放課後、僕は剣道部を副部長に任せて、傑を連れて学校案内を始める。
正直なところ、傑とはあまり深く関わりたくない。こんなチャラチャラした奴と一緒にいて、僕の品性まで疑われたら最悪だ。
厳格な両親に育てられた僕は、ルールを守ることができない奴が、大嫌いなのだ。
秩序とルールは必ず守る。常に他人より優れているべきである。
この教えを受けて育ってきた僕は、傑のような見た目がいい加減な奴が許せない。
そんな僕にしてみたら、とにかく傑との出会いは最悪続きだった。
「ねぇ、律。俺たちどこに向かってるの?」
「…………」
「ねぇ、律ってば!」
教室に向かう途中、すぐ後ろを歩く傑が僕に向かって話しかけてくるけれど、僕は無視して歩き続ける。
「職員室から教室まで結構距離があるんだ」
いくら僕が無視をし続けても、傑は全く気にする様子もなく話し続ける。
階段ですれ違う生徒たちが、僕と傑を見て振り返っている。きっと、校則違反だらけの傑を見て、みんなが驚いているのだろう。
それもそうだ。この私立白陵高校は校則が厳しいことで有名な高校だ。
そんな学校に茶髪でピアス、ロン毛で踵を踏んだ上履きを履いている生徒が転校してきたら、みんなの注目の的になるに決まっている。
こんなに目立つ傑を連れて歩く僕も恥ずかしいくらいなのだから、とりあえず校内をざっと紹介したら、さっさと解散しようと思っていた。
ほら、今すれ違った女子たちもこっちを見て何かヒソヒソと話している。きっと傑の外見を見てびっくりしているんだろう……と思い、耳を澄ませる。
「ねぇ、今の茶髪の子転校生かな? かっこよくない?」
「見たことのない子だよね。超イケメンだった!」
女子生徒たちの話を盗み聞きした僕は、思わず耳を疑ってしまった。
僕はてっきり傑の身なりを見て文句を言っているのだとばかり思っていたけれど、その女子生徒たちは傑のことをイケメンだと褒めているのだ。
想像もしていなかった出来事に、僕は呆気にとられてしまう。
(イケメンってなんでも許されるのか?)
振り返ってまで傑のことを見ている女子たちに向かい、彼がヒラヒラと手をふると、「ヤダ、マジでイケメンじゃん!」と一斉に黄色い悲鳴があがる。
傑は呑気そうに「よろしくね~」なんて声をかけているし、それは僕にとって信じられない光景だ。
そんな光景を呆然と見つめていたけれど、少しずつイライラしてくる。
こんなだらしない身なりの生徒がイケメンというだけで、女子生徒からチヤホヤされることに腹が立ってきてしまったのだ。
校則は守るためにあるものだ。
「傑、行くよ」
もうさっさと校内を回って解散しよう。
僕は傑から離れたい一心で声をかけたのに、傑の表情が一気に明るくなる。
「ようやく律が話してくれた」
「え?」
「よかった」
そう笑いながら話しかけてくる傑は、まるで大型犬みたいだ。
「律がずっと無視しているから、俺寂しかったんだよ」
「あ、そうなんだ。ごめん……」
「別にいいよ」
嬉しそうに僕の後ろをついてくる傑。
そんな彼を見ていると肩透かしを食らってしまう。
「じゃあ、学校案内の続きをしよう」
傑は僕の腕を掴んで歩き出す。
その無邪気な笑顔を見ていると、今まで彼に冷たく当たってしまった自分が、小さい人間に思えてきた。
「ごめん傑、ちゃんと学校案内するから」と言おうとした瞬間、傑の口から飛び出してきた言葉に三度言葉を失う。
「どっか良さそうな空き教室内ない? 授業サボるのに丁度良さそうな所……」
傑はそう言いながら、教室を見渡している。
(あぁ、やっぱり最悪だ)
僕は大きな溜息を吐きながら「授業にはちゃんと出ようね」と、傑に声をかけたのだった。
「ここが僕たちのクラスで、三年生の教室は二階。二年生は三階で、一年生は四階にあるんだ」
「へぇ。この学校生徒数が少ないんだね? クラスが八組しかないんだ……」
八組でも十分多いと思うけど……。
傑は一体どんな大きな学校にいたのだろうか? 興味を持った僕は傑に問いかけてみる。
「傑はもっと大きな高校から転校してきたの?」
「うん。一学年だけで十二組あったよ」
「へぇ、凄い」
「別に大したことないよ」
傑は教室の中を覗き込みながら、楽しそうにしている。
「でも律って凄いよね。生徒会長に剣道部の部長。成績もいつもトップクラスだって先生が褒めてた」
「だって僕は傑と違って、授業も真面目に受けてるし、校則だってきちんと守ってるからね」
「だから偉いなって思った。生徒のお手本みたいな人だね」
「別にそんなんじゃ……」
「凄いよ、俺には真似できない」
嫌味を込めて発した言葉が、全然傑には届いていなさそうだ。
それに、嫌味なんかじゃなく素直に褒めてくれているのもわかる。だからなんだか照れ臭い。
僕は気を取り直して、傑が明日から過ごすことになる教室のドアを開けた。
「ここが三年一組。僕たちの教室だよ。明日、朝登校するときはこの教室に来てね。昇降口はあっちにあるから、そこで上履きに履き替えて……」
僕はそう言いながら、踵を踏み潰された新品の上履きに視線を移す。
可哀そうな上履き……。初日であんなに踏み潰されてしまうなんて。
「僕は窓際の一番後ろの席なんだ。先生が、傑は僕の隣の席だって言ってたから、きっと明日までに机を用意してくれると思うんだ」
「ならさ、俺が一番窓際でもいい? 律の隣なら別に俺が一番窓際の席でもいいでしょう?」
「構わないけど……。一番窓際がいい理由って……」
「ピンポン! 授業中外の風景を眺めてられるから」
「だよな……」
想像通りの回答に、僕はガックリと肩を落とす。
本当に傑っていう奴は、どこまでやる気がないのだろうか。
「別に律が窓際でもいいよ? その代わり授業中律が勉強している姿を、ずっと眺めてるけど……。それでもいい?」
「……え?」
傑のその言葉に僕の心臓がトクンと跳ねる。
僕の反応を見て楽しんでいるのだろうか? 少しだけ色気を含んだ笑みに、言葉を詰まらせてしまう。
(こいつはどこまで本気なんだろうか)
そんなことを考えているうちに、頬が少しずつ熱を帯びていく。僕はそれに気づかれたくなくて、慌てて傑に背中を向けた。
「傑が一番窓際でいいよ」
「本当に? ラッキー」
嬉しそうに笑う傑を盗み見しながら「じゃあ、他の所にも行ってみよう?」と声をかけた。
「って、あれ?」
僕は教室を案内していて、ふと疑問が頭を過る。
どの学年も一組と二組は選抜クラスとなっていて、特に一組は成績が優秀な生徒が集まっているクラスだ。
その一組になんで傑が……?
(他のクラスがいっぱいだったのかな?)
僕は首を傾げる。
傑を改めてまじまじと観察すると、明らかに勉強に力を入れているようには見えない。そもそも先ほどまで、傑は授業をサボるための教室を探していたのだ。
(なんでだろう……)
考えれば考えるほど、おかしな話である。
そんな僕にはお構いなしに、傑はまるでスキップするように歩いている。本当に大型犬を連れて散歩しているようだ。
「教室と別の棟に理科室や家庭科室があるんだ」
「ふーん」
「今日はちょうどコーラス部も吹奏楽部も部活が休みみたいだから、音楽室を覗いでみようか?」
「うん」
音楽室の扉を開けると、音楽室独特の湿り気を帯びた木の香りと革の香り、あと少しだけ埃臭さが混じった独特の香りに包まれる。
防音壁の穴に吸い込まれた何千時間分もの演奏の残響が、埃と一緒に漂っているような重たい空気。それに壁に飾られた有名な作曲家たちの肖像画……。
音楽室の怖い雰囲気は、高校生になった今も変わらない。
そんな音楽室の入り口の近くには、立派なグランドピアノが置かれている。
その重たい雰囲気が、僕は苦手だった。
「すごく立派なグランドピアノだね」
「うん。僕はピアノが弾けないからよくわからないけど……」
「そっか……。すごく立派なピアノだから、きっといい音がすると思うよ」
傑がピアノの鍵盤蓋を開けて鍵盤を一つ押す。すると、鍵盤が沈むググっという重たい音と共に「ポーン」というピアノの高い音が鳴った。
「あ、やっぱりいい音」
僕は傑が何を考えているのかわからないまま、茫然と彼を見つめる。すると傑はグランドピアノの傍に置かれた椅子に座り、僕の方を見上げた。
「律、何か好きなクラシックの曲ある?」
「え? クラシック?」
「うん。なんでもいいから適当に答えて?」
「そうだなぁ」
まさか彼の口からクラシックという言葉が飛び出してくるとは思わなかった僕は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていることだろう。
正直僕もクラシックには詳しくなかったため、思いついた曲を口に出した。
「ショパンのノクターンかな?」
「オッケー」
「オッケーって……傑……」
ピアノを弾けるの? と問いかける暇もなく、彼の長くて綺麗な指がそっとピアノの鍵盤の上に添えられる。
(まさか……)
耳をつんざくような雑音しか出さないと思っていたその指が、鍵盤を押した瞬間、嘘みたいに透き通った旋律が溢れだした。
茶髪の長髪にピアス、それに踏まれた上履きの踵──。
そんな彼が奏でる音は、壊れ物を扱うみたいに優しくて。
心臓の音が、ピアノの音より大きく鳴るのがわかって、僕は息をするのも忘れて立ち尽くしていた。
とても耳障りのいいノクターンの世界に、僕は引き込まれてしまう。
先ほどまでポケットに手を突っ込んで、気怠そうに歩いていた背筋が、今はピアノに向かって真っすぐに伸びている。
その横顔があまりにも真剣で、僕の知っている『不良の彼』が音をたてて崩れていくのを感じた。
(すごく綺麗な音……)
彼が奏でるピアノは真綿のように優しくて、止めどなく流れる川のように清らかで美しい。
僕の全身を、心地よい音符が包み込んでいくような感覚に包まれる。
傑は最後の一つの音まで大切そうに引き終わった後、僕に向かってにっこりと微笑む。僕はその笑顔を呆然と見つめた。
「ねぇ、どうだった?」
「す、凄かった。まさか傑がピアノを弾けるなんて思ってなかったから」
まさかチャラチャラとした今どきの男子高校生が、こんなにも上手にピアノを弾くことができる──。なんて誰も思わないだろう。
僕が褒めると素直に「嬉しいなぁ」と頬を赤らめて喜んでいる。
「実は、母親が音楽の教師をやっててさ。ピアノは弾けるんだよね」
「そうなんだ」
僕は傑に違和感を覚えていた。
それはもう違和感ではなく、疑惑へと姿を変えている。
どうして傑は選抜クラスである一組に転校してきて、ピアノがこんなにも上手に弾けるんだ?
(妙だな……。こいつ何者だ?)
こんな外見をしていなければ、立派な優等生のはずだ。
僕は疑惑を払拭するために、傑にそっと問いかけた。
「ねぇ、傑はどこの高校から転校してきたの?」
「んー、なんで?」
「なんでって……。だってクラスだって選抜クラスだし、こんなにピアノだって上手だ。普通じゃないよ」
「別に大した高校じゃないけど……」
「じゃあ、教えてよ」
僕の体が、自然と前のめりになってしまう。
「聖光学院高校だよ」
「聖光学院高校……?」
「うん。退学になっちゃったけどね」
「聖光学院高校は校則の緩い高校なの?」
「え? なんで? もしかして俺がこんな感じだから?」
「……あ、うん。ごめん、ちょっと気になって」
「別にいいよ。うーん……。確かに校則は厳しかったけど、生徒数も多いから、俺みたいな奴も結構いたよ? まぁ、生徒指導の先生にはしょっちゅう怒られてたけど」
傑ははにかみながら、鍵盤蓋をそっと閉じる。
僕は傑の口から出た学校名に言葉を失ってしまう。
聖光学院高校は偏差値が高いことで有名な高校だ。そんな高校に通っていたなんて、傑の外見を見た限りでは信じられない。
(なんなんだ、こいつ……)
僕は傑という人間がわからなくて、強い戸惑いを感じてしまう。
「次はどこの教室に行く?」
「あー、うん。そうだなぁ……」
上の空でそう答える。
楽しそうに僕の顔を覗き込んでくる傑の顔を、呆然と見つめてしまった。
◇◆◇◆
「これで一通り学校の中は案内したよ」
「ありがとう」
「この教室から見えるあの建物が体育館だからね」
「わかった」
最初は喧嘩が原因で転校してきたと聞いたから、どんな怖い奴かと警戒したけれど、話してみれば人懐こくてよく笑う、普通の高校生だった。
三年一組の教室に戻ってくると、教室がオレンジ色に染まっていた。机の上の埃がキラキラと舞っているのが見えるだけで、急に自分がどこか遠い場所にいるみたいに思えた。
窓から差し込む光が床に長く伸びて、誰もいないはずの教室がやけに眩しくて、少しだけ寂しいような……そんな言葉にできない空気。
多分、傑が転校してくる前までは、ありふれた放課後だったんだ。それなのに今は、少しだけ僕が見ている景色が変わった気がする。
「わぁ、夕陽が綺麗だな」
「え?」
「見てよ、律。教室から見える夕陽がすごく綺麗だよ」
傑は思ったことを恥ずかしげもなく言葉にする。
それは彼の素直で優しい一面。
逆を言えば、売られた喧嘩は買ってしまうような、危うさも含んでいるように感じられる。
傑の整った顔に夕陽が差し込み、彼の美貌を更に引き立たせている。その光景は、同性の僕が見ていてもドキドキしてしまう程だった。
「律、明日からよろしくね」
「あ、うん」
そう笑う傑の笑顔が、泣き出しそうに見えたのは僕の気のせいだろうか。
「最悪、だったんだけどな……」
僕の呟きは、下校を告げるチャイムに搔き消されていった。



