天国までの記憶列車

 


 買い物から帰ると、すでに時刻は十八時を回っていた。

 とはいえ、外出していたのはせいぜい一時間程度だろう。しかし、その間に父親は帰宅していたようで、リビングで母親と仲よくすき焼きの準備をしていた。

 「……ただいま」

 「あっ、渉。おかえり、ありがとね。助かったわぁ」

 「おかえり、渉。いや、俺がただいまか?」

 「ふふ、お父さんのほうが早かったんだし、おかえりでいいのよ。渉、買ったものキッチンに置いておいてくれる? あとで私が片付けるから」

 「ああ、うん」

 うちの両親は、近所でも有名な円満夫婦だった。

 ふたりとも穏やかなタチで、昔から喧嘩ひとつしなかった。正確には、父親が母親にぞっこんなために、どうやら喧嘩をする段階までいかないらしいが。

 「すき焼きなんて久しぶりだからなぁ。今日は渉もいるし、豪勢な夕飯だな」

 「頂き物の高級肉よ。みんなでだーいじに味わって食べなきゃね」

 息子からすれば、うんざりとするほどのいちゃつきぶり。昔は、とくに中学生の頃は、この両親が恥ずかしくてたまらなかった。

 このからだのなかにいる俺にとっては、むしろ懐かしい光景ですらある。

 死ぬ前、最後に実家に帰ったのは三年前。

 会ったのは母さんだけだった。回収したい荷物を取りに戻った俺は、すぐにボロアパートへとんぼ返りしたから、仕事で留守だった父さんには会っていない。

 そう考えると、最後に父さんと会ったのはもう五年前になるだろうか。、親戚の法事で強制的に地元へ呼び戻されたときに顔を合わせて以降、記憶がない。

 つまり、こうして両親がうんざりするほどいちゃつく場面に立ち会うのも、五年ぶりということになる。なるほど、それは懐かしくもなるはずだ。

 「渉は座ってていいわよ。もうすぐ食べられるから、たまご割って準備してて」

 キッチン台の上に買い物袋を置いた俺を追いかけてきた母さんは、袋の中身を取り出しながら言った。やはり今日のすき焼きの材料ではないようだった。

 どうにも気まずい気持ちになりながら、俺は小声で訊ねる。

 「母さん……な、なんか手伝いとか」

 「ううん、いいのいいの、テキトーにつっこんじゃうから。あぁでも、お父さんいまアク取りしてるから、そっちを手伝ってあげて」

 その言葉に父さんを見れば、たしかにひとりでアクをすくいとっていた。こちらはこちらでずいぶん真面目に任務に当たっている。

 ――本当に、馬鹿みたいに平和だ。

 俺が今日スタメン落ちしたことを、きっと母さんは悟っている。そして母さんが知っているということは、父さんにも共有済みということだ。

 ふたりはあえて、なにも触れないようにしてくれているのだろう。

 俺の好物であるすき焼きも、べつに週末とかでもよかったはずなのに、わざわざ今日を選んでくれた。その心遣いが、いまになって胸に染みてくる。

 「……父さん」

 「渉、座ってていいぞ。大丈夫だ、そんなに心配そうな顔をしなくても、綺麗にアクは取ってやるからな。こういうのは父さん、けっこう得意なんだ」

 「いや、そうじゃなくて……。あー、まぁいいや」

 父さんのペースに巻き込まれながらも、俺は使っていなかった小さなお玉を手に取り、勝手に加勢する。俺だけなにもしないほうが落ち着かないのだ。

 「そういえば、渉と夕飯を食べるのは久しぶりだなぁ」

 「……だっけ?」

 「父さんの帰りがもう少し早ければいいんだけどな。土日は渉も外出していることが多いし、今日みたいな日は貴重だ」

 うれしい、のだろうか。目尻に幾重もの皺を寄せながら、父さんは笑った。

 ここにいる俺からしてみれば、ずいぶん久しぶりに見た父さんの笑顔だった。キッチンから戻ってきた母さんも楽しそうな表情だった。

 父さんも母さんも、穏やかで、素直で、他人を思いやれる優しい人たちだ。息子の俺がそう思うのだから、きっと他人からすればさらにそう感じるだろう。

 歳を重ねれば重ねるほど、プライドは育つ。関わる人間が増えれば増えるほど見栄は湧き出るし、社会のなかで自身を確立するために(きょう)()を保とうと必死になる。

 枠からはみ出さないように、世のあぶれ者にならないように、大人はみんな必死に敷かれたレールの上を走り続ける。

 そんな社会に揉まれて生きていて、どうしてこんなにも素直な心を持ち続けられるのか、俺にはわからなかった。

 死ぬまでずっと、いまこの瞬間もわからないままだ。

 父と母の息子として生まれたのに、俺は素直どころか、見栄っ張りで意固地で、自分の非すら認められない、どうしようもないガキでしかない。

 向き合うことから逃げてきた俺は、過去に戻ってもなお、変われずにいる。

 心はまだ逃げている。逃げ出したい、と思っている。

 俺はただ罪を背負って生きていることが、この世界がずっと怖い。

 ただただ恐ろしくてたまらないのだ。

 「渉?」

 どうやら思考に(ふけ)っていたせいで手が止まっていたらしい。

 母さんに名前を呼ばれて、はっと我に返る。いつの間にか父さんと母さんの顔から笑みが消え、揃って心配そうな表情を浮かべながら、こちらを見ていた。

 「あ……いや、ごめん。なんでも――」

 ない、と口にしようとした矢先、思いがけず、頬をなにかが伝った。

 「え、あ……なんで……」

 涙だった。

 喉が熱い。唇と小鼻が震える。次第に呼吸が荒くなり、カラン、と俺の手からお玉が落ちた。あっという間に視界が滲んで、すき焼き鍋が見えなくなる。

 「渉……」

 「っ……くそ」

 拭っても拭っても止まる気配がない。

 泣くつもりなんてなかった。弱さを見せたくなかった。それも、両親の前で。

 俺には泣く資格がないし、泣く理由もないはずだ。

 なのに、どうして。どうして俺はこんなにも馬鹿みたいに、ガキみたいに泣きじゃくっているのだろう。

 「ごめん、ちがう、ちがうんだよ」

 「渉。ほら、いいから。座りなさい」

 お玉を置いて俺のほうへと回ってきた父さんに促されるまま、椅子に座る。

 母さんはおろおろしながらも、そっとティッシュの箱を差し出してくれた。乱暴に数枚取って、目頭を押さえる。だめだ、くそ。止まらない。

 「俺……っ、俺、さぁ……」

 「うん」

 「スタメン……、落ちて、さぁ」

 「うん」

 「ははっ……もう、ぜーんぶ、ぐっちゃぐちゃなんだよなぁ……」

 言葉が、心が、砕けて零れる。

 「俺……生きてんの、しんどかった……っ」

 十七歳の俺ではない。

 どん底の人生を歩んで、最後はあまりにも呆気なく死んだ俺の悲鳴が溢れていた。

 死ぬ前、誰にも吐き出せなかった思い。ただただ『しんどい』と、そのひと言すら零せる相手がいなかった。心地よく、ただ平和に過ごせる居場所もなかったのだ。

 とりわけ両親には顔向けができなかった。

 あまりに情けない人生を歩んでいる息子の自覚があったから、軽々しく家に帰ることもできなかった。恥ずかしい息子のレッテルを貼られながら地元に帰って、両親が笑われるのが嫌だった。

 「ごめ、ごめん……っ、俺、ほんとだめで……っ」

 わかっている。俺は、親不孝者だ。

 たとえ夢を叶えられずとも、普通に大学を卒業して、普通に就職して、普通に人生を歩んでいればよかったのだ。

 そうしたら、結婚くらいはできていたかもしれない。

 子ども好きの両親に、孫の顔くらいは見せてやれたかもしれない。

 しかし理想はほど遠く、現実は世知辛かった。

 結婚どころか、親よりも先に死ぬという最大級の親不孝をしてしまった俺にとって、笑顔溢れるこの〝平和な日常〟は、あまりにも痛かった。

 「ねえ、渉……? あなた、さっきも言っていたわよね。だめだって」

 「っ……」

 「スタメン落ちがショックなのよね。でも、渉がだめなことは一ミリもないわ」

 「ああ。渉がどれだけ本気でやってたか知っているから、そう思い詰める気持ちはわかる。でも、父さんたちの自慢の息子がだめなんてことは絶対にない。もし誰かに言われたなら、父さん、許さないからな」

 ――いまこの瞬間、十七の俺しか知らない両親にとっては、きっとわけのわからない状態だろう。スタメンに落ちただけで生きるのがしんどいと零す、メンタルの弱い息子にしか見えないはずだ。

 だが実際、本来の過去はそんな感じだった。スタメン落ちして浩介に最低な言葉を放ったあの日、俺は帰宅してそのまま部屋に閉じこもったから。

 夕食の時間になっても部屋から出ていかなかった。放心状態で布団を被り、両親の声掛けも無視して、自分の世界に鍵を掛けていた。

 それでも、あの瞬間はまだ〝自分の才能のなさ〟と〝夢を叶えられなかったショック〟に打ちのめされているだけだった。

 地獄へ向かう下り坂はそこからだ。

 翌日の事故。浩介の死。死んだ浩介の代わりに出場した試合での惨敗――。

 浩介の命を奪った罪の重みは、時が経てば経つほど増していく。

 耐えようとはした。けれど、だめだった。一度もういいやと諦めてしまったら、止まることなく奈落の底へと転がり落ちていった。

 俺ははからずも浩介と同じように人生を終えてしまったけれど、本当はとっくに生きる希望など失っていたのだ。早く死にたい。それだけを考えて生きていた。

 「ねえ、渉? ちょっとだけ聞いてくれる?」

 「……っ」

 「母さんも父さんもね、渉の夢はもちろん応援してるわ。だけど、将来渉がどんなふうになっても、そのとき渉がしたいことを応援するって決めてるのよ」

 「え……」

 「どんなお仕事に就いても、どんな道を歩んでもね。大人になった渉が重ねていく人生を、母さんと父さんは見守っていく。親として、あなたの味方であり続ける」

 まるで将来の俺の姿を知っているかのような言葉に、ぎくりとする。

 硬直した俺の背中を撫でながら、母さんは父さんと視線を交わし合った。

 父さんはうなずき、俺の頭に手を置いてぽんぽんと二回撫でた。

 強くもなく、優しくもない。ただただ大丈夫だと、なにも思い(わずら)うことはないのだと、父の手が語っていた。また、涙がこぼれる。

 「あなたの渉って字は、さんずいにあるくって書くでしょう。これはね、川を歩むって意味なの。穏やかな川も、荒れた川も、流れが速い川も、自らの足で歩んでいけるように。そんな思いをこめて、渉って字を選んだのよ」

 「川を、歩む……」

 知らなかった。

 そんな意味が自分の名前にこめられているなんて、考えたこともなかった。

 「そう。だからね、渉って名前をつけたときに、ふたりで決めたの。渉がこれからどんな人生を歩んでも、私たちは信じて見守っていこうねって」

 「ああ。どんな大人になっても、父さんたちの宝物であることに変わりはないからな」

 ――宝物。

 そんな言葉を与えられるほど、俺はできた人間にはなれなかった。

 けれど、嘘ではない。父さんも母さんも、その言葉通り、俺がどんなに情けない人生を送っていても縁を切ろうとはしなかった。

 高校生の俺に対する扱いと変わらない。大人になった俺に対しても、ふたりは親としてのスタンスをまったく崩さなかった。いつだって、味方だった。

 最後に実家に帰った、三年前のあの日。

 父さんは、俺が帰ってきたことを聞いて、ずいぶんと残念がっていたと母さんから連絡がきた。実際その翌日、父さんからも珍しくチャットが送られてきたのだ。

 『今度は泊まりで帰ってきてくれ。父さんと酒でも飲もう』

 短いチャット。それでも俺を想う心がこもった、父さんらしい文面だった。

 帰ってもいいのなら帰りたいと、本当はそのとき一瞬だけ思ったのだ。

 でも、やはりどうしてもだめだった。

 だって、鏡を見るたびに自分の有様をつきつけられるのだ。

 ストレスか、あるいは不摂生のせいか、年齢以上に老け込んだ外見。拗らせたニート感満載なやさぐれ具合。こんな息子が帰ってきたところで、親は恥ずかしいだけだろうと思ったら、とても帰れなかった。

 ――もしいまの言葉を、死ぬ前に聞いていたら、なにかちがったのだろうか。

 いや、聞いたところで俺が死ぬ運命は変わらない。それでも、もしかしたら、心は少しだけ救われていたかもしれない。そう、思った。

 「ねえ、渉。生まれてきてくれて、生きていてくれてありがとうね」

 「っ……う、っく」

 「本当にありがとう、渉」

 痛い。痛い。胸が、心がひどく痛い。こんな優しさは凶器でしかない。

 生きていてくれて、なんて――自分の人生を投げ出した俺にはあまりにも皮肉だ。

 おまえのような息子なんて要らないと、どこかへ行けと、もう帰ってくるなとつき放してくれたほうが、よほど楽だった。

 でも、ああ、そうだ。俺はきっと、ずっと、そうして抱きしめてほしかった。

 俺が求めてやまなかった言葉は、こんなにもすぐそばにあったのだ。