透明な時間

その場にいた。
それだけは間違いない。

教室の後ろの方で、僕はみんなと同じ方向を向いて立っていた。
誰かが言った言葉に、周りが笑ったから、少し遅れて口角を上げた。
反射みたいなものだったと思う。

空気を壊さないための笑い。
自分が浮かないための笑い。

篠原紬は俯いていた。
机に手を置いたまま、視線だけが落ちている。
誰かがからかうように名前を呼ぶたび、その場の空気が少しだけ軽くなる。

軽くなる、というより、
重いものが紬の方へ集まっていく感じだった。

僕は何も言わなかった。
ただひたすら曖昧に笑うだけだ。
視線が合いそうになると、すぐに逸らした。
「そこにいないふり」をするのが、一番楽だった。

ーやめろよ。
ーそれ、笑うことじゃないだろ。

そんな言葉ばかりが頭に浮かんで、すぐに消えた。
代わりに浮かんだのは、もっと現実的な考えだった。

ここでなにか言ったら、次は自分がどうなるかわからない。
それを怖いと思った時点で、もう選択は終わっていた。

チャイムが鳴る。
先生が入ってくる。
みんなが一斉に席に戻る。

さっきまでのことが、最初っから存在しなかったかのように消えていった。
僕も、何事もなかった顔で席についた。
紬の方を見ないようにしながら。

その日の帰り道、友達と並んで歩きながら笑った。
いつも通りの話をして、いつも通りに別れた。

でも夜になり布団に入ると、昼間に作った笑顔だけが思い出せなかった。
代わりに思い出されるのは、また何も言えなかったことと、それを選んだことの自己嫌悪だった。