月明かりのない暗い夜の都を、鏡華はひとり歩いていた。ひと気はなく、虫の声さえ聞こえない。辺りは不気味なほどの静けさに、体の前でぎゅっと手を握る。
夕食時の罰として、薫子から団子を買いに行けと命じられたのだ。こんな夜中に甘味屋が開いているはずがないのだが、従わなければまたひどい仕打ちをされるので、鏡華は黙って家を出た。
「仕方がないのよ。私は無能なのだから」
この桜華国は、異能と呼ばれる超常的な力を持つ者たちが、その力で国を守り、まつりごとを行うことによって栄えてきた国だ。異能は血筋によって継がれ、異能者の家系に生まれた者は、必ず十までに異能を発現させる。鏡華も母が特別な血筋だったらしく、昔は素晴らしい異能を授かると期待されていた。だが十歳を過ぎても異能が現れなかったため、父は後妻を迎えて薫子を作った。そして鏡華は母とともに見限られ、座敷牢に閉じ込められて虐げられる日々を送っていた。そのうち母は病で死に、鏡華は座敷牢から出された代わりに、使用人のような扱いを受けることになったのだ。
でもそれも当然なのかもしれない。薫子の言うとおり、異能の血筋に生まれておきながら、無能だった自分は社会の役立たずなのだから。
ふと、折られた母のかんざしを思い出す。
――あなたの存在は、たくさんの人を救えるの。でもなにを選ぶかは、あなた次第よ。
幼い頃、鏡華は母にそう言われてきた。けれどその意味は、未だにわからない。
がさり、と。不意に近くの路地で物音がした。
反射的にそちらを向き、直後に顔が引きつった。
商店の間の細い路地。そこで男が――人を喰っていたのだ。
鏡華は小さな悲鳴を上げてしまう。それに反応し、男がぐるりとこちらを振り向いた。
充血した真っ赤な目。剥きだした歯。それは人ではなく、飢えた獣の様相だった。
「狂人病……!」
精神が錯乱し、人間としての理性を失い、本能のままに他者を傷付ける病。異能者が稀に発症する、この国の闇でもあった。
狂人病に治療法はない。唯一発症者を止める方法は、異能を以て死を与えること。無能の鏡華にできるのは――ただ逃げることだけだ。
鏡華は踵を返し、無我夢中で家の方へと走り出す。けれど相手の方が身体能力は上だった。男は意味不明な雄叫びを上げ、こちらに飛びかかってくる。鏡華は押し倒され、背中を地面に打ち付けた。
「嫌、やめて……っ!」
馬乗りになった相手の体を押しのけようと、両手で思い切り体を突き飛ばそうとする。だが絶望的なほどに、相手はびくともしなかった。男は大口を開け、容赦なく鏡華の肩口に噛みついてくる。歯が肉に食い込む感覚が痛みとなって迸り、鏡華は涙と共に声にならない叫びをあげた。
このまま自分は喰われるのだ。無能で役立たずのまま、理不尽に命を奪われて。
――そんなの嫌だ。まだ死にたくない!
鏡華はもう一度、全身の力を腕に込めて、男を押した。すると先ほどまで全く動かなかった体が、今度は楽に後ろへ押しのけられる。
「え……?」
鏡華は目を疑った。目の前の男の顔が、先ほどの獣の形相から、元に戻っていたのだ。彼は血濡れた自分の手を、訳がわからないとでもいうように見つめている。
「狂人病は、元に戻らないんじゃ……」
だがそれも一瞬で、再び男は目を充血させ、獣のように唸り始めた。
はっと気づいた鏡華は、急いで地面から立ち上がろうとするも、足が縺れてうまく起き上がれない。その隙に、男が再び鏡華へ迫ってくる。
だがそのとき――大通りの向こうから、別の声が響いた。
「お嬢さん、こんな夜道を歩くなんて危ないよ。怖ぁい人に殺されちゃうからねぇ」
風が唸り、ぱっと目の前で赤い華が咲く。男の片足がなくなったかと思うと、血を吹き出しながら通りの端に転がった。
男は体の均衡を崩し、ぐらりと横に倒れていく。その後ろから、コツコツとブーツの音が響いてきた。
現れたのは、ぞっとするほどに美しい青年だった。年は二十代前半だろうか。顔は色白で、瞳は夜の闇よりなお深い深淵の色。鴉のように深い黒の長髪は、首の後ろで一つに束ねられている。纏う軍服に軍帽から、軍人なのは間違いない。加えて背中に羽織られた闇色の外套が示す組織は、一つしかなかった。
――陸軍異能特別治安部隊・零番隊。
国の後ろ暗い仕事を一手に担う、異能の狩人集団だ。所属するのは全員強い異能者ばかりで、都の人間に恐れられている。狂人病の発症者の処理をしているという噂もあったが、どうやら本当だったらしい。
「やれやれ、随分逃げまわってくれたね。僕は君を、殺したくて殺したくてたまらなかったのにさぁ」
青年は薄笑いを浮かべながら男に向かって指を打つ。再び風が唸ったかと思うと、男の背中がざっくり割れ、青年の半身に血が跳ねた。耳をつんざく悲鳴が辺りに響き――やがて聞こえなくなる。
「あは、終わっちゃった。もっと楽しみたかったのに」
頬に返り血を付けたまま、青年は動かなくなった男を見てにたりと笑った。美しい笑顔のはずなのに、背筋が凍り付いたような心地になる。
鏡華が動けないでいると、ぐるんと青年の顔がこちらを向いた。
「ところでそこのお嬢さん。さっき面白いことしてたよねぇ。一瞬でも狂人化した人間を元に戻すなんて。一体どうやったの?」
「し、知りません。私、なにもしていないので……」
鏡華は咄嗟に首を振る。零番隊の人間に目を付けられれば、どんな目に遭うかわからない。下手をすれば紗霧で虐げられるより、ひどい扱いを受ける可能性だってある。
「た、助けてくださってありがとうございました。私はこれで」
鏡華は急いで立ち上がり、逃げるように家へ走った。
戻って妹から怪我をしたのだと笑われて、自分の体がようやく血みどろであったことに気がついた。その後団子を買えずに服を汚したと、薫子に殴られ蹴られたが、鏡華はなにも感じなかった。本当に死ぬ目前だった恐怖に比べれば、彼女のかんしゃくなど大したことはなかった。
薫子の相手が終わって自室に戻った後、どっと疲れが溢れてくるのを感じながら、鏡香は布団に倒れ込む。今夜は運が悪かったのだ。きっと明日からは、いつもの日常に戻れるはず。そう念じながら、鏡華はそっと目を閉じた。
――だが翌日。
「紗霧鏡華さん。あなたを――婚約者に迎えたい」
昨夜出会った青年が部下を引き連れ家にやって来て、不敵な笑みを鏡華に向けた。
夕食時の罰として、薫子から団子を買いに行けと命じられたのだ。こんな夜中に甘味屋が開いているはずがないのだが、従わなければまたひどい仕打ちをされるので、鏡華は黙って家を出た。
「仕方がないのよ。私は無能なのだから」
この桜華国は、異能と呼ばれる超常的な力を持つ者たちが、その力で国を守り、まつりごとを行うことによって栄えてきた国だ。異能は血筋によって継がれ、異能者の家系に生まれた者は、必ず十までに異能を発現させる。鏡華も母が特別な血筋だったらしく、昔は素晴らしい異能を授かると期待されていた。だが十歳を過ぎても異能が現れなかったため、父は後妻を迎えて薫子を作った。そして鏡華は母とともに見限られ、座敷牢に閉じ込められて虐げられる日々を送っていた。そのうち母は病で死に、鏡華は座敷牢から出された代わりに、使用人のような扱いを受けることになったのだ。
でもそれも当然なのかもしれない。薫子の言うとおり、異能の血筋に生まれておきながら、無能だった自分は社会の役立たずなのだから。
ふと、折られた母のかんざしを思い出す。
――あなたの存在は、たくさんの人を救えるの。でもなにを選ぶかは、あなた次第よ。
幼い頃、鏡華は母にそう言われてきた。けれどその意味は、未だにわからない。
がさり、と。不意に近くの路地で物音がした。
反射的にそちらを向き、直後に顔が引きつった。
商店の間の細い路地。そこで男が――人を喰っていたのだ。
鏡華は小さな悲鳴を上げてしまう。それに反応し、男がぐるりとこちらを振り向いた。
充血した真っ赤な目。剥きだした歯。それは人ではなく、飢えた獣の様相だった。
「狂人病……!」
精神が錯乱し、人間としての理性を失い、本能のままに他者を傷付ける病。異能者が稀に発症する、この国の闇でもあった。
狂人病に治療法はない。唯一発症者を止める方法は、異能を以て死を与えること。無能の鏡華にできるのは――ただ逃げることだけだ。
鏡華は踵を返し、無我夢中で家の方へと走り出す。けれど相手の方が身体能力は上だった。男は意味不明な雄叫びを上げ、こちらに飛びかかってくる。鏡華は押し倒され、背中を地面に打ち付けた。
「嫌、やめて……っ!」
馬乗りになった相手の体を押しのけようと、両手で思い切り体を突き飛ばそうとする。だが絶望的なほどに、相手はびくともしなかった。男は大口を開け、容赦なく鏡華の肩口に噛みついてくる。歯が肉に食い込む感覚が痛みとなって迸り、鏡華は涙と共に声にならない叫びをあげた。
このまま自分は喰われるのだ。無能で役立たずのまま、理不尽に命を奪われて。
――そんなの嫌だ。まだ死にたくない!
鏡華はもう一度、全身の力を腕に込めて、男を押した。すると先ほどまで全く動かなかった体が、今度は楽に後ろへ押しのけられる。
「え……?」
鏡華は目を疑った。目の前の男の顔が、先ほどの獣の形相から、元に戻っていたのだ。彼は血濡れた自分の手を、訳がわからないとでもいうように見つめている。
「狂人病は、元に戻らないんじゃ……」
だがそれも一瞬で、再び男は目を充血させ、獣のように唸り始めた。
はっと気づいた鏡華は、急いで地面から立ち上がろうとするも、足が縺れてうまく起き上がれない。その隙に、男が再び鏡華へ迫ってくる。
だがそのとき――大通りの向こうから、別の声が響いた。
「お嬢さん、こんな夜道を歩くなんて危ないよ。怖ぁい人に殺されちゃうからねぇ」
風が唸り、ぱっと目の前で赤い華が咲く。男の片足がなくなったかと思うと、血を吹き出しながら通りの端に転がった。
男は体の均衡を崩し、ぐらりと横に倒れていく。その後ろから、コツコツとブーツの音が響いてきた。
現れたのは、ぞっとするほどに美しい青年だった。年は二十代前半だろうか。顔は色白で、瞳は夜の闇よりなお深い深淵の色。鴉のように深い黒の長髪は、首の後ろで一つに束ねられている。纏う軍服に軍帽から、軍人なのは間違いない。加えて背中に羽織られた闇色の外套が示す組織は、一つしかなかった。
――陸軍異能特別治安部隊・零番隊。
国の後ろ暗い仕事を一手に担う、異能の狩人集団だ。所属するのは全員強い異能者ばかりで、都の人間に恐れられている。狂人病の発症者の処理をしているという噂もあったが、どうやら本当だったらしい。
「やれやれ、随分逃げまわってくれたね。僕は君を、殺したくて殺したくてたまらなかったのにさぁ」
青年は薄笑いを浮かべながら男に向かって指を打つ。再び風が唸ったかと思うと、男の背中がざっくり割れ、青年の半身に血が跳ねた。耳をつんざく悲鳴が辺りに響き――やがて聞こえなくなる。
「あは、終わっちゃった。もっと楽しみたかったのに」
頬に返り血を付けたまま、青年は動かなくなった男を見てにたりと笑った。美しい笑顔のはずなのに、背筋が凍り付いたような心地になる。
鏡華が動けないでいると、ぐるんと青年の顔がこちらを向いた。
「ところでそこのお嬢さん。さっき面白いことしてたよねぇ。一瞬でも狂人化した人間を元に戻すなんて。一体どうやったの?」
「し、知りません。私、なにもしていないので……」
鏡華は咄嗟に首を振る。零番隊の人間に目を付けられれば、どんな目に遭うかわからない。下手をすれば紗霧で虐げられるより、ひどい扱いを受ける可能性だってある。
「た、助けてくださってありがとうございました。私はこれで」
鏡華は急いで立ち上がり、逃げるように家へ走った。
戻って妹から怪我をしたのだと笑われて、自分の体がようやく血みどろであったことに気がついた。その後団子を買えずに服を汚したと、薫子に殴られ蹴られたが、鏡華はなにも感じなかった。本当に死ぬ目前だった恐怖に比べれば、彼女のかんしゃくなど大したことはなかった。
薫子の相手が終わって自室に戻った後、どっと疲れが溢れてくるのを感じながら、鏡香は布団に倒れ込む。今夜は運が悪かったのだ。きっと明日からは、いつもの日常に戻れるはず。そう念じながら、鏡華はそっと目を閉じた。
――だが翌日。
「紗霧鏡華さん。あなたを――婚約者に迎えたい」
昨夜出会った青年が部下を引き連れ家にやって来て、不敵な笑みを鏡華に向けた。


