壊れかけの最強軍人は、無能令嬢に執愛を捧ぐ

 紗霧(さぎり)家の広い居間に、食器の鳴る音と朗らかな話し声が響いていた。会話の中心は妹の薫子(かおるこ)。義母が彼女を持ち上げて、父親は無言の肯定を示す。
 その様子を、この家の長女である紗霧鏡華(きょうか)は、端に控える使用人の中に混じって眺めていた。何度も繕い治した跡のある古着の着物の袖を握り、どうか今日はなにごともありませんようにと心の中で祈り続ける。だが、願いというのは大抵叶わないものなのだ。
「ちょっと、味噌汁に髪の毛が入ってるじゃない!」
 びくりと鏡華の体が震える。同時に振り向いた薫子と目が合った。彼女は意味ありげに唇の端を釣り上げて、長い茶髪を揺らしながら鏡華のそばにやってくる。
「見てよお姉様。これ、どう見ても髪の毛よね。誰のものかしら?」
 薫子から味噌汁に入っていたという髪の毛を突きつけられる。それは見事な茶髪だった。
「薫子のもの、では……」
 鏡華の髪は黒い長髪、他の使用人も全員黒だ。茶髪はこの家で、薫子と義母だけ。宇家に彼女の食事中、落ちて入ったと考えるのが自然だろう。だが返答をした鏡華の頭に、ばしゃりと冷たいものが振ってきた。見上げると、薫子の横に湯飲みが逆さまに浮いている。
「うふふ、お姉様。濡れ鼠がお似合いね」
 歪んだ笑みを見て、冷えた茶をかけられたのだと気がついた。見ると彼女の膳の上にあったはずの湯飲みがない。自身に触れずに物を操る異能を使って、薫子が引き寄せたのだろう。
「どうして自分で自分に気分が悪くなることをしなくちゃならないの。絶対にお姉様が入れたんだわ。異能を使える私を妬んで」
「妬むなんて、そんな……」
「ないと言い切れるの? 異能者の紗霧家に生まれたのに、無能なのは誰かしら。役立たずで満足してるわけ?」
「……」
 唇を噛んで沈黙した鏡華に、薫子は勝ち誇ったような顔を浮かべた。
「黙るってことは、やっぱりお姉様が犯人なんじゃない」
 突然、薫子に頭を押さえつけられる。混乱して抵抗できない鏡華の頭から、薫子はかんざしを抜き去った。鏡華の黒い髪が、背中にばらりと落ちていく。だが母の形見を奪われた鏡華に、それを気にする余裕はなかった。
「返して……! それは、それだけは……!」
「うふふ、嫌よ。いつも目障りだと思ってたの、これ」
 薫子はかんざしを地面に落とし、容赦なく踏みつけにする。菫の飾りが付いた細いかんざしは、ぱきりと音を立てて二つに割れた。
「あ……ああっ……」
 床を這うように手を伸ばし、壊れてしまったかんざしを掴む。そんな鏡華を、薫子は見下ろし嘲笑した。
「そうやってずうっと地べたに這いつくばっていればいいわ。無能で無価値な役立たずのお姉様」
 理不尽な仕打ち。暴言に暴力。すり減る心。それが鏡華の日常だった。