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ふ、と意識が浮上する。だが、それを自覚した直後、ぐるんと目が回った。足元がぐらつき前のめりに倒れかけた僕は、とっさに背後にあったベッドへ腰を下ろす。
「っと、危ない。……やだなぁ、歳を取るってのは」
ひどい立ち眩み。最近はとくに多くて、こういうことも頻繁にある。
思わずひとりごちながら姿見に目をやった僕は、自分の姿についため息を零した。
――いったいいつから、こんなに老けてしまったのだろう。
営業職である以上、外見の清潔感は売上に直結する。仕事ではどんなに薄い髪でもワックスで固めるし、とりわけ口腔ケアには気を遣っていた。同年代の中年男性と比べても、第一印象を左右する身なりは整えているほうだという自負もある。
オーダースーツ、ネクタイ、ベルト、腕時計、シューズ、バッグ。
それらは外敵から自分を守るため、あるいは立ち向かうための武装だった。
ゆえに必要があれば惜しみなくお金を使った。もちろん、月三万五千円という限られたお小遣いの範囲内の話だ。無駄遣いをしていたという認識はいまもない。
僕にとっては、仕事の意欲に直結する大事な買い物だ。ほかに趣味もないので、地道に貯金した小遣いの使い道は、ほぼ仕事で活用できるものだった。
だがそれを繰り返すうちに、妻からは白い目を向けられるようになった。なにかを新調するたび、ちくり、ちくりと棘のある嫌味を放たれるのだ。
『また同じものにお金を使って』
『なにかもっと、ほかに買うものあるでしょ?』
何度も、何度も、耳にタコができるくらい言われてきた、それらの言葉。
まあたしかに、僕の買い物はどれも気軽に出せる額ではない。家計を管理する妻からしてみれば、無駄遣いをしているように思えるのだろう。
だからといって、下手に言い訳をして空気を悪くさせるのも本意ではないため、なるべく聞き流して穏便にやり過ごしていた。
しかし、これが毎度となれば、いい加減げんなりもしてくる。欲しいものが出てきても、また同じことを言われるのかと思うと購入を躊躇うこともあった。見つからないように購入品を棚の奥に隠していたことも一度や二度の話ではない。
それでも、そんな場面を乗りこえる術は心得ているはずだった。
いつもと変わらぬ朝。目が覚めたときから、なにかしらの嫌味を投げられることは想定していた。それに対する無難な返答も用意していた。
嫌味が連投されるなら、謝りながら受け流すだけ。平和的解決のためには、それが最善だとわかっていた。何度も繰り返してきたことだ。上手くいくはずだった。
なのに、あの日の朝は――〝今朝〟は、シナリオ通りに進まなかった。
「本当に戻ってこられるとはね。さて……頑張らないと」
呟きながら立ち上がり、中途半端な状態だったネクタイを締め直す。深呼吸をして気持ちを落ちつけてから、お気に入りのビジネスバッグを手に持った。
いつもより部屋を出る時間は遅い。それ以外は普段通りの朝だ。
しかし、僕は今日、過去を変えなければならない。
変えるために、未練を消し去るために戻ってきたのだから。



