天国までの記憶列車


 ◇

 「……ただいま」

 実家の玄関扉を開ける瞬間、少しだけ緊張した。しかし、すぐ懐かしい花の香りが鼻腔をくすぐって、ああ実家だと無意識に安堵の息が落ちる。

 見れば、靴箱の上に名前のわからない黄色い花が飾られていた。生けたばかりなのかまだ(みず)々(みず)しい。うちはいつもここに、なにかしらの花が飾られていた。

 「あら、渉? ずいぶん早いわねえ」

 リビングからひょこりと顔を出した母親を見て、からだが硬直する。

 「おふく……母、さん」

 「え? 服ぅ?」

 「……いや、なんでもない。ただいま」

 危うく〝お袋〟と呼びかけてしまい、冷や汗が流れた。そういえば、高校生の頃はまだ母さんと呼んでいたことを思い出したのだ。

 俺が母親を〝母さん〟ではなく〝お袋〟と呼び出したのは、大学から。きっかけは、入学直後に行われた学生同士の飲み会だった。

 参加していた男たちが母親の呼び方について盛り上がっていたとき、過半数が〝お袋〟と答えていることに衝撃を覚えた記憶がある。

 俺はそのとき、自分の〝母さん〟という呼び方が幼稚に思えて、とっさに周りに合わせた。以降は〝お袋〟と呼ぶようにした。最初こそ母親はぽかんとしていたけれど、そのうち慣れたようだった。

 母さん、なんて呼ぶのは久しぶりだ。口の筋肉が変に引き()りそうになりながら、なに食わぬ顔を気取ってリビングへと向かう。

 間取りはずっと変わらない。高校から徒歩二十分くらいにある、集合マンションの十二階の一二〇八号室。行きたい高校がたまたま近所にあったのは幸いだった。

 「部活は? お休みなの?」

 「ああ、まぁ……そんなとこ。今日、次の試合のスタメン発表だったから」

 母さんは、驚くほど変わらない。俺が生きていた時代と比べたら、さすがに皺も少なく若いが、口調も俺への接し方も同じだ。いや、俺のなかにある母親の記憶は三年前で途絶えているから、最近の姿は知らないのだけれども。

 「……昔から、こんなだったっけな」

 俺は妙な心地でリビングの扉を通り越し、自分の部屋へ向かおうとした。

 「あっ、渉」

 「なに?」

 「これから暇なら、ちょっと買い物お願いしていい?」

 俺のスタメン発表という言葉を華麗にスルーした母さんに、呆れながら振り返る。

 「買い物?」

 「そう、夕飯の。ちょうど行こうと思ってたところだったのよ~。渉が帰ってきてくれて助かったわぁ。ええっと、メモメモ……」

 まだ行くとは答えていないのに、母親のなかでは決定事項らしい。

 そうだった。俺の母親はのんびりしているように見えて、意外と強引なのだ。

 俺が久々に実家に帰ったときも、二言目には買い物を頼んできていた。まるで毎日顔を合わせているかのような態度に、ついこちらの調子も狂いがちになる。

 そういうところも変わらないのだな、と改めて感じながら「わかったよ」と返事をし、改めて俺は自分の部屋へ向かった。

 「……はぁ」

 自室へ入った瞬間、なぜだかどっと疲れが押し寄せた。

 鞄を放り投げ、扉に背を預けながらずるずると座りこむ。ああ、喉がひりつく。

 「くっそ……」

 ――俺は、高校を卒業すると同時に家を出て、上京した。

 東京の大学を選んだのは、地元から離れたかったからだ。

 サッカーもやめた。俺の夢を、サッカーに対する思いを知っている人間はみんな納得がいかないようだったが、聞く耳を持たなかった。

 だって、そいつらは知らないのだ。俺が本当はスタメン落ちしていたことも、浩介が事故死したことによって、ふたたびスタメン入りしたことも。

 続けられるわけがない。続ける資格もない。俺は二度とサッカーをしないと心に決め、地元を離れた。もういっそなにもかも忘れて、人生をやり直したかったから。

 それに、結局俺は、スタメンに戻ったところで役に立たなかったのだ。

 あれほどスタメンとして出場したいと望んでいた県予選の決勝戦は、目も当てられないほどぼろぼろだった。活躍どころか、足を引っ張るプレーしかできなかった。

 浩介の死に対するショックで、そもそもいいサッカーができる精神状態ではなかったことも少なからずあったのだろう。チームメンバーも浩介の死には影響を受けていたし、チーム全体としてのパフォーマンスも最悪だった。

 まあ、相手はその後インターハイの本戦で準優勝したチームで、最初からとても勝てる試合ではなかったのかもしれないけれど――。

 だとしても、もう、だめだった。

 打ちのめされてしまった。

 浩介にあんなことを言ってしまった自分が恥ずかしくなり、生きているのが自分であることに申し訳なくなって、世界が恐ろしくなった。

 すべてを(うしな)って、俺はもう立つことも、前を向いて歩くこともできなくなった。

 それでも、大学に入学して二年は、笑いたくもないのに笑って、頑張って生きていたのだ。でも、(から)元気で世間に合わせられたのは、二年が限界だった。ふとした瞬間に糸がぶつりと切れてしまってからは、ただ笑うことすらできなくなった。

 大学も中退した。ボロアパートに住み、近所のカラオケで夜間バイトをしながら無気力に過ごしていた。週五日、八時間。生活は当然ぎりぎりだったが、金を無駄に使うこともなかったため、最低限、生きられるほどではあった。

 だから、大学を卒業する歳になっても、就活はしなかった。一年、二年、三年が過ぎ、いよいよアラサーを迎えても、生活は変えなかった。

 日中、外に出るのが怖い。人に会いたくない。夜勤でどうにか外に出る以外は家に引きこもり、ほとんどの時間を寝て過ごしていた。

 なのに、そんな底辺生活を送る息子に対しても、母親は態度を変えなかった。

 当たり前のように俺を迎え入れ、当たり前のように〝息子〟として扱った。

 それが本当は、嫌で嫌で仕方なかった。

 つき放してくれていい。縁を切ってくれていい。迎え入れるなよ。受け入れないでくれ。俺なんて、本当は生きている資格すらないんだから。そう、思っていた。

 でも、お袋は――母さんは、すべてを悟った上でなにも言わないのかもしれない。

 さっきふと、そう感じてしまった。

 もしかしたら母さんは、いつも俺に〝俺の存在理由〟を与えているのか、と。

 買い物を頼むのも、俺がしなければならないことを与えるため。

 俺がいまここに〝息子〟として生きる理由を与えるため。

 希望もなにも失ってしまった俺に、当たり前にそこにある居場所、帰ってくる家を見失わせないようにしてくれているのかもしれない。

 そう思ったら、泣きたくなった。

 親孝行もできないまま死んだ自分が情けなくて、申し訳なくて、恥ずかしくて。

 ――ああ、でも。でも。

 「買い物……」

 こみ上げてきたものを必死に呑み下し、目頭をぎゅっと押さえてから立ち上がる。

 鞄から財布と携帯だけ取り出して、ジャージのポケットにつっこんだ。

 ブー、と携帯が震えた気がしたが、きっと部活のチャット通知かなにかだろうと無視をした。さすがにいま、見る気はしない。

 廊下へ出ると、足音で気がついたのか、リビングから母さんが顔を出した。

 「あ、渉。買い物リストとお金ね。全部母さんが働いてるスーパーで買えるから」

 「……ん」

 じゃがいも、牛乳、油揚げ――。リストに書いてあるのは、すべて冷蔵庫にストックがありそうなものばかりだ。

 週に二回、近所のスーパーでパートをしている母親は、その帰りに買い物を済ませている。ゆえに、足りないものは基本的にほぼないはずなのだ。

 わざわざこんなものを頼むなんて、とリストを見つめて黙りこんでいると、俺の気持ちを察したのか、母さんが慌てたように口を開いた。

 「ほら、お野菜とかって重いのよ。渉だったら力持ちだし、今日みたいな日じゃないと頼めないじゃない?」

 「いや、うん。買ってくるのはいいんだけどさ」

 「それに今日、お肉のセール日なの。渉の好きな牛肉も安くなってると思うから、たくさん買ってきてほしくて。冷凍してストックしておかなきゃね」

 母さんのわりには早口でまくしたて、行った行ったとばかりに俺の背を押す。

 そのまま玄関まで押し出され、俺は面食らいながら靴に足をつっこんだ。

 「あのね、今日はお父さんも早上がりらしいから、夜はみんなですき焼きにしようと思ってるのよ。準備もあるから、道草しないで早く帰ってきてね」

 「……はいはい」

 すき焼きに使う材料じゃないな、と思いながら返事をし、俺は扉に手をかける。

 「母さん」

 押し開ける寸前、ふいに振り返った俺に、母さんはきょとんとした。

 「その……だめな息子で、ごめん。あと……いつも、あり、がと」

 「え」

 「じゃ、行ってくる」

 まるで石像のように固まった母親から目を逸らし、逃げるように家を出る。

 がちゃん、と勢いよく閉まった扉を背に、深いため息が零れ落ちた。

 「だっせ」

 思春期真っ盛りの高校生通りの中身でもあるまいし、お礼もまともに言えない自分にげんなりする。だが、それ以上に、情けなかった。いい歳をして母親の気遣いにも気づかずやさぐれて生きていた自分が、あまりにも恥ずかしく思えた。