黒板に書かれた数式を解説する数学教師の声が、僕の耳をすり抜けていく。
数学の授業は退屈すぎて、僕はいつも時間と意識を持て余してしまう。
窓の外の風景を眺めていることにも飽きてきて、教室の中に視線を戻した時、不意にそれが視界に入ってきた。
あの日から、僕がずっと避けているもの。
教室の中に、ただ一つだけある空席。
今年の夏まで三沢詩雨が座っていた場所。
春の日の午後に降る優しい雨のように、繊細で儚げな名前を持つ彼女は、もうこのクラスにはいない。主を失った空っぽの机と椅子が、ずっと避けていた現実を僕に明示する。
彼女が不在であることに、僕は喪失感を覚える。彼女がいない場所に自分がいる、という事実に強い違和感を感じる。
胸が苦しいな、と思う。
彼女が残していった教室の中の空白地帯は、僕の胸に空いた穴だ。
『私の世界にはユキ君しかいないの。だから、私を一人にしないで。ずっとそばにいてね』
初めてキスをした日、詩雨は僕にそう言ったのに。
『ずっとそばにいるよ。君のことが好きだから』
僕はそう約束したのに。
『ごめんね。私、嘘つきだよね』
彼女はそう言って、僕の前からいなくなった。
そうだよ、詩雨。
君は嘘つきだ。
僕のことを騙すなんて。
だけど、君に負けないくらいに僕だって嘘つきなんだから、それはお互い様だね。
僕達は、恋をするために嘘をついた。
叶わないはずの恋に少しの間だけ、魔法をかけてくれる嘘。
僕と詩雨のささやかな恋は、嘘をつくことで結ばれていた。
でもその魔法は、ある日突然、解けて終わってしまったんだ。
僕達をつないでくれる嘘は、もう残っていない。
さようなら、詩雨。
授業の終了を知らせるチャイムの音を聴きながら、僕はそっと彼女の席から視線を外した。
