壊れかけの最強軍人は、無能令嬢に執愛を捧ぐ

「今日の検査はここまでです」
 鏡華の正面に座る軍医の青年は記録帳を閉じ、包帯を巻いた鏡華の手を取る。
「血を採ったところは、しばらく安静にしていてくださいね。万が一具合が悪くなったら、こちらに知らせるように」
「わかりました。いつも色々とありがとうございます」
 鏡華は軍医の青年へ丁寧に頭を下げた。
 綾人の症状を抑えたあの日、鏡華の血は異能による症状を抑えると、軍から正式に認められた。故に治療法を探るため、鏡華は定期的に治安部隊の医療班で身体検査を受けている。医療班にいる分析に長けた異能者たちの力も相まって、鏡華の血は数滴摂取しただけでは効果がなく、一定以上を摂取しなければならないこともわかってきた。成果が出れば役に立てている実感もわいてきて、鏡華としては喜ばしい。
 だが中には、快く思わない者もいた。
「……なに腕を握ってるの」
 昏い声が、鏡華の後ろから響いてくる。
 軍医の青年は鏡華の腕を放して立ち上がり、焦り気味に敬礼した。
「よ、四ツ辻副隊長、お疲れ様です!」
 いつの間にか、綾人が後ろに立っていた。いつもの軍服に外套をまとい、腰にはめずらしく刀を差している。艶のある黒の鞘と金色の鍔が、闇色の外套によく似合っていた。
 隣にやってきた綾人は、鏡華の肩を抱きながら、不機嫌そうに軍医の青年をにらみつける。
「この子は僕の婚約者なんだけど。君、殺されたいわけ?」
「ま、まさか!」
 青年は冷や汗を流しながら震え上がっている。
 鏡華がなだめるように綾人の腕に触れた。
「綾人さん、大丈夫ですよ。ただ腕を診てくれていただけですから」
「ふぅん、ならいいよ。帰ろう、鏡華」
 彼は鏡華の手を取り、踵を返す。手を引かれながら鏡華は椅子から立ち上がり、軽く一礼して医療班の部屋を後にした。
 綾人と共に詰所を出て、四ツ辻家の屋敷の方へと歩いていく。都の中心へ行くに従って人が増えていったが、彼が手を離す様子はなかった。鏡華は綾人の手の温もりを感じながら、彼を見上げる。
「仕事は大丈夫だったのですか?」
「うん、休憩中だし。ちょっと最近ばたついてるから、来るのが遅くなっちゃったけど」
「なら無理をしなくてもよかったのに。一人で帰るくらいできますよ」
「いやだ。鏡華を一人で男ばかりの獣の巣窟から帰すなんて……なにかあったらどうするの」
「獣の巣窟って……ご自分の職場ではないですか」
 綾人が本気であり得ないという顔をするので、鏡華は思わず笑ってしまった。
 医療班へ定期的に通うようになってから、綾人はこうして鏡華の送り迎えをしてくれていた。先ほどのようなひと悶着も時々あるが、それを軽くなだめられるほどには、鏡華も綾人といることに慣れてきている。むしろ他人に触れられただけで心配されてしまうほど大事にされていることが、ほんの少しだけ嬉しくもあった。牽制の言葉が、少々――いやかなり、大げさではあるけれど。
「ところで、その刀はどうされたのです?」
 詰所を出てからずっと気になっていた。異能力で大抵のものを切り裂いてしまう綾人は、武器を必要としていなかったのに。
「今日、支給してもらったんだ。ちょっと思うところがあったし、また近いうちに激しめの戦いがあるだろうから。ま、これじゃあとどめはさせない相手だけど」
 武器では倒せない――つまり、綾人の相手は異能でしか対抗できない者だ。
「……以前の、方ですか」
 声を落として問い掛けると、綾人は小さく頷いた。
 綾人が狂人化しかけ、鏡華の血の力が示されたあの夜。彼らが戦っていたという狂人化した異能者は、結局見つかっていないらしい。今は綾人たち零番隊が、必死になって探しているそうだ。
「被害が一切ないのが不幸中の幸いかな。僕たちも全力を尽くしてるけど……外に出るときは気を付けて」
「わかりました。私もみなさんや……綾人さんの役に立てなくなるのは、嫌ですから」
 その後、通りがかった市場を覗いて夕食の買い物をした。綾人はアジの干物と豆腐の味噌汁が好きらしく、その材料を買うと無邪気に笑った。名家の生まれなのに随分と質素なものを好むのだなと思ったが、甘味だけの食生活が長かったのなら、そうなってしまうのも無理はない。
 買った食材と共に屋敷へ戻ると、綾人はようやく鏡華の手を解放した。
 荷物を家の中まで運び込んでから、彼は再び詰所に戻ることになった。鏡華も綾人を見送りに、門の外まで一緒に行った。
「それじゃ、また夕方に。ご飯、楽しみにしてるね」
「はい、送ってくださってありがとうございました」
 綾人は笑みを浮かべて踵を返す。だが、なにかを思い出したように途中で足を止めた。
「そういえば、渡すの忘れてた」
 彼はポケットから細長い箱を取り出し、鏡華に差し出してきた。受け取って開くと、そこには菫の飾りのついた美しいかんざしが入っていた。以前、薫子に壊されて、修補もできずに箱に入れて保管していた、あのかんざしだった。
「ど、どうして……」
「鏡華の部屋で見つけてさぁ。もったいないから直しておいたんだ」
 前回の彼の休日、たまたま鏡華の部屋に入ったときに見つけたのだと彼は語る。
「……っ」
 鏡華は箱を胸に抱いた。勝手に部屋に入っては駄目とか、人の持ち物を探るのはいけないとか、言いたいことはたくさんあった。けれど大事なものを元に戻してくれた喜びの前には、それらも些細なことに思えてくる。
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして。今度、使ってるところ見せてねぇ」
 綾人は嬉しそうに微笑んで、今度こそ詰所へ帰っていった。
 鏡華はかんざしを取り出し、髪をまとめて結い上げる。亡くした母の存在と、綾人の思いを同時に感じて、心がじんわり熱くなった。それと同時に、とくりと心臓が動き出す。
 綾人が不安定で危険な人間であることは変わりない。けれどその心の叫びを聞いて彼を知り、今のように大事に扱われて、いつの間にか鏡華は綾人に心を許してしまっていた。それどころか、今では一緒にいるのを居心地がいいとさえ思っている。
 ――この気持ちを、なんというのだろうか。
 考えようとしたときに、背後で誰かの薄笑いが聞こえた。
「お久しぶり。そしておやすみ、お姉様」
 耳元で記憶の彼方に封じた声がして、ぞわりと背中が粟立った。直後に目と口を封じられ、思考が闇の底へ落ちていく。
 ――夕飯は、作れないかもしれないわ。
 最後に浮かんだのは、綾人を悲しませてしまうかもしれない苦しさだった。