壊れかけの最強軍人は、無能令嬢に執愛を捧ぐ

 彼に朝食を作って以来、鏡華は少しずつ四ツ辻家の家事をしていった。と言っても広い庭と部屋の掃除に、洗濯、裁縫、買い物に朝夕の食事作りと、簡単なことだけだ。綾人が仕事に向かった後の四ツ辻家の屋敷は、しんと静まりかえってしまう。だから、なにかをしていなければ落ち着かなかった。
 綾人は鏡華が家事をすることが気に入らなかったようで、初めのうちは何度か怒りも向けてきた。だが婚約者の役目だからとなだめているうちに慣れていったらしく、次第に怒りではなく喜びや感謝を表してくれるようになった。
「今日のご飯もおいしい。僕の婚約者は天才だね!」
「最近、家の中が明るいね。鏡華が掃除してくれたおかげかな」
 一つ一つを言葉にしては、鏡華を婚約者と呼び、抱きしめたり撫でたりと甘やかす。慣れない接触で、鏡華は度々顔を赤くしていたが、同時に温かな気持ちが心に広がっていた。
 紗霧の家では自分の行為が歓迎されることなどなかった。しかし彼は、怒りを滲ませることはあっても、最終的には鏡華の行動を受け入れてくれる。ゆえに綾人の笑顔を見る度に、自分が認められたような心地になった。
 だが一つ、怪我の手当だけは、どうしてもさせてはくれなかった。
 軍人であり、零番隊として常に危険の中に身を置く彼は、毎夜多くの傷を負って帰って来る。だが鏡華が心配し、手当を申し出ても、全てを断られてしまうのだ。
「これくらい大したことないし、放っておけば治るよ」
 綾人はそう言うものの、軍服が破れ、その下から血が滲んで染みを作っている状態を、大したことがないとはとても言えなかった。けれど婚約者という立場を理由にしても、彼が折れてくれることはなく、なにもできずに時間だけが経っていく。
 加えて実験の方も、進捗は芳しくなかった。毎夜帰ってきた綾人に血を軽く舐めてもらっているものの、今のところ彼に変化は見られない。あの夜狂人化した異能者を抑えたことが、夢だったのではと思えてくる。
「別にいいよ、大した期待はしてなかったから」
 どれだけ効果が出なくても、綾人はそう言って平気そうに笑っている。それがとても悔しかった。予想通り、自分の血が異能の症状に効果があるのなら、この国の異能者の役に立ち――そして、綾人を救うことができるのに。このままでは自分は、以前と同じく役立たずだ。胸の中で無力感と焦燥が徐々に膨らんでいくも、どうしていいか鏡華にはわからなかった。
 そんな、ある日の夜だった。
 いつも通り夕飯を作り、居間で洗濯物を畳みながら綾人の帰りを待っていると、にわかに外が騒がしくなった。
 誰かが言い争っているのだろうか。それとも、泥棒でも入ったのか。
 警戒しながら玄関へ向かった鏡華は、勢いよく扉を開けた者の姿に目を見張る。
「浅川さん……?」
「すまない、鏡華さん。緊急事態だ。奧に行っていたほうがいい」
 息を切らせた浅川が、焦った顔でそう告げてくる。彼の軍服は汚れ、頬や手の甲は切り傷まみれだった。
「いったいなにがあったのです――」
 口を開きかけた時に、甲高い笑い声が扉の外から聞こえてきた。
「あはっ、あははははははは! 止めないでくださいよぉ浅川隊長。標的、まだ殺してないじゃないですかぁ。僕、もっと戦えますから。まだまだ、殺させてくださいって! あははははははは!」
「綾人さん!?」
 笑いながら玄関に入ってきたのは綾人だった。部下と思わしき青年三人に体を羽交い締めにされながら、それでも外へ行こうと彼らの腕や体を押し退けている。その体は、浅川以上に傷だらけだった。腕にわき腹、太腿と、あちこちから大量に血が吹き出している。しかし相当な痛みを感じているはずなのに、彼の顔に浮かんでいるのは愉悦だけ。深淵の瞳は鏡華を映さず虚空を見据え、口角をつり上げたまま、けたけたと笑い続けている。
 目の前の壮絶な光景に、鏡華は言葉を失くしてしまった。鏡華を「婚約者」と呼ぶ普段の彼とは別人のようだ。
「早く中へ運べ! それからなんでもいい、拘束するものを探してこい! 自由にすればなにをするかわからないぞ!」
「は、はい!」
 三人は浅川の命令に応じると、焦った様子で綾人を玄関から屋敷の奥へと引っ張っていく。
「まさか、狂人化……?」
「いや、戦闘で興奮状態になり、中期の症状が悪化しているだけだ。だが今日の狂人化した標的は手強くてな。四ツ辻は一人先走って、異能を使い過ぎたのだ。もしかしたら……そのまま戻らないかもしれない」
 浅川が腰の刀に手を触れる。鏡華は胸をえぐられたような心地になった。
 戻らない――つまり中期から末期に移行し、狂人化するということだ。
 そうなれば綾人は死を与えられてしまう。彼が自分の運命だと語った通りに、仲間だった零番隊の手によって。
 次第に脈が早くなる。脳裏には料理に喜んでくれた綾人の笑顔が浮かんでいた。
 共に過ごし始めてからさほど時間は経っていない。けれど彼は決して鏡華を蔑ろにしなかった。彼からすれば婚約者ごっこの一環なのかもしれないが、それだけで鏡華は救われていた。
 心の中に広がる痛みと悲しみが、どんな思いから生まれたものかはわからない。ただ今は、綾人を失いたくないと強く思った。
 ――彼の役に立ちたい。本来の意味で。
「私、いかないと」
「鏡華さん!? 駄目だ、今は――」
 浅川が制止するのも振り切って、鏡華は綾人を探して廊下を走る。一番広い広間から、叫び声と笑い声が聞こえてきた。新しい血痕のついた襖に手をかけ、勢いよく開く。
「あははは、だから離してってばぁ!」
「駄目です! 大人しくしてください――って、鏡華さん!?」
 半狂乱で暴れる綾人を縄で縛ろうと四苦八苦していた部下たちは、入ってきた鏡華を見て焦燥を浮かべる。
「危ないですから、今は出ていて!」
「そうだ、鏡華さん。拘束するまで近づかない方がいい!」
 後ろから追いかけてきた浅川も、鏡華の肩に手を当てる。
 だがその手を、鏡華はやんわり払いのけた。
「それだと、遅くなるかもしれないでしょう」
 鏡華は浅川の腰に差された刀に目をやった。
「刀を、貸してください」
「き、急になぜだ?」
「いいから早く。お願いします……!」
 気迫に押された浅川が、刀を抜いてよこしてくる。鏡華はそれを受け取ると、服の袖をたくし上げ、己の細い左腕を出した。
「みなさんは、綾人さんを抑えていてください」
 その場の全員にそう告げると、鏡華は刀身を左腕にあてがい――そして一気に引いた。
「――っ!」
 引き裂かれた腕から、赤い血がどぷりと溢れ出してくる。鋭い痛みが広がって、大粒の涙が溢れ出た。だがここで止まるわけにはいかない。鏡華は刀を置いて綾人に駆け寄ると、暴れる彼の口に傷付けた腕を押しつけた。
「綾人さん、飲んでください!」
「まだ殺したりないよ、あはははは」
「綾人さん……!」
 痛みと悲しみで涙をこぼしながら、さらに強く腕を押し当てる。
 もしも本当に、自分の血に異能の症状を抑える効果があるのなら、これで彼は元に戻る。狂人化させずに済むはずなのだ。
「お願い、戻ってきて……!」
 祈りのように呟いた時、綾人の動きが静止した。笑い声もぴたりと止んで、代わりにかすれた声がした。
「あ……れ……鏡華……?」
「綾人さん……!」
 綾人は瞳に戸惑いの色を滲ませながら、まっすぐ鏡華を見つめていた。周りの浅川と部下たちは、その光景に大きく目を見開く。
 安堵で頬を緩ませながら、鏡華は彼の口から腕を外す。自分の血は本当に効いたのだ。今まで効果がわからなかったのは、差し出す血の量が少なかったからか、綾人に今日のような明確な症状が出ていなかったからかもしれない。
「どう、して……僕……狂人化したと、思ったのに……」
「私の血を飲ませました。いつもよりたくさん。戻ってきてくれてよかった……」
「血……? ほんとに、効果があったの……?」
 鏡華は「はい」と強く頷いた。それがきっと、綾人の希望になると思って。
 だが彼は、両手で顔を覆いながら、絶望したように呟いた。
「ああ……そんな……治っちゃうなんて……」