綾人の仕事が終わった後、鏡華は四ツ辻家に連れて行かれることになった。途中で彼の行きつけらしい甘味屋に寄り、団子とまんじゅうを買ってから屋敷に向かう。
四ツ辻家の屋敷は、名家の名にふさわしい豪邸だった。大きな門をくぐると、白い砂利の敷かれた庭が広がっている。紗霧の家も広かったが、ここはそれがすっぽり入ってしまいそうな程だった。だが敷地内を進み、屋敷の中に入ると、異様な静けさが気になってきた。
「向こうが居間でそこが僕の執務室。隣が僕の寝室だよ。君の部屋は突き当たりに用意しているから、後で見ておいて」
綾人に案内されながら、長い廊下を歩いていく。だが屋敷の中にはひと気がなく、使用人とはまったくすれ違わない。そしてどの部屋にも壺や刀、掛け軸などの装飾品はもちろん、家具さえほぼ置かれていなかった。
「こっちが炊事場。まあほとんど使ってないけど」
促されるまま炊事場に入り、すぐに鏡華は咳き込んだ。かまども鍋もほこりを被っている。ほとんどどころか、全く使っていない様子だった。
名家である四ツ辻家の炊事場が、どうしてこんなことに。そう思っているとき、視界の端で何かがもぞもぞ動くのが見えた。
「きゃっ!」
一寸ほどの黒い虫が、鏡華の足元に走り出てきた。驚いた鏡華は、綾人の体に飛びついてしまう。
「……ああ、虫かぁ」
綾人は鏡華の肩を抱いたまま興味なさげに呟くと、軽く手を払った。途端に鋭い風が吹き、虫の体が四散する。一瞬で跡形もなくなった虫の姿に、鏡華は言葉を失った。
「虫、嫌いなの?」
「す、少し……」
「なら、ちょっと向こうに行ってて」
言われた通り、鏡華はその場から離れて炊事場に背を向けた。風の唸る音、何かが切り刻まれる音が続いた後、最後にごうっと疾風が過ぎ去る音がして、静かになる。
ゆっくり隣にやって来た綾人は、にぃと薄く微笑んだ。
「掃除しておいたから、もう大丈夫だよ」
なにをどう掃除したのか、恐ろしくて聞くことはできなかった。
一通り屋敷を回った後、綾人は仕事があるからと執務室に引きこもってしまった。
仕方なく鏡華は自分に用意された部屋へ向かう。七畳ほどの和室には、紗霧から運んでもらった荷物が置かれていた。ひとまず整理していくも、荷物は着物三着とかんざしだけで、あっという間に手持ち無沙汰になってしまう。
ぼんやり時間を潰そうにも、知らない場所だと妙に落ち着かない。おまけに夕暮れ時だというのに、使用人が夕飯を用意する気配は一向になかった。耐えかねて、鏡華は綾人の部屋へ向かう。
「あの、夕飯はどうしましょう?」
「あれ、もうそんな時間か」
執務机から顔を上げた綾人は、思い出したように脇においていた甘味屋の袋から、まんじゅうを取り出した。
「はい、鏡華の」
「これは……甘味ですが」
「そうだよ。今日の夕飯。団子がよかったら、僕と交換するけど」
「は……?」
まんじゅうと綾人の顔を見比べる。一瞬からかわれているのかと思ったが、綾人の表情からはそのような色は読み取れない。
「甘味が、夕飯ですか? 綾人さんも?」
「うん、僕はいつもこれ。あそこの団子が、一番腹持ちいいんだよねぇ」
「いくらなんでも、体に悪いのでは?」
甘味で食事を済ませるなんて、不健康極まりない。彼は軍人で、体が資本のはずなのに。
「いいんだよ。だって僕はもうすぐ死ぬんだからねぇ」
「え……?」
「四ツ辻家は全員、狂人化して仲間に狩られる運命なんだよ」
表向きには病と隠蔽されているが、軍人だった綾人の祖父と父、そして兄は全員狂人化して零番隊の人間に狩られているそうだ。その精神的苦痛によって母親は衰弱死したらしい。残った綾人も徐々に症状が進行し、そう遠くないうちに狂人化すると言われているそという。
「あまりに狂人化する人が多いものだから、使用人も気味悪がって全員やめちゃって。今この屋敷にいるのは僕だけだ。もちろん婚約の話も来たことがない。まあ、気楽でいいけどねぇ」
「そんな……」
なんとも言えない悲しさが、胸の中にこみ上げてくる。
広く静かな屋敷にたった一人。どれだけの孤独だっただろう。加えて病を抱え、じわじわと死に侵食されながら生きるのは、苦しいなんて言葉では足りないはずだ。昨晩、喰われかけた時に感じた恐怖が、生きている限り続くのだから。
「そんな顔しなくていいってぇ。一人なのも、もうすぐ殺される実感も、ずっと前に慣れちゃったし」
綾人は雑談でもするかのような軽い調子でへらりと笑った。
「適当に食事して、適当に生活して、適当に死ねたらそれでいいよ。ああでも、君は生きなきゃいけないから、ちゃんとしたものを食べなきゃなのかな」
綾人は執務机の引き出しから、ふくらみきった革の財布を取り出し、鏡華の前に差し出してくる。
「好きに使って。僕には必要ないし。なくなったらまた言えばいいよ」
ずっしり重い革袋は、鏡華の手の中でじゃらりと大きな音を立てた。その音に、なんだか悲しさが込み上げてくる。
彼はきっと鏡華とは別方向で、壮絶な人生を送ってきたのだろう。その末に、なにも求めず終わりを迎えようとしている。それはひどく、寂しいことに思えた。
「……変えられは、しないんですか」
「なにが?」
「あなたが、殺される運命を」
「同情してくれるの? 僕の婚約者は優しいねぇ」
綾人は上機嫌そうに声を弾ませて、その後肩をすくめた。
「でも残念ながら、無理かなぁ。異能力を使う頻度を下げればましになるかもしれないけど、僕は軍人だから気にしてられないし。残る方法は君な訳だけど……」
綾人は鏡華を見つめ、手招きをしてきた。訳のわからぬままそれに従い、綾人の方に体を寄せると、強く肩を掴まれる。
「……っ、なにを」
「ふぅん。けっこう深く噛まれたねぇ」
昨夜、狂人病の発症者に噛まれた鏡華の肩口を、綾人はを楽しげに眺めている。
「なにをするつもりです」
「上書きと味見」
直後に肩へ痛みが迸り、鏡華は喉をひきつらせた。男による噛み傷の上から、綾人が噛みついている。鋭い歯の痛みと舌が肌を這う感覚に、鏡華は思わず息を漏らした。
「へえ、人の血ってこんな味なんだ。でも効果はやっぱりよくわからないな。ぐちゃぐちゃになった頭が、少しはっきりしたくらいか」
「急に、なんてことをするのです……!」
鏡華はばっと綾人から離れ、乱れた着物を整える。恐怖と羞恥と、その他様々な感情がぐちゃぐちゃに心を埋めていた。
「ごめんねぇ。一応やらなきゃいけないからさ。でも僕としては、君の血には大して期待していないよ。ちょっと面白いものを見たから浅川隊長に報告したら、こうなっただけだし。君の血を過度に求めることはないから安心して」
「案じていただけるのはありがたいですが、次からは一声かけてもらえると嬉しいです」
「約束はできないかなぁ。まあでも善処するよ。僕たちは婚約者だからねぇ」
綾人は鏡華の髪を一房掬い、軽く口付ける。
「せっかく死ぬ前に婚約できたんだ。せめていっぱい楽しまなきゃ。だから君も僕が終わりを迎えるまで、実験のついでに婚約者ごっこをしてくれたら嬉しいな」
満面の笑みを浮かべる綾人に、鏡華は複雑な思いでうなずいた。
彼は強力な異能を持ち、容赦なく人を切り刻める恐ろしい人。でもそんな相手なのに、なんだかほっとけないような気持ちになってしまった。
四ツ辻家の屋敷は、名家の名にふさわしい豪邸だった。大きな門をくぐると、白い砂利の敷かれた庭が広がっている。紗霧の家も広かったが、ここはそれがすっぽり入ってしまいそうな程だった。だが敷地内を進み、屋敷の中に入ると、異様な静けさが気になってきた。
「向こうが居間でそこが僕の執務室。隣が僕の寝室だよ。君の部屋は突き当たりに用意しているから、後で見ておいて」
綾人に案内されながら、長い廊下を歩いていく。だが屋敷の中にはひと気がなく、使用人とはまったくすれ違わない。そしてどの部屋にも壺や刀、掛け軸などの装飾品はもちろん、家具さえほぼ置かれていなかった。
「こっちが炊事場。まあほとんど使ってないけど」
促されるまま炊事場に入り、すぐに鏡華は咳き込んだ。かまども鍋もほこりを被っている。ほとんどどころか、全く使っていない様子だった。
名家である四ツ辻家の炊事場が、どうしてこんなことに。そう思っているとき、視界の端で何かがもぞもぞ動くのが見えた。
「きゃっ!」
一寸ほどの黒い虫が、鏡華の足元に走り出てきた。驚いた鏡華は、綾人の体に飛びついてしまう。
「……ああ、虫かぁ」
綾人は鏡華の肩を抱いたまま興味なさげに呟くと、軽く手を払った。途端に鋭い風が吹き、虫の体が四散する。一瞬で跡形もなくなった虫の姿に、鏡華は言葉を失った。
「虫、嫌いなの?」
「す、少し……」
「なら、ちょっと向こうに行ってて」
言われた通り、鏡華はその場から離れて炊事場に背を向けた。風の唸る音、何かが切り刻まれる音が続いた後、最後にごうっと疾風が過ぎ去る音がして、静かになる。
ゆっくり隣にやって来た綾人は、にぃと薄く微笑んだ。
「掃除しておいたから、もう大丈夫だよ」
なにをどう掃除したのか、恐ろしくて聞くことはできなかった。
一通り屋敷を回った後、綾人は仕事があるからと執務室に引きこもってしまった。
仕方なく鏡華は自分に用意された部屋へ向かう。七畳ほどの和室には、紗霧から運んでもらった荷物が置かれていた。ひとまず整理していくも、荷物は着物三着とかんざしだけで、あっという間に手持ち無沙汰になってしまう。
ぼんやり時間を潰そうにも、知らない場所だと妙に落ち着かない。おまけに夕暮れ時だというのに、使用人が夕飯を用意する気配は一向になかった。耐えかねて、鏡華は綾人の部屋へ向かう。
「あの、夕飯はどうしましょう?」
「あれ、もうそんな時間か」
執務机から顔を上げた綾人は、思い出したように脇においていた甘味屋の袋から、まんじゅうを取り出した。
「はい、鏡華の」
「これは……甘味ですが」
「そうだよ。今日の夕飯。団子がよかったら、僕と交換するけど」
「は……?」
まんじゅうと綾人の顔を見比べる。一瞬からかわれているのかと思ったが、綾人の表情からはそのような色は読み取れない。
「甘味が、夕飯ですか? 綾人さんも?」
「うん、僕はいつもこれ。あそこの団子が、一番腹持ちいいんだよねぇ」
「いくらなんでも、体に悪いのでは?」
甘味で食事を済ませるなんて、不健康極まりない。彼は軍人で、体が資本のはずなのに。
「いいんだよ。だって僕はもうすぐ死ぬんだからねぇ」
「え……?」
「四ツ辻家は全員、狂人化して仲間に狩られる運命なんだよ」
表向きには病と隠蔽されているが、軍人だった綾人の祖父と父、そして兄は全員狂人化して零番隊の人間に狩られているそうだ。その精神的苦痛によって母親は衰弱死したらしい。残った綾人も徐々に症状が進行し、そう遠くないうちに狂人化すると言われているそという。
「あまりに狂人化する人が多いものだから、使用人も気味悪がって全員やめちゃって。今この屋敷にいるのは僕だけだ。もちろん婚約の話も来たことがない。まあ、気楽でいいけどねぇ」
「そんな……」
なんとも言えない悲しさが、胸の中にこみ上げてくる。
広く静かな屋敷にたった一人。どれだけの孤独だっただろう。加えて病を抱え、じわじわと死に侵食されながら生きるのは、苦しいなんて言葉では足りないはずだ。昨晩、喰われかけた時に感じた恐怖が、生きている限り続くのだから。
「そんな顔しなくていいってぇ。一人なのも、もうすぐ殺される実感も、ずっと前に慣れちゃったし」
綾人は雑談でもするかのような軽い調子でへらりと笑った。
「適当に食事して、適当に生活して、適当に死ねたらそれでいいよ。ああでも、君は生きなきゃいけないから、ちゃんとしたものを食べなきゃなのかな」
綾人は執務机の引き出しから、ふくらみきった革の財布を取り出し、鏡華の前に差し出してくる。
「好きに使って。僕には必要ないし。なくなったらまた言えばいいよ」
ずっしり重い革袋は、鏡華の手の中でじゃらりと大きな音を立てた。その音に、なんだか悲しさが込み上げてくる。
彼はきっと鏡華とは別方向で、壮絶な人生を送ってきたのだろう。その末に、なにも求めず終わりを迎えようとしている。それはひどく、寂しいことに思えた。
「……変えられは、しないんですか」
「なにが?」
「あなたが、殺される運命を」
「同情してくれるの? 僕の婚約者は優しいねぇ」
綾人は上機嫌そうに声を弾ませて、その後肩をすくめた。
「でも残念ながら、無理かなぁ。異能力を使う頻度を下げればましになるかもしれないけど、僕は軍人だから気にしてられないし。残る方法は君な訳だけど……」
綾人は鏡華を見つめ、手招きをしてきた。訳のわからぬままそれに従い、綾人の方に体を寄せると、強く肩を掴まれる。
「……っ、なにを」
「ふぅん。けっこう深く噛まれたねぇ」
昨夜、狂人病の発症者に噛まれた鏡華の肩口を、綾人はを楽しげに眺めている。
「なにをするつもりです」
「上書きと味見」
直後に肩へ痛みが迸り、鏡華は喉をひきつらせた。男による噛み傷の上から、綾人が噛みついている。鋭い歯の痛みと舌が肌を這う感覚に、鏡華は思わず息を漏らした。
「へえ、人の血ってこんな味なんだ。でも効果はやっぱりよくわからないな。ぐちゃぐちゃになった頭が、少しはっきりしたくらいか」
「急に、なんてことをするのです……!」
鏡華はばっと綾人から離れ、乱れた着物を整える。恐怖と羞恥と、その他様々な感情がぐちゃぐちゃに心を埋めていた。
「ごめんねぇ。一応やらなきゃいけないからさ。でも僕としては、君の血には大して期待していないよ。ちょっと面白いものを見たから浅川隊長に報告したら、こうなっただけだし。君の血を過度に求めることはないから安心して」
「案じていただけるのはありがたいですが、次からは一声かけてもらえると嬉しいです」
「約束はできないかなぁ。まあでも善処するよ。僕たちは婚約者だからねぇ」
綾人は鏡華の髪を一房掬い、軽く口付ける。
「せっかく死ぬ前に婚約できたんだ。せめていっぱい楽しまなきゃ。だから君も僕が終わりを迎えるまで、実験のついでに婚約者ごっこをしてくれたら嬉しいな」
満面の笑みを浮かべる綾人に、鏡華は複雑な思いでうなずいた。
彼は強力な異能を持ち、容赦なく人を切り刻める恐ろしい人。でもそんな相手なのに、なんだかほっとけないような気持ちになってしまった。



