7月。期末テストを終えた放課後の教室は、湿った熱気に包まれていた。
クラスメイト達は次々と教室から出ていき、俺と山名だけが残った。
「成瀬、今日も会長と帰んの?」
「あー、今日はこれから会議だと思う。期末終わったから、2学期の文化祭の」
「そっか。大変だな」
前の席に座る山名と話しながら席を立つ。
生徒総会の日から1ヶ月。
あの日感じた山名の違和感は、少しずつ薄れていた。
カバンに荷物を詰めながら、「今年の文化祭なにするんだろうな」などと山名と話していると。
「いっ……」
「成瀬?どした?」
「なんか、目にゴミが……」
何度かパチパチと瞬きをするが、なかなかその痛みが引かない。
手で擦ってみるが状況は変わらなかった。
「待って成瀬。擦らないで」
そう言って山名が席を立った音が聞こえてくる。
「こっち向いて」
山名に言われるがままに顔を山名の方に向けると、山名の手が俺の頬に触れた。
涙目のまま、言われた通り目を擦らずにじっと山名を見つめる。
「あー、まつげが抜けて目に入ってる」
「え、取って」
「ん。動くなよ」
山名の指がゆっくりと目元に近づいてくる。
不可抗力で目を閉じそうになるのを頑張って耐える。
山名が何度か俺の目元を優しく擦った。
「はい、取れた」
「ありがと。助かった」
視界の違和感が消え、俺はようやく深く息を吐いた。
パチパチと瞬きをしながら山名を見上げる。
至近距離にいた山名は、指を離した後も、なぜか俺の頬に手を置いたままぼんやりと俺の顔を眺めていた。
「山名?」
「……あ、いや」
この感じ、生徒総会の日と同じだ。
薄れていた記憶が、少しずつその形を取り戻していく。
「あのさ……」
「悠」
俺が口を開きかけたところで、俺を呼ぶ声が聞こえる。
振り返ると、会長がドアの縁に手をかけて立っていた。
山名が俺の頬からパッと手を離す。
「迎えにきた。会議行くよ」
「あ、はい。じゃあまたな、山名」
「……おー。頑張って」
結局山名には何も聞けないまま、カバンを肩にかけて教室を後にした。
ーーーー
生徒会室まで向かう廊下を、会長と歩く。
いつもは会長がなにか話してくるのに、今日は無言だった。
「涼介先輩、どうかしました?」
「……別に」
聞いてもそう返されるだけだった。
不思議に思いながら歩くと、生徒会室にたどり着く。
「お疲れ様です……ってあれ」
挨拶しながら入ると、生徒会室にはまだ誰もいなかった。
まあそんなこともあるか。と特に疑問に思わず、カバンを机の上に置いていると。
カチャン、という音がして振り返る。
「涼介、先輩……?」
会長が部屋の鍵を閉めていた。
それだと他のメンバーが部屋に入れない。
「みんな入れなくなりますよ?」
「うん。今日は会議ないし」
「え?」
今日の朝、会議があると生徒会のグループチャットで会長が言っていたはずだ。
「佐伯がなんか用事があるみたいでこれなくて、三浦も体調崩したらしいから、また別日、ってことになったんだ」
グループチャットを確認すると、たしかに、佐伯先輩と三浦からその旨の連絡が入っていた。
「じゃあ……なんで?」
ますますわからない。会議がないんだったら、ここにくる理由はないはずだ。
でも、会長は何も言わず俺をじっと見つめるだけだった。
流石に無言に耐えられなくなった俺は口を開く。
「さっきから変ですよ。どうかしました?」
「…………」
「先輩?」
会長の顔を覗こうとした瞬間。
「うわっ」
腕をグイッと引かれたかと思ったのも束の間、会長の腕の中に閉じ込められる。
「か、会長……?」
なんで俺、会長に抱きしめられてんの!?
今まで恋人のふりとしてしたことと言えば、手を繋いだくらいで、ハグとかなんてしたことないのに…!?
心臓の音がこれでもかと言うほど頭の中に響いている。
会長の手が、俺の後頭部を優しく、けれど拒絶を許さない強さで包み込む。その指先が、俺の耳裏をゆっくりとなぞった。
「っ、……会長、待ってください。これ、必要あります……?」
俺は会長の胸に手を置き、必死に距離を保とうとした。
今は周囲に生徒もいない。
誰にもみられてない場所で、ここまで恋人役をする必要はないはずだ。
「今は、誰も見てません。役作りだとしても、やりすぎじゃ……」
俺の抵抗も虚しく、会長は腕に力を込める。
どうやら俺は逃げられないみたいだ。
「……役作りじゃ、ないよ」
「へっ……?」
予想外の言葉に思考が止まる。
会長はそんな俺の耳元で小さく囁いた。
「ねぇ、さっき何してたの?」
「さ、さっき?」
「とぼけるつもり?」
「いや、なんのことか……」
俺がそう言うと、会長の目の奥が鋭く光る。
なんか、まずいことを言った気がする……
会長は大きく息を吐くと、するりと俺の頬に手を滑らせる。いきなり触れられたからか、体がビクッと跳ねた。
「山名くんと、こうしてたでしょ」
「あ、あれは、ゴミが入って取れなくて……山名が取ってくれるって言うから……」
必死に弁解する俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
会長の目は依然として、俺を逃さないと物語っているようだった。
「悠」
名前を呼ばれ、思わず肩が跳ねる。
会長は諭すようなトーンで口を開いた。
「悠は、まだちゃんと俺の恋人だって自覚がないんじゃないかな。もし俺以外の誰かが見てたら、変な噂を立てられてたかもしれないよ?」
「それは……」
「俺を心配させないで。悠に何かあったら、俺は自分を許せなくなる」
そう言われてしまうと、なにも反論できなくなる。
俺は大人しく、謝ることしかできなかった。
「……すみません。そこまで考えてませんでした」
「うん。わかってくれたんならいいよ」
会長はそう言うと、いつもの笑みに戻った。
その笑みにどこかホッとする自分がいた。
やっと解放されると思っていたが、俺の予想とは裏腹に会長は俺を抱きしめたまま、肩に顔を埋めた。
「か、会長?まだなんかあります?」
「涼介」
「えっ?」
「涼介って呼ぶ約束でしょ」
「あ、あぁ。涼介先輩」
気が動転しすぎて、名前を呼ぶのを忘れていた。
俺が言い直すと、会長はため息をつく。
「さっきは役作りじゃない、って言ったけどさ」
「悠がそんなんじゃ、いつボロが出るかわかんないよ」
「それは……すいません」
なんとも耳が痛い話だ。
会長は「全部俺に任せて」って言ってくれていたけど、俺がどう振る舞うかについては会長は何も関与できない。
要するに、俺がどうにかしないといけな……
「だから、慣れてよ。ハグもさ、役作りとして」
「はっ……!?」
思わず変な声が出た。
役作りかそうじゃないのか、どっちなんだよ。
固まる俺の耳に、会長が顔を近づける。
「これは、恋人の距離だから。ちゃんと覚えて。他の人としちゃダメだよ」
会長の体温が制服越しに伝わり、触れている部分からじりじりと熱くなっていく。
「あれ、緊張してる?さっき山名くんに触られた時は、もっと大人しくしてたんじゃない?」
「そ、れは……」
山名の時は、ただの手助けだと思っていたから抵抗がなかっただけで。
これは目的も意味も、全然違う。
俺の頭はキャパオーバー寸前だった。
「ちゃんと意識した?」
耳元で囁かれる言葉に、俺はコクリと頷くことしかできなかった。
会長は満足そうに笑うと、俺からゆっくりと離れた。
「じゃあ、帰ろう」
「は、は…い」
声が裏返りながら答え、部屋の鍵を開けて外に出た会長に続く。
隣を歩く会長を気づかれないように見上げる。
その顔は、何を考えているのか俺には見当もつかなかった。
恋人役を全うするなら、手を繋ぐのも、ハグも、慣れておかないといけないのかもしれない。
でも、それでも、
それ以外に理由があるんじゃないかって、
そんな気がしてしまうのだった。



