしまう。
 同級生がこんなに美味しい料理を作れるなんて、思ってもいなかった。
 ラーメン屋でバイトしている傑が作るチャーハンは本格的だ。
「美味しい?」そう不安そうに僕の顔を覗き込む傑。僕は目を輝かせながら「凄く美味しいよ」と伝えた。
 その瞬間、傑の表情がフッと緩む。僕はその笑顔を見ただけで、心臓がトクンと飛び跳ねた。
「本当に? お店でお客さんに出すときより緊張したよ」
「そうなの? こんな美味しい炒飯食べたことがない」
「よかったぁ」
 傑の笑顔が、僕の視界に飛び込んでくる。
 その瞬間、まるで時間が止まったかのように、胸がきゅうっと締め付けられる。同時に切ない痛みが込み上げてきた。
 ドキドキと高鳴る心臓の音が、耳元で鳴り響いている。
(なんなんだ、この感情は……)
 傑の笑顔は、まるで遠い星の光のように、届きそうで届かない。
 その笑顔を見ているととても幸せなのに、凄く苦しい。
 でももっと、僕は傑の笑顔を見ていたい……。
 もっともっと、見ていたいんだ。
 だけどそれは、新しい感情が芽生える、静かで、でも確かな予感だった──。

◇◆◇◆

 食事が終わった後、みんな自分が使った食器を持ってキッチンへやってくる。
 そんな姿も可愛らしい。
 こんな賑やかな食事もいいなって、羨ましくなってしまう。
 ふと時計を見ると、もうすぐ十九時三十分……。
「ヤバイ、門限が……」
「門限?」
 僕が慌てて椅子から立ち上がると、傑が驚いたように目を見開く。
 それはそうだろう。高校三年生にもなって門限が二十時なんて……。普通に考えたらおかしな話だ。
「そう、僕門限が二十時なんだ」
「門限があるなんて、律の家はよっぽど厳しいんだね。ここから三十分で家に着く?」
「うん。十分間に合うよ」
「ならよかった。途中まで送ってくよ」
「でも……」
「大丈夫。みんな自分のことは自分でできるから」
 僕が心配になって子どもたちの方を見ると、各々が一生懸命自分の仕事をこなしている。
 食器をシンクまで運ぶ係に、食器を洗う係。そして、テーブルを拭く係。向こうの子は、お風呂に入る準備に取り掛かっているようだ。
「凄い。みんな偉いね」
「こんだけ兄弟がいると、自分のことは自分でできないと困るからね。じゃあ、行こうか」
「あ、うん」
 あんなに小さな子どもが兄弟で助け合って頑張っているのに、高校三年生の僕が門限二十時なんて……。考えれば考えるほど情けなくなってきてしまう。
 帰り際にみんなに「バイバイ。今日はありがとうね」と手を振ると「また来てね」とみんなが手を振り返してくれる。
 それはまるで、部屋の中に向日葵の花が咲いたようで、僕の心が明るくなった。


 傑に僕の家の場所を伝えると、こっちの方が近道だからと、裏道を使って帰ることとなった。
 商店街から一本裏の道に入るだけで、とても静かになることに驚いてしまう。
 傑が転校してきてもうすぐ二か月。季節は夏へと向かっている。塀の上で呑気に寝ている猫が可愛らしい。
 そんな静寂の中、傑がポツリと呟いた。
「ごめんね、賑やかで……。びっくりしたでしょ?」
「全然大丈夫だよ。むしろみんな元気で可愛かった」
「ならよかった。まるで家の中に怪獣がたくさんいるみたいだからさ」
 傑が安堵したように大きく息を吐いた。
「でも大変だね? お父さんの代わりをするなんて……」
「まぁね。でももう慣れたかな」
「そっか……」
 まるで同じ年とは思えない傑のしっかりした部分を見た僕は、感心してしまった。
 それと同時に、自分がどれだけ甘やかされて育ったのかを思い知る。
 傑は静かに言葉を紡ぎ続けた。


「本当はバイトだって校則違反なんだけど、母親の収入だけじゃあいつらを食わせていけないから。内緒でバイトもしてる」
 傑は大きく伸びをしてから、俺に向かって笑いかけた。
「朝も保育所に弟を送っていかなきゃだから、遅刻ギリギリだし」
「え? そうなの?」
「そうなんだよ。保育所が家から遠いから案外大変なんだよね」
 少しだけ困ったように笑う傑を見て、胸がズキッと痛んだ。
(毎日寝坊してるわけじゃないんだ……)
 とんだ勘違いをしていた自分が嫌になってくる。
「この前の小テストもさ。俺、学年一位だったじゃん? あれも別に凄くないんだよ」
「なんで? 学年一位だなんて凄いじゃないか⁉」
「だって(うち)貧乏だから、特待生制度を使わないと学校も通えないんだよね。俺、こんな見た目だから、せめて成績くらいは良くないと、そういう制度も使えないからさ」
 そう言いながら、傑は声を出して笑っている。


 僕は全てを勘違いしていたことに気付かされる。
 思わず、恥ずかしさと自責の念で心が押しつぶされそうになった。
 朝、傑が遅刻寸前で登校してくるのは、弟を保育所に送って行っているから。
 部活もしないで、放課後さっさと帰ってしまうのは、家計を支えるためにこっそりアルバイトをしているから。
 こんな見た目で成績がいいのは、特待生制度を使って高校に通いたいから。きっと、陰では頑張って勉強をしているのだろう。
 それは全部が全部、僕の想像とはかけ離れたものだった。
 茶髪にピアス。それに踏み潰された上履きの踵──。
 そんな見た目だけで、彼を見ていた自分が情けなくなってしまった。


 傑に謝りたい。
 僕の心の底から湧き上がってくる思い。
『これ以上、僕と関わらないで』
 どうしてあんなにも酷い言葉を傑に言ってしまったのだろうか? 今更後悔しても遅いけれど、後悔の思いがまるで大波のように心に襲い掛かってくる。
 住んでいる世界が違う──。
 僕はなんて勘違いをしていたんだろう。
 傑は僕より遥かに厳しい世界を生きている。しかも、いつも笑顔を絶やさずに。
 胸の奥が締め付けられるように痛い。
 ごめん。ごめんね、傑。


 誰も通らない路地裏で僕は立ち止まる。
 前を歩く傑の背中がとても大きく見えた。
 鼓動が少しずつ速くなって、頬が熱を帯びていく。体が小刻みに震えて、立っていることさえ辛いくらいだ。
 ねぇ、傑。この感情はなんだろう?
 僕にはわからないよ。


「ごめんね」と、僕は唇を噛むように呟く。
 その声は、微かに震えていた。
 心の奥底から湧き上がる後悔と、不安が混ざり合って喉の奥を締め付ける。
「どうしたの? 突然」
「僕、ずっと、傑に謝りたくて……」
「何を謝るんだよ? 律、俺に何かしたっけ?」
「『これ以上、僕と関わらないで』って言ったから……」
「あー、そんなことか。あははは! 大丈夫。もう気にしてないよ」
 傑が声を出して笑った後、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
 その目には、優しさと、どこか深い理解が宿っているように見えた。
 

 僕は友達と深く付き合ったことがない。
 だから、戸田のように見てくれだけの友人関係しか築けなかった。
 でも、僕……。どうしても傑に謝りたい。
 傑は優しいから「もう気にしてない」なんて言ってくれたけど、それだけじゃ、僕の心が納得なんてできないから……。
「ごめんね、傑」
 後悔と自責の念が涙となって僕の頬を伝う。
 君は僕を責め立ててもいいんだ。「俺のことを何も知らないくせに」って。
 ごめん。
 ごめんなさい……。


 次の瞬間、突然傑が腕を伸ばし、僕をギュッと抱き締めた。
 その温かさは、まるで氷を溶かす陽の光のように、僕の心を包み込む。
 傑の腕が僕を包み込んだ瞬間、心臓がトクンと大きく跳ねる。
「大丈夫だよ」
「……え?」
「大丈夫。俺は怒ってなんかいないから」
 傑の低い声が耳元で響く。
 その瞬間、長い間抱えていた重荷が少しずつ解けていくのを感じた。
 涙が溢れてきたけれど、僕はこのままでいたい──、と心の中で願う。
 この温かい抱擁は、とても心地よくて……。自然と体の力が抜けていくのを感じた。
 傑の胸に顔を埋めると、微かに香る彼の匂いに安堵する。
 こんなにも満たされる感覚は、いつぶりだろう。
 このままずっと、この温かさに包まれていたい……。素直にそう思った。


(この感情はなんだろう……)
 高鳴る鼓動がいつまでたっても収まらない。
 それにもっと傑の傍にいたい。そう思った僕は、恐る恐る傑の腰に腕を回し、彼の逞しい体に身を委ねる。
(ねぇ、この感情はなんなんだろう?)
 温かな傑の腕の中で、僕は一生懸命考える。
 時刻はもうすぐ二十時。
 早く家に帰らなくちゃいけないのに──。
 僕は、この温もりを手放すことができなかった。