「逝くものと残るもの、一体どちらが辛いのか」
おしどり夫婦で知られた著名人の訃報に対して、そんなコメントをしたのは、確か男性のお笑い芸人だったと思う。
答えはどっちだろうって頭を悩ませてはみたものの、結論は出なくて、もし自分がその立場になるのなら残る方にはなりたくないって漠然と思ったのだけは覚えている。だから、私の願いは叶ったことになるんだろう。だけど、まさかこんな展開が待ち受けているとは、正直考えつきもしなかった。
*
生温く湿り気をはらんだ風が顔にまとわりついてきて、たまらず顔を払った。視界の先には河原が広がっていた。
どこ、ここは?
無意識のうちに私は身体を動かしたらしい。足元の小石同士が擦れてじゃりじゃりと音を立てた。子供の頃に、家族で何度も訪れた河原に似ている気はしたけれど、全く見知らぬ場所であることは間違いなかった。
現状を把握しようと、周りに目を凝らしてみると、河原の奥には海と見間違いそうな川が悠々と流れている。なぜ海ではないと言い切れるのか理由は分からない。けれど、本能的なものがこれは川だと言い張っていた。
河原には老若男女の姿がそこここに見受けられた。けれど、不思議とはしゃぎ声や笑い声は全く耳に届いてこず、静寂がこの場を支配していた。
どうやってここへ来たんだっけ?
軽い気持ちで、自分に問いかけた。一秒、二秒と時間が過ぎると共に、傾げた首と肩の間の角度が鋭くなっていった。
思い出せない。
この結論を出すのに、相当の時間、というよりは勇気を要した。手掛かりになりそうな記憶の断片すら浮かんではこなかった。
眠っていたわけではない。現に、私はこの河原に二本の足でしっかりと立っている。靴の裏から石の滑らかではない感触が伝わってくる。満員電車の中ならともかく、なんの支えもなく立って寝られるような器用さを、あいにく持ち合わせていない。気が付けば,ここにいたというのが正しい。
名前は言える? 桐生瞳子、二十五歳。うんうん、大丈夫、言える。家族構成は両親と妹が一人。妹は三つ下で、名前は璃子。そうそう、ちゃんと記憶がある。じゃあ、私はどうやってここに来た?
だめだ、やっぱり出てこない。この質問になると、思考が突然停止する。壊れた電子ファイルを開けようとしては、アプリケーションが勝手にシャットダウンしてしまうのに似ている。
一体、その壊れたファイルに、数分前からどのあたりまでの記憶が入っていたというのだろう。ひとたび考え出すと、絶望を味わうことになりそうで、一旦現実と向き合うのは止めて、私はその場に腰を下ろした。石のせいでお尻が痛い。普段ならもう一度立ち上がったろうが、今は痛みこそ自分の意識があることの証拠のようでむしろ嬉しかった。
近くで四、五人の子供たちが、それぞれ石を積み上げて遊んでいる。全員、幼稚園児くらいで、近所の園から遠足にでも来たのだろうかと、微笑ましく見ていた。けれど、五分も眺めていれば、それが思い違いであることに気が付いた。というのも、先生らしき大人の姿も、子供たちが互いに口どころか視線すら交わすことが一切なかったからだ。
そうなると、今度は子供たちが誰一人楽しそうにしていないことと、川に入りでもしたら危ないのに周囲に大人の姿がないことが気になって仕方がなかった。
一体、親たちはどこにいるのだろう。揃いも揃って、子供だけを河原に放置しておくなんて無責任にも程がある。
多少の苛立ちを感じながら、引率者にでもなった気分で子供たちを観察していた。子供たちは私のことなどお構いなしに、黙々と石の塔を作り上げていく。相も変わらず子供同士で関わろうとすることもしなければ、石を積む手を止めることもしない。
普通、公園なんかでは必ず人懐こい子がいて、一方的ではあれ、コミュニケーションが生まれたりするものなのに……。
次第にこの場所に漂う奇妙さを感じ取った。この河原には、それなりに人影がある。なのに誰一人、他人と言葉を交わしているものがいないのだ。だから、人の数に対して、耳に入ってくる音が圧倒的に少ない。強いていうなら、テレビを消音にして見ているような感覚に近いかもしれない。
通常、河原にこれだけの人がいたなら、笑い声や叫び声で溢れかえっているはずだ。ううん、それだけでなく、転んだ、ぶつかったと泣き出す子供もいるだろう。それなのに、ここでは人と人との関わりが全く見られず、表情も皆、一様に真面目くさった顔で気楽さがなかった。家族でとか、サークルの仲間ととか、デートでといった具合に、誰かと一緒にここを訪れた人間は誰もおらず、それぞれ各自でここへやって来たということらしい。
そんな、全員が単独でやってくるなんてことあるだろうかと、自分に問いかけた瞬間、私自身、そのうちの一人であることに気がついた。そうだ、私だっていつの間にかこの場所に来ていた。
今まで、河原へ一人で来ようなんて思ったことなど一度もないのにどうして? しかも私の記憶は部分的に消えている。何かがおかしい。一体、ここはどこなの?
居てもたってもいられず立ち上がった。行く当てもなかったが、一度芽生えてしまった薄気味悪さに、ここを離れたいという衝動に駆られた。お尻に石がついてないか、手で払ったり、一人賑やかに動いていると、下の方から注がれる視線を感じた。
視線の送られてくる方へ顔を向けると、さっきまで無我夢中で石を積んでいた男の子と目が合った。
男の子は四歳くらいで、彼の前にはうず高く積み上げられた立派な石の塔が出来上がっていた。男の子はその塔の完成が誇らしかったようで、大きな黒目を私と塔の間で行ったり来たりさせると、控えめに微笑んでみせた。左ほほに現れた小さな窪みにどこか懐かしさを覚えた。
すごい、上手に作ったねと、声をかけようとしたとき、私たちに近づいてくる影が視界に入った。影の正体は、小学校高学年くらいの痩せ型の少年で、思春期特有の扉をすでに開いてしまったのか、目つきが随分悪かった。
少年はなぜか上半身が裸で、赤みがかった茶色の髪を風になびかせていた。私よりも背は低く、華奢ではあったが、関わるのは危険だと警戒してしまう異質さが滲み出ていた。男の子に視線を戻すと、さっきまでの柔らかな笑顔はすっかり消え失せ、つぶらな瞳に恐怖の色が明らかに浮かび上がっている。男の子だけではなく、子供たち全員に生まれた緊張感を肌で感じ取った。
唾を飲むことすら躊躇うような息の詰まりそうな時間が流れる。何事もなく、少年がこの場を過ぎ去ってくれればという願いは虚しく、少年は立ち止まった。それは、男の子の真正面で、男の子はさっと目を伏せた。
そこからはスローモーションで映像を見ているようだった。少年が足を振り上げ、勢いよく下ろす。足は男の子自慢の石塔に当たり、石が四方八方に砕け散っていく。石のひとつが、男の子の頬を掠めていった。男の子の顔がどんどん歪められていき、やがてへの字になりたがる上唇を、必死に堪えようと力の入った下唇を見て、私の口が勝手に動き出した。
「ちょっと!」
思いがけず、低く野太い声が出て、自分でも驚いた。けれど、それは少年も同じだったようで、彼はわずかに怯んだ表情を見せた。
「ダメでしょう、小さな子供をいじめたら」
少年になめられてはならないと、冷静な大人を演じた。
少年は決まり悪そうに、ちっと舌打ちすると、ごめんの一言もなくそそくさと来た道を帰って行った。
「ほっぺ大丈夫?」
急いで男の子のもとへ駆け寄り、その場にしゃがんだ。
「うん。大丈夫」
「ひどいことするね」
男の子はもう一度、石を積み上げ始めていた。私も手伝おうと適当な石を拾った。男の子が作りかけている石塔の上に、UFOキャッチャーのクレーンみたいに腕を運んだ。
すると手が石を離す前に、突然腕がぎゅっと握られた。訳が分からず、ひんやりした小さな手をしばらく見つめたあと、視線を上げた。男の子がこちらをじっと見つめていた。焦げ茶色と黒色が混在する瞳に困惑する私が映り込んでいた。
「あのね、これはね、僕一人でね、やらないとダメなの」
小さいながらに好意を無駄にしたと思ったのだろう。男の子は眉毛を八の字にして、言葉をゆっくり紡いだ。
「そっか、ごめんね」
自由になった腕で無用になった石を河原に戻した。塔の一部になり損ねた石はあっという間に他の石に紛れ込んで、どれがさっきまで自分の手の中にあったのか分からなくなった。
よっこいしょと腰を上げた。これ以上、構われるのを男の子が良しとしていない気がした。
「どこ行くの?」
早く立ち去った方がいいように感じたのは、勘違いだったのだろうか。男の子の声は、思いのほか不安げだった。
「分からない。でも、どこかに行ってみようかと思う。どこに行けばいいと思う?」
もし、男の子がここにいて欲しそうなそぶりを示したら、残るつもりだった。男の子は俯き、しばらく黙り込んだあと、何かを思いついたのかはっと顔を上げた。
「そういえば大人の人は、みんな、あっちの方からくるよ」
男の子は目を輝かせながら、幼さの残るぷっくりした手をまっすぐに伸ばした。どこか引き止められることを期待していた私としては、少々拍子抜けしてしまったけれど、それを気取られまいと平静を装った。
「そうなの? じゃあ、あっちに行ってみる。ありがとね」
男の子が指し示す方向には、確かに行くものと来るものの人の流れがあり、行ってみる価値はありそうに思えた。
じゃあねと別れを告げると、一歩目を踏み出した。
「ううん、あのね、えっとね、僕もありがとう」
男の子が屈託のない笑顔を見せた。見知らぬ土地を歩き回ることに不安や抵抗はあったが、その満面の笑みが背中を押してくれた。
「またね」
「またね! おばちゃん!」
映画の別れのシーンのごとく颯爽と去ろうとした私は、背後からやってきた声に、たまらず膝から崩れ落ちそうになったが、なんとかぐっと踏ん張った。
おばちゃん、おばちゃん、おばちゃん。その単語が頭の中を回遊魚みたいにぐるぐると回り続けた。初めておばちゃんと呼ばれたことは、乙女心に想像以上のダメージををもたらしたようだった。
まだ二十五歳なのに。
そう思いながら、ふと頭に手をやった。思い描いていた髪の感触とは違い、何度も手を髪に這わせた。ショートヘアだと思い込んでいた髪は、実際は肩甲骨あたりまで伸びた髪が後ろで一つに結わえられていた。
脳が大量の疑問符で埋め尽くされていく。短時間で、この感覚は二度目だった。
髪の毛の長さが思っていたのと違うのも、ここへ来た記憶がないのも深く繋がっているとしたら、一体何が導き出せるのかと頭を捻った。
結果、生まれたものは、足元から頭のてっぺんへとぞわぞわと這い上がっていく気味の悪さだった。
ねぇ、うなじがはっきり見えるショートヘアが、肩を過ぎるくらいまで伸びるとしたら、一体どれくらいの日数がかかると思う?
質問に答えを出すよりも先に、身体が得体のしれない恐怖を感じてか鳥肌が立った。呆然とする私に追い討ちをかけるように、男の子に投げかけられたおばちゃんという言葉が脳裏を掠めていった。
鏡を見たい。そう強く願って、立ち止まったとき、緑青で見事に覆われた屋根が特徴的な和風の建物が目に飛び込んできた。
自分のことに没頭するあまり、知らぬ間に相当な距離を歩いてきたらしく、少し前にいた河原とは風景が一変していた。子供は全くいなかったが、大勢の人の姿があり、全員がその建物へ向かっていた。入母屋造でできたその建物は、どうやら神社で見かける社務所のような役割を果たしているらしく、目の前に広がる光景は三が日にお守りやおみくじを人々が求めるそれによく似ていた。
「あんた、並んでるのかい? どっちだい?」
ぼんやりしていたら、肩越しに年配の男の人の声が聞こえてきた。後ろを振り向き「いえ、私は別に」と告げる前に質問者と思われた人物はさっさと先へ進んでいた。そのあとに続いて他の人々も私の前をぞろぞろと過ぎ去って行く。眼前を流れていく光景を見つめてていると、割合、人生の先輩と呼べそうな人たちが多いことに気がついた。その中に時折、二十代や三十代と思われる人たちが混じっていた。ただ、いずれの人も覇気がなく、上空の青空とは対照的にみんなの顔はどんよりと曇っていた。
「あれ、さっきのおばさんじゃんか」
近くで聞き慣れない甲高い声がした。視線を下げると、見覚えのある上半身裸の少年が、にやにやと薄ら笑いを浮かべて立っていた。あぁ、関わりたくない輩が来たと身構えた。
「そう構えないでいいよ。俺は、大人には何もしないから」
少年は笑みを引っ込めると、真顔になってすっと私の隣に並んだ。
「大人にはしないけど、小さい子はいじめるってわけね。辞めなさいよ、そんなの。格好悪い」
「はは、いじめてるわけじゃないさ。俺は自分に与えられた任務を全うしてるだけだよ。おばさん、本当に何も知らないんだな」
少年は見た目の割に、大人びた言葉を使った。少し前には感じた思春期ならではの反抗的な雰囲気が随分薄れているように感じられた。おばさんと自分が呼ばれることには慣れつつあった。
「何を?」
「ここがどこだか知ってる?」
少年は意味ありげに私を横目で見た。
「知らない。ここがどこなのか、どうやってここに来たのかも。知ってることがあるなら教えてよ、少年」
ため息と一緒に少年を見返した。少年の目にかすかに憐れみの色が浮かんだように思えた。
「そうだな、とりあえず、おばさんもこの列に並んだほうがいいよ。俺が教えてあげられるのはそれくらい」
少年は無知の私を小馬鹿にすることもからかってくることもしなかった。
「分かった。ありがとう、少年」
ちょうどいい位置にあった少年の頭を撫でた。嫌がられるかと思っていたが、少年はすんなりと私の手を受け入れてくれた。ストレートティーを思わせる赤茶色の髪は猫っ毛で滑らかだった。いつまでも撫でていたい衝動に抗えず、髪を触り続けていたら、頭のてっぺんにある妙なものに触れた。それは、硬いしこりのようで、反射的に手を引っ込めた。
少年と私はしばらく言葉なく見つめあった。少年は決まり悪そうな顔をして、目を伏せた。けれど、すぐに正面を向くと、
「じゃあ、ちゃんと並びなよ、おばさん」
と無理やり明るい調子で私に念を押し、足早に去って行った。
肩甲骨の浮き出た背中を見送りながら、少年に言われたように列の後ろに並んだ。列は三が日の社務所前とは違って、かなりスムーズに進んでいた。どうやら、これらの人々を捌いている人は相当手際がいいらしい。そんなことを思いながらも、手の中に残った感触が気になって仕方がなかった。
一体、あれはなんだったんだろう。たんこぶのようなものじゃなくて、骨のように硬くざらざらしたもの。そう、まるでツノみたいな……。ツノ? もっとも確からしい答えに辿り着いたような感覚を得たとき、私は列の先頭に躍り出ていた。
ひとまずツノのことは忘れることにして、少しでも情報を得ようと視線の先を前方に定めた。
まず、目に飛び込んでくるのは、正面に構える伝統的な青緑色の屋根の建物。そして、その建物の前には、腰の曲がった人生の大先輩たち三人。三人は仲良し三人組というわけではなく、一定の間隔をあけて一人ずつ横に並びこちらに背を向けている。先輩たちの前にはそれぞれ引き違い窓があり、そこからは役所勤めの職員のようなワイシャツにネクタイを締めた働き盛りの男性たちの上半身が見えた。
どこでもよかったのだが、何気なく、真ん中の後光が差しそうなほど綺麗に禿げ上がったお爺さんが並ぶ窓口に焦点をあてた。お爺さんを担当しているのは、四十代にちょうど差し掛かったような男性で、短く散髪された黒々とした固そうな髪と太くまっすぐに伸びた眉が男臭さを醸し出していた。
男性は、自身とお爺さんとの間の木製カウンターに置かれた何かを使って、お爺さんになにやら説明しているようだった。
やがてお爺さんが、何度もお辞儀をしてカウンターにつるつるの頭をぶつけそうになりながら窓口を離れると、手の空いたその男性と視線がぶつかった。
一歩も動かないで待っていると、かすかに男性の一直線の眉毛が歪んだ。私が、依然立ちすくんでいると、
「どうぞ」
と、男性は立ち上がり、肘のあたりまでシャツの袖がまくられた長い腕と大きな手を伸ばしてきた。厳しい顔つきとは反対に、声は低音ながら落ち着いた優しい響きだった。
すみませんとぺこぺこ頭を下げながら、男性の元へ近づいていった。建物の中は、外よりも幾分床が底上げされているらしく、近寄るにつれて、割と上背のある私の視線の位置にある男性の胸ポケットがどんどんクローズアップされていった。さらに、胸ポケットにはきちんと名札が付けられていて、そこにはゴシック体で鬼束と記されていた。
「こんにちは」
鬼束さんは挨拶をしながら腰を下ろした。何も言わず、頭だけを軽く下げた。鬼束さんの体重のかかった椅子が、私の代わりにぎしぎしと返事した。
「では、こちらに手を置いてください」
鬼束さんが年季の入ったカウンターに掌を上に向けて、そっと置いた。鬼束さんの手の横には、タブレットPCのようなものが埋め込まれていて、思わず凝視した。この趣や歴史を感じさせる建造物とその板状のハイテク機器はうまく融合しているとは言い難かった。
頭の上から、咳払いが聞こえた。あとがつかえているんだから、さっさと済ませろということらしい。
「両手ですか?」
「いえ、右手、左手どちらか片方で結構です」
鬼束さんは、目をわずかに見開いたが、すぐさま淡々と答えた。
言われた通り、右手を載せるとひんやりした感触と硬さと柔らかさを併せ持つ液晶の脆さのようなものを感じ取った。何か反応するのかと思ったが、タブレットの黒い画面は何一つ変わらなかった。
これでいいのだろうかと鬼束さんの様子を窺うと、
「ありがとうございます。もう自由にして頂いて結構です。それでは、お名前と年齢をお願いします」
と、視線を落としてカウンター下にある何かを確認しながら、マニュアルを読んでいるような言い方で指示をしてきた。
「桐生瞳子、二十五歳です」
答え終わっても、鬼束さんは何も言わなかった。代わりに鬼束さんは顔を上げた。しばらく、私たちは互いに見合ったままだった。
「……すみません。もう一度仰って頂けますか」
「桐生瞳子、二十五歳です」
声が小さかっただろうかと思い、今度ははっきりと大きな声で同じ答えを繰り返した。鬼束さんの眉毛がぴくりと動いた。
「桐生瞳子さん、二十五歳でお間違いはないですか」
「はい」
鬼束さんは私の返事を聞くや否や、突如立ち上がり奥にいる誰かに呼びかけた。鬼束さんは背が高く、私は漠然とジャックと豆の木を思い出した。
「澤さん、申し訳ないんですが、ここ交代してもらえますか? 僕はちょっとこちらの方の対応にあたりますので」
「いいけど、どうしたの?」
鬼束さんの後ろから、澤さんと思われる五十代くらいの女性がひょっこり顔を出した。典型的な役人ルックの鬼束さんに対し、澤さんはロックな感じで、黒のタイトなワンピースに、ウェーブのかかった長い髪を無造作に下ろしていた。薄い唇には真っ赤な口紅が引かれ、頭の上には丸縁メガネが、巣にいる雛鳥のようにちょこんと居座っていた。
「Eコードの発生です」
鬼束さんがそう言うと、澤さんの顔色がさっと変わった。私としては名前と年齢を告げただけだが、何か厄介なことが生じたのは明白だった。
「コードナンバーは……」
澤さんは、鬼束さんを押しのけるようにすぐさま前へやってくると、腰を屈めた。頭のメガネをかけ、カウンター下でごそごそと何かをいじる仕草をした。澤さんと私との距離がぐっと近づき、顔に彼女の長い黒髪が触れそうになった。澤さんからは、大人の女性を思わせるいい香りがふわりとした。
鬼束さんと澤さんは、眼前にいる当人をそっちのけで、小声で一言、二言、言葉を交わすと、互いに数回首を横に揺らした。まるで野球のバッテリーさながらのやりとりに、一生懸命耳を澄ましたが、何も聞き取ることはできなかった。
「分かったわ。じゃあ、よろしくね」
最終的に二人の首が縦に振られると、澤さんは、そのまま鬼束さんの座っていた椅子に陣取り、後ろに控える鬼束さんの腕をぽんぽんと叩いた。
「では桐生さん、申し訳ありませんが、あちらに扉があるのでその前まで移動して頂けますか?」
鬼束さんの視線がようやく私に戻り、すっと長い指を差した。指の差す方を見ると、この建物の一番端に、勝手口のようなこじんまりした扉が確認できた。
「……はい」
小さく返事した。はいとは言ったものの、実際には乗り気ではなかった。自分が特殊な事態に陥っているというのは、状況から判断すれば明らかで、あまり深入りはしたくなかった。
「大丈夫ですよ、桐生さん。少し、お話をさせて頂くだけですから」
澤さんが微笑んだ。渋々扉の方へ向かった。去り際、澤さんの胸元に目がいった。名札には鬼澤と書かれてあった。
「お待たせしました。どうぞ、中へ」
五分ほど扉の前で突っ立っていると、扉が開いて、鬼束さんが顔を見せた。思っていた通り、隣に並んだ鬼束さんは優に百八十センチを超えていそうだった。
鬼束さんは私を招き入れると、すたすたと何処かへ歩いていった。慌てて後ろ姿を追いかけてると、頼もしそうな大きな背中の向こうに澤さんの姿がちらりと見えた。
通されたのは、さっき澤さんや鬼束さんがいた場所の一角をパーテーションで仕切った簡単な応接スペースだった。
長い黒の革張りのソファが壁側にあり、その前にテーブル、そして同じく革張りの一人掛け用のソファが二脚置かれている。
鬼束さんは、私に奥の複数掛けのソファに腰を下ろすよう促した。私が座るのを見届けると、自分も一人掛けのソファに腰掛け、脇に抱えていた書類を空いている席に静かに置いた。
鬼束さんは前傾姿勢をとると、顔の前で両手を組んだ。しばらくの間、伏せ目がちで黙り込んだままだったが、何か覚悟を決めたのか突如、顔をあげると私の顔をじっと見据えてきた。
鬼束さんの平たい唇がゆっくりと開いていくのを見て、身体を強張らせた。
「桐生さん、あなたはここがどこだかご存知ですか?」
この質問を受けるのは二度目だ。少し前にもあの赤茶色の髪をした少年に尋ねられたばかりだ。余程ここは特別な場所らしいが、私の頭にはどんな単語も浮かんでこなかった。
「いいえ」
首を振ると、鬼束さんは唇を噛んだ。
「賽の河原という名称には聞き覚えがありますか」
「いいえ」
「……そうですか。では、河原の奥に流れる川はご覧になりましたか?」
「ええ。対岸が見えないので川なのか海なのか分かりませんでしたが、やっぱりあれは川なんですね」
「そうです、川です。川の名は三途の川です」
鬼束さんの目の奥がきらりと光ったような気がした。息を呑んだ。三途の川という言葉を心の中で何度も呟いた。ただ、どんなに繰り返してみたところで、知っている三途の川は一つしかなかった。
「三途の川? それは、あの死者が渡る?」
「そうです。ここは死者たちに川の渡り方やその先について指南する場所です」
鬼束さんは真顔で突拍子もないことを言い出した。何てふざけたことをこの場に及んで言うんだろうと思い、鬼束さんの顔を穴のあくほど見つめた。けれど、鬼束さんの表情は真剣そのもので、それが崩れる様子は全くなかった。
最初は嘘八百だと毀滅kていたけれど、鬼束さんの変わらぬ態度を目の当たりにしていると、徐々にあり得ないとは言い切る自信がなくなってきた。同時に、列に並んでいた人々の多くが高齢者であったことが、事実を裏付ける証拠写真のように思い起こされた。
「でも、それなら、私は……」
ここが死者たちの世界というならば、当然湧き上がる疑問がある。それを解決しようと口を開いた瞬間、鬼束さんは先回りするようにはっきりと言い切った。
「単刀直入に申し上げると、あなたはすでに亡くなられておられます」
目の前が真っ白になり、一切の言葉を失った。開けた口の閉じ方すら分からなくなった。
おしどり夫婦で知られた著名人の訃報に対して、そんなコメントをしたのは、確か男性のお笑い芸人だったと思う。
答えはどっちだろうって頭を悩ませてはみたものの、結論は出なくて、もし自分がその立場になるのなら残る方にはなりたくないって漠然と思ったのだけは覚えている。だから、私の願いは叶ったことになるんだろう。だけど、まさかこんな展開が待ち受けているとは、正直考えつきもしなかった。
*
生温く湿り気をはらんだ風が顔にまとわりついてきて、たまらず顔を払った。視界の先には河原が広がっていた。
どこ、ここは?
無意識のうちに私は身体を動かしたらしい。足元の小石同士が擦れてじゃりじゃりと音を立てた。子供の頃に、家族で何度も訪れた河原に似ている気はしたけれど、全く見知らぬ場所であることは間違いなかった。
現状を把握しようと、周りに目を凝らしてみると、河原の奥には海と見間違いそうな川が悠々と流れている。なぜ海ではないと言い切れるのか理由は分からない。けれど、本能的なものがこれは川だと言い張っていた。
河原には老若男女の姿がそこここに見受けられた。けれど、不思議とはしゃぎ声や笑い声は全く耳に届いてこず、静寂がこの場を支配していた。
どうやってここへ来たんだっけ?
軽い気持ちで、自分に問いかけた。一秒、二秒と時間が過ぎると共に、傾げた首と肩の間の角度が鋭くなっていった。
思い出せない。
この結論を出すのに、相当の時間、というよりは勇気を要した。手掛かりになりそうな記憶の断片すら浮かんではこなかった。
眠っていたわけではない。現に、私はこの河原に二本の足でしっかりと立っている。靴の裏から石の滑らかではない感触が伝わってくる。満員電車の中ならともかく、なんの支えもなく立って寝られるような器用さを、あいにく持ち合わせていない。気が付けば,ここにいたというのが正しい。
名前は言える? 桐生瞳子、二十五歳。うんうん、大丈夫、言える。家族構成は両親と妹が一人。妹は三つ下で、名前は璃子。そうそう、ちゃんと記憶がある。じゃあ、私はどうやってここに来た?
だめだ、やっぱり出てこない。この質問になると、思考が突然停止する。壊れた電子ファイルを開けようとしては、アプリケーションが勝手にシャットダウンしてしまうのに似ている。
一体、その壊れたファイルに、数分前からどのあたりまでの記憶が入っていたというのだろう。ひとたび考え出すと、絶望を味わうことになりそうで、一旦現実と向き合うのは止めて、私はその場に腰を下ろした。石のせいでお尻が痛い。普段ならもう一度立ち上がったろうが、今は痛みこそ自分の意識があることの証拠のようでむしろ嬉しかった。
近くで四、五人の子供たちが、それぞれ石を積み上げて遊んでいる。全員、幼稚園児くらいで、近所の園から遠足にでも来たのだろうかと、微笑ましく見ていた。けれど、五分も眺めていれば、それが思い違いであることに気が付いた。というのも、先生らしき大人の姿も、子供たちが互いに口どころか視線すら交わすことが一切なかったからだ。
そうなると、今度は子供たちが誰一人楽しそうにしていないことと、川に入りでもしたら危ないのに周囲に大人の姿がないことが気になって仕方がなかった。
一体、親たちはどこにいるのだろう。揃いも揃って、子供だけを河原に放置しておくなんて無責任にも程がある。
多少の苛立ちを感じながら、引率者にでもなった気分で子供たちを観察していた。子供たちは私のことなどお構いなしに、黙々と石の塔を作り上げていく。相も変わらず子供同士で関わろうとすることもしなければ、石を積む手を止めることもしない。
普通、公園なんかでは必ず人懐こい子がいて、一方的ではあれ、コミュニケーションが生まれたりするものなのに……。
次第にこの場所に漂う奇妙さを感じ取った。この河原には、それなりに人影がある。なのに誰一人、他人と言葉を交わしているものがいないのだ。だから、人の数に対して、耳に入ってくる音が圧倒的に少ない。強いていうなら、テレビを消音にして見ているような感覚に近いかもしれない。
通常、河原にこれだけの人がいたなら、笑い声や叫び声で溢れかえっているはずだ。ううん、それだけでなく、転んだ、ぶつかったと泣き出す子供もいるだろう。それなのに、ここでは人と人との関わりが全く見られず、表情も皆、一様に真面目くさった顔で気楽さがなかった。家族でとか、サークルの仲間ととか、デートでといった具合に、誰かと一緒にここを訪れた人間は誰もおらず、それぞれ各自でここへやって来たということらしい。
そんな、全員が単独でやってくるなんてことあるだろうかと、自分に問いかけた瞬間、私自身、そのうちの一人であることに気がついた。そうだ、私だっていつの間にかこの場所に来ていた。
今まで、河原へ一人で来ようなんて思ったことなど一度もないのにどうして? しかも私の記憶は部分的に消えている。何かがおかしい。一体、ここはどこなの?
居てもたってもいられず立ち上がった。行く当てもなかったが、一度芽生えてしまった薄気味悪さに、ここを離れたいという衝動に駆られた。お尻に石がついてないか、手で払ったり、一人賑やかに動いていると、下の方から注がれる視線を感じた。
視線の送られてくる方へ顔を向けると、さっきまで無我夢中で石を積んでいた男の子と目が合った。
男の子は四歳くらいで、彼の前にはうず高く積み上げられた立派な石の塔が出来上がっていた。男の子はその塔の完成が誇らしかったようで、大きな黒目を私と塔の間で行ったり来たりさせると、控えめに微笑んでみせた。左ほほに現れた小さな窪みにどこか懐かしさを覚えた。
すごい、上手に作ったねと、声をかけようとしたとき、私たちに近づいてくる影が視界に入った。影の正体は、小学校高学年くらいの痩せ型の少年で、思春期特有の扉をすでに開いてしまったのか、目つきが随分悪かった。
少年はなぜか上半身が裸で、赤みがかった茶色の髪を風になびかせていた。私よりも背は低く、華奢ではあったが、関わるのは危険だと警戒してしまう異質さが滲み出ていた。男の子に視線を戻すと、さっきまでの柔らかな笑顔はすっかり消え失せ、つぶらな瞳に恐怖の色が明らかに浮かび上がっている。男の子だけではなく、子供たち全員に生まれた緊張感を肌で感じ取った。
唾を飲むことすら躊躇うような息の詰まりそうな時間が流れる。何事もなく、少年がこの場を過ぎ去ってくれればという願いは虚しく、少年は立ち止まった。それは、男の子の真正面で、男の子はさっと目を伏せた。
そこからはスローモーションで映像を見ているようだった。少年が足を振り上げ、勢いよく下ろす。足は男の子自慢の石塔に当たり、石が四方八方に砕け散っていく。石のひとつが、男の子の頬を掠めていった。男の子の顔がどんどん歪められていき、やがてへの字になりたがる上唇を、必死に堪えようと力の入った下唇を見て、私の口が勝手に動き出した。
「ちょっと!」
思いがけず、低く野太い声が出て、自分でも驚いた。けれど、それは少年も同じだったようで、彼はわずかに怯んだ表情を見せた。
「ダメでしょう、小さな子供をいじめたら」
少年になめられてはならないと、冷静な大人を演じた。
少年は決まり悪そうに、ちっと舌打ちすると、ごめんの一言もなくそそくさと来た道を帰って行った。
「ほっぺ大丈夫?」
急いで男の子のもとへ駆け寄り、その場にしゃがんだ。
「うん。大丈夫」
「ひどいことするね」
男の子はもう一度、石を積み上げ始めていた。私も手伝おうと適当な石を拾った。男の子が作りかけている石塔の上に、UFOキャッチャーのクレーンみたいに腕を運んだ。
すると手が石を離す前に、突然腕がぎゅっと握られた。訳が分からず、ひんやりした小さな手をしばらく見つめたあと、視線を上げた。男の子がこちらをじっと見つめていた。焦げ茶色と黒色が混在する瞳に困惑する私が映り込んでいた。
「あのね、これはね、僕一人でね、やらないとダメなの」
小さいながらに好意を無駄にしたと思ったのだろう。男の子は眉毛を八の字にして、言葉をゆっくり紡いだ。
「そっか、ごめんね」
自由になった腕で無用になった石を河原に戻した。塔の一部になり損ねた石はあっという間に他の石に紛れ込んで、どれがさっきまで自分の手の中にあったのか分からなくなった。
よっこいしょと腰を上げた。これ以上、構われるのを男の子が良しとしていない気がした。
「どこ行くの?」
早く立ち去った方がいいように感じたのは、勘違いだったのだろうか。男の子の声は、思いのほか不安げだった。
「分からない。でも、どこかに行ってみようかと思う。どこに行けばいいと思う?」
もし、男の子がここにいて欲しそうなそぶりを示したら、残るつもりだった。男の子は俯き、しばらく黙り込んだあと、何かを思いついたのかはっと顔を上げた。
「そういえば大人の人は、みんな、あっちの方からくるよ」
男の子は目を輝かせながら、幼さの残るぷっくりした手をまっすぐに伸ばした。どこか引き止められることを期待していた私としては、少々拍子抜けしてしまったけれど、それを気取られまいと平静を装った。
「そうなの? じゃあ、あっちに行ってみる。ありがとね」
男の子が指し示す方向には、確かに行くものと来るものの人の流れがあり、行ってみる価値はありそうに思えた。
じゃあねと別れを告げると、一歩目を踏み出した。
「ううん、あのね、えっとね、僕もありがとう」
男の子が屈託のない笑顔を見せた。見知らぬ土地を歩き回ることに不安や抵抗はあったが、その満面の笑みが背中を押してくれた。
「またね」
「またね! おばちゃん!」
映画の別れのシーンのごとく颯爽と去ろうとした私は、背後からやってきた声に、たまらず膝から崩れ落ちそうになったが、なんとかぐっと踏ん張った。
おばちゃん、おばちゃん、おばちゃん。その単語が頭の中を回遊魚みたいにぐるぐると回り続けた。初めておばちゃんと呼ばれたことは、乙女心に想像以上のダメージををもたらしたようだった。
まだ二十五歳なのに。
そう思いながら、ふと頭に手をやった。思い描いていた髪の感触とは違い、何度も手を髪に這わせた。ショートヘアだと思い込んでいた髪は、実際は肩甲骨あたりまで伸びた髪が後ろで一つに結わえられていた。
脳が大量の疑問符で埋め尽くされていく。短時間で、この感覚は二度目だった。
髪の毛の長さが思っていたのと違うのも、ここへ来た記憶がないのも深く繋がっているとしたら、一体何が導き出せるのかと頭を捻った。
結果、生まれたものは、足元から頭のてっぺんへとぞわぞわと這い上がっていく気味の悪さだった。
ねぇ、うなじがはっきり見えるショートヘアが、肩を過ぎるくらいまで伸びるとしたら、一体どれくらいの日数がかかると思う?
質問に答えを出すよりも先に、身体が得体のしれない恐怖を感じてか鳥肌が立った。呆然とする私に追い討ちをかけるように、男の子に投げかけられたおばちゃんという言葉が脳裏を掠めていった。
鏡を見たい。そう強く願って、立ち止まったとき、緑青で見事に覆われた屋根が特徴的な和風の建物が目に飛び込んできた。
自分のことに没頭するあまり、知らぬ間に相当な距離を歩いてきたらしく、少し前にいた河原とは風景が一変していた。子供は全くいなかったが、大勢の人の姿があり、全員がその建物へ向かっていた。入母屋造でできたその建物は、どうやら神社で見かける社務所のような役割を果たしているらしく、目の前に広がる光景は三が日にお守りやおみくじを人々が求めるそれによく似ていた。
「あんた、並んでるのかい? どっちだい?」
ぼんやりしていたら、肩越しに年配の男の人の声が聞こえてきた。後ろを振り向き「いえ、私は別に」と告げる前に質問者と思われた人物はさっさと先へ進んでいた。そのあとに続いて他の人々も私の前をぞろぞろと過ぎ去って行く。眼前を流れていく光景を見つめてていると、割合、人生の先輩と呼べそうな人たちが多いことに気がついた。その中に時折、二十代や三十代と思われる人たちが混じっていた。ただ、いずれの人も覇気がなく、上空の青空とは対照的にみんなの顔はどんよりと曇っていた。
「あれ、さっきのおばさんじゃんか」
近くで聞き慣れない甲高い声がした。視線を下げると、見覚えのある上半身裸の少年が、にやにやと薄ら笑いを浮かべて立っていた。あぁ、関わりたくない輩が来たと身構えた。
「そう構えないでいいよ。俺は、大人には何もしないから」
少年は笑みを引っ込めると、真顔になってすっと私の隣に並んだ。
「大人にはしないけど、小さい子はいじめるってわけね。辞めなさいよ、そんなの。格好悪い」
「はは、いじめてるわけじゃないさ。俺は自分に与えられた任務を全うしてるだけだよ。おばさん、本当に何も知らないんだな」
少年は見た目の割に、大人びた言葉を使った。少し前には感じた思春期ならではの反抗的な雰囲気が随分薄れているように感じられた。おばさんと自分が呼ばれることには慣れつつあった。
「何を?」
「ここがどこだか知ってる?」
少年は意味ありげに私を横目で見た。
「知らない。ここがどこなのか、どうやってここに来たのかも。知ってることがあるなら教えてよ、少年」
ため息と一緒に少年を見返した。少年の目にかすかに憐れみの色が浮かんだように思えた。
「そうだな、とりあえず、おばさんもこの列に並んだほうがいいよ。俺が教えてあげられるのはそれくらい」
少年は無知の私を小馬鹿にすることもからかってくることもしなかった。
「分かった。ありがとう、少年」
ちょうどいい位置にあった少年の頭を撫でた。嫌がられるかと思っていたが、少年はすんなりと私の手を受け入れてくれた。ストレートティーを思わせる赤茶色の髪は猫っ毛で滑らかだった。いつまでも撫でていたい衝動に抗えず、髪を触り続けていたら、頭のてっぺんにある妙なものに触れた。それは、硬いしこりのようで、反射的に手を引っ込めた。
少年と私はしばらく言葉なく見つめあった。少年は決まり悪そうな顔をして、目を伏せた。けれど、すぐに正面を向くと、
「じゃあ、ちゃんと並びなよ、おばさん」
と無理やり明るい調子で私に念を押し、足早に去って行った。
肩甲骨の浮き出た背中を見送りながら、少年に言われたように列の後ろに並んだ。列は三が日の社務所前とは違って、かなりスムーズに進んでいた。どうやら、これらの人々を捌いている人は相当手際がいいらしい。そんなことを思いながらも、手の中に残った感触が気になって仕方がなかった。
一体、あれはなんだったんだろう。たんこぶのようなものじゃなくて、骨のように硬くざらざらしたもの。そう、まるでツノみたいな……。ツノ? もっとも確からしい答えに辿り着いたような感覚を得たとき、私は列の先頭に躍り出ていた。
ひとまずツノのことは忘れることにして、少しでも情報を得ようと視線の先を前方に定めた。
まず、目に飛び込んでくるのは、正面に構える伝統的な青緑色の屋根の建物。そして、その建物の前には、腰の曲がった人生の大先輩たち三人。三人は仲良し三人組というわけではなく、一定の間隔をあけて一人ずつ横に並びこちらに背を向けている。先輩たちの前にはそれぞれ引き違い窓があり、そこからは役所勤めの職員のようなワイシャツにネクタイを締めた働き盛りの男性たちの上半身が見えた。
どこでもよかったのだが、何気なく、真ん中の後光が差しそうなほど綺麗に禿げ上がったお爺さんが並ぶ窓口に焦点をあてた。お爺さんを担当しているのは、四十代にちょうど差し掛かったような男性で、短く散髪された黒々とした固そうな髪と太くまっすぐに伸びた眉が男臭さを醸し出していた。
男性は、自身とお爺さんとの間の木製カウンターに置かれた何かを使って、お爺さんになにやら説明しているようだった。
やがてお爺さんが、何度もお辞儀をしてカウンターにつるつるの頭をぶつけそうになりながら窓口を離れると、手の空いたその男性と視線がぶつかった。
一歩も動かないで待っていると、かすかに男性の一直線の眉毛が歪んだ。私が、依然立ちすくんでいると、
「どうぞ」
と、男性は立ち上がり、肘のあたりまでシャツの袖がまくられた長い腕と大きな手を伸ばしてきた。厳しい顔つきとは反対に、声は低音ながら落ち着いた優しい響きだった。
すみませんとぺこぺこ頭を下げながら、男性の元へ近づいていった。建物の中は、外よりも幾分床が底上げされているらしく、近寄るにつれて、割と上背のある私の視線の位置にある男性の胸ポケットがどんどんクローズアップされていった。さらに、胸ポケットにはきちんと名札が付けられていて、そこにはゴシック体で鬼束と記されていた。
「こんにちは」
鬼束さんは挨拶をしながら腰を下ろした。何も言わず、頭だけを軽く下げた。鬼束さんの体重のかかった椅子が、私の代わりにぎしぎしと返事した。
「では、こちらに手を置いてください」
鬼束さんが年季の入ったカウンターに掌を上に向けて、そっと置いた。鬼束さんの手の横には、タブレットPCのようなものが埋め込まれていて、思わず凝視した。この趣や歴史を感じさせる建造物とその板状のハイテク機器はうまく融合しているとは言い難かった。
頭の上から、咳払いが聞こえた。あとがつかえているんだから、さっさと済ませろということらしい。
「両手ですか?」
「いえ、右手、左手どちらか片方で結構です」
鬼束さんは、目をわずかに見開いたが、すぐさま淡々と答えた。
言われた通り、右手を載せるとひんやりした感触と硬さと柔らかさを併せ持つ液晶の脆さのようなものを感じ取った。何か反応するのかと思ったが、タブレットの黒い画面は何一つ変わらなかった。
これでいいのだろうかと鬼束さんの様子を窺うと、
「ありがとうございます。もう自由にして頂いて結構です。それでは、お名前と年齢をお願いします」
と、視線を落としてカウンター下にある何かを確認しながら、マニュアルを読んでいるような言い方で指示をしてきた。
「桐生瞳子、二十五歳です」
答え終わっても、鬼束さんは何も言わなかった。代わりに鬼束さんは顔を上げた。しばらく、私たちは互いに見合ったままだった。
「……すみません。もう一度仰って頂けますか」
「桐生瞳子、二十五歳です」
声が小さかっただろうかと思い、今度ははっきりと大きな声で同じ答えを繰り返した。鬼束さんの眉毛がぴくりと動いた。
「桐生瞳子さん、二十五歳でお間違いはないですか」
「はい」
鬼束さんは私の返事を聞くや否や、突如立ち上がり奥にいる誰かに呼びかけた。鬼束さんは背が高く、私は漠然とジャックと豆の木を思い出した。
「澤さん、申し訳ないんですが、ここ交代してもらえますか? 僕はちょっとこちらの方の対応にあたりますので」
「いいけど、どうしたの?」
鬼束さんの後ろから、澤さんと思われる五十代くらいの女性がひょっこり顔を出した。典型的な役人ルックの鬼束さんに対し、澤さんはロックな感じで、黒のタイトなワンピースに、ウェーブのかかった長い髪を無造作に下ろしていた。薄い唇には真っ赤な口紅が引かれ、頭の上には丸縁メガネが、巣にいる雛鳥のようにちょこんと居座っていた。
「Eコードの発生です」
鬼束さんがそう言うと、澤さんの顔色がさっと変わった。私としては名前と年齢を告げただけだが、何か厄介なことが生じたのは明白だった。
「コードナンバーは……」
澤さんは、鬼束さんを押しのけるようにすぐさま前へやってくると、腰を屈めた。頭のメガネをかけ、カウンター下でごそごそと何かをいじる仕草をした。澤さんと私との距離がぐっと近づき、顔に彼女の長い黒髪が触れそうになった。澤さんからは、大人の女性を思わせるいい香りがふわりとした。
鬼束さんと澤さんは、眼前にいる当人をそっちのけで、小声で一言、二言、言葉を交わすと、互いに数回首を横に揺らした。まるで野球のバッテリーさながらのやりとりに、一生懸命耳を澄ましたが、何も聞き取ることはできなかった。
「分かったわ。じゃあ、よろしくね」
最終的に二人の首が縦に振られると、澤さんは、そのまま鬼束さんの座っていた椅子に陣取り、後ろに控える鬼束さんの腕をぽんぽんと叩いた。
「では桐生さん、申し訳ありませんが、あちらに扉があるのでその前まで移動して頂けますか?」
鬼束さんの視線がようやく私に戻り、すっと長い指を差した。指の差す方を見ると、この建物の一番端に、勝手口のようなこじんまりした扉が確認できた。
「……はい」
小さく返事した。はいとは言ったものの、実際には乗り気ではなかった。自分が特殊な事態に陥っているというのは、状況から判断すれば明らかで、あまり深入りはしたくなかった。
「大丈夫ですよ、桐生さん。少し、お話をさせて頂くだけですから」
澤さんが微笑んだ。渋々扉の方へ向かった。去り際、澤さんの胸元に目がいった。名札には鬼澤と書かれてあった。
「お待たせしました。どうぞ、中へ」
五分ほど扉の前で突っ立っていると、扉が開いて、鬼束さんが顔を見せた。思っていた通り、隣に並んだ鬼束さんは優に百八十センチを超えていそうだった。
鬼束さんは私を招き入れると、すたすたと何処かへ歩いていった。慌てて後ろ姿を追いかけてると、頼もしそうな大きな背中の向こうに澤さんの姿がちらりと見えた。
通されたのは、さっき澤さんや鬼束さんがいた場所の一角をパーテーションで仕切った簡単な応接スペースだった。
長い黒の革張りのソファが壁側にあり、その前にテーブル、そして同じく革張りの一人掛け用のソファが二脚置かれている。
鬼束さんは、私に奥の複数掛けのソファに腰を下ろすよう促した。私が座るのを見届けると、自分も一人掛けのソファに腰掛け、脇に抱えていた書類を空いている席に静かに置いた。
鬼束さんは前傾姿勢をとると、顔の前で両手を組んだ。しばらくの間、伏せ目がちで黙り込んだままだったが、何か覚悟を決めたのか突如、顔をあげると私の顔をじっと見据えてきた。
鬼束さんの平たい唇がゆっくりと開いていくのを見て、身体を強張らせた。
「桐生さん、あなたはここがどこだかご存知ですか?」
この質問を受けるのは二度目だ。少し前にもあの赤茶色の髪をした少年に尋ねられたばかりだ。余程ここは特別な場所らしいが、私の頭にはどんな単語も浮かんでこなかった。
「いいえ」
首を振ると、鬼束さんは唇を噛んだ。
「賽の河原という名称には聞き覚えがありますか」
「いいえ」
「……そうですか。では、河原の奥に流れる川はご覧になりましたか?」
「ええ。対岸が見えないので川なのか海なのか分かりませんでしたが、やっぱりあれは川なんですね」
「そうです、川です。川の名は三途の川です」
鬼束さんの目の奥がきらりと光ったような気がした。息を呑んだ。三途の川という言葉を心の中で何度も呟いた。ただ、どんなに繰り返してみたところで、知っている三途の川は一つしかなかった。
「三途の川? それは、あの死者が渡る?」
「そうです。ここは死者たちに川の渡り方やその先について指南する場所です」
鬼束さんは真顔で突拍子もないことを言い出した。何てふざけたことをこの場に及んで言うんだろうと思い、鬼束さんの顔を穴のあくほど見つめた。けれど、鬼束さんの表情は真剣そのもので、それが崩れる様子は全くなかった。
最初は嘘八百だと毀滅kていたけれど、鬼束さんの変わらぬ態度を目の当たりにしていると、徐々にあり得ないとは言い切る自信がなくなってきた。同時に、列に並んでいた人々の多くが高齢者であったことが、事実を裏付ける証拠写真のように思い起こされた。
「でも、それなら、私は……」
ここが死者たちの世界というならば、当然湧き上がる疑問がある。それを解決しようと口を開いた瞬間、鬼束さんは先回りするようにはっきりと言い切った。
「単刀直入に申し上げると、あなたはすでに亡くなられておられます」
目の前が真っ白になり、一切の言葉を失った。開けた口の閉じ方すら分からなくなった。



