天国までの記憶列車


 ◇

 「渉が選ばれないのはおかしいって!」

 怒り交じりの訴えが鼓膜を貫くと同時、びくっとからだが大きく跳ねた。

 寝落ちする寸前、はっと気がついて飛び起きたときのような、あの感覚。

 次第に(こん)(だく)していた意識がはっきりしてくる。

 俺の目の前で憤る男は、かつて青春を共にした友人だった。

 年月を重ねるにつれて記憶が薄れ、(おぼろ)()になっていたはずの彼の容姿。夢のなかでも顔だけはぼやけていた。だが、いざこうして対面してみれば、意外なほどすんなりとあいつだと認識できる。まちがいない。そうだ。こんな顔だった。

 「なあ聞いてる? 渉のことなのに、なんでそんな他人事みたいな顔してんだよ」

 「っ……いや」

 忘れたくても忘れられない親友――呪いのような存在、()(かみ)(こう)(すけ)。もう二度と会えるはずのなかった相手だ。なのに浩介は、当たり前のようにそこにいた。

 ふと周りを見回すと、自分たちがいるのは教室だった。

 窓の外の空には橙に紅を重ねた空が広がっている。教室の前方にかかる時計の針は十七時半手前を指していた。放課後だからか、俺たち以外は誰もいない。

 だめだ。浩介の声が入ってこない。胸の奥のざわめきが、ひどくうるさい。

 「夢にしては……生々しいな」

 引き締まった自分の腕を見て舌を巻いた。無駄な肉がついていないし、なんだか妙に張りがある。思わず呟いた自分の声も、やたらと通って感じられた。

 俺の様子がおかしかったからだろう。浩介が怪訝そうに眉をひそめる。

 「夢だと思いたい気持ちはわかるけどさ。現実だから納得いかないんだろ」

 「……この歳になると、いろいろ受け入れんのに時間がかかるんだよ」

 「なんだよ、それ。おまえらしくないな」

 おまえらしく――。

 その言葉に、動きが止まる。

 たしかにそうだ。俺らしくはない。俺らしいわけがない。なにせ本来の過去――俺の記憶にある〝過去〟では、浩介よりも俺のほうが荒れていた。

 いや、いっそ暴走していた、と表現するほうが正しいかもしれない。

 それくらい、過去の、このときの俺は最悪だった。

 「だって普通におかしいだろ。おまえがスタメン入りしないなんて」

 スタメン入り。ああ、なんて懐かしい言葉だろう。一生、聞きたくはなかった。

 「むしろ、渉の戦力なしにどうやって勝つっていうんだよ」

 スターティングメンバー――つまり、先発出場メンバーに落ちた。

 それも、高校総体。インターハイへの出場切符がかかった試合だ。県の予選大会で決勝まで進出し、全国出場目前というタイミングでスタメン落ちした。

 今日――過去のこの日は、それが発表された日だった。

 たしかに、スタメンとして出場していた前回の試合も前々回の試合も、目を見張るような活躍はできなかった。試合の展開を大きく変えたわけでも、ゴールを決めたわけでもない。けれども、それほど足を引っ張るプレーをしたつもりもなかった。

 結果的に試合には勝っていたし、これからが本番。次は、絶対に活躍する。

 そう気合いが入っているときに、スタメンから外された。突然足元が崩れ去って地獄につき落とされたような気分になるのは当然だろう。なかにはベンチ入りすらできない選手がいるのに贅沢だと言われるかもしれないが、少なくとも俺にとっては、スタメンという立場があってこそのサッカー人生だったのだ。

 俺は過去のこの日、荒れに荒れた。

 当時はショックよりも怒りや苛立ちのほうが断然強かった。

 それも、俺を控えにした監督や理不尽な現実への憤りではなかった。俺がいちばん苛立っていたのは――許せなかったのは、いま目の前にいる浩介だった。

 なにせ俺の代わりにスタメン入りしたのは、ほかでもない浩介だったから。

 俺の夢は、幼い頃からずっとプロサッカー選手だった。その夢は一度もぶれることなく、つねにサッカー一筋で打ちこんできた自負もある。

 それでも、十七にもなれば、否が応でも現実が見えてくる。

 ただ憧れだけで夢を追いかけていた頃のままではいられない。本当は、どんなに難しいことか痛感していた。プロになれるほどの力量がないことも自覚していた。

 将来的に世界のトッププレイヤーとなる天才は、すでにこの歳で活躍し注目されているし、もっと早い段階から脚光を浴びているのだ。

 たとえば、高校一年でJリーグの下部組織であるユースにスカウトされた選手、中学時代からプロクラブのジュニアユースに所属して注目を集め、そのままユースに上がった選手、頭ひとつ抜けた実力ですでにプロ内定が決まっている選手――。

 たかだか県予選のスタメン程度。それも、エースとして期待されるわけでもない立場で、プロとしてサッカーに人生を捧げられる地位までいけるわけがない。

 本当は、全部、わかっていた。

 だが、当時の俺は、その現実を受け入れなかった。

 夢物語だろうがなんだろうが、自分の〝夢〟を終わりにしたくなかった。

 幼い頃からやってきた、という年月だけの自信を(たて)に言い訳を積み重ねて、自分はこれからなのだと主張していた。周りにも、自分にも、否定はさせなかった。

 いまはただ、ほんの少し(くすぶ)っているだけ。運が悪かっただけ。次こそは絶対に活躍できる。そう言い聞かせて、俺はいつだって平気なふりをしていた。

 夏のインターハイや冬の高校サッカー選手権での活躍は、プロサッカー選手になるための第一歩。とにかく目を引くようなプレーをして注目を浴び、将来を期待できる選手だと判断されて、ようやくプロへの道が開けるのだ。

 スタメンとして試合に出ていれば、そのチャンスはある。だが、いくらベンチ入りしていても、試合に出られないのでは自分をアピールする機会もない。

 なのに、落ちた。

 問答無用で、同じ夢を目指す仲間の前で道を閉ざされた。そうして俺の代わりにスタメン入りした浩介が、こうして自分のことのように憤る意味がわからなかった。

 代わりに選ばれておきながら、俺が選ばれないのはおかしいと。

 そう浩介が声を上げるたびに、(あざけ)りを受けているような気がした。

 当時の俺は、それに耐えられなかった。

 いくら親友でも――否、親友だったからこそ、自分の歩んでいくはずだった道を横取りした浩介を許せなかった。

 『……おまえさぁ、そうやって俺のこと見下して楽しい?』

 納得のいかない現実。浩介への怒りと苛立ち。情けなさや悔しさも心の奥底には渦を巻いていたはずなのに、急に足元がぐらついて、いままで必死に築いてきたものがすべて消えてしまいそうで、ひどい焦燥に駆られていた。

 感情はぐちゃぐちゃだった。気持ちの整理など、できているわけもなかった。なのに、その言葉を浩介へと向けたときの俺の心は、氷のように冷えきっていた。

 『人の夢を奪っておいて、よく平気で俺の前に顔出せるよな。ほんっとさぁ……前から思ってたけど、おまえのそういう能天気なとこ嫌いだわ』

 自分が発する言葉の意味を考える余裕も、あのときは()(じん)もなかった。

 硬直して目を見開く浩介に、思い出せないくらいの嫌味をぶつけた。

 (はらわた)が煮えくり返っているのに、心の底の部分は冷えきっていて怒鳴れなかった。その代わり、研ぎ澄まされた鋭利な言葉が口から飛び出した。色をなし、コントロールが利かない(やいば)と化した感情は、浩介を標的にしたのだ。

 『――あー、最悪。信じらんねえ』

 そうして俺は決して口にしてはならない言葉を、浩介に放ってしまった。

 『まじでおまえ、死ねよ』

 そのときの浩介の顔は、怒りとも、悲しみともちがった。

 まさか俺からそんなことを言われるとは思わなかった、というような、こちらの気が抜けるほど驚いた表情をしていた。それに俺はより苛立ち、腹を立てて、なんとも大人げなく浩介に絶交宣言をした挙句、この場を立ち去った。

 まさか本当に、これが浩介との最後の会話になるとも知らずに。

 ――浩介は、翌日、死んだ。

 翌日というのは、いまこの瞬間の俺からした〝明日〟という意味だ。

 事故だった。それも、車に轢かれそうになった俺を助けて、浩介は死んだ。

 つまるところ俺は、浩介と仲直りをできないままに死別して、後悔を抱えたまま人生を歩み、自らも同じような事故で死を迎えたわけだ。

 本当は、やり直したいことなど、ほかにも山ほどあった。

 俺の人生は、最悪だったから。可能なら人生ごとやり直したいとさえ思う。

 それでも、俺の心にずっと引っかかっていた後悔を――ある種の呪いを、(ざん)()を、過去に戻って清算できるのなら、ここしかなかった。

 青臭くて、愚かで、救いようのない自分を、馬鹿みたいに子どもだった十七の自分が犯した罪を消し去れるのなら、この過去を選ばざるを得なかった。

 それでも、どうしてなのだろう。

 いざ浩介を前にしたいま、不思議なくらい謝罪の言葉は出てこない。

 むしろ、苛立っていた。あのときと同じように。

 過去のからだに戻っているからか、あるいは戻ってきている〝俺〟の心が()じれきってしまったからか。なんにせよ、この先訪れる未来を知る自分であるにもかかわらず、俺は(しょう)()りもなく浩介に対して怒りや苛立ちをぶつけている。

 「は、しょうもな……」

 現状、いまの俺は浩介に謝罪する〝理由〟がない。

 明日訪れるだろう最悪な未来を伝えることもできない。

 感情を押し殺すことができるくらいには大人になった、はずだ。さりとて、代わりに自分が起こすべき行動の正解がわかるわけでもないのだが。

 いや、事実を伝えられずとも、明日起こる未来を変えられるのならよかった。

 浩介を救う。死なせない。それができれば、俺は過去に戻った意味が見出せる。

 しかし、あの車掌は言っていた。死は覆らない、変えられないと。

 でも、たとえそうだとして――。

 俺が浩介の死の原因となる未来は、避けられるかもしれない。

 そう、思ってしまった。

 なにしろこれは、俺の未練解消の旅だ。俺の心を(むしば)み続けてきた呪いを解くために過去へ戻った。死を迎える俺が、穏やかに()けるようにするための旅なのだ。

 浩介から恨まれるような〝現実〟がなくなれば、少なくとも俺の心の(かせ)はなくなりすっきりできるだろう――そう算段をつけて、戻ってきた。

 しかし、俺はいま、わからなくなっていた。

 浩介を目前にして、もう二度と会えないはずの相手を前にして、自分の感情が揺らいでいるのを感じる。喜怒哀楽を一緒くたに混ぜこんだみたいだ。

 喜び。苛立ち。憤り。感動。哀しみ。もどかしさ。

 感情に名前がつけられない。はたして俺は、どうするのが正解なのだろう。

 「なあ、渉? いまからでも監督に直談判に行くか?」

 「……なに、言って」

 「だってやっぱり納得いかないし。せめて理由をちゃんと聞きたいだろ」

 「っ、そんなん、いまさら――」

 ああ、だめだ。浩介に返すべき言葉が見つからない。怒りたくはない。あのときの二の舞では、本当に戻ってきた意味がなくなってしまう。

 「……少なくとも、おまえは」

 「ん?」

 「浩介は……、これでよかっただろ。目標だったスタメン入りできたわけだし。おまえが反対するのは、どう考えても変な話で――」

 「はあ? そんなわけ」

 浩介の憤りのなかにちがう怒気が重なった。それはきっと俺に対してのものだろう。

 こちらを向く視線は、静けさのなかに潜んだ刃のような鋭さを帯びている。

 「たしかに、スタメン入りしたかったよ。でも、渉の代わりにおれがってのはどう考えてもちがう。普通に気分悪いし、まったくうれしくもない」

 「っ……んだよ、それ」

 「だってスタメン争奪で友だち失うなんて、馬鹿みたいじゃんか」

 どくっと心臓が強く胸を打つ。全身のあらゆる毛穴から嫌な汗が噴き出した。鈍器で殴られたかのように視界がぐらついて、頭のなかに浩介の言葉が反響する。

 ――〝俺〟のなかにある、本来の過去が残像のように脳裏を掠めた。

 友だちを失うなんて馬鹿馬鹿しい。

 そう思っていた相手に、かつての俺は、絶交宣言を――。

 「おれはさぁ、こう言っちゃなんだけど、渉みたいにサッカーに人生かけてるわけじゃないから。ほら、うち、医者家系だし。将来は医者なの」

 「……え」

 「あれ、言ってなかったっけ?」

 そうだっただろうか。記憶にない。いや、どこかでそんな話をちらっとしていたかもしれないが、きっと当時の俺はそれほど重要視していなかったのだろう。

 あの頃は、自分のことに精一杯で、他人の進路を気にする余裕はなかった。

 でも、そうだ。たしかに浩介は、頭がよかった。

 ガリ勉タイプでもないのに、成績はつねに上位だった記憶がある。部活と両立していても苦労している様子もなく、なにかと要領がいいやつなのだろうと思っていた。

 「医者って体力も根性も必要だからさ。親には文武両道を目指せって言われて育ったんだよ、おれ。だから運動部に入っただけで、特別サッカーに思い入れがあるわけじゃない。……なんて、監督に聞かれたらぶっ飛ばされそうだけど」

 苦笑した浩介は、どこか遠い目をしながら立ち上がった。

 窓際に寄ると、西側にあるグラウンドを見つめる。頬杖をつく横顔は、見たことのない(うれ)いを帯びていた。

 諦め、だろうか。手の届かないものを見つめるような眼差しに、俺はまたも返す言葉を失ってしまう。

 「たまたま進学した先のサッカー部が強豪だったってだけ。スタメンになれば周りにいい顔ができるから、まぁ、目標にはしてたけど、べつに必須条件じゃない。それよりもおれは、友だちとの関係性のほうが大事なんだよ。友情ってやつな」

 「友情、って……」

 「あ、イタいとかいうなよ。本気なんだから」

 ――すべてを持っているはずの男が、たかが友情ごときで、どうしてそんな満たされないような顔をするのだろう。

 勉強もできて、運動もできる。家も裕福で金に困ることはないし、親の社会的地位もある。憧れたって手に入らない環境だ。

 少なくとも、俺ならもっと傲慢になる。友情なんて目に見えない曖昧なものなどいっそどうでもいいと、真っ先に切り捨てるかもしれない。だって、そんなものがなくても生きていけるくらい恵まれているのだから。

 「まあ、とにかく。おれ、監督に納得いかないって言いに行くから。渉がいいって言っても行くから。これはおれの〝選択〟だから。気にしなくていいんだよ、渉は」

 「っ、だから! なんでそうなるんだよ!」

 「……あーもう、わからず屋だなあ。どちらにしろ、そうなる未来だからだよ」

 はあ、となんとも重たい呼吸を吐き出した浩介は、こちらを振り返った。その一瞬、俺の知らない浩介がそこにいるような気がした。

 その悟ったような瞳に、ぎくりとする。飛び出しかけた言葉が引っこんだ。

 「なあ、渉。おれ、渉と喧嘩したくないんだよな」

 「け、んか……って。そんなのしてな――」

 「いんや、すれちがいは怖いもんだよ。自分がどんだけ相手のことをわかった気になっててもさ、結局、他人の心の内側はわからないから。すれちがったまま貴重な友情が消滅とか最悪じゃん。少なくともおれは絶対嫌だね」

 自分の机に置いていたリュックを片腕に掛け、浩介は振り返った。

 暮れなずむ空を背に、どこか寂しそうな、泣きそうな微笑が浮かぶ。

 「だからさ、せっかく伝えたおれの気持ち、ちょっとでいいから()んでくんね?」

 「っ……」

 「友だちだろ、おれたち」

 なにも答えられず、茫然としたまま動けない俺を数秒見つめてから、浩介は「んじゃ帰るな」と教室の前の扉に向かって歩き出した。

 声を、掛けなければ。

 そうは思うのに言葉が出てこない。口を開けては閉じ、開けては閉じ、漫画みたいなことを繰り返して、結局うつむくしかできなかった。

 浩介の姿が視界から消える。

 ――世界の形が、わからなくなった。