最悪の出会いが恋に変わるとき


「はぁ……」
 僕は生徒会室で大きな溜息をつく。
 昨夜、傑に取ってもらったぬいぐるみを抱えて上機嫌で帰宅した僕を待っていたのは、激情した父親だった。
 どうやら傑と一緒に歩いているところを、父親に見られたらしい。
 僕が玄関に入るなり、激しく父親に責め立てられてしまった。
「なんであんな金髪みたいな奴と付き合ってるんだ! 律、見損なったぞ!」
 いきなり大声で怒鳴られた僕は何も言い返せず、ただ黙ったままぬいぐるみを抱き締める。
 確かに、ファーストフード店やゲームセンターに高校生はたくさんいたけれど、傑ほど派手な格好をしている子はいなかった。
「しかもゲームセンターに出入りしているなんて……。あんな場所は、不良が行くとこだぞ? わかっているのか⁉」
「ごめんなさい……」
 僕は今にも消え入りそうな声で謝罪することしかできなかった。
 先ほどまではあんなに楽しかったのに……。急激に心が凍り付いていくのを感じる。
「もう、あんなチャラチャラした奴とは金輪際付き合わないように!」
「…………」
「わかったか⁉」
「……はい」
 僕はそう答えると自室に向かう。
 その時、ふと傑の笑顔が頭を過り涙が出そうになった。
(傑はいい奴なんだ)
 いくら父親にそう伝えたところで、きっとわかってはくれないだろう。


 僕は傑に取ってもらったぬいぐるみを、そっとベッドの上に置く。
 それは僕の顔くらいの大きさで、可愛らしいクマのぬいぐるみだ。
「さっきまで、すごく楽しかったんだけどな」
 クマに向かってそっと話しかける。
「外見だけで人を判断すべきではない」なんて、僕が偉そうに言える立場ではない。僕だって、はじめは傑に強い嫌悪感を抱いたことは事実だ。
 

 茶髪に長髪。
 耳には数えきれないほどのピアスに、その他にもブレスレットにネックレス。
 シャツは第一ボタンまで絞められていないし、ネクタイはだらしなく巻かれている。
 上履きの踵だって踏み潰されたままだ。
 数えきれないほどの校則違反。
 そんな生徒と、生徒会長を務める僕が釣り合うはずなんてない。きっとはた目から見たら、アンバランスな二人だろう。
 でも、傑は決して悪い奴じゃない。優しいし、一緒にいて楽しい。
「外見だけで人を判断すべきではない」。今なら、自信を持って言えると思っていたのに……。
 そんな自信は、父親の心ない言葉で、しぼんだ風船のようにシュンとなってしまった。


 昨夜のことを思い出すだけで、ひどく憂鬱になってしまい、先ほどからため息が止まらないのだ。
 これから生徒会で話し合う体育祭の資料をペラペラとめくりながら、「はぁ」と、もう一度大きな溜息をつく。
 今日登校した時、何も知らない傑は「昨日は楽しかったね」と無邪気な笑顔を浮かべて僕に話しかけてきた。 
 その笑顔を見るだけで、心がギュッと締め付けられる。
 でも、今この生徒会室にいる生徒全員、きちんと校則通りの服装をしている。
 髪だって黒いし、ピアスだってあけていない。
 もちろん上履きだってきちんと履いている。
 これが、本来この白陵高校でのあるべき姿なのだ。


「七瀬、ちょっといいか?」
「ん?」
 その時、生徒会で副会長を務めている戸田(とだ)に声をかけられる。
 戸田は同じ三年一組で成績もいい。運動だってできるし、うちの父親のお気に入りの生徒だ。
 だから、戸田と仲良くすることを父親は望んでいるのだろう。
 そんなことは、わかりきっているんだ。
「なんだよ、そのだらしない顔は。昔のお前はもっとしっかりしてたぞ?」
「そうかな……」
 戸田の言いたいことがわからず、体育祭の資料をそっと閉じる。
 彼は不機嫌そうに僕の隣の席に座り込んだ。
「七瀬、転校生の冴木と仲がいいだろう?」
「仲がいいって言うか、先生から世話係を頼まれてるから」
 これは事実だ。
 僕は傑と仲良くしたい訳ではなく、先生から世話係を頼まれているだけだから。
「別に、仲がいいわけじゃないよ」
 あ……。
 その瞬間、自分が発した言葉に、自分自身が傷ついたことに気が付く。
 それと同時に、傑の無邪気な笑顔を思い出した。
『別に仲がいいわけじゃない』
 その言葉を言ってしまったことに、強い罪悪感を覚えてしまい胸が締め付けられる。


「七瀬が冴木と仲良くしているから、みんなが心配してるぞ?」
「心配?」
「あぁ、そうだ。お前まで冴木みたいになっちゃうんじゃないかって」
「そんなこと、あるわけないじゃん……」
 僕が髪を染めたりピアスをつけることは絶対にない。これだけは言い切れる。僕が校則を破るなんて、あるわけがないのだから。
 だから、そんな心配は大きなお世話だ。
「それからこれは僕の考えだけど、冴木と仲良くしていると、お前の評判まで下がるぞ?」
「え?」
「冴木が転校してきた理由は、前の学校で暴力事件があったからだろう? そんな奴と仲良くしてたら、お前も同じような目で見られるのなんて当然じゃないか?」
「そうかな……」
「そうだよ。七瀬は生徒会長であり、剣道部の部長でもある。君は生徒全員の手本となる存在なんだ。それを自覚したほうがいい」
 戸田の言葉に僕は何も言い返せずに、持っていたペンをクルクル指先で回す。
(何が言いたいんだよ、気分が悪い)
 僕は大きく息を吐いてから、戸田を見つめた。


「なぁ、七瀬。これ以上冴木に関わらない方がいい。七瀬と冴木は住んでいる世界が違うんだ」
「住んでいる世界?」
「そうだ。これ以上彼と一緒にいたら、君の評価が下がってしまう。七瀬、僕は七瀬のことを思って言っているんだからね」
「……うん」
 戸田の言いたいことはよくわかる。
 僕だって、初めて傑を見た時には「最悪だ」と思ったのだから。
 それに、傑と一緒に廊下を歩いている時に感じる好奇の眼差し。最初の頃は、そんな視線が嫌で、傑と距離をとっていた。
 でも今は違う。
 僕は本当の彼を知ってしまったから──。
 傑はあんな見た目をしているけれど、みんなが思っているような奴じゃない。
 それに、僕の知らないことをたくさん知っているんだ。
 でもそんなことを、父親や戸田に言ったところで、納得なんてしてくれないだろうけど……。
「わかった、気をつけるよ」
「本当にわかってくれたのか?」
「うん。忠告ありがとう」
 僕は戸田にお礼を言ってから、もう一度興味もない体育祭の資料を開いたのだった。

◇◆◇◆ 

 生徒会の話し合いも終わり、僕は一人で教室に向かう。
 せっかく戸田に忠告してもらったけれど、僕の心は宙ぶらりんだった。
 いざ傑を目の前にしたら「これ以上友達でいられない」なんて、きっと言えないだろう。
 生徒会が終わる頃には、辺りが真っ赤に染まっていた。
 傑が転校してきてもうすぐ一か月。季節は梅雨に向かっている。
 校内は静まりかえっているから、生徒たちは部活に行ったか、帰宅したのだろう。
 その時「律?」という声が教室の方から聞こえてくる。僕は急いで階段を下りて教室に向かった。 
 廊下には帰り支度を終えた傑がいて、僕に向かってヒラヒラと手を振っている。
「なんで僕がいるってわかったの?」
「俺、律の足音だけで、律がどこにいるのかがわかるようになっちゃった」
「なんだよ、それ」
「ね? 凄いでしょう?」
 僕に会えたことが嬉しかったのか、傑がにこにこしている。
 傑は午後のホームルームが終わると、いつもすぐに帰ってしまうから、この時間に学校にいることは珍しい。
 茶色い髪は夕陽に当たりキラキラと輝いているし、つけられたピアスも眩い光を放っている。
 傑の耳についたピアスを数えたことはないけれど、一体いくつつけているのだろうか?
 僕が、父親や戸田に忠告を受けたことを知らない傑は、いつもみたいに無邪気に笑っている。


 でも今日一日、僕は傑を避けてしまっていた。
 父親に言われたことが頭から離れなかったのだ。僕は幼い頃から父親に逆らったことがない。そんな僕が、父親の言ったことを完全に無視することなんてできるはずがない。
 傑に話しかけられても目を合わせることもできず、「うん」「そうだね」という短い会話しかしていない。傑の目を見ることが怖かったんだ。
 きっと傑も、そんな僕の態度を不審に感じていたかもしれない。それでも彼は、いつも通り優しく接してくれた。
 加えて先ほど戸田から受けた忠告が、更に俺の心にブレーキをかけている。
(僕は本当にこのまま、傑と仲良くしていていいのだろうか?)
 そんなことを考えている自分に優しく笑いかけてくれる傑。
 僕の心は激しく揺さぶられた。


「律は今生徒会が終わったところ?」
「あ、うん。傑は今帰るところだったの?」
「そう。進路のことで担任に呼ばれてたんだ。まだ俺、ちゃんと進路が決まってなくて」
「そっか……」
「じゃあ、俺急ぐから。律、また明日ね」
「……うん」
「また明日ね」と言い返してあげられなかったことに、ギュッと胸が痛む。
 だって、僕たちに明日はあるのだろうか? 
 明日は普段通り、傑と仲良くできるのだろうか?
 昇降口のほうから「傑、バイバイ」という女子生徒の声が聞こえてくる。
 傑は女子生徒とは仲がいいけれど、男子生徒と仲良くしているところを見たことはない。
 やっぱり男子生徒からしてみたら、傑の見た目は怖くて近寄りがたいのだろうか。


 教室に戻ると傑の机が、夕陽に照らされてキラキラと輝いている。
 先ほどまで一緒にいた生徒会役員とは、明らかに違う髪型と服装の傑。
(僕はどうしたらいいんだろう)
 何度自分に問いかけても、答えなんて出るはずもない。
 きっと周りの人たちが望んでいることは、僕が傑から離れること。
 傑も大分学校に慣れたから、世話係なんてもう必要ないだろう。
 だから、ここで傑と一線を置いて、生徒会の役員をやっているような友人たちとまた仲良くすればいい。そんなことはわかり切っている。
 でも「律」と僕の顔を見て笑う傑を、僕は放ってはおけない。
 かと言って、今まで苦労して築き上げてきた、生徒会会長や剣道部部長といった肩書きを捨てることもできない。
 生徒の模範となるべき『七瀬律』という生徒を築き上げるまでに、どれほどの努力をしてきたかなんてわからない。それを傑の為に手放すことが、僕にはできるだろうか?


「最悪だ」
 傑を初めて見た時、僕はそう思った。
 こんなチャラチャラした奴と付き合うなんて御免だって──。
 でも、今の僕はそうは思えない。
 優等生としての立場を守りたい自分と、傑と仲良くしていたい自分。
 そんな相反する思いが、心の中でぶつかり合っていて苦しい。
(明日、一体どんな顔をして傑に会えばいいのだろうか……)
 僕は傑の机の上をそっと撫でた。 

◇◆◇◆

「律、おはよう」
「あ、うん。おはよう」
 僕が学校に登校するのは、クラスの中でも一番か二番目に早い。
 早く登校して、その日の授業の予習をすることが習慣になっているのだ。
 逆に傑は、いつもホームルームが始まるギリギリに登校してくる。踵を踏み潰した上履きで走ってくるものだから、パタパタと大きな音がして、傑が登校してきたことがすぐにわかるのだ。
 それに廊下から「傑、おはよう」という女子生徒の声も聞こえてくる。
 傑は「ヤバイ、遅刻するかと思った」といいながら、慌てて席に着いた。
 そういったところも、正反対の二人。 
 先ほどから、チラチラとこちらに視線を送る戸田のことも気になって仕方がない。
 とりあえず朝の挨拶だけして、僕は口を噤む。いつもなら、朝から色々な話で盛り上がるのに……。


 朝のホームルームが終わったあと、一時間目は移動教室だ。いつもなら傑と一緒に目的の教室へと向かうところだけれど、今日の僕は躊躇っている。
 このまま、傑と距離を取った方がいいのだろうか?
 今になってみると、傑の世話係を押し付けてきた担任を恨みたくなってきてしまう。
 あの時、僕が傑の世話係になんてなっていなければ、こんなに苦しい思いをせずに済んだのだろうか?
「律、一緒に理科室に行こう」
「え? あ、あの……」
 いつも通り声をかけてくれる傑に、僕は正直戸惑ってしまう。
 そしてその瞬間、戸田と視線が合った。
 どうしたらいいかわからない僕は、傑と視線を合わせることもできない。
「傑、僕先生に用事があるから先に行ってて」
「あ、うん。わかった」
「ごめんね」
 傑が僕の顔を不安そうに覗き込んでくる。その視線が痛くて、僕は教室を飛び出した。
 本当は先生に用事なんてない。
 傑と一緒にいることが怖かったんだ。
 

 つい先ほどの、傑の不安そうな顔が頭から離れない。
 傑はいつも笑っていたから、あんな不安そうな顔をすることなんてない。
 そんな彼が、あんな顔をするなんて……。
 僕は持っていた教科書をギュッと握りしめる。


 最近の僕は、どうしたらいいのかがわからなくて、いつも心の中で立ち止まっているような気がする。
 誰かの言葉に耳を傾けても、それが本当に自分の望むことなのかがわからない。
 自分が何を求めているのか、それが誰かの期待と重なっているのか、それとも全く違う方向を向いているのか。
 その境界線が、ぼんやりとしていて見えにくいんだ。
 まるで大きな分かれ道の前に立たされているような気分。どちらに進むべきか、どの道を選べば後悔しないか。考えると足がすくんでしまう。
 でもこのまま立ち止まっているわけにはいかない。そうわかっているのに、一歩を踏み出す勇気がどうしても見つからない。
 ただ、「律」と自分の名前を呼びながら笑う傑が、僕は好きだった。


 その日の午前中、傑を何となく避けてしまった。
 決定的な出来事は、いつも通り傑が「購買にいこう?」と誘ってくれたのを断ってしまったことだった。
 傑に誘われた瞬間、僕は躊躇ってしまう。
(どうしよう……)
 と、悩んでいると、戸田がやって来て突然腕を掴まれた。
 びっくりした僕が言葉も出せずにいると、戸田が僕を自分の机の方へと強引に引っ張っていこうとする。
「ちょ、ちょっと、戸田。腕が痛いって」
「七瀬、今日からまた僕たちとお弁当を食べよう?」
「で、でも傑が……」
「大丈夫だよ。彼だってもう一人で購買くらい行けるだろうからさ。ほら、行くよ」
 戸田に引きずられるように、僕は傑から引き離されてしまう。
 後ろ髪を引かれた僕が、傑の方を振り返ると「俺は一人で大丈夫だから」と笑っている。
 その笑顔を見た僕の心は引き裂かれんばかりだった。
「大丈夫。冴木は女子生徒が相手をしてくれるだろうから」
「でも、ちょっと可哀そうじゃ……」
「生徒会長があんな奴と付き合ってていいわけがないだろう? いい加減目を覚ませよ」
 戸田のその言葉が、まるで棘のように僕の胸に突き刺さった。


 それから数日間、傑は僕に近づいてこなかった。
 季節は梅雨を迎え、じめじめしていて気持ちが悪い。そして僕の心も、梅雨時の空のように雲がかかったようにすっきりとしない。
 授業中、時々傑を盗み見ると、いつも通りノートに猫を描いて遊んでいたり、机に突っ伏して寝ていることもある。
 そんな傑を見た僕は「起きろよ」とペンで体を突いてやろうかと思ったけれど、それをする勇気もない。
 傑はこんなにも近くにいる。手を伸ばせば届く所にいるはずなのに、僕たちの心の距離はひどく遠くなってしまったかのように感じる。
 相変わらず女子生徒たちとは仲がいいみたいだけれど、男子生徒と話をしている姿は見かけない。
(一人ぼっちで寂しい思いをしているんじゃないか……)
 傑のことが気になって仕方がない。
 前みたいに声をかけようとしたこともあった。でも、父親と戸田の言葉を思い出すと「傑」とその名前を呼ぶことができない。
 僕は、生徒会長であり弓道部の部長。そして学年トップの成績を誇る、学生の手本となる存在だ。そんな地位と名誉に、縋り付いていたい自分もいる。
 僕の心が大きく揺れる。
 それでも、傑と机を並べて、授業を受けていた頃は楽しかった。


 そんなことを思いながら居眠りをしている傑を眺める。
 いつもなら起こしてやるところだけれど、今日も見守ることしかできない。
(ごめん、傑)
 僕は心の中で謝罪する。その時──。
 寝ていたはずの傑の目が開き、視線が絡み合った。
 僕がずっと見ていたことに気付かれたのだろうか? そう思うと恥ずかしくなってしまい、頬が熱くなるのを感じる。
 それから傑は、何も言わずに微笑んだ。
 その笑顔があまりにも綺麗で、僕は言葉を失ってしまう。
 きっと、傑は僕に避けられていることに気付いている。でも何も言ってこない。
 それに気付いてしまった僕の心は、張り裂けそうになった。
(ごめん)
 何度謝ったって許してなんてもらえないだろう。
「それでも傑は僕の友達だから」と、父親や戸田に訴える強さが僕にはない。
 ただ周りに流されて、こんなにも優しい傑を避けてしまっている。
 傑の寂しそうな笑顔を見た僕は、何もできない自分が歯痒くて仕方がない。
 涙で、傑の笑顔が滲んで見えた。

◇◆◇◆

 それはある日の放課後。
 部活が終わった僕は、急いで家に帰る途中だった。
 親が厳しい僕は、高校三年生にもなって門限がある。二十時には家に到着しなければならない。そんな子どものような約束を破る訳にはいかないのだ。
 空は真っ黒な雲に覆われているから、もうすぐ雨が降ってくるかもしれない。
「早く帰ろう」と駅に向かおうとしたとき、僕は呼び止められる。
 その聞き慣れた声を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
 恐る恐る振り返ると、そこには傑の姿が……。
「律」
「傑……」
「久ぶりだね、律」
 そういつものように笑う傑。
 傑の言った「久しぶり」という言葉に、心がギュッと締め付けられる。
 だって、今日一日、俺たちはずっと同じ教室にいたじゃないか? それなのに久しぶりだなんて……。
 それはまるで、僕と傑の心が離れてしまっているという事実を突きつけられているように感じられた。


「傑、もしかして僕が部活終わるのを待っててくれたの?」
「うん。ごめんね、待ち伏せみたいなことをして……」
「全然構わないけど……」
 傑が俯いた瞬間、茶髪の長い髪がサラサラと顔にかかる。
 相変わらず制服は着崩されているし、指定のセーターは腰に巻かれている。
 今傑が僕に何を言いたいのかが何となくわかってしまった僕は、この場から逃げたい衝動に駆られてしまう。
 そんな中、傑が静かに言葉を紡ぎ出す。
 その声が少し震えているように聞こえるのは、僕の気のせいだろうか?


「あのさ、律。もしかして最近、俺のことを避けてる?」
「え?」
「だっておかしいじゃん? 急に態度が変わって……。俺、律に何かした?」
「傑……」
 僕は傑の言葉に何も言い返すことができなかった。
「傑は何もしてないよ」。そう喉元まで出かかっている言葉を、声にすることができない。
 僕は制服のセーターをギュッと握りしめた。


 傑は相変わらず不良の身なりをしている。
 それは僕や先生が何度注意しても直らなかった。
 でも僕は、生徒の模範となるべき存在だ。
 いい加減目を覚ませ。
 僕と傑は住んでいる世界が違うんだ──。


 だけど……。傑はいつも僕の傍にいて、僕を大切にしてくれた。
 ファーストフード店にも連れて行ってくれたし、クレーンゲームで取ってもらったぬいぐるみは、今でも僕の宝物だ。
 でも、僕と傑はやっぱり住んでいる世界が違うから、一緒にいたらいけないのかもしれない。
 だって傑と一緒にいたら、僕が今まで築き上げてきた地位や名誉が崩れてしまうかもしれないから……。
 だから、ごめん。
 僕は拳を強く握り締める。
 結局僕は弱虫だ。他人の物差しに左右され、自分の気持ちを言葉にすることさえできない。
 傑は確かにこんな外見だけれど、本当は優しい奴だって僕は知っている。
 でも、僕はこれ以上傑と一緒にいることはできない。
 本当にごめん。
 目頭が熱くなったから、唇をギュッと噛み締める。
 それから、心を決めて傑の顔を見上げた。


「傑、悪いんだけど、これ以上僕に関わらないで?」
「え?」
「僕と傑は住んでいる世界が違うんだ」
「律、それ本気で言ってるの?」
「本気だよ。だからこれ以上僕に関わらないでほしい」
 僕は必死になって言葉を吐き出した。
 そして、自分の言葉に僕自身が深く傷つく。
 その言葉が、空気に響く音をたてるのを耳で追う。
 傑が一瞬、震えたように見えた。そしてその目には、僕が傷つけたような悲しみが浮かんでいる。
 しかし、すぐにその悲しみは優しい笑顔に変わった。
「そうだよね。俺みたいな奴と、律みたいな優等生が仲良くできるわけないよね」
「違う、そうじゃなくて……」
「わかった。今までありがとう」
 傑はそう言って、僕に背中を向ける。
 その背中を見ていると、僕の胸が張り裂けそうに痛む。
 僕は、自分の為に正しい選択をしたはずだ。きっと、父親も戸田も、この選択を喜んでくれることだろう。
 それなのに、傑の笑顔が目に焼き付いて離れない。その笑顔は、僕の心を刺すような痛みだった。
 僕は、自分の決断が正しかったのか、本当にわからなくなってしまった。
 これで、僕の生活から傑がいなくなるんだ──。
 その瞬間、僕は孤独に包まれた気がする。
 これからどうしていけばいいのか、僕には見当がつかない。
 ただ、どんどん離れていく、傑の背中を見つめることしかできなかった。