最悪の出会いが恋に変わるとき


 傑が転校して来てもうすぐ三か月が経とうとしていた。
 色々なハプニングはあったけれど、僕は傑と仲良くできている。
 今の傑は、僕や生徒指導の先生にあれこれ叱られることなんてない。
 見慣れなかった黒髪に短髪も、ピアスのついていない耳も、きちんと着用されている制服にも慣れてきた。
 時々女子が「茶髪にロン毛の方がよかった」「いいや。黒髪のがかっこいい」と議論をしている姿を見かけるけれど、傑はそんなことは気にしていないようだ。
 女子の討論も「結果、イケメンはどんな格好をしてもイケメンなのだ」という結論に丸く収まったらしい。
 そんなことをしているうちに、季節は春を通り越し、夏へと向かって行く。
 制服も冬服から夏服へと変わった。


 そんな中、僕はある不穏な噂を耳にする。
 休み時間、女子生徒が輪になり何かこそこそ話をしている。普段は女子の噂話には興味なんてないんだけれど、会話の中に「傑」という名前が出てきたから、僕は聞き耳を立てる。
 盗み聞きなんてよくないとわかっているのだけれど、気になって仕方がなかったのだ。
「この前傑、聖光学院高校の生徒に絡まれてたらしいよ」
「えー? なにそれ? 超怖いじゃん」
「なんか五人くらいの不良っぽい人たちに囲まれてたらしい……」
「なにそれ。あたしの傑に何かあったらどうしよう」
「いつからあんたの傑になったのよ!」
 聖光学院高校……。傑が転校してくる前の高校だ。
 確か傑が転校してきた理由も、五対一で喧嘩したことが原因だと話していた。
(まさか、また喧嘩なんかしないよな)
 僕の全身から血の気が引いていく。
 三年生にもなって何か問題を起こしたら、進路に関わってくるだろう。
 傑は成績がいいから、彼が望めば偏差値の高い大学にだって進学できるはずだ。
 僕が心配になりながら傑の方に視線を移すと、教科書を枕に気持ちよさそうに眠っている。
 バイトや兄弟の世話で疲れているのだろう。
 そう思うと、起こして事実を追求するのも気が引ける。
(傑には、もう喧嘩なんてしてほしくない)
 僕の心配など知らない傑は、次の授業もずっと眠っていたのだった。


 放課後になり、慌てて帰ろうとしている傑を引き留めて問いかける。
 女子たちの話が気になって仕方がなかったのだ。
「ねぇ、傑。今でも聖光学院高校の不良たちに絡まれてるの?」
「え? なんで?」
 突然の僕の問いかけに傑が驚いたような顔をする。立ち上がって帰ろうとしていたけれど、もう一度椅子に座り僕と真正面から向き合った。
「女子たちが今日そんな噂をしてたから心配になっちゃって……」
「そっか……」
 傑はそう言うと何かを考え込むように俯いてしまう。僕は不安になって、そっと傑の手を掴んだ。
「もう喧嘩なんかしないよな?」
「律……」
「僕はもう傑に問題なんか起こしてほしくないんだ」
 傑はしばらくの間、僕の顔を真剣に見つめた後、いつものように笑った。
「大丈夫。俺はもう喧嘩なんかしないし、問題行動も起こさないよ」
「本当に? 約束できる?」
「うん。できるよ」
 そう言うと、傑は僕の小指にそっと自分の小指を絡めてくる。
 指切りなんてもう何年ぶりだろうか? なんだか恥ずかしくなってしまい、頬に熱が帯びてくる。
「大丈夫だよ、律。俺を信じて」
「うん。わかった」
「じゃあ、指切った」
 するりと離れていく傑の小指を、無意識に視線で追いかける。
(大丈夫だ。傑を信じよう)
 僕は自分にそう言い聞かせて、忙しそうに教室を飛び出て行く傑の背中を見送った。

◇◆◇◆

 それは夏の大会が直前に迫っていたある日のこと──。
 僕たち三年生にとっては最後の試合となる大会を、数日後に控えていた日のことだった。
 大会前ともなると、練習も夜遅くまで続き、僕が帰宅する頃には辺りが真っ暗になってしまっていた。
 急いで家に帰ろうと通学路を走っていると、建設現場がある裏路地から何やら怒号が聞こえてくる。
(なんだ?)
 僕は咄嗟に危険を察知し、体を強張らせる。
 恐る恐る裏路地を覗き込むと、傑を囲む不良たちの姿が目に飛び込んできた。
(傑……)
 傑の姿を見つけた瞬間、僕の呼吸が一瞬止まる。
 やはり、あの女子生徒たちが話していたことは本当だった。
 いつもの僕なら、こんな場所には近づかないだろう。
 ──不良とは関わりたくない。
 そう思い、そっとその場を去るはずだ。
 しかし、傑が今まさに危険な状況に立たされている。僕の心は掻き立てられた。


「どうした冴木? 髪なんか黒く染めて。一体何があったんだ?」
「優等生にでもなったつもりか? 生意気だぞ」
 傑を取り囲む不良たちが、一斉に傑をののしり始める。傑はそれを顔色一つ変えずに聞いている。
「莉乃から聞いたぞ? お前またあいつに手を出そうとしたんだって?」
「別に手なんか出してない。莉乃が俺とやり直したいって勝手に押しかけてきただけだ」
「なんだと?」
 不良グループのリーダーと思われる男が、傑との距離を一気に詰める。
(傑が危ない)
 咄嗟にそう思ったけれど、足は根が生えたかのように動かない。それどころか、体が小さく震えている。
(なんて自分は弱いんだ……)
 僕は泣きたくなってしまった。
「今度こそ、お前をボコボコにしてやるよ」
 その言葉に傑の表情が一気に険しくなる。
(これじゃあ、また同じことの繰り返しだ)
 僕は絶望してしまう。
 ようやく傑と仲良くなれたのに……。彼はまたこの騒動で、どこかの高校に転校してしまうかもしれない。
 そんなのは嫌だ!
 僕の心が叫び声を上げていた。


「……俺はもう、喧嘩はしないよ」
「なんだって?」
 張り詰めた空気の中、傑が静かに口を開いた。
「俺はもう喧嘩はしない。約束したんだ」
「約束だと?」
「そう。俺は大切な人と、もう喧嘩はしないって約束したから。だから、もう二度と問題行動は起こさない」
 傑のその言葉に、不良たちが一斉に笑い始める。
「あはははは! ウケる! 今更いい子ぶるのかよ⁉」
「怖気づいただけなんじゃねえの?」
 傑を罵倒する言葉に、僕は頭に一瞬で血が上っていく。
 それでも、傑は静かに不良たちを見渡した。
「もう喧嘩はしないから、帰ってもらえないか?」
「なんだと⁉」
 不良が傑の胸倉を勢いよく掴んだ瞬間──。
 その光景を目の当たりにしていた僕の心の中で、何かが音をたてて砕け散った。
 

(傑は、本当に僕との約束を守ってくれた)
 あんな子供じみた指切りだったけれど、傑はちゃんと覚えていてくれたんだ。
(傑を守りたい)
 僕の心の中で、今静かに闘志に火が付いたのを感じる。
 校則なんて今の僕にはどうでもいい。


 僕は建築現場に転がっていた鉄パイプを、迷わず拾い上げた。手に馴染むその重みは、まるで長年磨いてきた木刀の感触だ。
 制服のまま、僕は静かに剣道の構えを取った。
 足元を固め、重心を下げる。視界がすっと研ぎ澄まされ、目の前で傑を取り囲む不良たちが、ただの「標的」に見えてくる。
「そこまでだ……!」
 僕の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
 不良たちがニヤつきながら振り返ったが、鉄パイプを構えた僕の姿を見て、彼らの表情から余裕が消える。
 殺気、とまではいかない。けれど、全身から放たれるのは迷いなく相手を叩き伏せる、という強い意志を持った、普段の僕とは違う姿だった。
「傑は空手の有段者かもしれないけれど、僕は剣道の有段者だ!」
「なんだと……」
「それ以上、傑に触れるな!」
 鉄パイプの先が、地面を叩く。カツンという固い音が響くのと同時に、僕は一歩を踏み出した。
 もう優等生の僕じゃない。
 傑を守る為だったら、どんなルールも踏み越える。
 そんな腹を括った僕の瞳に、不良たちは気圧されたように後退った。


 鉄パイプを握る手に力が籠る。「傑から離れろ!」と喉元まで出かかった怒鳴り声を呑み込む。
 不良たちの懐へ飛び込もうと足を踏み出した瞬間だった。
「馬鹿が! 律逃げるぞ!」
「え? でも……⁉」
「駄目だよ。今ここでこんなことをしたら、校則に引っかかる」
「傑……」
「俺だけならまだしも、律だけは絶対に巻き込みたくない」
 力一杯僕の腕を掴んだのは、守るはずだった傑だった。
 その必死な響きに、視界を覆っていた殺気が、まるで霧のように晴れていく。僕は傑の言葉にハッと我に返った。
 傑は僕の腕を強く引き、工事現場から走り出す。僕たちは大通りへと向かった。
 走りながら、僕は鉄パイプをアスファルトの上に捨てた。カランという固い音が響く。その時僕は自分の手が震えていることに気付いた。
 それは怒りで震えているのか、それとも、あの一瞬で自分の全てを壊してしまいそうになった恐怖からか……。
 結局僕たちは逃げた。
 校則と言う鎖を守るために──。
 傑はこれで後悔をしないだろうかと不安になる。
 正しさを選んだはずの胸が、焼き付くように熱くて、息苦しかった。


 大通りへ出たところで僕たちは立ち止まる。
 お互い肩で息をしながら顔を見合わせた。
 僕はこんな経験をしたことがなかったから、正直とても怖かった。今だって情けないことに、微かに手が震えている。
 それでも傑の顔を見た瞬間、僕は安堵に包まれた。
 後ろを振り返ると、不良たちが追いかけてくる気配はない。安堵した僕たちは「ぷっ」と吹き出してしまう。それから、声を出して笑った。
 安心感と、危機を脱した達成感。僕たちはひどく興奮していたのかもしれない。
「あははは! さっきの律、めっちゃかっこよかったよ!」
「笑い事じゃないよ! 僕、本気で鉄パイプで戦おうとしたんだからさ!」
「鉄パイプで?」
「そう……。でも、よく考えたらおかしな話だよな。あははは!」
 僕は傑が、僕の為に喧嘩をしなかったことが嬉しかった。
 僕の為に……。
 そう考えると、心が喜びで満たされていく。


「これからどこかに遊びに行く? あ、でも律は門限があるんだっけ」
「別に門限なんて関係ないよ。それより、僕行きたい所があるんだ」
「行きたいところ?」
「うん。そこに連れて行ってほしいんだ」
 不思議そうな顔をする傑を見ると、また可笑しくなってきてしまう。
 僕は傑の手を引いて、歩き出した。

◇◆◇◆
 
 僕たちがやって来たのは、以前二人で訪れた夜景が綺麗な傑のお気に入りの場所だ。
 街の明かりが、宝石を散りばめたように遠くで輝いている。
 いつか、こうやってまた二人で来たいとずっと思っていた場所だった。
 僕たちは肩で息をしながら、丘の上に立ちつくしている。あんなに体が震えていたのに、今は不思議と、心臓の音だけが大きく響く。
「綺麗だな」
「うん。とっても綺麗だ」
 二人で同時に、ふうっと深い溜息を漏らす。
 鉄パイプを握っていた右手が、まだ少し強張っている。その手を不意に傑が包み込むように握った。
 傑の手は驚くほど温かくて、僕が必死に守り通そうとしていた「優等生」という鎧がガラガラと音をたてて崩れていくのがわかった。
『もう無理して優等生をしなくてもいいよ』
 傑がそう言ったわけではない。でも、握り締められたその手の温もりだけで、僕は今日一日、いや、ずっと自分を縛り付けていた鎖が外れたような気がした。
 傑の前だけでは、本当の自分でいられる──。
 こうしてただ隣で、傑に手を握られて同じ景色を見る。今の僕には、それだけで十分だった。


 僕は握られた手に力を込める。それから、静かに言葉を紡いだ。
「傑、僕の為に喧嘩をしないでくれてありがとう」
「あ、うん。だって俺は律と同じ世界にいたいから。俺は律が大事なんだよ」
「傑……」
 傑の言葉に胸が熱くなる。
 恥ずかしいけれど、嬉しくて、幸せで……。涙が出そうになった。
 目の前にはキラキラと輝く夜景。そして隣には傑。
 僕は、本当に幸せだ。
 月明かりに照らされて、傑の横顔が少しだけ大人びて見える。
 喉がひりつくような緊張で、心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴っていた。
 もう逃げ場はない。僕は震える声で、ずっと胸に溜め込んでいた想いを告げた。
「傑、僕は傑のことが好きだ」
「律……」
「そりゃあ第一印象は最悪だったよ。茶髪にロン毛、耳には数えきれないほどのピアス。僕の中ではありえない存在だった。でも今は違う。僕は、傑っていう人が好きなんだ」
 僕は傑を見つめて微笑む。
 どうかこの想いが伝わりますように……。
「見た目とかじゃなくて、冴木傑っていう人間が好きなんだ」
 言った途端、視界が滲んで自分でも驚くほど涙が溢れてきた。
「それに僕はわかったんだ。地位や名誉より大切なものがあるって。僕が一番大切なものは地位や名誉じゃなくて、傑なんだ」
 かっこ悪い……。
 涙は止まるどころか、次から次へと僕の頬を伝う。
(こんなところを見られたくない)
 そう思って俯こうした、その時だった。


「俺もだよ。ずっと、ずっと律のことが好きだった」
 目の前の傑は、困ったように眉毛を下げて、でも今まで見たこともないような、とろけるほど優しい笑顔で笑った。
 僕の頬を伝う涙を、傑がそっと指先で拭う。その指の温度が、肌を伝わって全身に電流のように広がるのがわかった。
 その顔を見たら、先ほどまであんなに張り詰めていた心が、一気に解けていくのを感じる。
 僕たちの距離はもうゼロだ。
 傑の吐息が近くて、鼓動が重なっていくのがわかる。
 温い夜の空気の中で、僕たちの周りだけが、触れたところから甘く熱を帯びていく。
 夜景が溶けだして、ただ傑の温もりだけがそこにある。
 言葉にするよりも先に、僕たちは想いを確かめ合うように唇を重ねた。
 胸の奥が甘く、熱く満たされていく。
「律が好き……」
「僕も好き」と言おうとしたけれど、もう一度傑に唇を奪われてしまい、それは言葉にできなかった。