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「まったくもう。ここにくるにはちょっと早すぎるんじゃないかなぁ、銀ちゃん」
目が覚めたとき、胸の奥がまるで透いていて、不思議なほど静かだった。
そんなおれの前に仁王立ちしていた彼女は――あかりは、いつだったかまだ元気な頃の姿でそこにいた。車掌帽を被り、胸には一輪の花をさしていた。
「でも、ごめん。本当はだめだけど」
地面を蹴ったあかりに、思い切り抱き着かれた。突然のことにバランスを崩したおれは、そのまま尻から転がったものの、反射的にあかりのことは強く腕に抱いて受け止めていた。あかりはおれの胸元に顔をうずめて、少しだけ震えていた。
「あ、かり……」
「うん、あかりだよ。銀ちゃん。会いたかった」
――あかりがいなくなった世界に、価値なんてない。そう思っていた。
だってこの世には、犯罪をおかしても、のうのうと生きている人間だっているのだ。
それなのになぜ、なにもしていない、ただ必死に生きてきただけのあかりが、どうしてこんな残酷な運命に狩り取られなければならなかったのかと、言葉にならない憤りを胸の奥に抱え続けていた。
けれど、そんな醜い感情が、あかりの声ひとつですみずみまで晴れた気がした。
かき寄せるように抱きすくめた瞬間、おれは泣いていた。
あかりが死んだときでさえ――そのあとの葬式でさえ泣かなかったのに。
まるでそのとき溜めこんでいたものがすべて流れ出したかのように、一度溢れた涙は止まらなかった。
そんなおれをよしよしと子どもをあやすように撫でながら、あかりは話してくれた。
終灯列車。車掌と灯猫、そして〝追憶行〟についてを――。
「あかりね、ここでずっと待ってたんだ。銀ちゃんがくるのを。死者をたくさん案内しながら、銀ちゃんはあとどのくらいでくるかなー、五十年後かなーって、クロちゃんとも話してたの。なのに、銀ちゃんったらせっかちでびっくりしちゃうよ」
「……あかりがいない世界でどう生きたらいいのか、おれにはわからなかった」
「またそんなこと言って。――なんて、真面目な銀ちゃんのことだから、きっと本当にたくさん悩んじゃったんだよね。なんとなくそんな気はしてたんだ」
「…………」
「うーん、あかりのことが好きすぎるのも問題だなあ。あかりはそのほうがうれしいんだけど。というか、あかりのせいかな? ごめんね、銀ちゃん」
――ごめんね、銀ちゃん。
いつかを彷彿とさせる言葉に、つい顔を上げてしまう。
そんなおれに、あかりは昔と変わらぬ無垢な表情を浮かべて告げた。
「ねえ、銀ちゃん。あかりのお願い、聞いてくれる?」
「お願い……?」
「銀ちゃんにはね、あかりの代わりに、終灯列車の車掌さんになってほしいんだ」
なにを言われているのか、とっさに理解が及ばなかった。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだろう。こちらを見ておかしそうに笑いながら立ち上がったあかりは、おれの前にしゃがみこんだ。澄んだ眼差しが、戸惑うおれを射貫く。
「銀ちゃん。あかりね、生きてたとき、本当はずっと怖かったの。死んだあと、どこに行くんだろうって不安で仕方なかった」
「っ……」
「銀ちゃんがいてくれなかったら、きっとずっと泣いてたと思う。あかりが最期まで笑っていられたのは、きっと銀ちゃんのおかげ。でもね、銀ちゃんが大好きだったからこそ、あかりは〝追憶行〟を終えても前に進めなかったんだよね」
「前って……さっき言っていた、この先の〝遺世〟か?」
「うん、そうだよ」
「いや、待て。そもそもあかりが〝追憶行〟で過去に戻ったってことは、おれにも関わるどこかの過去が上書きされてる――?」
「まあ、銀ちゃんにはいつのことかなんて言えないけどね。内緒だよ」
あかりはどこかいたずらっ子のような顔をしてうなずくと、胸元にさしていた一輪の花――スターチスを手に取って、そっと差し出してきた。
「足を踏み出せなかったあかりに、前の車掌さんが車掌にならないかって勧めてくれたの。最初は悩んだけど、いまはどうして勧めてくれたのかわかる。死者と関わるなかで、人の心にたくさん触れられるからなんだなって」
「……だとして、どうしておれに? あかりはおれをまた置いていくつもりなのか」
「置いていかないよ。あかりの心はいつも銀ちゃんのそばにいるから」
でもね、と。おれの知らない大人びた顔で、あかりは目を細めて微笑む。
「あかりがいつまでも立ち止まってたら、銀ちゃんも進めないから」
「…………」
「あかりはここで、いろんなことを学んだんだ。生きてる間はあんまり人と関われなかったから、死者から教えてもらうこと、たくさんあった。でも、だからこそ、あかりも前に進まなきゃなって思ったの。生まれ変わって、今度こそ長く生きて、またいつか銀ちゃんと一緒に過ごせる日がきたらいいなって」
あかりが一歩踏み出して、おれの手を取った。最期の記憶よりも少しだけ柔らかさの増している手は、もう死んだ人間だとは思えないほど温かい。
「銀ちゃんもここで車掌をしてたら、きっとわかる日がくるよ。なによりあかりはね、自分の優しさとかあったかさとかに気づいてない銀ちゃんだからこそ、終灯列車の車掌に向いてると思うんだ」
否定の言葉が、つい口をついて出そうになる。
しかし、無垢で澄んだあかりの目を見ていたら、喉元までせり上がってきていた言葉は自然と解けて消えていった。やはりおれは、あかりにはめっぽう弱いらしい。
「……わかった」
おれはあかりの頭から車掌帽を取り、自分の頭へ被せる。あかりのほうがずっと小さいサイズのはずなのに、不思議とその帽子はぴったりとハマった。
にゃあ、と。我関せずとばかりに遠くからこちらを見守っていた黒猫が鳴く。
「わ、すっごく似合ってる。銀ちゃんかっこいい。本当は結構やる気ある?」
「……やる気とか、そういう問題じゃない。ただ、おれ以外の誰かがあかりを見送るくらいなら、おれがやったほうがいいってだけだ」
「そっか。あかりも、ほかの誰でもない銀ちゃんに見送ってもらいたいな」
あかりは、くすくすとおかしそうに口許を綻ばせる。まるで黎明に溶けるように穏やかな表情だった。別れが近づいているのに、寂しそうな素振りはない。
おれも不思議と、寂しいとは思っていなかった。
「銀ちゃん」
そして、世界がやさしくほどけるような声で、あかりがおれを呼んだ。
「ありがとう。世界でいちばん、大好きだよ」



