天国までの記憶列車

 ◇

 「人間ってのは面倒だにゃあ」

 いったいどれほどの時間が経ったのか、ふいに響いた声に肩が跳ねる。

 顔を上げると、前の席の机に黒猫がちょこんと座っていた。

 なぜこんなところに猫が、と一瞬混乱した俺は、しかしすぐに普通の黒猫ではないことに気づく。オッドアイの喋る猫又。そうだ、俺はこの猫に導かれて過去へ戻ってきたのだ。たしか名前は、クロといったか。

 「……面倒?」

 黒猫の正体に辿り着くと同時に、遅れて思考がその言葉を受け取った。

 「人間が抱く想いってのはにゃ、交錯すればするほど厄介になるにゃよ。それをどうにかしようと足掻いて、こじらせて、ほどけなくなって、結局時間内に未練解消に至らなかった、みたいな例も少なくないしにゃ」

 「っ……俺も、そうなるって?」

 「べつに、そーやってうつむいてる時間を否定するわけじゃないけどにゃ。ただまあ、向き合い考えることで見えてくる道も無きにしも(あら)ずにゃよ」

 そう、だろうか。

 クロの言葉にうまく返答できず、視線を逸らした。

 しばしの沈黙を挟み、俺はクロへ「なぁ」と小さく声をかける。

 「人が死ぬ運命ってのは、変えられないんだろ?」

 「運命だからにゃ。その命が終わる場所が定められた時点で、たとえ死因が変わろうとも死を迎える事実を変えることは不可能にゃ」

 「それ、すごく残酷なことじゃねえか?」

 「そもそも死自体が残酷なのに、なぁに馬鹿なこと言ってるにゃあよ」

 呆れた声で答え、クロはぱしりと長い尻尾で机を叩いた。

 「まあでも、珍しいタイプではあるにゃね。過去に戻れる一度きりの機会を、自分の死じゃなくて他人の死に向き合うために使うのは、なかなかできることじゃないにゃ」

 「……………」

 ちがう、と思った。

 俺はたしかに浩介の過去を、浩介が死を迎える現実をなくしたいと思っている。

 それは決して嘘ではない。

 だが、その裏側には少なからず自分が救われたいという思いがあった。自分のせいで浩介が死んだ、という事実をなくして、その呪縛から解き放たれたかったのだ。

 だからこそ、死因を変えられると聞いて、過去へ戻ることを受け入れた。

 浩介に恨まれているかもしれない。

 いや、きっと恨んでいるだろう。成仏できているのだろうか。

 もしかしたら、まだあの場所で――。

 そんな、二度とわかりもしないことを、ずっとずっと恐れて生きていたから。

 「――浩介の死に向き合う、なんて建前でしかねえ。そんなんずっと昔からわかってるんだよ……。自分がいちばんクソ野郎だって、わからないはずがねえだろ」

 ぐしゃぐしゃと、崩れるのも構わず髪をかき乱す。

 いまの俺は、この時代に生きる若き頃の俺ではない。なのに、どうしてだろう。心の状態が当時の自分に引っ張られているような気がする。

 心もからだも成長して三十半ばになり、底辺の生活をしながら年々立派なおじさんに近づいていたはずの俺が確実に薄れていた。

 「君がクソ野郎かどうかは、ボクの知るところじゃないしにゃ~」

 「……ちっ。軽いな、おまえ」

 「ボクはただの灯猫だからにゃ。ま、たとえなんのためだったとしても、過去と向き合っている事実は変わらないにゃ。向き合えるだけ、まだいいほうにゃよ」

 「どういうことだよ。まどろっこしい」

 「向き合えない人間もいるってことにゃ。幼すぎて、そもそも向き合い方がわからないパターンもあるにゃね。……あとは」

 一度言葉を切ったクロは、立ち上がって窓の外を見た。真っ赤な夕陽が(またが)る入道雲を見つめ、数秒ほど黙りこんだあと、くるりとこちらを振り返る。

 万華鏡のように反射するオッドアイが、すっと細められた。

 「とにかく、渉はすでに向き合うことを選んだ人間なんだにゃ。なにもかも〝手遅れ〟にするには、さすがにまだ早い時間だと思うけどにゃ」

 「いや、待て待て。気になるところで止めるなよ。あとは?」

 「細かいことを気にしてたら禿()げるにゃよ」

 死んだ人間に禿げる心配とは――。

 そう面食らいつつ、そういえば頭がやたらと軽いことに気がつく。

 伸ばしっぱなしだった髪がない。過去の自分はこんなに短くしていたのか、と変に驚く。たしかにこの頃は、サッカーのプレーに邪魔にならない長さに保っていた。

 「過去は過去、現実は現実だからにゃ。向き合ったとて、なにも変わらない人間もいるにゃあよ。それに比べれば、渉はすでに〝変わった〟んじゃないかにゃ?」

 「っ……それは、まあ。絶交はしてねえ、けど」

 「残念ながらここは夢の世界じゃないし、自分も相手も心が存在する以上、思い通りにはいかないもんにゃよ。それでも〝選択〟を迫られるのが〝追憶行〟にゃ。渉の選択が、今後、渉のいない世界を変えていく可能性もあるってことを、頭に置いておくんだにゃ。過去ってのはにゃ、存外、変わりやすい面もあるにゃあよ」

 次の瞬間、クロの姿は目の前から消えていた。

 瞬きをした刹那だった。

 夢でも見ていたのかと思うほど、教室のなかはシンとしている。

 自分しかいない。その静寂に茫然とする一方、なにかが頭に引っかかった。されどもそのなにかがわからず、俺は額に手を当てて深く嘆息する。

 「ようは、どういうことなんだよ……」

 灯猫というわりに――ぺらぺらとお喋りなわりに、表現が抽象的で回りくどい。

 しかし結局のところ、あの猫は、こんなところでぐだぐだしていないで行動しろと言いたかったのだろう。わからないが、そういうことにしておこう。

 その通りだ。俺はまだタイムリミットを迎えたわけではないのだから。