天国までの記憶列車

 


 真は今日午前から授業があるようで、こられるのは昼頃らしい。

 手持ち無沙汰(ぶさた)になってしまった僕は、少し駅前を見て回ることにした。

 この辺りは学校が集結しており、メディアではよく学生の街と称される地域だ。

 だからだろうか。なんとなく、街全体が若く感じられる。並木道を挟んで立ち並ぶ店も、若年層をターゲットにしているブランド店や、手軽に立ち寄れるジャンクフード店が多かった。人の往来は尽きず、どこも賑やかで活気が溢れる。

 こうなると、どうも自分の存在が浮いているような気がしてしまう。スーツを身に着けたおじさんが朝からハンバーガー屋に居座っていたら、さすがに目立つだろう。

 どこか時間を潰せる場所は――。

 しばらく周辺を彷徨(さまよ)ったあと、一本外れた道の端に、小さな喫茶店を見つけた。

 「バー喫茶、旅のしおり……?」

 古板を加工して作ったような立て板の字を読み上げて、視線を正面へずらす。オープンと書かれた文字看板が、なんとも斜めの状態でぶら下がっていた。

 一本脇道に入っただけなのに、人の行き交いがぱたりと途絶えた路地だ。存在感も薄く、開店している様子もない。こうなるとオープンの字の真偽すら疑わしかった。

 (にび)色のドアノブは丸々とした(ふくろう)の形をしていた。おそるおそる握って回してみると、ギギ、と鈍い木材音が響いて扉が開く。だが、やたらと重い。

 「いらっしゃいませ」

 「うわっ」

 力をこめて押し開けようとした瞬間、内側から扉が大きく引かれた。よろけて扉に顔面からつっこみそうになったが、なんとか直前で踏みとどまる。

 面食らいながら顔を上げると、やけに姿勢のいい年配の男性が立っていた。

 「ああ、すみません。大丈夫ですか」

 「え、えぇ……え?」

 「この扉、見ての通りだいぶ古いんですよ。重たい上に、金具が錆びて、内側からでないとどうにも上手く開かないんです。驚かせて申し訳ない」

 この喫茶のマスターなのだろうか。

 ワックスで綺麗に纏められたグレーヘアに、整えられた短い(あご)(ひげ)。ぴったりとした細身のストライプベスト。小さな黒の(ちょう)ネクタイ。物腰は柔らかいものの、ややハスキーな低めの声と高身長も相まって、つい気圧(けお)されてしまう。

 「珈琲でもいかがでしょう。この時間、お客様はほとんどこないので貸切ですが」

 「あ、や、やってる、んですか」

 「ええ。どうぞ」

 彼は穏やかに微笑みながら、店のなかへ僕を誘導した。

 珈琲の香りが満ちる店内は、なんとも薄暗かった。光源は、小窓からの日差しと吊りランタンの柔らかい光のみ。クラシックなBGMが喫茶店らしい雰囲気を(かも)し出している。一方で今どきあまり見かけない日めくりカレンダーや、ずいぶん年季の入った振り子時計が壁にかけられていたり、ドアノブの梟に似た不思議な彫刻が置かれていたりと、ところどころ昭和感が漂う。昔ながらの古喫茶といった様だ。

 「よければカウンター席へ。いまメニューをお出しいたしますね」

 促されるままカウンター席へ腰を据えた僕は、対面するマスターの背後に、ワインボトルがずらりと隙間なく並んでいることに気がついた。

 年代物から最近のものまで、喫茶店とは思えないほど豊富な品揃えである。

 「……すごい数のワインですね。バー、ですか?」

 「昼は喫茶店ですが、夜はバーになります。とはいえ、昼でもご希望があればワインの提供もしているので、建前的なものですが」

 「なるほど。となると、やはり夜のほうが客入りはいいですか」

 「そこそこといったところです。なんといっても学生街ですから、日中はこの通り()(らん)(どう)でして。とりわけこの時間は、いつも(かん)()(どり)が鳴いていますよ」

 差し出された手書きのメニューに目を落として、無理もないかと納得する。

 オリジナルブレンド珈琲、焦がしナッツのココア、特製オムライス。

 メニューはシンプルにその三点だけだった。欄外に酒類の提供も可、と小さく書き添えてあるだけで、喫茶店らしい甘味すら見当たらない。

 値段も喫茶店の軽食価格としては安価なほうだが、ジャンクフード店やファミレスに比べればどうしても割高になる。メニュー数、価格、入りやすさ、どれをとっても学生には敷居が高いのだろう。

 「それでも、たまにもの好きな学生が食べにくることもあるので開けているんです。お客さんみたいにふらっと立ち寄ってくださる方も(まれ)にいらっしゃいますしね」

 「……はあ。失礼ですが、赤字にはならないんですか?」

 「はは、そりゃあ赤字に決まってますよ。まあ、この喫茶は老後の趣味のようなものなので売上は気にしていないんです」

 渋い外見に対して、ずいぶんと気さくな口調で話すひとだ。

 いつの間にか緊張がほぐれていることに気づき、内心感服する。さすがバー喫茶のマスターというべきか、客とのコミュニケーション力には()けているらしい。

 「……そう言い切れるところが、すごいと思います」

 「なに、強がりですよ、強がり」

 「それでもです。……あ、注文は、このオリジナルブレンド珈琲、を」

 「かしこまりました。珈琲ですね。ワインはいかがです?」

 「いや、さすがに昼からはやめておきます。気になる(めい)(がら)はありますが」

 「承知しました。では、またの機会に」

 マスターはうなずき、拭いていたグラスを置いて珈琲豆を調合しはじめる。

 その様子をぼうっと観察していると、マスターはミルに視線を落としたまま「気になりますか」と訊ねてきた。しまった。さすがに見すぎたか。

 「すみません。見慣れないもので、つい」

 「珈琲は普段あまり? ワインのほうが(たしな)まれますか」

 「いや、珈琲は毎朝飲みますが、もっぱらインスタントで……。ワインは妻のほうが好きなんです。とくに赤ワインには目がなくて」

 「ほう、奥様が」

 「ええ。(じょう)()でいくら飲んでも酔わないんですよ。昔はよくふたりでバー巡りをしていました。お恥ずかしながら、僕は二杯が限界なんですけどね」

 「素敵なお話ではないですか。では今度、夜のバーの時間帯にでも一緒にいらしてください。特別価格でご提供いたしますから」

 今度。その言葉に、動きが止まる。

 ――ああ、そうだ。僕にはもう二度と〝今度〟は訪れないのだ。

 頭では理解していた。自分に起きた事実を……〝死〟を。

 しかしそれが、本質的にどういうものなのかはわかっていなかった。

 いまこうして己のからだを動かせているからこそ、実感には遠かった。どうしても心のどこかには期待があったのだ。やはりすべて夢なのではないか、と。

 事故に遭ったことも、死んでしまったことも、あの列車での出来事も、オッドアイの喋る猫又も、不思議な車掌も、なにもかも僕の妄想なのではないか、と。

 「……お客さん? 大丈夫ですか?」

 「あぁ……ええ、大丈夫です。ただ少し現実が見えた、といいますか」

 「と、いいますと?」

 「最近、やっと気づいたんです。わかっているふりをして、ずっと逃避していたんだなと。いや、昔から僕は、どうも都合の悪いことを見て見ぬふりをしてしまう癖があるようで……。あまり気づきたくなかったことではありますが」

 いまからなにかを劇的に変えることなどできないと知った。僕がこれまで積み上げてきたものは、こんな短時間の足掻(あが)きで覆せるものではないと悟った。

 ――なぜなのだろう。

 この世に生まれて五十数年。それだけの年月気づけなかったことに、なぜこのタイミングで気づいてしまったのだろう。

 「……いまさら遅いっていうのにね。本当に嫌になりますよ」

 募るばかりの後悔に、目許を片手で覆って深く息を吐く。

 そんな僕の前に、ことんと小ぶりな白い珈琲カップが置かれた。

 湯気が眼鏡(めがね)を掠めて、わずかに曇る。インスタントでは到底味わえない、本格的に豆を挽いた珈琲特有の濃い香りだ。

 顔を上げると、マスターはふたたびグラスを磨きながら微笑んでいた。

 「今日のオリジナルブレンドは、ちょうどお客さん向きの味わいかもしれません」

 「え?」

 「苦味の強いキリマンジャロとマイルドなブラジル豆をメインに、酸味が特有のグアテマラ、旨味と甘味を引き出すニカラグアを少しずつブレンドしているんです。少々複雑な味わいにはなりますが、深煎()り特有の苦みは生かしつつ、折り重なった風味があとを引くブレンドなんですよ。人生ブレンド、と個人的には呼んでいます」

 「人生ブレンド」

 視線で促され、僕はカップを手に取った。

 鼻を近づけ深く香りを吸いこんでから、口に含んでみる。

 「ああ……これはすごい」

 思わず感嘆の声が零れる。鼻から抜ける香りは酸味が強い。脳天を貫くような強い珈琲の香りが思考を麻痺(まひ)させ、(うっ)(くつ)していた気持ちが解けていくのがわかった。

 「マスター独自のブレンドですか?」

 「ええ。毎日異なるブレンドを用意しているんですよ。お客さんによって、少しずつ配合をいじることはありますが」

 カップを棚に戻したマスターは、珈琲豆の入った(びん)を手に取った。

 「珈琲しかり、ワインしかり、学べば学ぶほど奥深いものが好きでして。まあ、定年後にはじめたものですが。お客さん、ご趣味は?」

 「ふふ、僕にはそんなのないですよ。本当に、つまらない人間なんです。仕事ばかりしてきて、それ以外のことはなにもしてこなかった。そのせいで……――」

 そのとき、ふいにスマホが震えた。仕事の連絡かと思ったが、仕事用の携帯は(かばん)の奥底に仕舞ったままだと気がつく。

 着信を知らせていたのは、自分のスマホだった。普段あまり見ることのない息子からの着信画面に一瞬狼狽えながら、ちらりとマスターを見やる。

 「すみません、ちょっと」

 「いえ、お気になさらず」

 もう一度「すみません」と謝りながら、着信応答ボタンを押す。

 「もしもし」

 「あー、父さん? おれだけど」

 オレオレ詐欺の定型文ようなセリフだ。つい肩の力が抜けてしまう。

 「いまどこいんの? 授業早めに終わったから、そっち行くよ」

 「え、いや、いまは真の大学近くの喫茶店だが……。どこか指定してくれれば、父さんがその店に行くよ。どこか好きな焼肉店は――」

 「ちょ、ストップストップ。いま、学校近くの喫茶店って言った? もしかして〝旅のしおり〟? いや、この辺りの喫茶店なんてそこしかないけど」

 「あぁ……たぶん」

 すぐにピンとはこなかったが、たしかそんな名前だった気がする。

 「よりによってそこにいんのかよ……。あー、じゃあいいや。昼の焼肉はなしで」

 「え」

 「ドタキャンじゃなくて焼肉はやめるってことね。待ってて。すぐ行くから」

 真は早口で言い立てると電話を切った。

 一方的すぎる会話になかば唖然としながら、スマホをカウンターに置く。

 「大丈夫ですか?」

 「あ、はい。すみません。あの、いまからここへ息子がくるそうで……」

 「ほう、息子さんが」

 「やっぱりここらの学生は、みんな知ってるんですね。喫茶店と言っただけなのに、すぐに〝旅のしおり〟かって聞いてきましたよ」

 しかし、なんだか久しぶりに息子の声を聞いたような気がした。

 ときおり家で顔を合わせても、とくに会話をすることがないからだろうか。

 なにも話したくないわけではないのだ。ただ、父親と息子の最適な距離感がわからない以上、必要最低限の会話しかできない。

 ――なんて、それすらも言い訳だと郁絵には言われてしまいそうだけれど。

 「息子さんはもしかして、この近くの大学の生徒さんですか?」

 「ええ、はい。実は。お恥ずかしながら、今日は息子に会いにきたんです。約束の昼まで時間があったもので、ついふらりと……」

 「なるほど、そういうことでしたか」

 マスターは少し黙りこむと、しばし手を止めて僕の顔をじっと見た。

 突然どうしたのだろう。変に緊張が走り、何度も目を(またた)かせてしまう。

 「失礼ですが、もしかして息子さんの名前は〝真〟くんではありませんか?」

 「えっ? どうしてそれを」

 泡を食って聞き返す。マスターは「ああ、やっぱり」と小さく吹き出した。

 「似ているなとは思っていたんです。なるほど、そうですか。真くんの……」

 「む、息子を知っているんですか」

 「ええ。知っている、と言いますか。彼は――」

 そのとき、カランカランと来店を報せる鈴の音が鳴った。

 「ほんとにいるし」

 はっと振り返ると、息を切らした真が扉の隙間から顔を出していた。

 こちらの姿を確認すると、勢いよく扉を押し開けて店内へ入ってくる。いかにも不満そうな表情が、ほんの少し機嫌の悪い郁絵に似ていて思わずどきりとした。

 「大通りにたくさん店あるのに、なんでピンポイントでここにくるかなぁ。マスターもいつになく楽しそうな顔しちゃってさ。やめてよ、そーいうの」

 「は?」

 「いやね。彼は――真くんは、うちの唯一のバイトさんなんですよ」

 マスターの衝撃的な発言と共に、振り子時計からカッコウが飛び出してくる。正午を(しら)せる鳥の声が、一気に賑やかになった店内に響いた。