天国までの記憶列車


 ◇

 「おまえさぁ……」

 「おー、早かったなぁ。渉」

 公園に着くと、浩介が甲羅ドームの横でリフティングをしていた。あまりにも幼稚な光景に苛立ちが吹き飛んでしまった。呆れたため息が零れ落ちる。

 一度空に向かって高く上げたボールを、浩介はこちらに向かって蹴ってきた。

 とっさに両手で受け止める。浩介は「おいおい」と片眉を上げた。

 「サッカー部なんだから、手は使っちゃだめだろ」

 「っ、急に投げてくるからだろ」

 そもそもボールに触ること自体、久しぶりなのだ。

 もうサッカーはしないと決めてから、本当に一度も関わっていない。

 俺にとっては十八年ぶりくらいのサッカーなわけだ。からだは憶えているのかもしれないが、心が拒絶している以上、そう簡単には反応できないらしい。

 「……で? なんだよ、さっきのは」

 誤魔化すように地面に置いたボールを足で転がしながら訊ねる。

 「あー、あれね。おれ、サッカー部やめちゃったからさ」

 「はぁ!?」

 「ちょうどいい機会だったんだよ。おれ、決勝戦出られないから。あ、だからスタメンは渉に戻ったよ。よろしく。ってことで、ほらパスパスー」

 「ちょっと待て、勝手に話を進めんな」

 決勝戦に出られないとは、いったいどういうことだ。混乱する俺に、パスと(やかま)しい浩介。仕方なく、俺は軽くボールを蹴って浩介へと渡した。

 久しぶりに足に触れるボールの感触に、ぞくりと全身の毛が(さか)だった。

 恐怖なのか、あるいは興奮なのか。どちらにしても、ただパスをするという行為だけでも勇気がいる。本当に、どれだけ臆病になってしまったのだろう。

 「へなちょこだなー。渉、もっとびしばし強めのパスするだろ。忘れた?」

 「忘れた、わけじゃ……」

 「じゃ、思い出せよ。自分のボール」

 ふたたびボールが蹴られて、こちらへ戻ってくる。

 なんとか受け止めながら、俺はどうにも拭えない違和感に顔をしかめた。

 先ほどから、浩介の言葉の選び方がおかしい気がしたのだ。

 サッカー部をやめた。

 決勝戦には出られない。

 忘れた。

 思い出せ――。

 いや、思い返してみれば、いまにはじまったことではないかもしれない。放課後の教室で俺と話しているときも、浩介は引っかかる言い方をしていた。

 『だってスタメン争奪で友だち失うなんて、馬鹿みたいじゃんか』

 『なあ、渉。おれ、渉と喧嘩したくないんだよな』

 『だからさ、せっかく伝えたおれの気持ち、ちょっとでいいから汲んでくんね?』

 ――それらはまるで、これから起こることを予見して、避けようとしているかのようにも捉えられる。

 俺と喧嘩をして、絶交宣言をされる未来を。

 死を迎えるために、試合には出られなくなってしまう未来を。

 「……浩介、おまえ」

 「あー、ストップ。その先は言わないでおいたほうがいいよ。たぶん、渉が思ってる通りだから。そのことに触れたら〝クロ〟に怒られちゃうかもしれないし」

 愕然とする。

 嘘だろう。浩介がなぜその名を知っているのだ。だってそれは、あの列車に乗った者しか知る由のない、不可思議な黒猫の――〝灯猫〟の名前だ。

 ()(きた)りだが、こんな状況でさらっと出てくる名前でもない。

 思考が渦を巻いて立ち尽くしていると、ふたたびボールが返ってきた。

 「いま、おれの前にいる渉が()()()渉なのかはわからんけど、渉は渉だからな。おれの気持ち、ちゃんと伝えときたかったんだ」

 「いや、でも、そんなことが本当に……っ」

 「そりゃあ、おれも最初はまさかなーって思ったよ。でも、おれが知ってる〝過去〟でも、おれが知ってる〝渉〟でもなかったから、まぁ、すぐ察した。おれ、けっこうそういうの鋭いんだよね。つねにいろんな可能性を考えてるから」

 渉はあくまでペースを崩さない。またもパスを求めてきたので、今度は少しだけ力を入れてボールを蹴った。先ほどよりもキレのいい音が鳴る。

 「お、いいじゃん。さっきよりマシになった」

 届いたボールを片足で受け止めて、浩介は無邪気に口角を上げた。

 わずかに足が重い。蹴った瞬間、ボールに触れた足の内側がじんとした。

 久々の感覚に武者震いでも起こしているのか、さきほどから鳥肌が止まらない。

 「でも、正直さ。まさか渉がおれを選んでくれるとは思わなかったから、ちょっとびっくりしたんだよ」

 「……え」

 「長い人生のなかでさぁ、ほんの一瞬しかやり直せないのに、わざわざこの時間を選ぶなんてってさ。おれ、渉にめっちゃ愛されてんだなぁって」

 「愛っ……!?」

 「だってそうだろ? 最期を過ごす相手におれを選ぶとか、よっぽどおれのことが大事じゃなきゃ、なかなかできることじゃないって。まあ、人のことは言えねーけど」

 それは浩介が、俺の動機を、俺の人生を知らないからだ。

 喉元まで出かかった言葉を、寸でのところでぐっと呑みこむ。勘ちがいしているのなら、勘ちがいしたままのほうが幸せなような気がしたのだ。

 「……どんな理由があったとしても、だよ。渉」

 「っ、え」

 「渉がおれのいなくなった世界でどう生きていたのか、おれは知らないからさー。これは憶測になるけど」

 まるでこちらの考えを読み取ったかのように言い、浩介はボールを蹴り上げてリフティングをはじめた。ぽん、ぽん、とリズムよく宙にボールが跳ねる。

 「渉さぁ、けっこう苦労したんだろ」

 「く、ろうって」

 「おれが渉のこと、ついつい(かば)っちゃったからな」

 聞いたことのないくらい、心臓が強く鼓動を鳴らしていた。

 「そういうのってさ、周りの目がどうしても生き残ったほうに集中するんだよ。助かった本人だって罪悪感を抱くだろうし、感じる責任も大きいだろ。庇われた側の人間と庇った側の人間が近しい関係なら、よけいに世界の均衡は崩れやすい」

 走馬灯のように、過去が巡る。

 俺が浴びてきた視線という名の攻撃の矢。同情や(れん)(びん)だけではなかった。そこにはたしかに負の感情も含まれていたし、ときには『おまえが死ねばよかったのに』とわかりやすい恨みをぶつけられることもあった。

 「渉はなんも悪いことしてないのにな。でも、世界ってそういうとこじゃん。理不尽なんだよ、いつだって」

 「……んで、そんな……見てもいないのに」

 「おれたちに限らず、世界ではよく起こってる現象なの。医者の家系で育つと、患者のそういう話もけっこう聞くんだわ。ほら、よくあるだろ。海で(おぼ)れた子どもを助けようとして、飛びこんだ側が死んじゃうやつ。あれと似てるんだよな」

 そうなのだろうか。そうかもしれない。たしかに、そんな報道を見たこともある。

 気の毒だ、と思うばかりで他人事だった。助けられて残された側も、自分のせいで死んでしまった相手を思ったら、とてもやりきれないだろうと――。

 そこまで考えて、はっとした。

 自分がいま、残された側に抱いた同情と憐憫に気づいてしまった。どこの誰かもわからない、名前さえ知らない相手に、俺は。

 「そーいうの、当事者はけっこうつらいと思うんだよな。渉なんてとくにプライドの塊みたいな男だし。とりわけ、あんな別れ方をしたあとだったから、きっといろいろ悩んだだろ。こうやっておれとの過去を変えにくるくらいには、さ」

 「っ……」

 「だから、変えられるもんは変えようと思った。どうせ死ぬならおれがスタメン入りする必要もないし、とりあえずサッカー部をやめたわけ。そしたら枠が空いて、渉が戻るだろ。その時点で未来に起こりうるかもしれなかった〝浩介が死んだから代わりに渉が入った〟って同情の切り口はなくなるわけだ。はい、ここ重要」

 「重要、じゃねえんだよ……」

 つまり浩介は、自分が死ぬ未来を知っているからこそ、あえてその瞬間が訪れる前にサッカー部との関わりを断った。そう言いたいわけか。

 「最初から渉がスタメンだったんだから、その後試合がどうなっても、おれの死を理由に渉を責めることはできないだろ」

 ――(かな)わない、と思った。

 「くっそ……」

 「いや、なんでそこで悪態?」

 「……むっかつくんだよ! だって俺、結局十七のおまえの手のひらの上で転がされてたってことだろ。意味わかんねえ。なんなんだよ、ほんと」

 ここにいる浩介は、すでに未来を知っている浩介だ。

 だが、浩介が知る未来は、自分が死ぬ瞬間までの未来だけ。その先、俺が生きてきた未来のことはなにも知らない。

 それでも、こんなに見透かされている。浩介よりも長く生きたはずの俺が受け入れることのできなかった現実を、浩介はすでに見据えている。

 むかつくに決まっているだろう。

 俺は過去に戻ってきてからずっと振り回され続けているのに、俺がべそべそと泣いていた間も、浩介は着実に〝過去改変〟をしていたなんて。

 「いいんだよ、渉」

 「あ?」

 「おれは、おれの変えたいように過去を変えた。どうせ死ぬ運命が変わんないなら、せめて大事な友だちの未来くらい守りたいって思うだろ」

 リフティングしていたボールを足元に下ろす。

 そのままこちらへ強めに蹴られたボールを、俺は慌てて胸で受け止めた。

 今度はちゃんと、からだが動いた。衝撃と共にボールが足先へ落ちる。そのまま転がっていきそうになったボールを、俺は自然と靴裏で押さえていた。

 「言ったじゃん。おれ、おまえと喧嘩したくねーの」

 「っ……」

 「友だちのまんま、親友のまんまでいたいわけ。絶交なんて悲しいこと言うなよ。それこそおれ、成仏できなくなりそうだわ」

 少しだけ、浩介の声が震えた。

 夜の暗闇に紛れて表情の細部まで読み取ることは難しい。けれど、俺と向かい合う浩介が、必死に心を伝えてきてくれていることはわかった。

 「……悪い、浩介。ほんと、ごめん」

 「ん、いいよ。許したる」

 「ごめん……ごめんなぁ……っ」

 ――絶交なんて、本意ではなかった。

 かっと頭に血が昇って、つい口から飛び出してしまった最悪な言葉だった。

 それでも、つい、で済ませられるものではないのだ。

 一度口から出てしまった言葉はもう引っこめられない。いまこうして謝ったところで浩介の記憶から消えるわけではないのだから。

 「おれと渉は、ずっと親友だからさ。これから渉がどんな人生を歩んでいっても、おれはおまえの味方だって忘れるなよ」

 「っ……あぁ」

 ――俺たちは過去を変えた。

 いまここにいる俺たちの記憶は変わらないが、もしかしたら、未来はなにか変わるかもしれない。少なくとも、親友をひとり、失わずに済んでいるのだから。

 「……俺さぁ、サッカーやれて楽しかった。ほんとはずっと、やってたかった。この先何十年、じいちゃんになっても、浩介とこうしてボール蹴り合っていたかった」

 「うん、おれも。まあじいちゃんになったら、ちょっと足腰が心配だけど」

 ふっと、どちらからともなく吹き出した。

 馬鹿みたいに笑い合った。明日の朝方、二度目の別れがくることなんて考えもしないで、俺たちはしばらくボールを蹴り合っていた。

 やがて朝日が昇りはじめた頃、俺たちの前を〝灯猫〟が横切った。

 「まったく、しょうがない子たちにゃあね」

 ゆらり、ゆらりと揺れる尻尾は、別れの(とき)が迫っていることを示していた――。