目を開けると、見知らぬ場所に立っていた。
ここはどこだろう。記憶が靄のように曖昧で、自分がなぜこの場所にいるのかわからない。周囲を見回すと、小さな駅のホームが広がっていて、天井は低く、壁は古びたコンクリートで覆われている。照明は薄暗く、どこか現実感が薄い。まるで夢の中にいるような、そんな感覚に包まれながら、視界の端がぼやけていて、焦点がうまく定まらない。
ホームには誰もいない。静寂が支配していて、人の気配が全くない。耳を澄ませても、空調の音も、遠くの車の音も、人の足音も何も聞こえてこない。何もかもが、まるで音を吸い込まれたかのように静まり返っている。この静けさは不自然だった。生きている世界には、必ず何かしらの音がある。風の音、機械の唸り、誰かの吐息。でも、ここには何もなく、完全な無音がこの空間を満たしている。
時計を探すと、古びた掛け時計が壁にあった。でも、針は止まっている。長針と短針が、中途半端な位置で固まったまま、三時十五分を指して微動だにしない。僕は自分の腕時計を確認しようとしたけれど、文字盤が曇っていて時刻が読めない。まるで霧が入り込んだかのように、ガラスの内側が白く濁っている。スマホを取り出して画面を確認すると、圏外の表示が出ていて時刻も表示されない。電波が届かない場所なのだろうか。それとも、時間という概念そのものが、ここでは意味を持たないのだろうか。
僕は立ち上がって歩き出した。足音だけが静かに響いていて、それが妙に大きく聞こえる。コンクリートの床が冷たい音を立てながら、その音が壁に反射して戻ってくる。エコーのように響いて、僕の存在だけがこの空間に刻まれていく。一歩進むたびに、その音が追いかけてくる。
ホームの端まで歩いてみると、線路を覗き込んだ先には錆びたレールが見えて、長い間列車が通っていないように見える。レールの表面には赤茶けた錆が浮いていて、ところどころ剥がれ落ちながら、枕木も古くひび割れている。線路の先は闇に消えていて、どこまで続いているのかわからない。反対側も同じで、両方向とも暗闇に飲み込まれている。まるでこの駅だけが世界から切り離されているような感覚があって、孤立した空間、取り残された場所、誰も訪れない忘れ去られた駅、そんな印象を受けた。
不安が胸を締め付けてくる。ここはどこなんだ。どうやってここに来たんだ。そもそも、僕は何をしていたんだっけ。記憶を辿ろうとするけれど、頭の中が霧に包まれているようで、はっきりとした記憶が浮かんでこない。断片的な映像だけが、ぼんやりと浮かんでは消えていく。学校の廊下。教室の窓。誰かの笑顔。雨の音。濡れたアスファルト。そして――急ブレーキの音。
僕は頭を振って、その記憶を追い払おうとした。考えても仕方がない。今はここから出る方法を探すべきだ。駅には必ず出口があるはずだ。改札があって、そこを通れば外に出られる。きっと、そこには人がいて、説明してくれる人がいる。
ホームを歩いていると、案内板が目に入った。近づいて文字を確認すると、そこには「未練駅」とだけ書かれていた。路線図も、行き先の表示も、隣の駅名も書かれていない。ただ、駅名だけが白いペンキで壁に書かれている。
未練駅。
奇妙な名前だと思った。こんな駅、聞いたことがない。それに、駅名だけで他の情報が一切ないというのも不自然だ。普通の駅なら、路線図があって、時刻表があって、行き先が表示されているはずだ。でも、ここには何もなく、ただ「未練駅」という名前だけが、そこに存在している。
未練。その言葉が、妙に心に引っかかった。未練とは何だろう。やり残したこと。伝えられなかった言葉。果たせなかった約束。謝れなかった過ち。そういったものを、未練と呼ぶのだとしたら、僕にも未練はあるのだろうか。
僕は再び歩き出した。ホームの端に階段があって、そこを下りると改札があった。古びた自動改札機が一台だけ設置されていて、ICカードをかざす部分は光っておらず、電源が入っていないように見える。液晶画面も真っ黒で、何も表示されていない。でも、改札を通らなければ外に出られない。ここが唯一の出口のようだった。
僕は改札に近づいた。バーを押してみようとしたけれど、その前に改札機から音がした。カタカタという機械音。プリンターが何かを印刷しているような音だった。驚いて見ると、改札機の切符投入口から一枚の切符が出てきて、ゆっくりと、まるで何かが生まれてくるかのように現れる。
切符? なぜ今、切符が出てくるんだ。誰も操作していないのに、切符を買った覚えもなく、お金を入れてもいない。
僕は切符を手に取った。触ってみると、普通の切符のような紙質で、少し厚みがあって表面はざらざらしている。昔ながらの硬券のような質感だった。でも、印刷されている内容が普通じゃなかった。普通の切符なら、出発駅と到着駅、料金が書かれているはずだが、この切符には違うことが書かれていた。
【解消対象】朝比奈 澪
【未練内容】未送信の言葉
【有効期限】60分
【注意】往復無効
朝比奈澪。
その名前を見た瞬間、記憶が一気に蘇ってきた。まるで堰を切ったように、忘れていた記憶が流れ込んでくる。澪は僕の元恋人で、高校で同じクラスになって、気づいたら付き合っていた。最初は友達だったけれど、文化祭の準備を一緒にしているうちに自然と距離が縮まっていった。明るくて、いつも笑顔で、僕にとって大切な存在だった。一緒にいると、世界が少しだけ明るく見えて、灰色だった日常に色がついたような感覚があった。
でも、僕は澪と別れた。突然、一方的に、理由も言わずに。いや、正確には嘘の理由を言った。「好きじゃなくなった」と。その言葉を口にしたとき、澪の表情が凍りついたのを今でも覚えている。澪は信じられないという顔で僕を見て、それから涙を流した。何度も「なんで」と聞かれたけれど、僕は答えられず、本当の理由を言えないまま、そのまま別れた。
なぜあんなことをしたんだろう。今考えても、自分の行動が理解できない。でも、わかっている。本当は、澪を守りたかったんだ。僕の家庭の問題に澪を巻き込みたくなくて、母が病気になって、家計が苦しくなって、僕は精神的に追い詰められていた。毎日病院に通って母の看病をして、学校に行くだけで精一杯だった。そんな状態で澪と一緒にいても澪を幸せにできない。澪には美大に行きたいという夢があって、僕のせいでその夢を諦めさせたくなかった。だから、別れた。でも、それを言葉にできなかった。結果として、澪を傷つけただけだった。
未送信の言葉。確かに、僕には澪に伝えられなかった言葉がある。本当の別れの理由。謝罪。感謝。ありがとう。ごめん。好きだった。全部、言えなかった。言おうとしたことは何度もあって、携帯を取り出してメッセージを書こうとしたけれど、その度に言葉が出てこなくて、結局何も送れず、下書きだけが溜まっていった。
でも、なぜそれが切符に書かれているんだ。
僕は切符を握りしめたまま、改札の前に立ち尽くしていた。理解が追いつかない。これは一体、どういうことなんだ。「未練」とは何で、「往復無効」とは、「有効期限60分」とは何なのか。まるで暗号のようで意味がわからないけれど、同時に何か重要なことが書かれているような気がして、この切符には僕の運命が書かれている、そんな予感があった。
「初めてですか、この駅は」
突然、声が聞こえた。
僕は驚いて、声の方を振り向いた。改札の向こうに白黒のぶち猫が座っていて、首には赤い車掌の腕章をつけている。左前足に巻かれたその腕章は、妙にきちんとしていて、まるで本物の車掌のようだった。そして、その猫が僕を見ていて、琥珀色の目がじっと僕を見つめている。瞬きもせずに、ただ見ている。
猫が、話したのか? いや、そんなはずはない。猫が人間の言葉を話すわけがなく、童話の中ならともかく、現実では起こり得ない。でも、確かに今声が聞こえて、しかもその声は猫の方から聞こえてきて、口が動いたようにも見えた。幻聴だろうか。それとも、僕は気が狂ってしまったのだろうか。
僕は混乱していた。何が起きているんだ。ここはどこなんだ。猫が話すなんて、あり得ない。これは夢なのだろうか。それとも、何か別の――。
猫は僕の困惑を気にする様子もなく、淡々と続けた。その声は中性的で、年齢も性別も判別できず、機械的だけれど不思議と聞き取りやすい声だった。
「驚かれるのも無理はありません。でも、ここでは猫が話すことくらい、大したことではありませんよ」
大したことではない。その言い方が、かえって現実感を失わせた。僕は言葉が出なかった。猫が本当に話している。しかも、まるで当たり前のように。この状況を受け入れるべきなのだろうか。それとも、これは幻覚なのだろうか。でも、妙にリアルだ。猫の毛並みの質感、琥珀色の目の輝き、腕章の赤い色。全てが鮮明に見える。夢や幻覚にしては、あまりにも細部まではっきりしている。
「あなたは今、未練駅にいます」
猫は僕の沈黙を気にせず、説明を続けた。その声は感情が乗っていなくて、まるで録音された音声のように聞こえた。抑揚がなく、一定のリズムで言葉を並べる事務的な口調だった。
「ここは、死者が訪れる駅です」
死者。その言葉が、胸に突き刺さった。僕は思わず一歩後ずさる。死者とは、どういうことだ。まさか、僕が……。いや、そんなはずはない。僕は生きている。ここに立っていて、呼吸をしていて、心臓が動いていて、体温がある。
でも、記憶が鮮明に蘇ってくる。雨の日、横断歩道を渡ろうとした瞬間、信号は青だった。でも、左からトラックが突っ込んできた。運転手は携帯を見ていたのか、こちらに気づいていなかった。ブレーキの音。タイヤが路面を擦る音。金属が軋む音。そして、衝撃。痛みはなく、ただ視界が暗転した。
そうか。僕は、死んだのか。
膝から力が抜けそうになったけれど、同時に妙な納得感もあった。だからこの場所はこんなに静かなのか。だから誰もいないのか。だから記憶が曖昧だったのか。だから時計が止まっているのか。全てが繋がっていく。パズルのピースが、一つずつ嵌まっていく。僕は死んだ。あの事故で。雨の日に。横断歩道で。
現実を受け入れるのには、時間がかかった。頭では理解できても、心がそれを拒否している。まだ生きているような気がする。でも、ここにいるということは、もう生きていないということなんだ。
「死を受け入れるのには、時間がかかります」
猫は僕の様子を観察しながら言った。その目は無表情で、同情も憐れみも感じられず、ただ事実を述べているだけだった。
「焦る必要はありません。ここには時間がありませんから」
「時間が……ない?」
僕はようやく声を絞り出した。喉が渇いていて、声がかすれている。
「ええ。この駅では、時間は流れません。あなたが受け入れるまで、いくらでも待てます」
猫はそう言って、少し首を傾げた。まるで、僕の反応を観察しているようだった。
「でも、あなたがここにいるということは、まだ未練があるということです」
「未練……」
僕は切符を見た。朝比奈澪。未送信の言葉。
「この切符に書かれている、これが……」
「ええ。あなたの未練です」
猫は改札を通り抜けて、僕の前に座った。その動きは滑らかで、まるで重力を感じていないようだった。足音もなく、静かに移動して、改札のバーをすり抜けるように通過し、僕の目の前に現れた。
「人は死ぬとき、未練を残します。伝えられなかった言葉、果たせなかった約束、謝れなかった過ち、感謝を伝えられなかった恩人。そういったものが、未練として残るのです」
猫の説明は淡々としていたけれど、その言葉一つ一つが重かった。僕は切符を握りしめた。朝比奈澪。未送信の言葉。確かに、僕には澪に伝えられなかったことがあって、たくさんあって、あの日言えなかった言葉が今でも喉の奥に詰まっている。
「じゃあ、この切符は……」
「あなたを現世に戻すためのものです」
猫の言葉に、僕は息を呑んだ。現世に戻る? 死んだ人間が、生きている世界に戻れるということなのか。そんなことが可能なのか。死は、終わりじゃないのか。
「戻れるのは、60分だけです」
猫は切符を指差した。その前足は小さいのに、動きは正確だった。
「その時間内に、あなたは未練を解消しなければなりません。解消できれば、切符の文字が消えます。そして、あなたは自動的にこの駅に引き戻されます」
「60分で……澪に、言葉を伝えるのか」
「そうです。ただし」
猫は僕を見上げた。その目は無表情で、感情が読み取れず、琥珀色の瞳が僕の目を捉えて離さない。
「いくつか制約があります」
猫は淡々と説明を始めた。触れることはできない。もし触れたら、残り時間が急速に減る。一秒の接触で五分のロスになる。つまり、十二秒触れれば残り時間は全て失われる。未来を変える行動は禁止で、物を動かすことも、事故を防ぐことも、誰かの運命を変えることもできない。あなたは観察者であり、干渉者ではない。自分が死んだ事実を明言することもできず、言おうとすると声が出なくなり、喉が締め付けられて言葉が消える。そして、何より重要なのは――。
「この列車は、やり直しではありません」
猫の声が、初めて少しだけ感情を帯びた。警告するような、諭すような、そんな響きがあった。
「あなたが戻っても、過去は変わりません。未来も変わりません。ただ、未練を解消するためだけに、60分が与えられるのです」
「じゃあ……結局、何も変えられないのか」
僕は呟いた。60分戻れても、過去は変わらず、未来も変わらない。それなら、何の意味があるんだ。何のために戻るんだ。
「変わるのは、あなた自身だけです」
猫はそう言って、少し間を置いた。風が吹いて、猫の髭が揺れる。この駅には風なんて吹かないはずなのに、確かに風を感じた。
「未練を解消することで、あなたは前に進めます。それが、この切符の意味です」
前に進む。でも、死んだ人間が前に進むとは、どういうことなんだろう。僕はもう、この世界にいない。生きている人間じゃない。それでも、前に進むことができるのだろうか。進んだ先には、何があるのだろうか。
「行きますか? それとも、ここに留まりますか?」
猫は改札の方を向いた。
「決めるのは、あなたです。でも、忠告しておきます」
猫は僕を見た。その目が、初めて何かを訴えているように見えた。
「期待すると、降りるのが辛くなりますよ」
その言葉の意味が、僕にはわからなかった。期待すると辛くなる? どういうことだ。でも、猫はそれ以上説明せず、ただじっと僕を見ていて、待っている。僕の決断を。
僕は切符を見つめた。朝比奈澪。未送信の言葉。60分。往復無効。
行くべきなのだろうか。60分で何ができるんだ。澪に何を伝えればいいんだ。そもそも、澪はもう僕のことを忘れているかもしれない。あれから、どれくらい時間が経ったんだろう。数日? 数週間? それとも、もっと? 僕が死んだことを知って、澪はどう思っただろう。悲しんでくれただろうか。それとも、もう前を向いているだろうか。いや、忘れていなかったとしても、僕を恨んでいるかもしれない。突然別れを告げて、理由も言わずに去った男。そんな男のことを、許してくれるはずがない。会っても、何も言えないかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
でも、行かなければ後悔する。それだけはわかっていた。僕は澪に伝えたいことがあって、伝えられなかったことがある。今更かもしれない。遅すぎるかもしれない。でも、伝えたい。この胸の中にある言葉を、澪に届けたい。
「……行く」
僕は答えた。猫は小さく頷いて、改札の方へ歩き出した。その足音は相変わらず聞こえなくて、まるで幽霊のように滑らかに移動する。
「では、切符を改札に通してください」
僕は切符を手に持って、改札機に通した。スロットに切符を入れると、機械が音を立てて切符を吸い込み、ピッという音がしてバーが開いた。改札を通り抜けると、周囲の景色が変わった。
改札の向こうには、ホームが広がっていた。さっきまでいた場所とは違って、より広く、天井も高い。照明も明るくなっていて、まるで別の駅のようで、壁も綺麗で新しい駅のように見える。そして、そこには一両だけの列車が停まっていた。
列車は古びた車両で、窓ガラスは曇っている。車体は灰色で、ペンキが剥げている部分もあるけれど、どこか威厳があった。静かに佇んでいて、まるで僕を待っていたかのように見え、ドアは開いていて中は薄暗かった。
「この列車に乗ってください」
猫が列車を指差した。僕は少し躊躇したけれど、列車に近づいた。ドアから中を覗くと、古い長椅子が並んでいて、緑色の布は擦り切れ、中の詰め物が見えている。誰も乗っておらず、車内全体が静まり返っている。
僕は列車に乗り込んだ。足を踏み入れた瞬間、ドアが閉まった。驚いて振り返ると、猫が外に立っていて、ガラス越しに猫と目が合った。
「60分です。有効に使ってください」
猫はそう言って、列車から離れた。その直後、列車が動き出した。音もなく、滑らかに。加速する感覚もなく、重力を感じない。まるで物理法則が通用しない世界にいるようだった。
僕は窓の外を見た。ホームが遠ざかり、猫の姿も小さくなっていく。列車は闇の中へと進み、窓の外は真っ暗になった。
しばらくすると、闇の中に映像が浮かび上がってきた。最初はぼんやりとした光の点だったけれど、それが次第に輪郭を成し、色づいて、やがて鮮明な映像になる。
映像は、僕の記憶だった。
澪と初めて会ったのは春の朝だった。教室で隣の席になって、澪は人懐っこい笑顔で「よろしくね」と言った。その笑顔がまぶしくて、窓から差し込む太陽の光に澪の髪が輝いていた。初めてのデートは映画館だった。恋愛映画だったけれど内容はあまり覚えていない。ただ、澪と一緒にいられることが嬉しかった。映画の後、カフェで澪は将来の夢について語った。美術の道に進みたい。デザイナーになりたい。その目は輝いていて、僕は澪の話を聞きながら、この人を守りたいと思った。
文化祭では二人でクラスの出店を手伝い、焼きそばを作った。澪は楽しそうに笑っていて、僕もつられて笑った。夜、校庭で花火を見て、打ち上げ花火が空に咲くと、澪は「綺麗」と呟いて僕の手を握った。その手は温かくて、僕はそっと握り返した。
でも、映像はやがて暗くなっていく。色が褪せていって、光が弱くなっていく。
母が倒れた日、病院から電話がかかってきた。学校を早退して病院に駆けつけると、母は意識があったけれど顔色が悪かった。医者から「長くない」と言われて、頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。
その後、僕は変わった。澪と会っても笑えなくなり、話していても上の空だった。澪は心配してくれて、「何かあった?」と何度も聞いてくれたけれど、僕は「大丈夫」としか言えず、本当のことを言えなかった。澪を心配させたくなくて、澪を巻き込みたくなくて、澪には夢があって、その夢を僕のせいで諦めさせたくなかった。
そして、別れの日。雨の中、公園で待ち合わせた。澪は笑顔で来たけれど、僕は笑えなかった。僕は言った。「別れよう」と。澪の笑顔が消えて、「なんで」と聞かれた。僕は答えた。「好きじゃなくなった」と。嘘だった。本当は、澪が大好きだった。でも、言えなかった。澪を守るためには、これしかないと思った。
澪は泣いた。「嘘だよね」と何度も聞いたけれど、僕は首を振った。澪は走り去っていって、雨の中、傘も差さずに。僕は、その背中を見送ることしかできず、立ち尽くして、ただ見ているだけだった。雨が僕の顔を濡らしていて、涙なのか雨なのか、わからなかった。
窓の外の映像が消えた。僕は座席に座り込んで、顔を覆った。なんてことをしたんだ。守るつもりが、澪を傷つけただけだった。本当の理由を言えば、澪は理解してくれたかもしれない。一緒に乗り越えようと言ってくれたかもしれない。でも、僕は言えなかった。自分の弱さを認めたくなかった。澪に弱い自分を見せたくなかった。
「なんで……なんで、俺はあの時、本当のこと言えなかったんだろう」
声に出して呟いた。でも、答えは返ってこない。列車の中は静かで、僕の声だけが虚しく響いている。天井から吊り下げられた古い照明が、微かに揺れている。
どれくらい時間が経ったのかわからない。この列車の中では、時間の感覚が狂っている。でも、60分は刻々と減っているはずだ。腕時計を見ようとしたけれど、文字盤は曇っていて読めない。いや、よく見ると針が動いている。ゆっくりと、でも確実に。
列車は相変わらず闇の中を進んでいて、窓の外にはもう何も映らず、ただ暗闇だけが広がっている。僕は座席にもたれて、天井を見上げた。古びた天井には、シミがいくつもついていて、長い年月を経た証だ。この列車は、どれだけの死者を運んできたんだろう。どれだけの未練を見届けてきたんだろう。どれだけの後悔を、この座席に染み込ませてきたんだろう。
僕は切符を取り出して、もう一度文字を確認した。朝比奈澪。未送信の言葉。60分。往復無効。
未送信の言葉。僕が澪に伝えたかったのは、何だっただろう。謝罪? 本当の別れの理由? それとも、感謝の言葉? いや、きっと全部だ。全部伝えたかった。でも、何から話せばいいのかわからない。60分で足りるのだろうか。いや、60分あれば十分なはずで、言葉を選べば伝えられる。
でも、本当にそれでいいのだろうか。僕が伝えたいのは、本当に言葉なのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。
その時、列車が減速し始めた。窓の外に光が見えてくる。最初は小さな光の点だったけれど、それが次第に大きくなっていく。トンネルの出口だろうか。どうやら、到着するらしい。
僕は立ち上がって、ドアの前に立った。心臓が早鐘を打っていて、緊張と不安と、そして少しだけの期待が入り混じっている。手のひらに汗が滲んでいて、呼吸が浅くなっている。落ち着こうとしても落ち着けず、深呼吸をしても心臓の音は収まらない。
澪に会える。60分だけだけれど、もう一度会える。何を話せばいいのかわからないけれど、とにかく会いたい。もう一度、澪の顔が見たくて、声が聞きたくて、笑顔が見たい。
でも、同時に怖くもあった。もし、澪が僕を恨んでいたら。もし、澪が僕のことを忘れていたら。もし、澪が幸せそうだったら。それを見たとき、僕はどうすればいいんだろう。
列車が完全に停止した。ドアが開く。光が差し込んでくる。眩しくて、思わず目を細めた。白い光が車内に溢れて、全てを包み込む。
「60分です」
猫の声が聞こえた。実際には猫はいないのに、声だけが頭の中に響いてくる。テレパシーのような感覚だった。
「期待すると、降りるのが辛くなりますよ」
その言葉の意味が、まだわからない。でも、なぜか胸に引っかかった。期待してはいけない。でも、期待せずにいられるだろうか。澪に会えるという期待。言葉を伝えられるという期待。未練を解消できるという期待。全て、期待だらけだ。でも、猫の声には警告が込められていて、期待しすぎると辛くなる。どういう意味だろう。
僕は深呼吸をして、一歩を踏み出した。光の中へ。澪のいる世界へ。もう戻れない、生きている人たちの世界へ。
足が地面に触れた瞬間、景色が変わった。光が収まって、視界がはっきりしてくる。僕は、どこかに立っていた。
見慣れた景色が広がっていた。
ここは――高校の校門だった。
ここはどこだろう。記憶が靄のように曖昧で、自分がなぜこの場所にいるのかわからない。周囲を見回すと、小さな駅のホームが広がっていて、天井は低く、壁は古びたコンクリートで覆われている。照明は薄暗く、どこか現実感が薄い。まるで夢の中にいるような、そんな感覚に包まれながら、視界の端がぼやけていて、焦点がうまく定まらない。
ホームには誰もいない。静寂が支配していて、人の気配が全くない。耳を澄ませても、空調の音も、遠くの車の音も、人の足音も何も聞こえてこない。何もかもが、まるで音を吸い込まれたかのように静まり返っている。この静けさは不自然だった。生きている世界には、必ず何かしらの音がある。風の音、機械の唸り、誰かの吐息。でも、ここには何もなく、完全な無音がこの空間を満たしている。
時計を探すと、古びた掛け時計が壁にあった。でも、針は止まっている。長針と短針が、中途半端な位置で固まったまま、三時十五分を指して微動だにしない。僕は自分の腕時計を確認しようとしたけれど、文字盤が曇っていて時刻が読めない。まるで霧が入り込んだかのように、ガラスの内側が白く濁っている。スマホを取り出して画面を確認すると、圏外の表示が出ていて時刻も表示されない。電波が届かない場所なのだろうか。それとも、時間という概念そのものが、ここでは意味を持たないのだろうか。
僕は立ち上がって歩き出した。足音だけが静かに響いていて、それが妙に大きく聞こえる。コンクリートの床が冷たい音を立てながら、その音が壁に反射して戻ってくる。エコーのように響いて、僕の存在だけがこの空間に刻まれていく。一歩進むたびに、その音が追いかけてくる。
ホームの端まで歩いてみると、線路を覗き込んだ先には錆びたレールが見えて、長い間列車が通っていないように見える。レールの表面には赤茶けた錆が浮いていて、ところどころ剥がれ落ちながら、枕木も古くひび割れている。線路の先は闇に消えていて、どこまで続いているのかわからない。反対側も同じで、両方向とも暗闇に飲み込まれている。まるでこの駅だけが世界から切り離されているような感覚があって、孤立した空間、取り残された場所、誰も訪れない忘れ去られた駅、そんな印象を受けた。
不安が胸を締め付けてくる。ここはどこなんだ。どうやってここに来たんだ。そもそも、僕は何をしていたんだっけ。記憶を辿ろうとするけれど、頭の中が霧に包まれているようで、はっきりとした記憶が浮かんでこない。断片的な映像だけが、ぼんやりと浮かんでは消えていく。学校の廊下。教室の窓。誰かの笑顔。雨の音。濡れたアスファルト。そして――急ブレーキの音。
僕は頭を振って、その記憶を追い払おうとした。考えても仕方がない。今はここから出る方法を探すべきだ。駅には必ず出口があるはずだ。改札があって、そこを通れば外に出られる。きっと、そこには人がいて、説明してくれる人がいる。
ホームを歩いていると、案内板が目に入った。近づいて文字を確認すると、そこには「未練駅」とだけ書かれていた。路線図も、行き先の表示も、隣の駅名も書かれていない。ただ、駅名だけが白いペンキで壁に書かれている。
未練駅。
奇妙な名前だと思った。こんな駅、聞いたことがない。それに、駅名だけで他の情報が一切ないというのも不自然だ。普通の駅なら、路線図があって、時刻表があって、行き先が表示されているはずだ。でも、ここには何もなく、ただ「未練駅」という名前だけが、そこに存在している。
未練。その言葉が、妙に心に引っかかった。未練とは何だろう。やり残したこと。伝えられなかった言葉。果たせなかった約束。謝れなかった過ち。そういったものを、未練と呼ぶのだとしたら、僕にも未練はあるのだろうか。
僕は再び歩き出した。ホームの端に階段があって、そこを下りると改札があった。古びた自動改札機が一台だけ設置されていて、ICカードをかざす部分は光っておらず、電源が入っていないように見える。液晶画面も真っ黒で、何も表示されていない。でも、改札を通らなければ外に出られない。ここが唯一の出口のようだった。
僕は改札に近づいた。バーを押してみようとしたけれど、その前に改札機から音がした。カタカタという機械音。プリンターが何かを印刷しているような音だった。驚いて見ると、改札機の切符投入口から一枚の切符が出てきて、ゆっくりと、まるで何かが生まれてくるかのように現れる。
切符? なぜ今、切符が出てくるんだ。誰も操作していないのに、切符を買った覚えもなく、お金を入れてもいない。
僕は切符を手に取った。触ってみると、普通の切符のような紙質で、少し厚みがあって表面はざらざらしている。昔ながらの硬券のような質感だった。でも、印刷されている内容が普通じゃなかった。普通の切符なら、出発駅と到着駅、料金が書かれているはずだが、この切符には違うことが書かれていた。
【解消対象】朝比奈 澪
【未練内容】未送信の言葉
【有効期限】60分
【注意】往復無効
朝比奈澪。
その名前を見た瞬間、記憶が一気に蘇ってきた。まるで堰を切ったように、忘れていた記憶が流れ込んでくる。澪は僕の元恋人で、高校で同じクラスになって、気づいたら付き合っていた。最初は友達だったけれど、文化祭の準備を一緒にしているうちに自然と距離が縮まっていった。明るくて、いつも笑顔で、僕にとって大切な存在だった。一緒にいると、世界が少しだけ明るく見えて、灰色だった日常に色がついたような感覚があった。
でも、僕は澪と別れた。突然、一方的に、理由も言わずに。いや、正確には嘘の理由を言った。「好きじゃなくなった」と。その言葉を口にしたとき、澪の表情が凍りついたのを今でも覚えている。澪は信じられないという顔で僕を見て、それから涙を流した。何度も「なんで」と聞かれたけれど、僕は答えられず、本当の理由を言えないまま、そのまま別れた。
なぜあんなことをしたんだろう。今考えても、自分の行動が理解できない。でも、わかっている。本当は、澪を守りたかったんだ。僕の家庭の問題に澪を巻き込みたくなくて、母が病気になって、家計が苦しくなって、僕は精神的に追い詰められていた。毎日病院に通って母の看病をして、学校に行くだけで精一杯だった。そんな状態で澪と一緒にいても澪を幸せにできない。澪には美大に行きたいという夢があって、僕のせいでその夢を諦めさせたくなかった。だから、別れた。でも、それを言葉にできなかった。結果として、澪を傷つけただけだった。
未送信の言葉。確かに、僕には澪に伝えられなかった言葉がある。本当の別れの理由。謝罪。感謝。ありがとう。ごめん。好きだった。全部、言えなかった。言おうとしたことは何度もあって、携帯を取り出してメッセージを書こうとしたけれど、その度に言葉が出てこなくて、結局何も送れず、下書きだけが溜まっていった。
でも、なぜそれが切符に書かれているんだ。
僕は切符を握りしめたまま、改札の前に立ち尽くしていた。理解が追いつかない。これは一体、どういうことなんだ。「未練」とは何で、「往復無効」とは、「有効期限60分」とは何なのか。まるで暗号のようで意味がわからないけれど、同時に何か重要なことが書かれているような気がして、この切符には僕の運命が書かれている、そんな予感があった。
「初めてですか、この駅は」
突然、声が聞こえた。
僕は驚いて、声の方を振り向いた。改札の向こうに白黒のぶち猫が座っていて、首には赤い車掌の腕章をつけている。左前足に巻かれたその腕章は、妙にきちんとしていて、まるで本物の車掌のようだった。そして、その猫が僕を見ていて、琥珀色の目がじっと僕を見つめている。瞬きもせずに、ただ見ている。
猫が、話したのか? いや、そんなはずはない。猫が人間の言葉を話すわけがなく、童話の中ならともかく、現実では起こり得ない。でも、確かに今声が聞こえて、しかもその声は猫の方から聞こえてきて、口が動いたようにも見えた。幻聴だろうか。それとも、僕は気が狂ってしまったのだろうか。
僕は混乱していた。何が起きているんだ。ここはどこなんだ。猫が話すなんて、あり得ない。これは夢なのだろうか。それとも、何か別の――。
猫は僕の困惑を気にする様子もなく、淡々と続けた。その声は中性的で、年齢も性別も判別できず、機械的だけれど不思議と聞き取りやすい声だった。
「驚かれるのも無理はありません。でも、ここでは猫が話すことくらい、大したことではありませんよ」
大したことではない。その言い方が、かえって現実感を失わせた。僕は言葉が出なかった。猫が本当に話している。しかも、まるで当たり前のように。この状況を受け入れるべきなのだろうか。それとも、これは幻覚なのだろうか。でも、妙にリアルだ。猫の毛並みの質感、琥珀色の目の輝き、腕章の赤い色。全てが鮮明に見える。夢や幻覚にしては、あまりにも細部まではっきりしている。
「あなたは今、未練駅にいます」
猫は僕の沈黙を気にせず、説明を続けた。その声は感情が乗っていなくて、まるで録音された音声のように聞こえた。抑揚がなく、一定のリズムで言葉を並べる事務的な口調だった。
「ここは、死者が訪れる駅です」
死者。その言葉が、胸に突き刺さった。僕は思わず一歩後ずさる。死者とは、どういうことだ。まさか、僕が……。いや、そんなはずはない。僕は生きている。ここに立っていて、呼吸をしていて、心臓が動いていて、体温がある。
でも、記憶が鮮明に蘇ってくる。雨の日、横断歩道を渡ろうとした瞬間、信号は青だった。でも、左からトラックが突っ込んできた。運転手は携帯を見ていたのか、こちらに気づいていなかった。ブレーキの音。タイヤが路面を擦る音。金属が軋む音。そして、衝撃。痛みはなく、ただ視界が暗転した。
そうか。僕は、死んだのか。
膝から力が抜けそうになったけれど、同時に妙な納得感もあった。だからこの場所はこんなに静かなのか。だから誰もいないのか。だから記憶が曖昧だったのか。だから時計が止まっているのか。全てが繋がっていく。パズルのピースが、一つずつ嵌まっていく。僕は死んだ。あの事故で。雨の日に。横断歩道で。
現実を受け入れるのには、時間がかかった。頭では理解できても、心がそれを拒否している。まだ生きているような気がする。でも、ここにいるということは、もう生きていないということなんだ。
「死を受け入れるのには、時間がかかります」
猫は僕の様子を観察しながら言った。その目は無表情で、同情も憐れみも感じられず、ただ事実を述べているだけだった。
「焦る必要はありません。ここには時間がありませんから」
「時間が……ない?」
僕はようやく声を絞り出した。喉が渇いていて、声がかすれている。
「ええ。この駅では、時間は流れません。あなたが受け入れるまで、いくらでも待てます」
猫はそう言って、少し首を傾げた。まるで、僕の反応を観察しているようだった。
「でも、あなたがここにいるということは、まだ未練があるということです」
「未練……」
僕は切符を見た。朝比奈澪。未送信の言葉。
「この切符に書かれている、これが……」
「ええ。あなたの未練です」
猫は改札を通り抜けて、僕の前に座った。その動きは滑らかで、まるで重力を感じていないようだった。足音もなく、静かに移動して、改札のバーをすり抜けるように通過し、僕の目の前に現れた。
「人は死ぬとき、未練を残します。伝えられなかった言葉、果たせなかった約束、謝れなかった過ち、感謝を伝えられなかった恩人。そういったものが、未練として残るのです」
猫の説明は淡々としていたけれど、その言葉一つ一つが重かった。僕は切符を握りしめた。朝比奈澪。未送信の言葉。確かに、僕には澪に伝えられなかったことがあって、たくさんあって、あの日言えなかった言葉が今でも喉の奥に詰まっている。
「じゃあ、この切符は……」
「あなたを現世に戻すためのものです」
猫の言葉に、僕は息を呑んだ。現世に戻る? 死んだ人間が、生きている世界に戻れるということなのか。そんなことが可能なのか。死は、終わりじゃないのか。
「戻れるのは、60分だけです」
猫は切符を指差した。その前足は小さいのに、動きは正確だった。
「その時間内に、あなたは未練を解消しなければなりません。解消できれば、切符の文字が消えます。そして、あなたは自動的にこの駅に引き戻されます」
「60分で……澪に、言葉を伝えるのか」
「そうです。ただし」
猫は僕を見上げた。その目は無表情で、感情が読み取れず、琥珀色の瞳が僕の目を捉えて離さない。
「いくつか制約があります」
猫は淡々と説明を始めた。触れることはできない。もし触れたら、残り時間が急速に減る。一秒の接触で五分のロスになる。つまり、十二秒触れれば残り時間は全て失われる。未来を変える行動は禁止で、物を動かすことも、事故を防ぐことも、誰かの運命を変えることもできない。あなたは観察者であり、干渉者ではない。自分が死んだ事実を明言することもできず、言おうとすると声が出なくなり、喉が締め付けられて言葉が消える。そして、何より重要なのは――。
「この列車は、やり直しではありません」
猫の声が、初めて少しだけ感情を帯びた。警告するような、諭すような、そんな響きがあった。
「あなたが戻っても、過去は変わりません。未来も変わりません。ただ、未練を解消するためだけに、60分が与えられるのです」
「じゃあ……結局、何も変えられないのか」
僕は呟いた。60分戻れても、過去は変わらず、未来も変わらない。それなら、何の意味があるんだ。何のために戻るんだ。
「変わるのは、あなた自身だけです」
猫はそう言って、少し間を置いた。風が吹いて、猫の髭が揺れる。この駅には風なんて吹かないはずなのに、確かに風を感じた。
「未練を解消することで、あなたは前に進めます。それが、この切符の意味です」
前に進む。でも、死んだ人間が前に進むとは、どういうことなんだろう。僕はもう、この世界にいない。生きている人間じゃない。それでも、前に進むことができるのだろうか。進んだ先には、何があるのだろうか。
「行きますか? それとも、ここに留まりますか?」
猫は改札の方を向いた。
「決めるのは、あなたです。でも、忠告しておきます」
猫は僕を見た。その目が、初めて何かを訴えているように見えた。
「期待すると、降りるのが辛くなりますよ」
その言葉の意味が、僕にはわからなかった。期待すると辛くなる? どういうことだ。でも、猫はそれ以上説明せず、ただじっと僕を見ていて、待っている。僕の決断を。
僕は切符を見つめた。朝比奈澪。未送信の言葉。60分。往復無効。
行くべきなのだろうか。60分で何ができるんだ。澪に何を伝えればいいんだ。そもそも、澪はもう僕のことを忘れているかもしれない。あれから、どれくらい時間が経ったんだろう。数日? 数週間? それとも、もっと? 僕が死んだことを知って、澪はどう思っただろう。悲しんでくれただろうか。それとも、もう前を向いているだろうか。いや、忘れていなかったとしても、僕を恨んでいるかもしれない。突然別れを告げて、理由も言わずに去った男。そんな男のことを、許してくれるはずがない。会っても、何も言えないかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
でも、行かなければ後悔する。それだけはわかっていた。僕は澪に伝えたいことがあって、伝えられなかったことがある。今更かもしれない。遅すぎるかもしれない。でも、伝えたい。この胸の中にある言葉を、澪に届けたい。
「……行く」
僕は答えた。猫は小さく頷いて、改札の方へ歩き出した。その足音は相変わらず聞こえなくて、まるで幽霊のように滑らかに移動する。
「では、切符を改札に通してください」
僕は切符を手に持って、改札機に通した。スロットに切符を入れると、機械が音を立てて切符を吸い込み、ピッという音がしてバーが開いた。改札を通り抜けると、周囲の景色が変わった。
改札の向こうには、ホームが広がっていた。さっきまでいた場所とは違って、より広く、天井も高い。照明も明るくなっていて、まるで別の駅のようで、壁も綺麗で新しい駅のように見える。そして、そこには一両だけの列車が停まっていた。
列車は古びた車両で、窓ガラスは曇っている。車体は灰色で、ペンキが剥げている部分もあるけれど、どこか威厳があった。静かに佇んでいて、まるで僕を待っていたかのように見え、ドアは開いていて中は薄暗かった。
「この列車に乗ってください」
猫が列車を指差した。僕は少し躊躇したけれど、列車に近づいた。ドアから中を覗くと、古い長椅子が並んでいて、緑色の布は擦り切れ、中の詰め物が見えている。誰も乗っておらず、車内全体が静まり返っている。
僕は列車に乗り込んだ。足を踏み入れた瞬間、ドアが閉まった。驚いて振り返ると、猫が外に立っていて、ガラス越しに猫と目が合った。
「60分です。有効に使ってください」
猫はそう言って、列車から離れた。その直後、列車が動き出した。音もなく、滑らかに。加速する感覚もなく、重力を感じない。まるで物理法則が通用しない世界にいるようだった。
僕は窓の外を見た。ホームが遠ざかり、猫の姿も小さくなっていく。列車は闇の中へと進み、窓の外は真っ暗になった。
しばらくすると、闇の中に映像が浮かび上がってきた。最初はぼんやりとした光の点だったけれど、それが次第に輪郭を成し、色づいて、やがて鮮明な映像になる。
映像は、僕の記憶だった。
澪と初めて会ったのは春の朝だった。教室で隣の席になって、澪は人懐っこい笑顔で「よろしくね」と言った。その笑顔がまぶしくて、窓から差し込む太陽の光に澪の髪が輝いていた。初めてのデートは映画館だった。恋愛映画だったけれど内容はあまり覚えていない。ただ、澪と一緒にいられることが嬉しかった。映画の後、カフェで澪は将来の夢について語った。美術の道に進みたい。デザイナーになりたい。その目は輝いていて、僕は澪の話を聞きながら、この人を守りたいと思った。
文化祭では二人でクラスの出店を手伝い、焼きそばを作った。澪は楽しそうに笑っていて、僕もつられて笑った。夜、校庭で花火を見て、打ち上げ花火が空に咲くと、澪は「綺麗」と呟いて僕の手を握った。その手は温かくて、僕はそっと握り返した。
でも、映像はやがて暗くなっていく。色が褪せていって、光が弱くなっていく。
母が倒れた日、病院から電話がかかってきた。学校を早退して病院に駆けつけると、母は意識があったけれど顔色が悪かった。医者から「長くない」と言われて、頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。
その後、僕は変わった。澪と会っても笑えなくなり、話していても上の空だった。澪は心配してくれて、「何かあった?」と何度も聞いてくれたけれど、僕は「大丈夫」としか言えず、本当のことを言えなかった。澪を心配させたくなくて、澪を巻き込みたくなくて、澪には夢があって、その夢を僕のせいで諦めさせたくなかった。
そして、別れの日。雨の中、公園で待ち合わせた。澪は笑顔で来たけれど、僕は笑えなかった。僕は言った。「別れよう」と。澪の笑顔が消えて、「なんで」と聞かれた。僕は答えた。「好きじゃなくなった」と。嘘だった。本当は、澪が大好きだった。でも、言えなかった。澪を守るためには、これしかないと思った。
澪は泣いた。「嘘だよね」と何度も聞いたけれど、僕は首を振った。澪は走り去っていって、雨の中、傘も差さずに。僕は、その背中を見送ることしかできず、立ち尽くして、ただ見ているだけだった。雨が僕の顔を濡らしていて、涙なのか雨なのか、わからなかった。
窓の外の映像が消えた。僕は座席に座り込んで、顔を覆った。なんてことをしたんだ。守るつもりが、澪を傷つけただけだった。本当の理由を言えば、澪は理解してくれたかもしれない。一緒に乗り越えようと言ってくれたかもしれない。でも、僕は言えなかった。自分の弱さを認めたくなかった。澪に弱い自分を見せたくなかった。
「なんで……なんで、俺はあの時、本当のこと言えなかったんだろう」
声に出して呟いた。でも、答えは返ってこない。列車の中は静かで、僕の声だけが虚しく響いている。天井から吊り下げられた古い照明が、微かに揺れている。
どれくらい時間が経ったのかわからない。この列車の中では、時間の感覚が狂っている。でも、60分は刻々と減っているはずだ。腕時計を見ようとしたけれど、文字盤は曇っていて読めない。いや、よく見ると針が動いている。ゆっくりと、でも確実に。
列車は相変わらず闇の中を進んでいて、窓の外にはもう何も映らず、ただ暗闇だけが広がっている。僕は座席にもたれて、天井を見上げた。古びた天井には、シミがいくつもついていて、長い年月を経た証だ。この列車は、どれだけの死者を運んできたんだろう。どれだけの未練を見届けてきたんだろう。どれだけの後悔を、この座席に染み込ませてきたんだろう。
僕は切符を取り出して、もう一度文字を確認した。朝比奈澪。未送信の言葉。60分。往復無効。
未送信の言葉。僕が澪に伝えたかったのは、何だっただろう。謝罪? 本当の別れの理由? それとも、感謝の言葉? いや、きっと全部だ。全部伝えたかった。でも、何から話せばいいのかわからない。60分で足りるのだろうか。いや、60分あれば十分なはずで、言葉を選べば伝えられる。
でも、本当にそれでいいのだろうか。僕が伝えたいのは、本当に言葉なのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。
その時、列車が減速し始めた。窓の外に光が見えてくる。最初は小さな光の点だったけれど、それが次第に大きくなっていく。トンネルの出口だろうか。どうやら、到着するらしい。
僕は立ち上がって、ドアの前に立った。心臓が早鐘を打っていて、緊張と不安と、そして少しだけの期待が入り混じっている。手のひらに汗が滲んでいて、呼吸が浅くなっている。落ち着こうとしても落ち着けず、深呼吸をしても心臓の音は収まらない。
澪に会える。60分だけだけれど、もう一度会える。何を話せばいいのかわからないけれど、とにかく会いたい。もう一度、澪の顔が見たくて、声が聞きたくて、笑顔が見たい。
でも、同時に怖くもあった。もし、澪が僕を恨んでいたら。もし、澪が僕のことを忘れていたら。もし、澪が幸せそうだったら。それを見たとき、僕はどうすればいいんだろう。
列車が完全に停止した。ドアが開く。光が差し込んでくる。眩しくて、思わず目を細めた。白い光が車内に溢れて、全てを包み込む。
「60分です」
猫の声が聞こえた。実際には猫はいないのに、声だけが頭の中に響いてくる。テレパシーのような感覚だった。
「期待すると、降りるのが辛くなりますよ」
その言葉の意味が、まだわからない。でも、なぜか胸に引っかかった。期待してはいけない。でも、期待せずにいられるだろうか。澪に会えるという期待。言葉を伝えられるという期待。未練を解消できるという期待。全て、期待だらけだ。でも、猫の声には警告が込められていて、期待しすぎると辛くなる。どういう意味だろう。
僕は深呼吸をして、一歩を踏み出した。光の中へ。澪のいる世界へ。もう戻れない、生きている人たちの世界へ。
足が地面に触れた瞬間、景色が変わった。光が収まって、視界がはっきりしてくる。僕は、どこかに立っていた。
見慣れた景色が広がっていた。
ここは――高校の校門だった。



