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――生と死のあわい。多くの祈りが眠り咲く境界に、慈雨を伴った朝がきていた。
「起きたかにゃあ。珍しく長いこと寝てたにゃあね」
オッドアイの黒い猫又が話しかけてくる。最初は声を聞くたびにぎょっとしていたものだが、いまではすっかり慣れてしまった。おれがどれだけ冷淡な態度でも気にするふうもないため、そこは正直、気が楽ではある。
まあ、相手は猫なようで猫ではない、摩訶不思議な生き物なのだが。
「……少し、昔の夢を見ていた」
「昔? まーたあかりへの恋わずらいかにゃ。ほんと一途な男にゃあ」
「しょうがないだろう。おれは、あかりしか愛せなかった人間なんだから。いまだに過去を変える勇気も出ない、誰よりも臆病な死者なんだ。自覚はある」
手のなかには一輪のスターチスがあった。
スターチスの花言葉は、おれの鎖でもある。
永遠に変わらない、なんて、誰かには夢物語だと鼻で笑われるかもしれない。
でも、仕方がないのだ。どれだけ周りが馬鹿にしようとも、どれだけほかの人間に理解されなくても、おれの心はあかりと繋がっていたいと望んでしまうのだから。
「来来世世というからな。いつかまた、生まれ変わったあかりがくるかもしれない」
「待ってるつもりかにゃ? 憶えていないと思うけどにゃあ」
「いいんだ、それでも」
過去を追慕するとき、そこには必ずあかりの存在があった。悔いを抱えながらも変化を拒絶するのは、記憶のなかにしかない宝物を壊してしまうのが、ひどく恐ろしいからだ。おれにとって、あかりと過ごした日々以上に、大切にしたいものはない。
だからおれは、〝追憶行〟で過去に戻らない選択をした。
『銀ちゃん。この世界は、生きてきた人たちの想いが残る場所なの。外の水面の下に咲く花たちは、その想いや祈りが宿って、あんなに美しく咲いてるんだよ』
『あかりはね、ここで死者たちを見届けながら考えてたんだ。あかりの想いも、いつかここに宿るのかなって。でも、たったひとり――銀ちゃんへの想いなのに、ここに紛れたら寂しいなって気もして』
『だから、車掌特権。このスターチスに、あかりの想いをたくさんこめておくね』
『いつか〝追憶行〟で過去へ戻る決意ができたら、スターチスを見て思い出して。あかりが銀ちゃんを大好きだったこと。あかりたちの時間が幸せだったこと。もし過去を変えたとしても、そのことだけはどうか忘れないで。お願い、銀ちゃん』
――あかりの言葉を巡らせながら、ゆっくりと立ち上がる。
玲瓏な世界に差し込む、幾多の光芒。銀糸が重なり、花満ちるなかで皎然と輝くあわいの世界は、たとえ代り映えしなくても美しい。
最近、この景色を好ましいと思うようになった。
最初はなにも感じなかったのに、おれも長く車掌をするうちに心が感化されてきたのだろうか。それとも、この場に残るあかりの想いを継いでいるだけか。
「まったく……。ほら〝銀〟、そろそろ次の死者がくるにゃあよ」
「ああ」
なんにせよ、おれはまだ、この終灯列車の車掌から卒業できそうにない。
いつか、あかりの言っていたことを理解できる日がくるかもわからない。
だが、少なくとも次を託したいと思う死者がくるまでは、あかりから引き継いだこの帽子を被り続けるしかないのだろう。
それでも、案外向いていると思うのだ。
生きることを選べなかった自分だからこそ、ここで〝誰かのはじまり〟を見守るには適している。
もとより死者の〝追憶行〟は奇蹟の積み重ねだ。
こちらがなにもできなくても、きっとそれでいいのだろう。
想いは時と共に形を変えて、やがてまた、どこかの誰かの胸で芽吹いていくものなのだから。
終灯列車は走り続ける。この先も、ずっと。
人がこの世に存在する限り、想いが交錯する過去と未来を結ぶため。
目には見えない、触れることすら叶わない、心を運んで。
願わくは、届かなかった死者の想いを、もう一度だけ繋げるようにと――。
了



