天国までの記憶列車

 


 「ほんと信じらんないんだけど」

 真はげんなりしたように歩いてくると、ぎょっとする僕の隣に腰を据えた。

 リュックサックを隣の席にどかりと置き、ふてぶてしい表情でメニューを指さす。

 「とりあえずマスター、オムライスふたつ」

 「ちょ、真。おまえ、焼肉がよかったんじゃ……」

 「仕方ないじゃん、もうきちゃったし。まあ、焼肉よりマスターのオムライスのほうが美味しいから、べつにいいよ。父さんも好きだと思う」

 (ぶっ)(ちょう)(づら)な態度に対し、発言がどうにも噛み合わない。面食らって隣を凝視していると、真はふと思い出したようにカウンターへ身を乗り出した。

 「あ、マスター、おれ大盛りで。ケチャップ多めがいい」

 「はいはい。いつものだね」

 「うん」

 気安い関係なのだろうか。息子の態度にひやひやする僕に気づいたのか、マスターは穏やかに微笑みながら口を開く。

 「いいんですよ。元々オムライスは(まかな)いでもありますので。真くんは大盛りケチャップ多めがいつものメニューなんです」

 「そんな贅沢な……」

 真は今年の四月に二十歳を迎えている。法律的に飲酒も解禁されているし、バーで働いていても社会的には問題ない。そもそも数年前に成人年齢が十八歳に引き下げられたこともあり、バイトをするにも親の承諾書は必要ないのだろう。

 だからといって、真が酒を扱う夜の店でバイトをしていること自体知らなかった自分に、親としてどうなのだと頭を抱えたくなる。

 「奥で作ってまいりますから、少々お待ちください。親子水入らずでね」

 視線で促され、思わず真と顔を見合わせてしまう。

 さすがに真も気まずそうだ。あからさまに眉間に皺が寄っている。

 「――それで? 急にどーしたわけ」

 「え」

 「わざわざこんなとこまできて、昼ご飯とか。話があったんじゃないの?」

 マスターが店の奥へと姿を消し、ふたりきりとなった空間。とても親子水入らずなんて雰囲気ではないが、真のほうから話を切り出してくれたことに驚く。

 「……話がある、とわかっていて、きてくれたのか?」

 「父さんがそんなことするなんてよっぽどじゃん。平日なのにわざわざ学校までくるとかさ。仕事は休んだの? なに、もしかして母さんと喧嘩でもした?」

 「っ……」

 「うわ、まじな反応。やめてよ、面倒くさい」

 げっと顔を引き()らせ、真はわざとらしくため息を()く。カウンターに片肘(ひじ)をついて剣呑さを醸し出しながらこちらを見る様は、いかにも今どきの若者ふうだ。

 息子がこんなふうに会話をするタイプだったことを、僕は知らなかった。

 いや、そもそも――こうして向き合って話すこと自体が久しぶりなのだ。

 中学生になるまでは、真のほうからよく話しかけてくれていた。けれど、中学に上がってからは極端に回数が減り、あからさまに距離を置かれた。

 俗にいう反抗期だったのだろう。父親と息子の正しい距離感がわからなくなって以降、僕と真はあまりふたりきりで話さなくなった。

 真の視界に入ることが減った。話しかけられる場面も回数も少なくなった。

 『ああ、真。おはよう』

 『……はよ』

 家ですれ違えばひとこと挨拶を交わすくらいはするが、それだけ。近況報告の会話をすることもない。険悪な雰囲気ではなくとも、そこにはどこか壁があった。

 父親として避けられているのか、息子とはそういうものなのか。

 真は母親ともよく口論になっていた。

 拒絶して、跳ね除けて、郁絵から距離を取ろうともがいていた記憶がある。郁絵の過干渉に、思春期の子どもは耐えられなかったのかもしれない。

 反抗期がいまも続いているのかはわからないが、少なくとも僕側の認識としては、避けられはじめた頃から息子との距離は変わっていなかった。

 だからこそ、真のこのゆるい態度に不意を()かれたのだ。

 まるで昔、反抗期に入る前の子どもだった真と(たい)()しているようだったから。

 「……なんと言ったらいいんだろうな。こう、あからさまな喧嘩をしたわけではないんだよ。ただ、父さんが母さんに愛想を尽かされていただけで……」

 「なにそれ、どういうこと?」

 「まあ、向き合うことから逃げてきたツケだろうなぁ」

 抽象的なことしか言えない僕に、真は鳩が(まめ)(でっ)(ぽう)を食らったような顔をする。

 「愛想を尽かされたってなに? 母さんからそう言われたの?」

 「言われてはない、が……。母さんの態度を見ていたら明白だろう」

 本来の過去を変えて、己のあやまちを回避した。けれど、回避した代わりに待ち受けていた現実は、決して思い描いていたものではなかった。

 郁絵のなかには鬱積した不満や苛立ちがある。それは挽回の言葉ひとつ、行動ひとつで消すことは叶わぬ、死者にはとても拭いきれない負債だった。

 たとえ直接そう言われたわけではなくとも感じるのだ。

 郁絵の態度には、いつだって僕に対する不満が詰まっている。

 積み重ねた過去が、いまを、未来を変える邪魔をする。たかだか一時、郁絵の機嫌を取ったところで、そう簡単に、僕の思うように転がる話ではないのだろう。

 「まあ、こんな話を息子にするのもおかしな話だな。すまない、忘れてくれ」

 「いやべつにいいけど……」

 「そもそも今日は、真に話があってきたんだ。今朝、郁絵から真があまり家に帰っていないと聞いたから、少し心配になってな」

 誤魔化すように早口で言い募ると、真はうげぇと顔をしかめた。

 「なに、父さんまでそんなこと言うわけ? 毎日毎日、母さんから鬼のように連絡きてこっちは辟易(へきえき)してんのに」

 「え、そうなのか……」

 「父さんは知らないんだよ。母さんのおれへの執着。普通に帰りたくなくなるから」

 ほら、と手渡されたスマホをおそるおそる覗きこむ。

 そこに表示されていたのは、郁絵との個人チャットだ。真からはほぼ返信していないようで、郁絵からの一方的なメッセージで埋め尽くされている。

 「どこにいる、いつ帰る、今日は帰るのか、明日は学校なのか、なにしてる云々かんぬんエンドレス。ブロックしてないだけ、おれはおれをえらいと思うよ」

 「お、おぉ……これは、知らなかった。なかなかだな」

 「父さんは母さんに愛想を尽かされたって言ってたけどさ、むしろ父さんが母さんに愛想尽かさないのが、おれ的には不思議だね」

 スマホを鞄の横ポケットにつっこむと、真は仏頂面でカウンターに肘をついた。

 「母さんってさ、なんでも自分が中心なわけ。相手のことを慮るよりも前に、自分の不満を押し付けてくんの。話を聞こうとしないでしょ、あの人」

 「そう、か……?」

 「そーなの。父さんはいつも、そんな母さんの不満も愚痴もぜーんぶ黙って受け止めちゃってるから、あんま思わないのかもしれないけどさ。そもそも会話を成り立たせようとしないから、こっちからしたら話にならない」

 たしかに、言われてみればそうかもしれなかった。

 こだわりが強く繊細で、なにかと不満や小言が多い郁絵に対し、僕は基本的に反抗も反論もしない。受け流していることがほとんどだ。そこで僕が謝罪をして済ませることはあっても、話し合い、会話をすることはない。

 その結果、過去の僕は(かん)(にん)(ぶくろ)の緒が切れて声を荒らげてしまったわけだが――。

 「子離れしないにもほどがあるし。おれ、もうハタチだよハタチ」

 「まぁ、そうだなぁ。母さんは真が心配なだけだろうけど、過干渉だからな……」

 「家に帰んのも嫌になるでしょ。だからおれ、ここでバイトしてんの。深夜の」

 それはそれで、父親として気を揉んでしまう。いまのところマスターの人柄は悪くないと感じているが、夜の酒場ならば安心安全とはいかないだろう。とりわけアルコールを摂取したら、人間は突拍子もないことをしでかしたりもするのだ。

 「まあ、おれ、マスターの手伝い程度だから、メインの接客とかはしないよ。酔っ払いはマスターが相手してくれるし。雑用係みたいなもん」

 「……だとしてもなぁ」

 「ここで三時間だけバイトしたら、奥の仮眠室を朝まで自由に使っていいことになってんだよ。だからそこで寝て、シャワー借りて、また学校に行くわけ。バイトじゃない日は、友だちんちに泊まったりすることもあるけど。そんだけ」

 なるほど、とうなずきながらも、全肯定してやれないもどかしさがあった。

 真の言う通り、すでに成人している息子に対して、親がどこまで口出ししていいのか悩ましい。素行の悪いことをしているわけではなさそうだし、なんならバイトと学業の両立は褒めてやりたいほどではある。

 だが――。

 「真は、母さんにこのバイトについて話したのか?」

 「バーのことは言ってないよ。絶対面倒だし。バイトしてるってことだけ」

 「そうか……うーん。そうだなぁ」

 真の生活の実態を知らない郁絵からしてみれば、たしかに不安にはなるだろう。一方で、これほど過干渉の母親がいたらうんざりする気持ちも理解できる。

 ほかならぬ僕も、人のことは言えないのだ。触らぬ神に(たた)りなしというように、郁絵が不機嫌なときは、なるべく近寄りたくないと思ってしまうのだから――。

 「難しいな……。うん、まあ、真の言い分はわかった。真面目に学校も通ってるみたいだし、それだけでも安心したよ。父さんは」

 「いや、それは通うでしょ。学費出してもらってるし。おれ、父さんの子だよ」

 「え?」

 「誰よりも真面目で実直に生きてる父さんを見て育ってんだから、おれが不良になるわけないじゃん。ぐれるとかあり得ないでしょ」

 「そ、れは」

 まさか息子からそんな評価を受けていたとは思わず、僕はぽかんと真を見る。

 真は真でなにを馬鹿なことを、と言わんばかりの視線を返してきた。どうやら真は顔に感情が出やすいタイプらしい。

 そのとき、奥からマスターが顔を出した。両手には、湯気の上るオムライスがたんまりと盛られた白い平皿を持っている。

 それを見た真はすばやく立ち上がって、カウンターの内側へ回りこんだ。

 「ありがと、マスター。水は自分で用意するから大丈夫」

 「ココアはどうしようか。もし飲むなら、用意するよ」

 「えっまじで? やった!」

 いやいや、と腰を上げた僕を、マスターが片手を上げてやんわりと制した。

 恐縮しながらふたたび座った僕の前に、真がオムライスの皿を置く。

 「マスターのオムライス、絶品なんだよ。とにかく卵がふわっふわなんだ。ケチャップライスもしっとり絶妙で、具材もごろごろ入ってんの。なんか、大切な人から受け継いだ特製レシピらしいんだけどさ。まじで美味いから、ほんとに」

 「そ、そうなのか……」

 (まく)し立てるような口調に、郁絵の遺伝子を感じてしまう。仕事以外は口下手な僕に似たらきっとこうはならないな、と思ったら、つい含み笑いが零れた。

 「冷める前に食べなきゃ。いただきます!」

 僕の隣に戻ってさっそく手を合わせた真を横目に、僕もスプーンを手に取った。

 「マスター、今日もめっちゃ美味い!」

 「それはよかった。真くんに合わせて御父上もケチャップは多めにしたよ」

 「うん、大丈夫。父さんも濃いほうが好きだから」

 ――それにしても、本当に美味しそうに食べるものだ。

 思わず真の様子に見入っていたら、ずいぶん昔のことを思い出した。とても天気のいい日に家族でピクニックへ行ったときのことだ。まだ幼かった真は、お弁当のおかずをひとつ口に運ぶたびに幸せそうに顔を輝かせていた。

 成長しても当時を彷彿とさせる表情。懐かしさと寂しさが交錯し、胸に溢れる。

 「変わらないな、真は……」

 「んぁ?」

 「いや、なんでも。いただきます」

 オムライスをスプーンで(すく)って、口に運ぶ。口内に入った途端、ふわっと卵がとろけた。ケチャップライスのほどよい酸味と(うま)みが絡まって鼻腔に広がる。

 具材は鶏肉とたまねぎ、にんじん、そして変わり種のブロッコリーだ。食感が楽しく、()(しゃく)するたびに味わいが変化する。なるほど、これは真が気に入るわけだ。

 「どう? 美味いっしょ?」

 「ああ。とても。感動するね、これは」

 「でしょ! おれが好きだから、父さんも絶対好きだと思ったんだよ」

 今度は大きめにふた口目を運ぼうとしていた手が止まる。

 「おれが好きだから?」

 「ん? うん、だって父さんとおれの好みって似てるじゃん。母さんもよく言ってるよ、好みが一緒ねって。味付けはしっかりめが好きなんだよね」

 「そ、うなのか……? 知らなかった」

 「まあ、母さんしか把握してないかもね。おれが好きなのは大体父さんが好きなものだって、前にうれしそうに言ってたよ。たぶん、味覚が父さん似なんじゃない?」

 ――ああ、本当に知らないことばかりだ。

 真のことも、郁絵のことも、僕なりに大切にして、見守ってきたはずだった。

 家族は僕にとって大事な宝物。どんなときでも、やはりあの家は唯一無二の帰る居場所だった。これから先も、それを変えるつもりはまったくなかった。

 けれど、きっと僕は、少し身を引きすぎていたのだろう。

 受け止めるばかり、見守るばかりで、積極的に家族を知ろうとはしなかった。この疎外感がその代償と言われれば、甘んじて受け入れるしかできない。

 僕はいままで、いったい家族のなにを見てきたのだろう――。

 「……父さんがあまりにも頼りないから、母さんは真を守るのに必死なんだな」

 「え?」

 「母親として自分がしっかりしないとって、そう気を張っているんだろう。ひとえに僕が父親として至らないからいけないんだ。僕が肩の力を抜けるくらい頼れる父親だったら、母さんだってそこまで過敏には――」

 「んや、それはちがうでしょ」

 僕の言葉を遮った真は、何度か咀嚼してからお冷を流しこんだ。

 「母さん、べつに父さんのこと頼りないとか思ってないよ。父さんがちゃんと働いて稼いできてくれること、母さん自慢げだもん」

 「じ、自慢げ?」

 「ツンデレだから父さんにはツンツンしてるけど、母さんって、外だとけっこうデレデレなんだよ。父さんのこと、おれには立派な人だって言ってるし」

 それは、いったいどういうことだ。

 盛大に混乱して言葉を失う。そんな僕を見て、マスターがなぜかくすりと笑った。

 「むしろ知らなかったわけ? 知ってて母さんのあの態度を受け止めてるとばかり思ってたんだけど、おれ」

 「いや、知らないというか、そんな素振りは、少しも……」

 「父さんの前だと素っ気なくなっちゃうんだよ。強がりだから。昔はちがったの?」

 問われて、初めて気づく。いや――思い出した。

 出逢った頃の郁絵が、まさにいまの郁絵のような感じだったと。

 郁絵と僕は、職場結婚だった。僕は新卒入社後三年ですぐに転職をしてしまったから、いまの職場ではなく前の職場での出逢いである。

 交際に発展したきっかけは、僕のひとめ()れだ。ちなみに、郁絵には合計で三回ほど告白しているが、最初の二回は悩む間もなく断られている。

 ひとめ惚れした、と馬鹿正直に告白して、そんな軽い男とは付き合いたくないと速攻で振られた。普通ならそこで脈がないと諦めるかもしれないが、僕は意思のはっきりした郁絵の性格にも惹かれ、ひとめ惚れしたけど真剣に付き合いたい、とめげることなく二度目の告白をした。すると彼女は、『あなたのことをなにも知らないのに付き合えるわけがない』と、すげなくこちらの好意を断ち切った。

 けれど、僕は僕で折れることなく、ならば友達からでいいと粘りに粘った。

 意外にも郁絵は『友だちから』というこちらの希望は受け入れて、その後数回にわたって誘ったデートも了承してくれたのを憶えている。そうして互いを知っていくうちに、やはり僕は付き合うなら郁絵がいいと気持ちが固まっていった。

 三回目の告白をしたのは、初めて僕の家に郁絵が遊びにきたときだった。

 また理由をつけて断られるかもしれないと覚悟していた僕は、『結婚を前提にした付き合いなら』と条件を提示された瞬間、ぽかんとしてしまった記憶がある。

 むしろ僕と結婚を、共に歩んでいく未来を考えてくれるのかと驚く一方で、徐々にうれしさが勝り、その場で『いますぐ結婚してもいい』と郁絵を抱き締めた。

 ――振り返ってみても、あれほどなにかを諦めきれなかったことはない。

 当然、僕は郁絵を離すつもりはなかった。

 いつかは専業主婦になりたいと望んでいた郁絵の希望を聞いて、より高い給料をのぞめる職場へ転職した。迷いはいっさいなく、我ながら行動も早かった。

 そうして一年付き合って、結婚した。

 さすがに結婚後数年は金銭的に余裕がなく共働きで過ごしたが、真の妊娠をきっかけに郁絵は専業主婦となったわけだ。

 「そう、だな。忘れていたよ。郁絵は強がりというか、根っこの部分が素直すぎるんだ。意志が強くて……。わかりにくいが、とても深いところまで考えていたり」

 まあ、たしかに、僕のような平々凡々な男が付き合ってほしいとせがむには、はなから(たか)()の花ではあったのだろう。郁絵は誰から見ても、美人だから。

 けれども、不思議なことに、たやすく想像できてしまったのだ。

 郁絵と結婚して、生涯を共に過ごしていく未来を。

 そしていまも、僕のなかでその感覚は変わらない。愛想を尽かされそうになってもなお、僕は郁絵を唯一無二だと思っている。僕の妻は郁絵しかいないと、郁絵しかあり得ないと、なにがあっても揺るがない気持ちが胸にある。

 「はあ……、もうだめだな。父さんは母さんのことが大事だから、どうしても母さんの意思を尊重したくなってしまう。悪いように考えられない」

 「でも、そんな父さんだから、あの母さんを受け止められるんでしょ。むしろ父さん以外、母さんを受け止められる男なんていないよ」

 しばしの間を挟んで、僕はゆっくりと首を横に振る。

 「いや……。そんなに立派なものじゃないんだよ、父さんは」

 結局のところ、僕は郁絵に〝母親〟という役割を押し付けて逃げていたのだ。

 最近はとくに郁絵の機嫌をうかがうばかりで、とにかく彼女の感情を逆なでしないよう、火種を作らぬように意識を向けていた。

 向かっ腹を立てる原因を、彼女が不安定になっている要因を知ろうともせずに。

 郁絵と真――母親と息子。父親には踏みこめない関係値があるのはわかっているが、それを言い訳に〝家族〟の現状からも目を逸らしていたのはよくなかった。

 僕がもう少し早く真の状態に気づいて、今日のように行動していれば――。

 家族のことをそれぞれ気に掛けて、一家の大黒柱らしい頼りがいのある父親だったなら、郁絵も真も、ここまで(こじ)れることはなかったのではないかと思ってしまう。

 「……家族というのは、確固たる繋がりがあるようで、本当は(もろ)く崩れやすいものなのかもしれませんね」

 ふと、店内に流れるゆったりとしたBGMに紛れて、マスターが口を開いた。

 顔を上げる。彼はグラスを拭きながら、どこか遠い彼方を見る目をしていた。

 「親と子は血の繋がりがありますから、縁も強いでしょうが……。夫婦は元々他人ゆえ、やはりなにかすれちがいが起これば、心の天秤は傾きます。離婚という選択肢がありますからね。たとえ家族でも、つねに上手くいくとは限りません」

 「……マスター、独身じゃなかった?」

 「現在は独りですが、結婚はしていたんですよ。妻には先立たれまして」

 「ええっ。なにそれ、初めて聞いたんだけど」

 マスターは微笑を絶やさないまま、カウンター下の引き出しを開けた。おもむろに取りだしたのは、シルバーネックレスだった。そこには指輪が通されており、マスターは愛おしげに目を細めると、瞳の奥に(うれ)いを浮かべる。

 「妻はもう二十年以上前に病気で他界したんです。結婚してから五年ほどしか共に過ごせませんでした。それでも、私にとっては人生の宝のような時間でしたが」

 「っ……それは、なんと……。お悔やみ申し上げます」

 なんと返答したらいいのかわからず、気の利いた言葉もでてこない。僕と真が言葉を失っていると、マスターは微笑みながらネックレスを引き出しにしまった。

 「なにも遅いことなどないと思います。そういうすれちがいや衝突すらできなくなってしまった私とはちがい、いまも相手がいるのですから」

 「……っ」

 「お節介をすみません。でも、生きていれば、生きてさえいれば伝えられることもあるでしょう。ただひとこと日頃のお礼を伝えるだけでも、心は動くものですよ」

 そう言いながら、マスターは湯気が上るカップをそっと真の前に置いた。

 「じつはね、真くんが好きなこのココアも、妻がお気に入りだったものなんだ。甘いココアに焦がしナッツをまぶすのが好きでね」

 「……もしかして、オムライスも? 大切な人から受け継いだレシピって……」

 「ああ。三回目の結婚記念日に教えてもらったんだ。ふたりでキッチンに並んで、工程からひとつひとつ丁寧に。おかげで料理下手な私が、このオムライスだけは美味しく作れるようになった。いまの私があるのは、すべて妻のおかげなんだよ」

 「っ……そう、なんだ……」

 真は気まずそうに目を伏せながらココアを口にする。一方で僕は、マスターの言葉をゆっくりと噛み締めながら、家を出る前の郁絵を思い浮かべた。

 ――死者に向かって生者がなにを伝えても、返ってくることはない。

 どんなに会いたくても会えない。

 もう二度と、会うことは叶わない。

 それが〝死〟というものだ。

 けれど、僕はこれから、置いていく側の人間になる。世界は分かたれ、置いていく側もまた、生者に想いを伝えることは不可能となる。

 そうだ。この特別な時間がなかったら、あの過去を変えることはできなかった。

 郁絵とは口を利かないまま、もう二度と会えなくなるはずだった。こうして息子の真と会話をすることも、互いの思いを共有することも、本当はなかったのだ。

 「――……真」

 「ん?」

 「変な話かもしれないが、父さんは今日、なんだかとても安心したんだ」

 (いぶか)しげな眼差しを向けられる。突然どうしたんだとでも言いたげな顔だ。

 真からしてみれば、今日の僕の行動はきっと不可解なものばかりだっただろう。

 だが、真はそんな父親を拒絶することなく、こうして受け入れてくれた。思っていた以上に口は達者だし、少々生意気なところもあるし、郁絵に似てはっきりものを言うけれど、着実に大人への道を歩んでいることがわかった。

 まだ大学生。されど、もう大学生。

 もっと早く、真の成長に気づけていればよかった。もっと早く向き合って、この刹那では語りきれないことを話しておきたかった。昔と変わらない笑顔を、もっともっと脳裏に焼きつけておきたかった。一度ではなく、何度も、何度も。

 けれど、そんな後悔を抱える一方で、胸の奥にはかすかな安堵も生まれている。

 真なら大丈夫だ。この子なら、きっとまちがわずに歩んでいけるだろう。もしかしたらそうあってほしいと自分に言い聞かせている部分もあるのかもしれないが、そう願う気持ちがたしかにこの胸の奥には芽生えていた。

 「父さんは、真が真っ直ぐに育ってくれて、心からうれしいと思うよ」

 「……家に帰らない息子に、よくそんなこと言えるよね」

 「それでも真の様子を見れば、必死に日々を生きていることくらい伝わるさ」

 変えられなかった、とへこんでいる自分が馬鹿みたいに思えてきた。

 まだ僕はここにいて、口を動かせる。腕だってある。抱き締めることもできるだろう。なんと罵倒されようが、そうして言葉を交わし、触れ合えることこそ奇蹟そのものだ。なんでもいい。最期に伝えたいことは結局、ひとつだけなのだから。

 「……父さん?」

 僕は残りのオムライスを丁寧にかき集めて、一気に口のなかに含んだ。むせそうになりながらもお冷で無理やり飲み下し、忙しなく立ち上がる。

 「ばたばたとすみません。あまり時間がないので、今日はこれで失礼します」

 「うそでしょ。そんな急に!?」

 ぎょっとしたように目をむく真に、マスターが時計を見ながら返す。

 「構いませんよ。真くん、君もそろそろ午後の授業の時間じゃないかな」

 「え、うわ! ほんとだ!」

 僕の倍以上の速さでオムライスをかきこむと、真は大きなリュックを背負ってコートを脇に抱えた。隣でコートを腕に通していた僕の手を、ぐいっと引いてくる。

 「じゃ、マスター! 次のバイトで! ごちそうさま!」

 「はいはい。いってらっしゃい」

 「あ、ちょ、お代……!」

 「いつも真くんにはお世話になっていますし、今日のお代はけっこうですよ。その代わり、またいつかいらしてください。よければ今度は奥さまも一緒に」

 穏やかな眼差しで微笑んだマスターに、ちくりと胸が痛む。

 きっとそれはもうできない。僕がこの店に訪れるのは、今日が最初で最後だ。

 けれども、僕は小さくうなずいて返し、深々と頭を下げる。

 「ごちそうさまでした。――どうかこれからも息子をよろしくお願いします」