◇
「おかえりなさいませ。中田幸弘さん」
終灯列車に戻った僕を迎えた車掌は、向かい側の席に座っていた。彼の隣の座席ではクロが丸まって眠っている。すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくるのに、二本に分かれた長い尻尾は、宙でゆらゆらと左右に揺れていた。
「十二時間ちょうどのお戻りですね。大変おつかれさまでした」
ぱたんと黒いバインダーを閉じながら顔を上げ、車掌はこちらをじっと見る。
銀髪に隠れて霞影が落ちる瞳が目を惹いた。心なしか、行きの列車で対面していたときよりも、こちらを見る眼差しが穏やかになった気がする。
しかしながら、相も変わらず、奇妙な光景だ。
非現実的なものを一切信じてこなかった自分からすれば、この車掌も灯猫も事故で頭を打ったせいで生まれた幻想だと思ったほうがしっくりくる。
だが、僕は事実として過去へと戻った。
僕が上書きした過去は、決して幻想ではなかったと確信を持てる。なにせ過去に戻る前の僕の価値観では、〝追憶行〟で経験した出来事を想像することは困難だから。
夢路のようだったけれど、あれはたしかに、僕自身が紡いだ時間の一部だった。
「……そうか。終わったんだね」
僕は座席に腰かけていた。膝上に散る交ざりけのない紫色の花弁を指で掬う。スターチスだ。以前、うちのプランターでも育てていたことがあった。
「途絶えぬ記憶、か。〝追憶行〟で過去を変えてしまうのに、皮肉的な花言葉だな」
ついぽつりと呟くと、車掌がわずかに目を見開いた。
「花弁だけでスターチスだとわかるとは驚きました。それも、花言葉まで」
「妻が花を育てていてね。最近はめっきりなくなってしまったが、昔は新しい花を育てるたびに花言葉について話してくれていたんだよ」
「なるほど。それは興味深い話です」
「君にも興味深いなんて感情があるのか……なんて言ったら失礼だろうけども」
こんなふうに相手の心をすぐに慮れないから、後悔したというのに。
やはりたった十二時間程度では、人の根本は変わらないのだろう。けれど、そう自覚できただけ、僕は過去に戻った甲斐があったのかもしれない。
己の未熟さに気づくことができた。やり残したことが完全になくなったわけではないが、少なくとも、〝追憶行〟で僕がなすべきことはできたのではないかと思える。
──そう、思いたい。
「……まさか、死んだあとにこうも価値観が変わるとは思ってもみなかったよ」
深く息を吐き出しながら、僕は額を押さえてうなだれる。
だんだんと夢見心地だった気分が落ち着き、頭が現実を受け入れはじめたからだろうか。戻っていた間の出来事が、まるで走馬灯のように頭を巡る。
交わした会話ひとつひとつが一本の糸になって、積み重ねてきたすべての記憶と繋がり、僕の人生の一部として根付いていくような気がした。
「ねえ、車掌くん。僕が過去を上書きしたことで未来がどう変わったのかは、やはり教えてはもらえないんだろう?」
「はい。死者が知る由もないことですから」
「そうか……。そう、だよなぁ……」
「戻らなければよかったと思いますか。過去に」
僕が戻ったのは、僕が死ぬ直前。直近の過去だ。
今回の〝追憶行〟で過去が上書きされたことによって、僕が死んだあとの未来の在り方が大きく変わることは、きっとない。せいぜい、郁絵と真の僕に対する最期の印象が、ほんの少し塗り替えられたくらいのものだろう。
いや、それも実際のところはわからないことだ。僕がそうであってほしいと望んでいるだけで、僕が思っている以上に、現実は変わらず世知辛い可能性もある。
ただ──もし、そうだとしても。
「後悔は、していないよ」
「そうですか」
「僕はあの過去を変えたかったし、いまここに戻っても〝追憶行〟で上書きした過去を変えなければよかったとは感じてない。もちろん、戻ったことで失ってしまった本来の過去にも、きっと価値はあったのだと思うけどね」
なにをもって正しさとするかなど、〝追憶行〟では無粋な話なのかもしれない。僕にとっての正しさが、郁絵や真にとっても正しいこととは限らないのだから。
「それでも、僕にとっての最期の記憶は家族との時間になった。自分勝手だと言われればその通りだが、たとえ取り繕ってでも、家族として良好な関係にしておきたかったんだよ。たった十二時間では取り戻せないものだとはわかっていたけど、僕はもうこの先の未来に存在しなくなるからね。せめて、足掻くくらいはしたかった」
「んま~、たしかににゃ~。たびたび迷いながらも、幸弘は最後まで立ち止まりはしなかったにゃあね。今回の〝追憶行〟では、ボクの出番もほとんどなかったにゃ」
頭を起こしたクロがのんびりした口調で答えた。ちらりとそちらへ視線を向けた車掌は、黙って会釈しながら、ふたたび閉じたバインダーを開く。
「ともあれ、後悔のない旅にできたのなら、なによりです」
「……車掌くん。それにはなにが書かれているのかな」
「死者を案内する私に必要な情報が、いろいろと。それ以上はお答えできかねます」
淡々と返答した車掌は、静かに立ち上がりながら続ける。
「この先は、生と死のあわいから抜けた〝遺世〟です。我々はその入り口までしか共に行けません。それ以上はあなたひとりで進むことになります」
「なるほど。本当の死後の世界、ってことか……」
「さあ……私はこれより先がどのような場所なのか知らないので、なんとも。ですが魂は輪廻するものだと聞いております。根拠もなにもありませんが」
一瞬、車掌の眼差しがどこか遠くを見つめるように細められた。
「……それは、誰に」
「前任ですよ。私と同じように死者を案内していた、ね」
ふっと口許に浮かんだ微笑に、思わず息を呑んだ。かつての出来事を思い返すかのような──まるで、もう手の届かないものを求めるような。それは、心を持たない者には決してできない、一途に誰かを想う表情だった。
「さて、そろそろ参りましょうか。〝遺世駅〟へ」
「……ああ」
彼にとっては、あまり踏みこまれたくない領域なのだろうか。それ以上話す気はないと暗に示された気がして、僕は口をつぐみながらうなずく。
終灯列車が加速しはじめた。
車両が揺れ、僕の膝上に散っていたスターチスの花弁がひらりと床に落ちる。身を屈めて拾い上げた僕は、ふと郁絵の言葉を思い出した。
『スターチスには〝変わらぬ心〟とか〝永久不変〟っていう花言葉もあるのよ。永遠の愛を表す花って、なんだかとてもロマンチックだと思わない?』
──永遠の愛。
頭のなかで反芻し、じっと花弁を見つめたあと、僕は言葉を呑みこんだ。
あえて訊ねる必要もないような気がしたのだ。
君にも愛する人がいたのか、なんて。
「車掌くん」
「はい」
「もしよかったら、最期に君の名前を教えてくれないかな」
さきほど拾い上げた花弁を差し出すと、彼は珍しく硬直した。それから、どこか迷うようにクロを振り返る。クロは「にゃあ」とだけ返事をした。
「……以前はよく〝銀〟と呼ばれていました。銀時という名前だったので、まあ、あだ名といいますか。単純に、呼びやすかったのだと思いますが」
「うん、そうか。いい名前だ」
「ずっとずっと、昔の話です。いまの私に名前はありません。車掌はあくまで車掌でしかないので。いまの発言は私のひとりごとだと思っておいてください」
「わかった。墓場まで……じゃない。このまま〝遺世〟まで持っていくよ」
興味本位で訊いたわけではないのだ。
ただ、心に留めておきたかった。
最期に僕と共にいてくれた彼の名を。
もしかしたらこの先に、彼を待っている者がいるかもしれないから。
「ありがとう。いつか……僕の大切な人がここにくることがあれば、僕は幸せな生涯だったと伝えてくれるとありがたいよ。──なんて、難しいか」
僕の言葉に、車掌もクロも答えることはなかった。
けれど、〝遺世〟へ向かう僕をいつまでも見送ってくれたふたりの眼差しは、まるで深い闇を先の先まで灯すように、どこまでも温かかった。
「おかえりなさいませ。中田幸弘さん」
終灯列車に戻った僕を迎えた車掌は、向かい側の席に座っていた。彼の隣の座席ではクロが丸まって眠っている。すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくるのに、二本に分かれた長い尻尾は、宙でゆらゆらと左右に揺れていた。
「十二時間ちょうどのお戻りですね。大変おつかれさまでした」
ぱたんと黒いバインダーを閉じながら顔を上げ、車掌はこちらをじっと見る。
銀髪に隠れて霞影が落ちる瞳が目を惹いた。心なしか、行きの列車で対面していたときよりも、こちらを見る眼差しが穏やかになった気がする。
しかしながら、相も変わらず、奇妙な光景だ。
非現実的なものを一切信じてこなかった自分からすれば、この車掌も灯猫も事故で頭を打ったせいで生まれた幻想だと思ったほうがしっくりくる。
だが、僕は事実として過去へと戻った。
僕が上書きした過去は、決して幻想ではなかったと確信を持てる。なにせ過去に戻る前の僕の価値観では、〝追憶行〟で経験した出来事を想像することは困難だから。
夢路のようだったけれど、あれはたしかに、僕自身が紡いだ時間の一部だった。
「……そうか。終わったんだね」
僕は座席に腰かけていた。膝上に散る交ざりけのない紫色の花弁を指で掬う。スターチスだ。以前、うちのプランターでも育てていたことがあった。
「途絶えぬ記憶、か。〝追憶行〟で過去を変えてしまうのに、皮肉的な花言葉だな」
ついぽつりと呟くと、車掌がわずかに目を見開いた。
「花弁だけでスターチスだとわかるとは驚きました。それも、花言葉まで」
「妻が花を育てていてね。最近はめっきりなくなってしまったが、昔は新しい花を育てるたびに花言葉について話してくれていたんだよ」
「なるほど。それは興味深い話です」
「君にも興味深いなんて感情があるのか……なんて言ったら失礼だろうけども」
こんなふうに相手の心をすぐに慮れないから、後悔したというのに。
やはりたった十二時間程度では、人の根本は変わらないのだろう。けれど、そう自覚できただけ、僕は過去に戻った甲斐があったのかもしれない。
己の未熟さに気づくことができた。やり残したことが完全になくなったわけではないが、少なくとも、〝追憶行〟で僕がなすべきことはできたのではないかと思える。
──そう、思いたい。
「……まさか、死んだあとにこうも価値観が変わるとは思ってもみなかったよ」
深く息を吐き出しながら、僕は額を押さえてうなだれる。
だんだんと夢見心地だった気分が落ち着き、頭が現実を受け入れはじめたからだろうか。戻っていた間の出来事が、まるで走馬灯のように頭を巡る。
交わした会話ひとつひとつが一本の糸になって、積み重ねてきたすべての記憶と繋がり、僕の人生の一部として根付いていくような気がした。
「ねえ、車掌くん。僕が過去を上書きしたことで未来がどう変わったのかは、やはり教えてはもらえないんだろう?」
「はい。死者が知る由もないことですから」
「そうか……。そう、だよなぁ……」
「戻らなければよかったと思いますか。過去に」
僕が戻ったのは、僕が死ぬ直前。直近の過去だ。
今回の〝追憶行〟で過去が上書きされたことによって、僕が死んだあとの未来の在り方が大きく変わることは、きっとない。せいぜい、郁絵と真の僕に対する最期の印象が、ほんの少し塗り替えられたくらいのものだろう。
いや、それも実際のところはわからないことだ。僕がそうであってほしいと望んでいるだけで、僕が思っている以上に、現実は変わらず世知辛い可能性もある。
ただ──もし、そうだとしても。
「後悔は、していないよ」
「そうですか」
「僕はあの過去を変えたかったし、いまここに戻っても〝追憶行〟で上書きした過去を変えなければよかったとは感じてない。もちろん、戻ったことで失ってしまった本来の過去にも、きっと価値はあったのだと思うけどね」
なにをもって正しさとするかなど、〝追憶行〟では無粋な話なのかもしれない。僕にとっての正しさが、郁絵や真にとっても正しいこととは限らないのだから。
「それでも、僕にとっての最期の記憶は家族との時間になった。自分勝手だと言われればその通りだが、たとえ取り繕ってでも、家族として良好な関係にしておきたかったんだよ。たった十二時間では取り戻せないものだとはわかっていたけど、僕はもうこの先の未来に存在しなくなるからね。せめて、足掻くくらいはしたかった」
「んま~、たしかににゃ~。たびたび迷いながらも、幸弘は最後まで立ち止まりはしなかったにゃあね。今回の〝追憶行〟では、ボクの出番もほとんどなかったにゃ」
頭を起こしたクロがのんびりした口調で答えた。ちらりとそちらへ視線を向けた車掌は、黙って会釈しながら、ふたたび閉じたバインダーを開く。
「ともあれ、後悔のない旅にできたのなら、なによりです」
「……車掌くん。それにはなにが書かれているのかな」
「死者を案内する私に必要な情報が、いろいろと。それ以上はお答えできかねます」
淡々と返答した車掌は、静かに立ち上がりながら続ける。
「この先は、生と死のあわいから抜けた〝遺世〟です。我々はその入り口までしか共に行けません。それ以上はあなたひとりで進むことになります」
「なるほど。本当の死後の世界、ってことか……」
「さあ……私はこれより先がどのような場所なのか知らないので、なんとも。ですが魂は輪廻するものだと聞いております。根拠もなにもありませんが」
一瞬、車掌の眼差しがどこか遠くを見つめるように細められた。
「……それは、誰に」
「前任ですよ。私と同じように死者を案内していた、ね」
ふっと口許に浮かんだ微笑に、思わず息を呑んだ。かつての出来事を思い返すかのような──まるで、もう手の届かないものを求めるような。それは、心を持たない者には決してできない、一途に誰かを想う表情だった。
「さて、そろそろ参りましょうか。〝遺世駅〟へ」
「……ああ」
彼にとっては、あまり踏みこまれたくない領域なのだろうか。それ以上話す気はないと暗に示された気がして、僕は口をつぐみながらうなずく。
終灯列車が加速しはじめた。
車両が揺れ、僕の膝上に散っていたスターチスの花弁がひらりと床に落ちる。身を屈めて拾い上げた僕は、ふと郁絵の言葉を思い出した。
『スターチスには〝変わらぬ心〟とか〝永久不変〟っていう花言葉もあるのよ。永遠の愛を表す花って、なんだかとてもロマンチックだと思わない?』
──永遠の愛。
頭のなかで反芻し、じっと花弁を見つめたあと、僕は言葉を呑みこんだ。
あえて訊ねる必要もないような気がしたのだ。
君にも愛する人がいたのか、なんて。
「車掌くん」
「はい」
「もしよかったら、最期に君の名前を教えてくれないかな」
さきほど拾い上げた花弁を差し出すと、彼は珍しく硬直した。それから、どこか迷うようにクロを振り返る。クロは「にゃあ」とだけ返事をした。
「……以前はよく〝銀〟と呼ばれていました。銀時という名前だったので、まあ、あだ名といいますか。単純に、呼びやすかったのだと思いますが」
「うん、そうか。いい名前だ」
「ずっとずっと、昔の話です。いまの私に名前はありません。車掌はあくまで車掌でしかないので。いまの発言は私のひとりごとだと思っておいてください」
「わかった。墓場まで……じゃない。このまま〝遺世〟まで持っていくよ」
興味本位で訊いたわけではないのだ。
ただ、心に留めておきたかった。
最期に僕と共にいてくれた彼の名を。
もしかしたらこの先に、彼を待っている者がいるかもしれないから。
「ありがとう。いつか……僕の大切な人がここにくることがあれば、僕は幸せな生涯だったと伝えてくれるとありがたいよ。──なんて、難しいか」
僕の言葉に、車掌もクロも答えることはなかった。
けれど、〝遺世〟へ向かう僕をいつまでも見送ってくれたふたりの眼差しは、まるで深い闇を先の先まで灯すように、どこまでも温かかった。



