天国までの記憶列車

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 勤務先へ(きゅう)(きょ)欠勤の連絡をしたあと、僕は電車に乗って最寄りから四十五分ほどの駅へ向かった。乗り換え案内アプリの指示に従い、今度は地下鉄に乗りこむ。

 田舎ではないとはいえ、さすがに朝の時間帯は座席が混み合っていた。

 二箇所ほど座れそうなところはあったが、両側が女性だった。横目で見るだけに留めて扉近くに立つ。左手は吊革、右手にはスマートフォンだ。この状態なら両手が塞がっているため、万が一にも痴漢扱いされる可能性は低くなる。

 三つ年下の部署の後輩から、電車で痴漢の(えん)(ざい)をかけられたことがあると聞いて以降、僕は電車に乗るときはこうして防止策を怠らないようにしていた。

 「……次、は――」

 地下鉄特有の閉塞的な雰囲気に若干の乗り物酔いを感じながら、僕はスマホの画面へ目を落とす。

 どうにも最近は老眼気味で、近いものが見えにくくなってきた。いちいち眼鏡を外さないと、霞んでまともに見えやしない。

 歳を取るとはけったいなことだな、と思う。

 できないことが少しずつ、しかし確実に増えていく日々。老いを感じて、もう若くないのだなと実感し、時が流れる速さに(きも)を冷やす。

 けれども、心は存外、老いに追いついていないのだ。精神も同等に老いてくれればいいのに、肝心の核の部分は若い頃からなにも変わっていないような気がする。

 いつまでも変わらず若いような気分でいるのに、それでもふとしたときに感じる老化に打ちのめされる。歳を取るとは、それの繰り返しだ。

 「ねえ、今日午後休でしょ? 遊ぼうよ。新作のフラペ飲みたい」

 「夕方からバイトだから遊びはパスで。今月、めっちゃ金欠なんだよね」

 「あー、金欠なのはわかる。欲しいもの尽きないし」

 ふと、近くに座っていた女子大生たちの会話が耳に飛びこんできた。

 視線は向けないようにしながら、なんとなく会話に耳を傾ける。

 「大学生だしねえ。人生の夏休み、満喫したいよねえ」

 「自由がきくのもいまのうちだからね。就活はじまったら遊ぶ暇もないよ、きっと」

 令和になり、数年。感染症の影響も薄れてきて、最近では不要不急の外出を(とが)める声もほぼ聞かなくなった。急速的なオンライン事業の発達の(かたわ)ら、世間はパンデミック以前の在り方を取り戻しつつある。

 ──そういえば、真はどんな大学生活を送っているのだろうか。改めて考えてみれば、僕はいまの真についてなにも知らないような気がする……。

 「でもさぁ、子どもの頃は早く大人になりたかったんだけど。なんて言うの? いざもう大人でしょとか言われると、ちょっとイラッとしない?」

 「ああ、わかるわかる。都合よく大人扱いされるのはね」

 電車内で周囲の迷惑にならないようにするためか、ふたりとも小声だ。

 だが、自分以外にも彼女たちの会話に聞き耳を立てている者は多いように感じる。

 大学生の心情など、めったに聞く機会はない。彼女たちのいう〝大人〟の立場からしてみれば興味をそそられる話で、同時にわずかな恐怖心を抱く話でもある。とりわけ子どもがいる親にとっては、他人事ではないだろう。

 なにせ、自分もまた、かつてそう思っていた時期があったはずなのだ。

 大人と子どもの境目の時期、周囲からの扱いが変化していくにつれて、なぜかどうしようもないやるせなさを覚える。

 大人になりたい、子どものままでいたい、その両方の思いが交錯する。

 だが、それに気づいたのは社会に出て〝大人〟になったあとだった。少なくとも自分は、当事者だった頃、こんなふうに達観して自分を捉えられていなかったはずだ。

 そして、よくも悪くも、もう少し真面目だった気がする。大学生とはいえ、成人を迎えてしまえば大人も同然。将来を考えたら羽目を外すこともできなかった。

 時代の変化か。あるいは、古臭い僕の認識が問題なのか。

 いまの子にはついていけないな、なんて、そんなことをしみじみと思う時点で、やはり僕も相応に歳を取ったということだろう。

 『次は――駅、――駅……』

 アナウンスにはっとする。気づけば目的の駅に近づいていた。

 話していた女子大生たちも、いそいそと荷物をまとめはじめる。もしかしたら、とは思っていたが、やはり同じ駅で降りるようだ。

 ――そもそも真は、大学にちゃんと通っているのだろうか。

 ここまできておきながら、ふと、頭に不安がよぎる。

 普段、特別な用事がない限りは、僕から息子に連絡することはない。

 放任主義というわけではないのだ。ただ、どちらかといえば過干渉な母親がいるため、僕はあまり教育方針に口を出さないようにしていた。

 大学生になってからは、ほんの数回しかやり取りのないチャット画面を開く。

 数秒ほど画面を見つめて迷いつつ、僕は画面をタップした。

 『今日、真の大学の近くに行くんだ。よかったら昼ご飯でも一緒にどうだ』

 ぴこん、とチャットが送信される。

 続けて、真の好きなものを(おご)るから、と打っている途中で既読がついた。まさかこんなに早く反応があるとは思わなかった。驚いて指の動きが止まる。

 駅に着き、電車の扉が開いた。同時にぴこん、とチャット画面が更新される。

 『いいよ。焼肉なら』

 端的な食いつきに、思わずふっと笑みが零れた。