誰も知らない未知の世界。どこまで先があるのかわからない、純白で包まれた場所。案内人は一人椅子に座って紅茶を飲む。
コンコンコン。空中に微かに浮くドアからノック音が聞こえる。
「どうぞ、お入りください」
入ってきたのは高校生くらいの女性。髪をボサボサにして顔は青白く、足取りは重い。ここはこのような、人生に対して不安を抱えている人が迷い込むところだ。
「これから、あなたには光の世界と闇の世界のどちらかを体験してもらいます」
案内人は淡々と話を進める。
「……どういうこと……?」
「ある話の中に、主人公として入ってもらいます。今のあなたに必要なものがわかるはずです」
「……」
「光か闇かをお選びください」
「……」
女性は顔を俯かせる。
「ご希望がないのでしたら、現実世界に戻っていただかなければなりませんが」
「……光とか闇の、世界ってなに?」
「それは行ってみないとわかりません」
「じゃあどっちのほうが、楽?」
「それもあなた次第です。あなたの行動次第で結末は変化します」
女性は顔を歪ませる。
「それなら光の、世界がいいです」
「かしこまりました。ではこちらへ」
案内人は金色で覆われた鏡まで女性を案内し、うす黄色の紙を渡す。
「この紙をしっかりと読んで、ルールを守りながらお過ごしください」
そう言うと同時に女性は鏡に吸い込まれていく。姿は消えてなくなり、案内人はまた一人になる。
「はぁ……。この仕事は毎回同じことの繰り返しですね。さすがの私でも疲れてきました」
コンコンコン。
「またお客様ですか……。コホン。お入りください」
[光の世界での設定]
あなたは渓央高等学校に通う高校ニ年生の高村由衣
です。クラス(ニ年A組)の人気者で、親友は春
奈、飛鳥、楓、雪乃。五人グループでクラスの綾乃
という女子をいじめています。
[ルール]
一、いじめをやめて平和なクラスにしてください。
ニ、あなた自身が現実世界で足りなかったと思うも
のを見つけ出してください。
三、現実世界で一つだけ叶えたい、願いを考えてお
いてください。
【光の世界】
私はいつも通りの朝だと思っていた。朝ごはんをたくさん作ってくれるお母さん。寝坊したと言って急いで会社の支度をするお父さん。
「行ってきます!」
玄関のドアを開けると、冬のすこし冷たい風が頬をなでる。信号の交差点に差し掛かると、見慣れたはずの風景が少し違和感があるように思えた。
「おはよー!!」
声の方向を見ると、私の親友の春奈が手を振って信号の向こう側で待っていた。
「おはよー!」
私も手を振り返すと同時に信号は青になった。
「今日の放課後さ、スタバの新作飲みに行かない?」
「え、行こ!スタバ行くの久しぶりなんだけど!楽しみ!」
春奈が肩あたりまであるボブの髪を触りながら言った。
「由衣、春奈!何の話してるんー?」
校門に差し掛かったところで飛鳥と会った。ロングのサラサラの髪をポニーテールで一つにまとめた飛鳥。他学年の男子からもモテているのも納得できる。
「スタバの新作飲もって話。飛鳥も一緒に行こうよ!」
「なんならいつものメンバーで行こ!」
「賛成ー!」
教室に着くと私たち以外はだいたい登校していた。教室を見渡すとある人のところで目線が止まってしまう。
「おはよ、由衣」
少し寝ぼけた顔をしながら、男子の友達と話していた視線をこっちに向ける——のは、私の幼なじみでもあり私の好きな人。
「……っ、おはよう、隼人」
昔は私の方が高かった身長は、いつの間にか抜かされて目線が上の方にある。
「隼人、寝ぼけてる?眠そうだし、寝癖ついてるよ?」
「眠くない。由衣のほうが寝ぼけてる。また上履きの紐ほどけてるぞ」
「え、うそ!」
急いで上履きを見て直そうとすると、紐はしっかりリボン結びにしてあった。
「ほどけてないじゃん!ほら、しっかり結んである」
「ひっかかった」
いつもは無表情に近いけれど、時々でるくしゃっとした笑顔が反則。顔が赤くなるのを自覚しながらも、少し笑いながら怒る。
「またじゃれあってる」
くすくす笑いながら教室に入ってきたのは、楓と雪乃。二人も春奈と飛鳥と私と同じグループ。
「じゃれあってる!?私と隼人が?」
「うん、仲良さそうで何よりだよ」
おばあちゃんみたいなことを言いながら、春奈と飛鳥が話してた机に向かう。五人が集まると机の周りはいっぱいだ。
「ねえ、みんなで放課後スタバ行かない?由衣と行きたいねって話してたの」
春奈がそう言うと、
「え、ちょうど行きたいって思ってたとこなんだけど」
「行きたいー!」
「ついでにカラオケも行こうよ!」
「よし、今日はスタバとカラオケね!」
「楽しみーー!!」
「ねえ、アイライン誰かもってない?」
「あ、私あるよ」
メイクをあまりしない私が持っていたポーチの中から雪乃に渡す。グループの中でも特に可愛くて、雪乃って名前がピッタリ。前の時間にあった体育のせいで、更衣室の鏡にみんなして張り付いてメイクやくしをしてる。
「今日の山田ウザかったくない?」
「それな!あのチビハゲじじい」
「ちょっと春奈言い過ぎ!」
グループの中でも毒舌な楓と春奈から、唐突に始まった悪口。
「春奈っていつもはほんわかしてるけど、こういう時怖すぎん」
「確かに笑」
「ちょっと、私はいつもほんわかな女の子だよ!?」
「てか、それ言ったら楓も相当恐ろしいよね」
「楓の先生への対抗、怖かったなー」
授業中に話していた楓と飛鳥に先生がキレた時、楓が椅子を蹴り飛ばして反抗したんだよね。
「楓の前の席の人、椅子蹴られてかわいそうだった」
「いや、あれは先生が悪いでしょ。飛鳥と盛り上がってるとこ、邪魔してきやがってさ」
「あれはうちもびっくりしたわ」
「んね、隣にいた飛鳥、目がまんまるだった」
チャイムの音が鳴った。
「あ、やばくない、時間」
「次なんだっけ?」
「数学かな」
「最悪ー」
スマホでよく聞く流行りのアニメソングが流れてる。飛鳥と雪乃がノリノリの大音量で歌う。春菜と楓はスマホに真剣。私は軽くスマホを眺めながら、スタバで買った新作のドリンクを飲む。二人が歌い終わった頃、春奈が叫んだ。
「あー!!なんでうちの学校にも他校にもタイプのいないわけー!?」
どうやらまた男子と揉めてしまったみたい。
「それな!?うちの学校、イケメンいなさすぎ……」
楓も年上の彼氏がいたけれど別れたばっからしい。二人して頭をうなだれる。
「まあまあ、タイプの人とかイケメンはすぐ見つかるよ」
「由衣はいいじゃん。幼なじみの阿部がいてー」
「こら、春奈。八つ当たりはしない」
飛鳥がぺちっと春奈の頭を叩きながら言う。
「でも阿部と由衣はいい感じだよね」
「うん、私から見てもそう思う。由衣はどうなの?」
みんなから詰め寄られる。
「え、別に何ともないよ?ただ普通の幼なじみってだけで」
「ふーん。そうかい、そうかい」
「雪乃!朝からそのおばあちゃん口調なんなん?」
「老婆になったの?雪乃おばあちゃんー!」
「「あはは!」」
みんなの笑い声が重なり合う。
「……てかさ、それで思ったけどこのクラス陰キャ多くね?」
「いや、どういう流れ?雪乃おばあちゃんの話から飛びすぎじゃん?」
「違う違う。阿部くらいしかかっこいい人、あんまいないと思って」
楓が前髪を整えながら口を尖らせる。
「確かにね。可愛い人もかっこいい人も、うちらぐらいしかいない気がする」
春奈がそう言いながらさっきとはガラッと変わった、重い空気に変わる。
「わかる。……最近ストレス溜まってんだよなぁー」
「なんか自分たちより暗い人とか、のろい人見るとイラつかない?」
「それな。特に……渡辺綾乃とか」
その名前を聞いた途端、どくっと心臓が震えた気がした。
「私たち、少し前から綾乃呼び出して色々してるじゃん?」
「「うん」」
「それ、先生にバレたりしないかな?」
「さすがに大丈夫でしょ。綾乃が先生に言う勇気なんてないって」
「あいつを殴った後、ちょっとだけだけどスッキリしてるんよ」
飛鳥の目がぎらっと光る。
「それな!意外ともやもや消えてるの」
「なんか、よくないことかもしんないけどさ、こっちが良ければいいかとか思っちゃう」
「いや、全然いいと思う。こっちが何をしようとそっちが頼りないのが悪いんだし」
雪乃がリップを塗り直しながら言う。
「……はい!そろそろこの話はおしまい!誰か一緒に歌わないー?」
春奈がこの話に飽きたのか、話を終える。
「私歌いたいー!この曲がいいんだけどいい?」
そう言って私が指さしたのは、最近ハマってる歌手の新曲。
「おっけーみんな!私たちの美声、聞いててよ!?」
「はいはーい。耳栓して聞いとくわー」
「ちょっと!聞いてよ!」
飛鳥がヘッドホンを被ろうとするのを必死で止める春奈。
「「あはは!」」
カラオケの部屋はまた笑い声で包まれた。
家に帰ると、お母さんが夕飯を作ってくれてる匂いがした。
「ただいまー!」
「おかえり!もう少し夕飯まで時間かかるかもー」
「わかった!」
お父さんはまだ家に帰っていなかった。この時期は繁忙期で早く帰れないらしい。自分の部屋に行くと、ふと、机の上に置いてある黄色の紙に目が向いた。
「なにこれ?」
見たことも置いた記憶もないものに戸惑う。なにか文字が書いてあるのが見えた。
「『あなたは高村由衣です。』……?」
まだ続きが少し書いてあった。綺麗な字だけれど、見覚えがないし、書いている意味がわからない。あなたは高村由衣って、なに、当たり前のことを言ってるんだろう……?怖すぎる。よくわからない。けど、胸がむずむずする。なにか思い出せない感覚がある。しばらくその場で動けなかった。
「それ読んだ?」
背後から知らない人の声がした。もう少しで叫ぶところだった。後ろを振り向くと、十歳程度の女の子が私のベッドに座って私を見ている。
「だれ!?」
部屋にどうやって入ってきたんだろう。見知らぬ女の子に、警戒して問う。彼女は黒髪ロングで白いワンピースを着ている。顔はあどけない、可愛い顔だ。けれど、やっぱりこんな子は知り合いにいない。
「あたしのこと?あたしは高村由衣さん、あなたに会いに来たの」
足を軽く上下に揺らしながら彼女は言う。
「何を言ってるの?なんで私に会いに?」
理解できない。
「その黄色の紙を見ても思い出せない?」
なにか訴えたいような様子で女の子に言われる。けれど、私にはしばらく経ってもわからなかった。
「……私になにがいいたいの?いきなりそんなこと言われてもわかんない!!」
「……前に来た時はあんなだったくせに……。」
小声で上手く聞こえなかった。
「私の聞いてることに答えて!?いい加減にして!」
声を張り上げてしまう。
「早く思い出してくれない??」
彼女のセリフと軽蔑するような視線。またどくっと心臓が脈打つ。なに、これ……?思い出したくないものが胸に広がっていく。やめて。思い出したくない!なにか嫌な予感がする……!
バチン!自分より小さな女の子を叩いてしまっていた。それでも、私は自分のこみ上げてくる変な感覚に襲われていた。なにか異様な感じがして気持ち悪い。
すると、少しよろめいたと思った女の子の体がこっちに来る。殴られたと理解するまで時間がかかった。女の子の力とは思えないほど強い力で、私はお腹を殴られていた。
……なんだろう、この感覚。
知ってる。既視感を感じる。お腹が勢いよく凹むくらいの力を加えられ、ドンッと背中に伝わる硬い壁——。
【現実世界】
“わたし”は学校が終わった放課後、一人で女子トイレに向かっていた。本当はすごく嫌だけれど、行かないと次にはもっと酷いことをされるから。
トイレに着くと、いつもわたしを殴ってくる五人が突っ立っていた。みんな背が高い分、わたしがひどく小さく感じる。圧迫感があった。身構えていると、ガッと肩を掴まれる。
「うちら、今いつもよりストレス溜まってるんだよなー」
この台詞はこの人たちの口癖のようなもの。なんかの漫画のヤンキーか、とか思っちゃう。
「ねぇ、聞いてる?渡辺綾乃さん?」
そう言うと同時にわたしはトイレの奥の壁に背中をぶつけていた。大きな音がした、気がした。背中はズキズキしているのに、心はもう何も感じない。
「もっと痛そうな顔してくれない?じゃないとこういうことしてる意味、無くなるんだけど」
わたしの気持ちを読み取ったような言葉。
痛いよ。すごく痛い。けど、もう疲れた。毎回こんなことをされるのも、何も言い返せずに暴力を受けるしかない自分も。昔はよく友達とくだらないことでも笑い合っていたのになあ……。
痛い。気持ち悪い。そんな気持ちをずっと一人で押し込んできた。もう心は限界を迎え、体はもう死んでいるような感覚。……いや、それはないか。今も尚、暴力受けて続けている体は痛いと悲鳴をあげているんだから。
いつの間にか五人はいなくなり、わたし一人になっていた。あの人たちはストレスがあるとわたしに暴力をふるってくる。誰もいないところに呼び出して。
……どうしたらこんなことをされずにすむの?
【光の世界】
「思い出した?……いじめられてたこと。」
女の子の声にハッとして顔を上げる。
「あなたは今、あたしを殴ったみたいなことを何回もされていたんだよ。しかも、いじめてきた人たちは今あなたが仲良くしている人たち」
言葉が私の耳を素通りする。頭が追いつかない。
「この世界は高村由衣——いや、渡辺綾乃のためにつくられた世界。由衣と、綾乃の立場を入れ替えたんだよ」
目の前に座っている彼女は、ワクワクした様子で語る。彼女の言葉を聞いた瞬間、なぜか笑いが込み上げてきた。
「……何言ってるの?私がいじめられてたっていいたいの?私と綾乃を入れ替えた?私にそんなことがあるわけないじゃん!!私は一軍だよ!?春奈と楓と、飛鳥と雪乃と、仲良く過ごしてる。今日も遊びに行ったばっかなんだから!」
もう、訳がわからない。
少し間が空いて彼女が言った。
「……頑固だなぁ。本当に覚えてない?思い出したくないだけじゃないの?今、少しだけ思い出したんでしょ?……いじめられてたこと。」
「……もう、よくわかんないよ……」
涙が溢れそうになるのを無理して堪える。
「今、あなたが手に持っている黄色の紙。それは真っ白な場所で、案内人にもらったはず。案内人は全身黒色の服を着ていた。それで黄色の紙を渡され、あなたは光の世界に住み込んだ。いまあたしたちがいるこの場所は……、光の世界っていって、あるルールを達成したら、元の世界に戻れるの。光か闇か、選ばされなかった?」
……そうだ。“わたし”は女子トイレでいつも通り殴られたあの後、白くて変わった空間に瞬間移動してて……。そこで、真っ黒な案内人という人に光の世界か闇の世界か、選ばされて光を選んだんだ。厨二病みたいだった。
「……つまり、私は現実世界では渡辺綾乃で、いじめられてたけれど、光の世界という場所に来たことによって高村由衣になったの?真っ白な世界を通じて、いじめてきたメンバーの一人に、わたしはなったの?」
「そう。あなたは渡辺綾乃。綾乃は、春奈たちにいじめられていた」
「……じゃあ、元々の本当の由衣は?わたしが由衣になっている今、本当の由衣はどこにいったの?」
「由衣は……この世界ではいない。たぶん綾乃にとって、そういう事にしておいた方がいい。……ここは綾乃のためにつくられた世界なんだから」
「わたしのために……。……それでわたしはこれから、このルールの通りに、由衣として綾乃と仲良くすればいいの?そうすれば元に戻れる?」
「うん。もちろん本人の感情次第で変わるけどね」
意味あり気に彼女言った。
「……?とりあえず、ルールを達成できるように頑張る」
「頑張って。時々、あたしは綾乃のところへ来るから。それと、ルールを達成できて一週間経ったら元の世界に自動的に戻れることは頭に入れておいてね」
「了解」
わたしがそう言うと女の子はパッと消えていなくなった。
はぁ……。この短時間で色んなことが起きた。自分がいる空間が本当の世界じゃない事にびっくり。正直まだ頭が追いついていない。とりあえず、五人グループとして今日一日過ごすことができていたのは、この世界のおかげってことか。私は春奈たちが綾乃の悪口を言っている時はどうでもよかったけれど、それが自分のことだったと思うと胸が痛む。今日の会話を聞いていただけでも、春奈たちが綾乃を十分嫌っていることは想像がついた。
問題は、どうやって綾乃と仲良くなるかってこと。私が綾乃だったら——綾乃の時だったら、いじめてきた人たちと仲良くするなんて、絶対に怖いしイヤ。なにか企んでるかと思っちゃう。……今思ったけど、この世界の綾乃は誰なんだろう?
今日は少し早めに家を出て学校に着いた。わたしは毎日学校に早くきて休むことはなかった。休んだり遅刻したりしてあの五人に負けたような感じがするのがイヤだったから。綾乃はどんな人なのか知らないけど、学校に来るのが早かったらいいという希望をもって来た。
教室でスマホを触って待っていると、綾乃が来た。
「綾乃!おはよう!」
話しかけるのに怖い気持ちがあったけど、私は由衣だと思うと気が楽になる。
「由衣……おはよう」
なるべく元気な声で由衣っぽく挨拶をしたはずが、びっくりした様子でかわされてしまった。……そりゃそうか。綾乃は、私たちにいじめられてたんだから……。私は次の行動に出る。自分の席に座って静かに本を読み始める綾乃に、私は声をかける。
「ねぇ、それなんていう本?」
「由衣には関係ないじゃん」
今度は即答で素っ気ない態度を取られる。少しむかっとした。現実世界での由衣たちも、こういうわたしの態度にイラついたのかな。少しだけ、春奈たち一軍の気持ちがわかった気がして、胸に黒いもやもやがかかる。
「ごめん!ちょっと気になっただけなんだ!急に話しかけられて嫌だったよね!」
もやもやを振り払うために声を大きくして謝ってしまう。すると、綾乃は予想外のことを言い出した。
「嫌じゃない。……嫌じゃない!」
バンッと机を叩く音と綾乃が椅子から立つ音が同時に聞こえた。
「……びっくりした。綾乃ってそんな大きい声、出すんだ」
こんな事も言えるくらい、すっかり一軍の由衣ぶっちゃってる私が自分で笑えてきた。
「……」
綾乃が黙ってしまってるのをみて、私は失言したと思った。
「あ、ごめん。違うの。綾乃って大声出すイメージがなかったってだけで……」
わたしは学校で大声出す事は全くなかった。陰キャだったから。
「うん、わかってる。……今は一人にさせて」
綾乃はそう言うと小走りに教室を出て行った。教室の中一人でポツンと残された私は、前のわたしのよう。てゆうか、綾乃と仲良くなろう作戦は失敗って事?綾乃の好きな事について話して、ちょっとでも仲を深めようと昨日考えたけど……。教室を出て行っちゃったし、全然話せなかったし、失敗か。
一人で自分の椅子に腰掛ける。どうしよう。こんなんで仲良くなれるのかな。教室出て行っちゃったとか、絶対私のこと嫌ってるよね。仲良くなれない気しかしない。
「はよ。由衣にしてはめずらしく早いな」
隼人の声に顔が熱くなるのを自覚した。
「おはよ。今日は早起きした」
周りを見ると多くの生徒が登校して来ていた。
「……ちょっと元気なくない?」
「え、そんなことないよ?」
隼人の顔が至近距離にあって心臓がトクンとはねる。もし、元気なく見えたなら綾乃とのことがあったからだろう。
「そんなことある」
隼人の手が私のおでこに乗っかる。ひんやりしていて気持ちいい。
「熱はなさそうだな」
ガタッ。勢いよく椅子から立ち上がった。
「な、なに触ってんのっ!?」
自分の状況を理解するまで時間がかかった。またもや心臓がトクトクしてる。私の心臓動きすぎ!?
「なにって、熱あるか確認しただけ……。何かあったらすぐ言って」
隼人は困ったような顔をしてそう言うと、男子のグループに混ざって行った。
ため息をつきそうになる。にぶいにも程があるって。普通、そんなことされたら女子のほとんどがときめいちゃう。私はもう、隼人にときめいてるけれど……。てか、隼人は前の世界でも由衣と幼なじみなんだよね?由衣は現実世界で、隼人のことが好きだったのかな?私がわたしだった頃、隼人と初めて話した時を思い出す。
わたしがまだ五人にいじめられる前。その日は午後から土砂降りの雨が降り始めていた。校庭に溜まっている水たまりは、綺麗に反射する事はなくただ濁っていた。わたしは靴箱でそんな外の様子を見て、最悪だと感じる。傘も忘れたし、靴も昨日綺麗にしたばっかりだったのに。憂鬱な気分で空を見上げる。黒い雨は無常にも強く降り続けていた。
……傘を貸してくれる友達もいないし、このまま走って帰るか。
そう思った時、
「渡辺さん?」
阿部隼人の声が背後から聞こえて、振り返る。
彼はわたしを見ていた。目が合った事は今までなかった。わたしが一方的に知ってただけ。わたしは、阿部隼人が好きになれない。誰とも関わりたくないように見えるのに、男子グループの中心にいるのを見ると気に食わない。どう頑張っても、人とどう接していいのかわからなくて友達が増えないわたしと比べてしまう。
「傘、持ってないの?」
男子っぽい低い声。
「うん」
一人で帰ろうと足を踏み出す。
「まって!傘、貸すよ」
阿部隼人から傘を手渡しされる。つい、受け取ってしまった。
「……いいの?阿部くんは?」
「俺は走って帰る。その傘、明日返してくれればいいから。じゃあ、気をつけて」
流石のわたしでも申し訳なく思い、一人で帰ろうとする彼を呼び止める。
「まって!……それなら途中まで、一緒に帰ろう」
こんなことを言ったのは初めてだった。阿部くんはわたしを振り返るとあははと笑い出した。顔をくしゃっとさせた笑いは、決してわたしをバカにしたものではなかった。
「……?」
「いや、ごめん。渡辺さん、俺と同じこと言ってると思って」
阿部くんが笑った事にびっくりして、わたしもつられて笑った。
「渡辺さんの笑ってる顔、初めて見た……」
笑うのをやめて、阿部くんが小声で言った。
「え?」
「いや、何でもない。……途中まで一緒に帰ろう」
周りには誰も人がいなかった。
「うん」
激しく降っていた雨は少し和らぎ、水たまりは光って太陽を反射してるように見えた。
……思えばあの時からわたしは隼人が好きだった。自分が隼人を見かけしか見てなかったと気づいたあの時から、優しい彼を目で追うようになってしまっていた。わたしは、隼人と幼なじみで仲のいい由衣が羨ましかった。由衣は可愛くて、明るくて。わたしからみたらアイドルのようだった。だからこそ、隼人と一緒にいるのは自然で、ピッタリだと思ってた。
そこまで考えた時、あることに気づいた。
——今、わたしは由衣。隼人の幼なじみ。昨日と今日も由衣みたいに話せた気がする。
……わたしが由衣でい続ければ、隼人との距離は近いままでいられる?しかも、それだけじゃない。あの五人にいじめられないですむ?
現実世界に戻らないほうがいいんじゃない?
よくない考えが頭をよぎる。元の世界に戻るのにわたしは必死だったけど、このままがいい気がする。元に戻ったっていい事は何一つない。楽しみは隼人を見つめるだけだった。
このまま、光の世界で過ごしたい。そう思った瞬間
わたしの体は楽になった。あの、黄色の紙に従わず、この世界で生きていこう。
“私”はそう決めた———。


