◇
リビングに繋がる扉を開くと、深みのある味噌汁の香りが鼻腔をくすぐった。
キッチンに立っていた郁絵がこちらをちらりと振り返る。
「……おはよ。今日、朝ご飯は?」
不機嫌さがむんむんと全身から放たれていた。あからさまにぶっきらぼうな口調からも苛立ちが感じ取れる。僕の知る三日前と同じ剣呑な雰囲気だ。
あの日はこの時点で嫌な予感を覚え、早々に逃げようとしたところで捕まった。
今日はもう繰り返さない。
「ええと、郁絵」
「なに?」
郁絵は怪訝な目を向けてくる。まずい、さっそく失敗した。どうにか挽回したいところだが、そもそもはじまりの時点で状況が最悪だったことにいまさら気づく。
「あ、いや……なんでもない。おはよう。あ、朝は食べていくよ」
「いつもより遅いけど、食べてる時間はあるの? お味噌汁は?」
「時間は……、うん、大丈夫。今日はいいんだ。いつもよりゆっくり出勤しようと思っているから。味噌汁は、僕のぶんが余っているならもらおうかな」
「……ふぅん。そう」
郁絵には、毎朝必ず味噌汁を作る習慣があった。
朝早く起きて、削った鰹節で出汁を取り、前夜から仕こんでおいた昆布出汁と混ぜ合わせる。具材は日によって異なるが、使う味噌は絶対に赤味噌専門の味噌蔵から取り寄せた無添加の赤味噌だ。調味味噌ではない、純粋な赤味噌がこだわりだった。
手間も時間もかかるぶん、味は料亭の本格味噌汁に勝るとも劣らない。
スーパーでいちばん安く売っている出汁入り味噌で作る味噌汁で育った僕は、結婚当初、どこか焦がし醤油を思わせる芳ばしい赤味噌の香りが少し苦手だった。
しかし、いつからだろう。
赤味噌以外の味噌汁を飲むと、なぜかもの足りなく感じるようになってしまった。
深みのある香りとコク。輪郭の柔らかな塩気と、郁絵こだわりの出汁の組み合わせが生み出す奥深さ。じんわりとからだの奥深くまで染み渡っていく余韻――。
いまはもう、郁絵の作る味噌汁が舌の基準になっている。けれども、それほど手間のかかるものを毎朝欠かさず作る郁絵を気遣って、以前伝えたことがあった。
『僕は朝食にこだわりがあるわけじゃないし、毎朝作らなくても大丈夫だよ』
すると、郁絵は心底呆れたような顔をして、こう答えた。
『あなたはいらなくても私は毎朝お味噌汁を飲みたいし、真にも飲ませたいから作ってるのよ。どうして自分中心だと思うの?』
郁絵は昔から気が強いところがある。そのうえ口も達者ときた。喧嘩になりたくなければ、こちらはつねに穏やかな心持ちで対応する必要がある。
言い合いや論争に発展したところで、僕は決して郁絵には勝てない。そもそも郁絵と争いたくないから、そうならないよう言動には気をつけていた。
「じゃあ、ちょっと待って。糠漬けも切るから。私も一緒に食べていいのよね?」
「そんなこと、わざわざ聞くまでも……」
ない、と口にしようとして思いとどまる。
最後に郁絵と向かい合って朝食を共にしたのは、いつだっただろうか──。
「いや……うん。もちろん。嫌じゃなければ」
あえて訊ねてくるのにも、おそらく理由があるのだろう。
実のところ、忙しない朝は食事を摂らずに家を出ることも多かった。仮に食べる時間があったとしても、味噌汁は飲まないことがほとんど。茶碗によそった白飯に市販の佃煮をのせたものをかきこみ、味噌汁を温めながら背を向ける郁絵に「ごちそうさま」とひとことだけ口にして、すぐに出発してしまっていた。
毎日、毎日、その繰り返し。
郁絵の苛立ちから目を逸らし、逃げようと急いていた部分もあるだろう。だが、自分の行動を振り返ってみると、郁絵の反応も当然だったのかもしれない。
どんなに不機嫌でも、郁絵は必ず朝食の有無を聞いてくれていた。味噌汁もだ。
――あなたのために作ってるわけじゃない。
郁絵はたしかに、そう言っていたのに。
「珈琲は?」
「あ、いや、大丈夫」
「へえ、珍しい。じゃあ緑茶でいいわね」
珈琲はどんなに忙しい朝でも必ず飲んでいた。豆を挽いている時間はないのでスティックタイプのインスタント珈琲だが、飲まないという選択はなかった。
しかし、せっかくの味噌汁に珈琲の香りは、やはり邪魔になる。
――たったそれだけの理由で断っただけなのに、ひどく痛感してしまった。
これまでの自分がどれだけ、郁絵の気遣いを無碍にしてきたのかを。
手際よく朝食を用意してくれる郁絵を見ながら、僕は茫然としてしまう。
そこでふと、テーブルに並べられたランチョンマットの数に、ふと息子のぶんが見当たらないことに気がついた。
「あれ、真はまだ起きていないのか……」
「真なら、そもそも昨日は帰ってきてないわよ。大学が忙しいとかバイトだからとか言い訳して、最近は週二回帰ってくればいいほうなんだから」
「っ……」
「知らなかったでしょうけどね、あなたは」
ちくりと棘のある言い方をされ、僕は身を硬くする。
なにも、まったく知らなかったわけではない。
大学生になって以降、息子の外泊が多くなったことは把握していた。まさかそこまでの頻度だなんて思いもしていなかったが。
「ほら、つっ立ってないで座って。せっかく温めたお味噌汁が冷めちゃう」
「あ、ああ……ごめん」
ぶっきらぼうに促されるまま、僕はダイニングテーブルのいつもの席におずおずと腰を据えた。ランチョンマットの上に用意された朝食を見て、無意識に喉が鳴る。
つんと脳天を刺激する赤味噌の香り。数年前から仕こむようになった野菜の糠漬けと、田舎の親戚が送ってくれる白米。昨晩の残り物の肉じゃが。
いつもと変わらぬ平日の朝のはずなのに、なんて贅沢な和御膳だろう。
「……ありがとう。いただきます」
「いただきます」
郁絵の顔に笑顔はない。相変わらず不機嫌そうだ。ときおりテーブルに置いたスマートフォンを確認しては、すぐに気落ちしたように食事を続ける。
互いに若かった頃は、こうして食事を共にするのが当たり前だった。いつからこれほど距離が離れてしまったのだろう。そんなことすら、すぐには思い出せない。
黙々と食事を口に運ぶ郁絵を前に、僕は平静を装いながら必死に思考を巡らせた。
――なにか、話題を。
そう思っても、頭に浮かぶのは、先ほど知った息子のことばかりだ。
だが、さすがにこの状況で話を切り出すのはまずいとわかる。
まったく触れないのも父親としてどうかと思うものの、下手に口を出せば郁絵の気を悪くさせるだけだろう。真のことには、とりわけ過敏なのだ。
結局まごついたまま、味噌汁をすする。
――美味しい。久しぶりの郁絵の味噌汁は、以前と変わらず、文句の言いようがなかった。あとを引く芳醇な香りと出汁の深み。具材は僕の好きな豆腐とわかめ。
からだのすみずみまで染みる温かさに気が抜けて、声にならない息が喉をすべる。
「新しい靴」
ふいに、郁絵が口を開いた。
「っ……ごほっ」
危うく味噌汁を吹き出すところだった。
どうにか堪えて飲み下し、顔を上げる。郁絵は汚いと言わんばかりのしかめっ面でこちらを見ながらも、食卓ティッシュを一枚抜き取って渡してくれた。
「新しい靴、買ったでしょ。玄関にあったやつ」
「あ、あぁ……うん」
「この前も買ってなかった? もうだめになったの?」
――ああ。あの日もたしかに、この台詞だった。
思いがけない気づきと息子の問題で、つい念頭から外れていたが、僕はこの過去を変えにきたのだ。自分のやらかしを帳消しにするために戻ってきた。
ここに至るまでの過去は、すでに本来のものとは変わっている。それでもなお、この流れになった。やはり変わらない部分は変わらないということなのか。
郁絵の指摘する新しい靴とは、つい先週購入した革靴のことだ。
いつも購入するブランドで、セール品として売られていたものだった。
たしかに、前回の購入時からそう期間は空いていない。いま仕事で使っているビジネスシューズも、多少の傷みはあれどまだ使える状態だ。新しいものを購入するには早い、という指摘はもっともだろう。
だが、そんなことは百も承知だった。自分が使っているものだし、現在どんな状態であるかくらいわかっている。買い替えるには幾らか早い。
今回の買い物は、完全に自分の物欲によるものだ。新調する必要もないタイミングでストックを購入するのは贅沢だと自分でも思う。きっと、買う余裕もないくらい金欠だったら、セールをしていても見送っていただろう。
その負い目があったからこそ、なおのこと指摘されるのが嫌だった。
嫌味を言われる覚悟はしていたのに、あの日に限って僕は――。
『いいわね、あなたは。気になったものはなんでも買えて』
『…………』
『真になにかあったときのことを考えたら、とてもじゃないけど、私は高い買い物なんてできないもの。貯金だって簡単には崩せないわ』
我が家の家計管理は、専業主婦である妻に任せていた。
月の給料は、お小遣い分を除いて、すべて郁絵に託している。
僕は仕事人間だが、決して高給取りではない。平均年収より少しだけ多く稼いでいる程度だ。食費や生活費、息子の学費。かかる費用はすべて僕の給料で賄われているわけだから、贅沢ができるほど余裕があるわけではないのが現状だった。
そんな背景もあって、郁絵にはボーナスなどで余裕がでたときだけ貯金に回せばいいと、通帳を預けた結婚当初から伝えていた。もし個人的になにか買いたいものがあったら、その貯金を使って購入して構わない、とも。
信じて管理を任せるぶん、それは僕なりの譲歩でもあった。
だが郁絵は、かたくなに貯金から引き出すことはなかった。
根っからの堅実家なのか、高価な買い物をするときは必ず事前にこちらへ相談してくるし、そういうときは十中八九、壊れた家電や真から強請られたものだった。郁絵から私的なものを買いたいと言われたことは、記憶上ないにも等しい。
――気づいていた。気づいていたのに、気づかぬふりをしていた。自由にしていいと金を渡している以上、もう自分にできることはないと言い聞かせていた。
そのうえで、心の内ではずっと引っ掛かっていたのだ。
僕の小遣いの範囲内で購入しているものに対して、毎度のように口を挟まれるのは納得いかない。なにも迷惑など掛けていないじゃないか、と。
でも、やはり言えなかった。なにせ、僕が耐えれば喧嘩にはならない。それが平和のための最善策だとわかっていたから、長いこと、じっと堪えていた。
なのに、よりによってあの日はだめだった。後ろめたさも相まっていたのか、心の奥底に抑えこんで隠していた気持ちの栓が、ぽこんと抜けてしまった。
『……僕が稼いだ金だ』
『なに?』
『僕が稼いだ金で、少ない小遣いをやりくりして買ったんだ。それも仕事に使うものだぞ。いったい僕になんの非がある? なにか悪いことがあるのか?』
気づけば息継ぎもせず、捲し立てるように口が動いていた。
『僕がなにかを買うたびにそう嫌味ばかり……! いい加減、うんざりだ!』
基本的に声を荒らげることを嫌う僕が、鶏冠にくることはほぼない。腹に据えかねる状況もめったになく、とりわけ郁絵に対して怒鳴ったのは初めてだった。
さすがに虚をつかれたのだろう。郁絵は目を丸くし、信じられないような表情を浮かべて固まっていた。そこにはわずかな恐怖が浮かんでおり、我に返った僕はすぐに謝ったが、もうなにもかも手遅れだった。
郁絵はそれ以降、まったく口をきいてくれなくなってしまった。僕もまた郁絵にどう接したらいいのかわからないまま、一日、二日と無情に時が過ぎていった。
そうして三日目、僕は思いがけず事故に遭った。
たしかに死はいつ訪れるかわからないとはよく言うが、まさか自分が交通事故で命を落とすなんて考えたこともなかった。
混乱はあった。当然だ。だが、自分の死を知らされ、ほんの一瞬だけこれで息苦しさから解放されると感じてしまったのも否定はできない。
だからこそ、終灯列車で過去に戻れると告げられた時、真っ先に修正すべきなのはこの状況だと思ったのだ。息苦しさを覚えていたのは僕だけでなく、郁絵も同じだとわかっていたから。そしてきっと、わだかまりを抱えたまま残された側のほうが、長く心の重石を引きずっていくことになるということも察するには容易い。
ゆえに僕は、〝追憶行〟の行き先に迷わなかった。
「……あぁ、僕は馬鹿だな」
「え? なに?」
思わず小さく零れた脈略のない言葉に、郁絵が怪訝な眼差しを向けてくる。
「いや……」
夫婦円満、家庭良好とは言えないかもしれない。それでも、でき得る限り家族の僕に対する最後の印象を修正しておきたかった。
喧嘩別れほど後味の悪いものはない。両親がそんな状態だったことを知った真にも悪影響が出るだろう。せめてこの過去さえ変われば、なんて安易に考えた。
「少し目を向ければ、わかることなのにな。逃避して、正当化して、向き合おうとしなかった。そりゃあ郁絵にも嫌われるはずだよ」
「嫌われ……? 急になんの話?」
これ以上は答えられず、黙って首を横に振る。僕は味噌汁をまたひと口すすった。
家庭の味というものがあるなら、きっとうちはこの味噌汁だな、と思う。
きっと歳を取ればとるほど恋しくなる、お袋の味噌汁。真が味を継いでいくかはわからないが、きっと郁絵はそうなってほしいから欠かさず作っていたのだろう。
「いまさら……本当にいまさらだが、郁絵の味噌汁は世界一美味いな」
「っ……だから、急になんなの? 熱でもある?」
「いや、改めてそう思っただけだよ」
珍しく狼狽えた様子を見せる郁絵に小さく笑って、僕は椀を静かに置いた。
「――あの靴は、セールで半額になってたんだ。好きなブランドのものだから、つい買ってしまってね。いまの靴を履き潰してから大事に使うつもりでいるよ」
そんな日は、もう訪れやしないけれど。
「だから、その、郁絵もたまには自分の好きなものを買っていいんだよ」
どこか呆れ顔で糠漬けを口に運んでいた郁絵の動きが止まる。
「真のことは気になるかもしれないが……。でも、君は堅実家だから、どうにかなるくらいの貯金はしているだろう? 旅行も数年行けていないし」
郁絵は几帳面かつマメな性格で、学費分はきっちりと別口座に分けて貯金し、食費や生活費も細かく管理している。くわえて節約好きで無駄遣いをしない。
そんな妻のおかげで、現時点での貯金額はそれなりだ。郁絵の欲しいものを買うくらいの余裕はあるし、遠慮はしなくていい。そう思っての言葉だった。
なのに、郁絵は予想に反して、ひどくむっとしたような顔をした。
「……好きなものを買えって言われて買えたら、苦労しないわ」
「え」
「洗剤がないとか、キッチンスポンジがないとか、食材を買い足さなきゃとか、主婦として考える〝欲しいもの〟なら、毎日山のように出てくるけどね」
「だけど、それは必要なものだろう? そうじゃなくて、郁絵が欲しいものを……」
「虚しくなるだけよ」
「え……」
「誰かに褒めてもらえるわけでもないし、自分で自分にご褒美なんて買いたいとも思わない。自分への買い物ってね、すごく勇気がいるのよ。少なくとも私はね」
そんなこともわからないのかと言わんばかりに肩を竦めた郁絵は、また黙々と白米を食しはじめた。沈黙が痛いくらいに空間を支配し、冷や汗が背を伝う。
なにか癇に障る発言だったのだろうか。焦るものの、どうやら腹を立てているわけではなさそうだった。これは、どちらかと言えば、拗ねたときの顔だ。
慣れない郁絵の感情を前に、僕もまた続ける言葉の正解を見失ってしまう。
「……すまない」
ぐるぐると渦巻く返答の選択肢は一向に定まらず、食事の終わり際になってようやく僕の口から落ちたのは、結局その謝罪のひとことだけだった。
この〝追憶行〟は、過去を変えるために戻ってきた。最悪な夫にならぬよう、声を荒らげるようなことはもう絶対にしないと心に決めて。
――けれど、ああ、だめだ。さすがの僕でも悟ってしまった。
この限られた時間で、僕の未練や後悔をすべて解決するなんて不可能だと。
向き合えば向き合うほど至らなさが露見して墓穴を掘る。
郁絵の心に触れれば触れるほど、後悔はどんどん降り積もっていく――。



