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洗濯物を片付け終えたあと、僕たちはリビングへ移動した。ダイニングで向き合いながら、僕は緊張した面持ちの郁絵に今日のことを話しはじめた。
「今日、真のところに行ってきたんだ」
「え、大学に?」
「大学というか、その近くに。一緒に昼ご飯を食べて、いろいろ話をしてきた」
「っ……そう。真、どうだった? あの子、ちゃんと大学には行ってるの? 私には全然返信してくれないから……」
「大丈夫。真はちゃんと大学に通ってるし、元気そうだった。それに、なんだか前よりも明るくなったような気がするな。なにより楽しそうにしていたよ」
基本的に見守るスタイルを貫いてきた僕でさえ、しばらく帰っていないことがわかったら、すぐに会いに行くくらいには気にかける。つねに家で家族の帰りを待つ郁絵からしてみれば、帰ってこない息子に不満を抱くのも当然だろう。
だが、静かな家でたったひとり、どこでなにをしているのかわからない息子のことを考えていたら、そうなるのも無理はないのかもしれない、といまは思う。
一方で、真がもう小学生の子どもではないのも事実だ。
子どもと大人の境。子が親の元から巣立つ時期。親もまた、巣立つ子を見送らなければならない時期。繋がりは消えなくとも、これまで通りではいられなくなる。
息子との関わり方がわからないのは、郁絵も同じなのかもしれない。
「偶然ではあったが、真のバイト先に行ったんだ。学校の近くに小さな喫茶バーがあってね。そこで夜、少し手伝いをしているらしい。昼食をご馳走になったんだが、とても美味しかった。マスターもいい人だったよ」
「バイトしてるのは聞いてたけど……夜? バー? まさか、お酒ってこと?」
「ほら、そんなふうに心配するから言いにくかったんだよ、きっと」
苦笑しながら答えると、郁絵は図星をさされた顔をして目を逸らした。
しかし、ふとなにかを思い出したように考える仕草を見せる。
「いま喫茶バーって言った? それってもしかして、裏通りのところ?」
「えっ、ああそうだが……。知ってるのか?」
思いがけない返答に、僕は目を見張る。対して郁絵も、ひどく驚いたような表情を浮かべ、それからなぜか、ほっとしたように息を吐いた。
「あのお店なら、私も行ったことがあるの。大学のオープンキャンパスに真と行ったとき、午後の説明会待ちの時間にランチで入って」
まさに、今日の僕と同じパターンだ。なるほど、マスターが口にしていた〝稀にふらっと訪れる客〟とは、僕たちのような客を指しているのだろう。
自分の知る店だったことに安堵したのか、郁絵の表情と声からは先ほどまでの緊張が消えていた。そのことに僕もほっとして、自然と笑みが零れる。
「そう、あのお店でバイトを……。いつかあなたと行きたいと思ってたのよね。そのときは飲めなかったけど、美味しそうなワインがたくさん並んでいたから」
「あぁ、うん……。僕も、それを見て久しぶりに郁絵と飲みたいと思ったんだ。真が生まれる前は、たまにふたりで飲みにいったことを思い出したりしてね」
答えながら、僕は隣の椅子に置いていた鞄に手を伸ばした。
なかから取り出したのは、一本の赤ワインだ。郁絵ははっと息を呑む。
「――これ」
「マスターに頼んで、一本だけ買い取らせてもらったんだ。郁絵がいちばん好きそうな……僕たちが出逢った年のヴィンテージワインを」
一度は真と共に店を出たが、帰りに思い立って店へと戻ったのだ。
マスターは戻ってきた僕の姿を見て驚いていたが、赤ワインを一本買い取らせてほしいと頼みこんだら、快く承諾してくれた。
できることなら、郁絵と真と一緒に――家族三人で行きたかった。
だが、それはもう、どうしたって叶わない。だからせめて、この奇蹟がもたらしてくれた最期の夜は、郁絵と昔を思い出しながら穏やかに嗜みたかった。
「こんな年代物のワイン、高かったでしょうに……」
ワインボトルのラベルをしみじみと見ながらぽつりと呟いた郁絵は、しかしすぐ、はっとしたように口を押さえた。微かな風が小さな唇を掠めた。
「郁絵?」
「……ごめんね。私ったら、すぐにこういうこと言っちゃって」
昔よりもいくらか皺の増えた細い指で、郁絵はワインボトルの表面を撫でた。
「今朝のこと、気にさせちゃったんでしょ? あなたが誰よりも真面目に働いてきてくれたことくらいわかってるのに、いつも嫌味ばかりでごめんなさい」
「っ、そんな……」
まさか謝られるとは思っていなかった。いつになく消沈している郁絵に、僕は盛大に焦ってしまう。とっさに気の利いた言葉も出てこない。
「ぼ、僕のほうこそ、郁絵に寂しい思いをさせていたんだとやっと気づいて」
「寂しい?」
「その……今日帰ってきたとき、郁絵がいなかっただろう。静かな家に入って、感じたんだ。あぁこんなにひとりは寂しいものなんだなぁ、って」
専業主婦は郁絵が望んだことだった。けれど、真も成長して家にいない時間が多くなったいま、ずっとひとりでいたら孤独を感じるのも無理もない。
そのことに気づきもせず、僕は不機嫌な郁絵を避けるように生活していた。
毎朝味噌汁すら飲まず忙しなく家を出て、残業を理由に遅い時間に帰宅する。
いまさらだ。なにもかも、いまさら。手遅れであることはわかっている。
「……すまなかった。もっと郁絵と話す時間を作っていれば、真のことだって――」
「そんなの、謝ることじゃないわよ。あなたは働いてるんだもの。遊んでるわけじゃないことくらい、私もちゃんとわかってるから」
「……ちがう。ちがうんだ、郁絵」
手遅れ、なのだとしても。
それでも、僕が郁絵を大切に想っていることを伝えたかった。
昔と変わらず、いまも、これから先もずっと。
郁絵と真が、僕にとっては命より大切な存在なのだと。
けれど、その想いを正しく伝える言葉が出てこなかった。これまで積み重ねてきた過去を覆せる魔法の言葉なんて、やはり僕は持ち合わせていないのだ。
――だとしても、伝えなければ。
「……郁絵。僕は、君と結婚してよかったって心の底から思ってる」
「え……」
「郁絵と出逢って、君しかいないと思って、告白した。二度も振られたけど、それでも諦めきれなかった。そんなふうに思う相手は、生涯、郁絵だけだった。昔も、いまも、僕にとって郁絵は……その、運命の相手だと本気で思っているんだよ」
認めよう。僕は不器用だ。
ただ抱き締めて、愛していると伝えればいい。そう頭ではわかっているのに、その行動にすら及び腰になってしまう情けない男でもある。
顔がいいわけでも、男気があるわけでもない。
だけれど、想いの強さだけは、自信がある。
日常のなかでどれだけ心の距離が離れようと、僕の内にある郁絵に対する想いが揺らいだことも、薄れたことも一度もない。浮気なんてもってのほかだ。
断言してもいい。僕はつねに、郁絵しか見てこなかった。
「郁絵と人生を歩んでこれたことが、僕にとってはなによりの幸福だったんだよ」
「っ、急になに……? そんな、まるで明日死ぬみたいに」
「…………」
「え、やだ。否定してよね」
僕はただ小さく微笑むにとどめて、テーブルに置かれたワインを手に取った。
「一緒に飲もう。郁絵」
「もう? 夕飯のときでいいじゃない」
「うん、それでもいい」
僕が、タイムリミットを迎えるまでに。
ほんの指先ほどでもいいから、どうか僕の想いが伝われと、願いながら。
――そのとき、郁絵が傍らに置いていたスマホがピロンと鳴った。
はっとしたように郁絵がすばやく画面を確認する。そして、数秒ほど画面を凝視していたかと思えば、なぜか今にも泣きそうな顔でこちらを向いた。
それだけでなんとなく、相手は真だろうと察する。
「真、からだった。今日は帰るって……」
そっと差し出してきた画面には、真とのメッセージ画面が表示されていた。
昼間も見せてもらった通り、郁絵の一方的なチャットが続いていた。だが最後、最新のチャット枠は、久しぶりに真から送られたものになっている。
『今日は帰るよ。父さんもいるでしょ』
『昼に食べ損ねたから、夜は焼肉がいい』
『肉は買ってく。めちゃくちゃ美味いやつ。おれの奢りで』
内容を見た僕は、つい口に手を当てて吹き出してしまった。
「初めて息子からごちそうしてもらうのか。これは美味いだろうなぁ」
「あっ、焼肉プレート出して掃除しておかなくちゃ。使えるか不安だけど」
そわそわしたように立ち上がり、郁絵は足取り軽くキッチンへ走っていった。
わかりやすくうれしそうな様子を微笑ましく見送ってから、僕はワインボトルをテーブルの中央に置く。カタンと響いた音が、なんだかとても心地よかった。
――ああ、今日は久しぶりに、家族で過ごせるいい夜になりそうだ。



