翌朝。早起きした鏡華は、炊事場に立っていた。昨日綾人と話した後、都へ走って閉店直前の店で米や野菜、魚の干物を買ってきたのだ。夕方でほとんど売り切れ間近だったが、なんとか食事が作れる程度には食材が手に入った。
鏡華は庭の井戸から水を汲んできて、調理器具を入念に洗うと、朝食作りに取りかかる。
「調味料は、使えそうなものがあってよかったわ」
汁物の鍋に味噌を溶かし、アジの干物を網で焼いて、米は羽釜に入れて焚く。羽釜からいい匂いが漂い始めた頃、炊事場の扉ががらりと開いた。
「こんなところにいた。鏡華は朝早いんだねぇ」
「あ……おはようございます、綾人さん」
鏡華は小さく頭を下げた後、ふいと顔をそらしてしまう。今の綾人は髪を下ろし、紺色の着流しを纏っていた。軍服姿も美しかったが、着物だと胸元や袖口から素肌が見えて、一層色気が際立っている。なんだか頬が熱くなり、心がそわそわと落ち着かない。
早鐘を打つ心臓を鎮めようと、味噌汁の鍋を杓子でぐるぐるかき混ぜる。そのとき肩に温かな重みが乗った。
「寝室にいなかったから逃げちゃったかと思ったよ。いてくれてよかったぁ」
「ひゃっ!?」
耳元で綾人の声がして、鏡華の心臓が跳ね上がった。後ろから彼が自分を抱きすくめている。顔の熱が一気に上がり、鏡華は頓狂な声を上げた。
「い、いきなりどうしたのです!?」
「だって朝起きて抱きしめるなんて、婚約者らしいでしょ?」
そう言われても、婚約者などいたことのない鏡華にはわからない。だが少なくともこのままでいれば、鏡華は恥ずかしさのあまり破裂してしまう。
「で、できれば離れていただけると……」
「なぁに、嫌なの?」
途端に綾人の声が低くなり、鏡華の鼓動が別の意味で早まった。
――失敗した。直感的にそう思う。
脳裏に浮かぶのは、あの夜返り血を浴びて笑っていた綾人の姿。この人を怒らせればどうなるかわからない。鏡華は内心震えながら、弁解しようと口を開く。
「そ、そうではなく。殿方とこの距離になるのは、慣れていなくて」
「照れてたんだ。僕の婚約者はかわいいねぇ」
綾人は声の調子を戻すと、笑いながら鏡華を解放した。機嫌は元に戻ったらしい。鏡華はほっと息をついた。
「さてと、鏡華も堪能したし、僕は朝食を食べてくるよ」
綾人は踵を返し、「金平糖、まだあったかな」などと呟いている。今朝も昨日と同じく、甘味で食事を済ませようとしているのだろう。だが今回は黙って見過ごせない。鏡華は深呼吸して腹を決めると、思いきって綾人の着物の裾を掴んだ。
「待ってください」
「なぁに? まだ用事でもあった?」
「これを、食べてもらえませんか」
鏡華は作っていた味噌汁を指さした。いくら死の運命が避けられないとしても、彼はこの国を守る軍人でもあるのだ。甘味だけではなく普通の栄養も取らなければ、異能の進行と関係なく、体が保たずに倒れてしまう。それに昨日、自身の境遇を語る綾人を見て、少しでも何かの役に立ちたいと思った。
紗霧の家では因縁を付けられることも多かった鏡華の料理。しかし今日は何度も味見をしたし、食べられるものにはなっているはずだ。
綾人は鍋と鏡華を見比べながら首をかしげた。
「これ……僕のだったの? 君のではなく?」
「私のもあります。でもあなたの分も作りました」
答えた瞬間、ざわりと炊事場の空気が揺れた。綾人を中心に微かな風が生まれ、調理器具をかたかた鳴らす。
「……なにそれ。そんなの頼んでないんだけど」
背筋が凍るような冷たい声で、綾人はそう言った。
どうやら再び怒らせてしまったらしい。しかも先ほどよりも盛大に。恐怖で全身が凍り付く。だが綾人の体を思えば、鏡華も引き下がる訳にはいかなかった。
「こ、婚約者らしいかなと思いまして! ほら、結婚すれば妻が夫に食事を作るのは、当たり前でしょう?」
婚約者、と言う言葉に、綾人の眉がぴくりと動いた。彼は少し思案した後、風を鎮める。
「……まあ、確かにねぇ。じゃあ鏡華は、夫婦みたいなことしたくて作ってくれたんだ」
「は、はい。その通りです」
「あは、嬉しい。ならせっかくだし、もらおうかな」
綾人の表情に笑顔が戻った。なんとか危機は脱したようだ。
「茶の間で待っていてください。出来たら運びますから」
「はぁい。楽しみにしてるねぇ」
彼が炊事場から出て行くと、鏡華は深い息を吐き、床にへたりこむ。
「殺されるかと思ったわ……」
甘い態度を取ったかと思えば、突然怒りを滲ませてくる。今朝だけでこれでは、この先心臓が幾つあっても足りやしない。だが自分が役に立つためには、彼と共にいて血の力を証明するしかないのだ。
幸い彼は「婚約者らしさ」にこだわっている節がある。それを理由にすれば、ある程度は許してくれるかもしれない。危なくなったら、婚約者の立場を使うのが平穏に済ませる最善手だろう。
一度心を落ち着かせてから、鏡華は米を茶碗に盛り、味噌汁とアジの干物を皿に入れていく。名家であることを考えれば質素な食事だったが、金平糖よりはましなはずだ。
料理を乗せた膳を持って茶の間に入ると、綾人は正座して待っていた。
「どうぞ。お口に合えばいいのですが」
「婚約者が作ってくれたんだから。きっとおいしいよ」
彼はにっこり微笑むと、美しい所作で汁椀を手に取り、口に運んだ。途端にぱっと頬を紅潮させる。
「すごくおいしい! 鏡華は料理上手だね」
「そ、そこまででは……」
手放しでまっすぐに褒められて、頬が熱を持つのを感じた。
「謙遜しなくていいって。ふふ……あったかい食事を家で食べるの、いつ振りかなぁ」
綾人は嬉しそうにしながらあっという間に食事を平らげ、味噌汁のおかわりを要求してくる。鏡華は嬉しくなりながら炊事場に向かおうすると、不意に彼から呼び止められた。
「鏡華は、ご飯食べたの?」
「いえ、まだですが……」
「ならさ。一緒に食べようよ」
「……いいのですか?」
紗霧の家では、家族と食事を取ることは許されなかった。だから当然、この家でも別で食べるものと思っていたのだ。しかし鏡華の問い掛けに、綾人は当然のように微笑んだ。
「当たり前だよ。僕ら、婚約者なんだし」
とくりと小さく胸が鳴る。一人の人として、対等に扱われたのは久しぶりだった。
自分と綾人は、実験のための偽りの関係。それでも彼は、自分なりに鏡華を大事にしてくれようとしているのだろう。恐ろしい男だが、根には優しさもあるのかもしれない。
「……ありがとう、ございます」
じんわり胸が温かくなるのを感じながら、鏡華は小さく微笑み返した。
***
「どうして誰もいないのよ! 私はおまんじゅうが食べたいのに!」
鏡華のいなくなった紗霧家で、薫子は机を叩きながら叫んでいた。衝撃で湯飲みが倒れるも、零れたお茶を掃除しようとやってくる使用人は誰もいない。
「これも全部、お姉様のせいよ……!」
世間で恐れられる零番隊の綾人が鏡華を迎えに来たことで、使用人たちは紗霧が彼らに目を付けられたのだと思い込んだ。そして示し合わせたように揃ってやめていってしまったのだ。
廊下を通りがかった父は、かんしゃくを起こす櫻子に冷たい目を向ける。
「黙れ、みっともない」
「でもこんなのおかしいわ、お父様! 私たち、なんにもしてないのに!」
薫子の叫びに、父親はあごひげに触れながら思案する。
「……確かに、零番隊の者どもがあれを気にするのは少々不自然だな」
やがて父親は口角を上げ、愉快げな瞳で薫子を見た。
「少し……調べてみてもいいかもしれぬ」
「お手伝いしますわ、お父様」
紗霧の父子は、そろって歪んだ笑みを浮かべた。
***
鏡華は庭の井戸から水を汲んできて、調理器具を入念に洗うと、朝食作りに取りかかる。
「調味料は、使えそうなものがあってよかったわ」
汁物の鍋に味噌を溶かし、アジの干物を網で焼いて、米は羽釜に入れて焚く。羽釜からいい匂いが漂い始めた頃、炊事場の扉ががらりと開いた。
「こんなところにいた。鏡華は朝早いんだねぇ」
「あ……おはようございます、綾人さん」
鏡華は小さく頭を下げた後、ふいと顔をそらしてしまう。今の綾人は髪を下ろし、紺色の着流しを纏っていた。軍服姿も美しかったが、着物だと胸元や袖口から素肌が見えて、一層色気が際立っている。なんだか頬が熱くなり、心がそわそわと落ち着かない。
早鐘を打つ心臓を鎮めようと、味噌汁の鍋を杓子でぐるぐるかき混ぜる。そのとき肩に温かな重みが乗った。
「寝室にいなかったから逃げちゃったかと思ったよ。いてくれてよかったぁ」
「ひゃっ!?」
耳元で綾人の声がして、鏡華の心臓が跳ね上がった。後ろから彼が自分を抱きすくめている。顔の熱が一気に上がり、鏡華は頓狂な声を上げた。
「い、いきなりどうしたのです!?」
「だって朝起きて抱きしめるなんて、婚約者らしいでしょ?」
そう言われても、婚約者などいたことのない鏡華にはわからない。だが少なくともこのままでいれば、鏡華は恥ずかしさのあまり破裂してしまう。
「で、できれば離れていただけると……」
「なぁに、嫌なの?」
途端に綾人の声が低くなり、鏡華の鼓動が別の意味で早まった。
――失敗した。直感的にそう思う。
脳裏に浮かぶのは、あの夜返り血を浴びて笑っていた綾人の姿。この人を怒らせればどうなるかわからない。鏡華は内心震えながら、弁解しようと口を開く。
「そ、そうではなく。殿方とこの距離になるのは、慣れていなくて」
「照れてたんだ。僕の婚約者はかわいいねぇ」
綾人は声の調子を戻すと、笑いながら鏡華を解放した。機嫌は元に戻ったらしい。鏡華はほっと息をついた。
「さてと、鏡華も堪能したし、僕は朝食を食べてくるよ」
綾人は踵を返し、「金平糖、まだあったかな」などと呟いている。今朝も昨日と同じく、甘味で食事を済ませようとしているのだろう。だが今回は黙って見過ごせない。鏡華は深呼吸して腹を決めると、思いきって綾人の着物の裾を掴んだ。
「待ってください」
「なぁに? まだ用事でもあった?」
「これを、食べてもらえませんか」
鏡華は作っていた味噌汁を指さした。いくら死の運命が避けられないとしても、彼はこの国を守る軍人でもあるのだ。甘味だけではなく普通の栄養も取らなければ、異能の進行と関係なく、体が保たずに倒れてしまう。それに昨日、自身の境遇を語る綾人を見て、少しでも何かの役に立ちたいと思った。
紗霧の家では因縁を付けられることも多かった鏡華の料理。しかし今日は何度も味見をしたし、食べられるものにはなっているはずだ。
綾人は鍋と鏡華を見比べながら首をかしげた。
「これ……僕のだったの? 君のではなく?」
「私のもあります。でもあなたの分も作りました」
答えた瞬間、ざわりと炊事場の空気が揺れた。綾人を中心に微かな風が生まれ、調理器具をかたかた鳴らす。
「……なにそれ。そんなの頼んでないんだけど」
背筋が凍るような冷たい声で、綾人はそう言った。
どうやら再び怒らせてしまったらしい。しかも先ほどよりも盛大に。恐怖で全身が凍り付く。だが綾人の体を思えば、鏡華も引き下がる訳にはいかなかった。
「こ、婚約者らしいかなと思いまして! ほら、結婚すれば妻が夫に食事を作るのは、当たり前でしょう?」
婚約者、と言う言葉に、綾人の眉がぴくりと動いた。彼は少し思案した後、風を鎮める。
「……まあ、確かにねぇ。じゃあ鏡華は、夫婦みたいなことしたくて作ってくれたんだ」
「は、はい。その通りです」
「あは、嬉しい。ならせっかくだし、もらおうかな」
綾人の表情に笑顔が戻った。なんとか危機は脱したようだ。
「茶の間で待っていてください。出来たら運びますから」
「はぁい。楽しみにしてるねぇ」
彼が炊事場から出て行くと、鏡華は深い息を吐き、床にへたりこむ。
「殺されるかと思ったわ……」
甘い態度を取ったかと思えば、突然怒りを滲ませてくる。今朝だけでこれでは、この先心臓が幾つあっても足りやしない。だが自分が役に立つためには、彼と共にいて血の力を証明するしかないのだ。
幸い彼は「婚約者らしさ」にこだわっている節がある。それを理由にすれば、ある程度は許してくれるかもしれない。危なくなったら、婚約者の立場を使うのが平穏に済ませる最善手だろう。
一度心を落ち着かせてから、鏡華は米を茶碗に盛り、味噌汁とアジの干物を皿に入れていく。名家であることを考えれば質素な食事だったが、金平糖よりはましなはずだ。
料理を乗せた膳を持って茶の間に入ると、綾人は正座して待っていた。
「どうぞ。お口に合えばいいのですが」
「婚約者が作ってくれたんだから。きっとおいしいよ」
彼はにっこり微笑むと、美しい所作で汁椀を手に取り、口に運んだ。途端にぱっと頬を紅潮させる。
「すごくおいしい! 鏡華は料理上手だね」
「そ、そこまででは……」
手放しでまっすぐに褒められて、頬が熱を持つのを感じた。
「謙遜しなくていいって。ふふ……あったかい食事を家で食べるの、いつ振りかなぁ」
綾人は嬉しそうにしながらあっという間に食事を平らげ、味噌汁のおかわりを要求してくる。鏡華は嬉しくなりながら炊事場に向かおうすると、不意に彼から呼び止められた。
「鏡華は、ご飯食べたの?」
「いえ、まだですが……」
「ならさ。一緒に食べようよ」
「……いいのですか?」
紗霧の家では、家族と食事を取ることは許されなかった。だから当然、この家でも別で食べるものと思っていたのだ。しかし鏡華の問い掛けに、綾人は当然のように微笑んだ。
「当たり前だよ。僕ら、婚約者なんだし」
とくりと小さく胸が鳴る。一人の人として、対等に扱われたのは久しぶりだった。
自分と綾人は、実験のための偽りの関係。それでも彼は、自分なりに鏡華を大事にしてくれようとしているのだろう。恐ろしい男だが、根には優しさもあるのかもしれない。
「……ありがとう、ございます」
じんわり胸が温かくなるのを感じながら、鏡華は小さく微笑み返した。
***
「どうして誰もいないのよ! 私はおまんじゅうが食べたいのに!」
鏡華のいなくなった紗霧家で、薫子は机を叩きながら叫んでいた。衝撃で湯飲みが倒れるも、零れたお茶を掃除しようとやってくる使用人は誰もいない。
「これも全部、お姉様のせいよ……!」
世間で恐れられる零番隊の綾人が鏡華を迎えに来たことで、使用人たちは紗霧が彼らに目を付けられたのだと思い込んだ。そして示し合わせたように揃ってやめていってしまったのだ。
廊下を通りがかった父は、かんしゃくを起こす櫻子に冷たい目を向ける。
「黙れ、みっともない」
「でもこんなのおかしいわ、お父様! 私たち、なんにもしてないのに!」
薫子の叫びに、父親はあごひげに触れながら思案する。
「……確かに、零番隊の者どもがあれを気にするのは少々不自然だな」
やがて父親は口角を上げ、愉快げな瞳で薫子を見た。
「少し……調べてみてもいいかもしれぬ」
「お手伝いしますわ、お父様」
紗霧の父子は、そろって歪んだ笑みを浮かべた。
***



