蜘蛛網に白羽の矢【木土19時更新】


 奥に向かって下る坂の途中に立ち、絹のような雨を見上げながら、しっとりと湿った服をぱたぱたと叩いていると、後ろから名を呼ばれた。
 振り返ると、すぐ目の前に藁で出来た壁。驚いて身を引いたけれど、なおも押しつけられた。改めて見れば壁でなく、匂いからして藁とも違う。

「何ですか、蜘蛛様、これ」
「昨日話した隠れ蓑だ。着ろ」
「今ですか?」

 蜘蛛様は押し付けるように渡して、さっさと洞窟の奥へ歩いていってしまう。
 一応受け取ったけれど、やはり釈然としなくて、持ちながら首を傾げる。隠れ蓑を着たら、姿が隠れてしまうのでは。
 それが目的だった。

「乾くまで隠せ」

 少し考え、はっと気がついた。あちこちを繕いながらいまだに使っているこの白装束は、薄いせいで、雨で濡れると透けてしまう。
 さすがに断れない。早口でお礼をして、いそいそと蓑を羽織る。
 見たところでは体格に合わない大きさだったが、何故だか重さは感じないし、不便もない。

「これで本当に隠れられているのですか……?」
「見えん。音も少し聞き取りづらくなるようだ」

 そうっと移動して蜘蛛様のそばに立ってみるが、視線は合わない。物音から移動したこと自体は察せられるようで、目を凝らすように周囲を見ている。
 少し戻り、より入り口に近いところにある、膝くらいの高さの岩に腰かけて「石のところにいますね」と声をかけた。
 どことなく落ち着いたように、蜘蛛様もその場に腰を下ろす。
 今は好き放題見ても蜘蛛様には分からないのだとふと気がついて、その姿をじっと見てしまった。見た目よりも中身よ、と屋敷にいた同僚たちが言っていたのを立ち聞きしたことがあるけれど、蜘蛛様の場合はその魂が形を取ったような風貌をしていて、衣織は見た目も中身と同じくらい好きだ。
 今の濡れた姿は気高さよりも孤独が際立って、何だか手を伸ばしたくなる。
 伸ばした後どうするか、考えはないけれど。
 蜘蛛様の奥には、ごちゃりと物が置いてあるのが見える。壺、何かの破片や、机や棚として扱いやすそうな大石、武器。古いものばかりかと思いきや、比較的新しそうな物もある。蜘蛛様が使っているとは考えにくい。山賊なんかが物置やねぐらにしていたことがあるのかも知れない。

「蓑はそのまま持っておけ」

 偶然なのか気配なのか、不意にばちりと目が合って、一瞬冷や汗をかいた。思わず誤魔化しに咳払いをしてから、言われた内容を咀嚼する。
 今日の道行きの、対価としての隠れ蓑。昨日の時点で納得いっていなかった。実際に案内してもらった今日も、わだかまりは残っている。

「やっぱり、甘え過ぎだと……」
「何だ。対価だと言ったろう。まだ拒むか」
「今日見せていただいて改めて、対価なんてもらうべきではないと思いました。どれも、私たち皆が知るべきものです」

 たぶん鬱陶しがられるだろうと、口をついて出そうになった謝罪は飲み込んだ。代わりに、別の部分を突く。

「それに、まだ拒むかって。そんなこと言われたら、対価というのは口実だと捉えますよ。私に優し過ぎではないですか」

 苦笑すると、蜘蛛様の顔には不服そうな色が浮かんだ。顔は見えていないはずなのに、ちょうどの位置をにらまれる。

「優しさだとして何故悪い。甘えも己が許しているのだからいいだろう。何か裏がないかと疑っているとか?」
「え?」
「其方が戻れば一悶着起きるだろうが、昨晩其方も言っていたように、大した規模にはなるまい。策を講じる価値は感じていない。大体、騒ぎを起こさせたいなら、隠れ蓑は向かんしな」
「い、いえ! 裏は全く! 疑っておりません!」

 焦りながら答えを考えようとすると、自分の中に、触るのも嫌になる泥濘(ぬかるみ)のような心があるのに気がついた。
 恐ろしいという言葉は、少し合わない。けれどとても近い。

「そうじゃなくて」

 口に出すのにも躊躇いがあったけれど、焦りと、姿が見られていないという油断と、蜘蛛様のいつもより心もとない姿と、自分でも触れられない位置にある様々な感情が、後押しした。

「私、村に戻ることになった時に失うのなら、その優しさに慣れたくないんです。その優しさを、貴方は、いつまで与えてくれるのでしょうか」

 口にしていくうちに心が痛み始めた。気づいていなかった小さな切り傷に水をかけてしまった時のように。
 蜘蛛様が生活の手助けをしてくれたのは、衣織がこの地で死ぬと邪魔になるから。衣織が村に戻るなら、蜘蛛様には衣織の生活も進退も関係がなくなる。そんな前提が、今の生活の土台にある。
 いくら口実があったって、根っこの部分、この生活の土台の脆さを思えば、その甘い果実をのんびりと頂くという気持ちにはなれない。
 洞窟の外で、風が吹いて、木々から雨粒が一気に薙ぎ払われる音がした。
 視線が背後に向けられる。興味をなくされたように見えて心臓がひりついた。優しさを失うと思うと、もう既に耐えがたい痛みがある。けれど今ならまだ自分を保てると、自分自身に言い聞かせる。

「思えば、其方について聞いたことがなかった」

 すると、ぽつりと、独り言のように。

「衣織。今度は其方が、其方のことを話せ。村での生活、好きな食べ物、何でもいい。話したくないと言うのならそれも良い」

 今までの話に何の関係もない、不意の言いつけ。
 反射的に答えはするけれど、話し始めはまだそんな風に感じて、戸惑っていた。

「話したくないことはありませんが、私のこと、と、言われても……。私はただの下働きです。松前様のお屋敷で、家事をしたり、畑を耕したりするだけの。好きな食べ物は特に思いつきません」
「では聞くが、何故、生贄に選ばれた。其方のような境遇の者は他にもいただろう。なれと言われ断らなかっただけだと、以前言っていたが」
「それは……二親がないから……。それに、直接伝えられたことはありませんが、たぶん、役立たずだから……お屋敷では奥様にも同僚にも怒られてばかりでした。だから、逃げろと言ってくれた同僚もいましたが、私自身仕方がないと思って、諦めてしまいました」

 合間合間に冗談らしく声を高くしてみるけれど、やっぱり自分で自分の欠点を挙げるのは苦しい。まして蜘蛛様を相手に。
 ただ、どんな話し方をしたところで、蜘蛛様の表情は変わらなかった。それに安堵のような心地よさも感じた。

「親はいつ」
「母は私を産んだ時。父は三つの時、病で」
「三つから奉公に出たのか」
「いえ、たぶん、すぐには行かずに……」

 忙しさと悲しみの中で埋もれた記憶だった。掘り返しても、土にまみれたようにほとんど見えない。

「七つかそこらまでは、別の場所にいたような……。七五三のご祈祷をいただいた覚えがあります。それからは松前様のお屋敷で、出来ることをしていました」
「別の場所とやらは避難先にはならんのか」
「もうどこかも忘れてしまいました」
「他に頼れる親類縁者は」
「いないと……。探せば細い糸はあるのかも知れませんが、簡単にたぐれる糸なら、松前様に引き取られることはなかったように思います」
「珍しいな。両親は双方とも他所の者か? 駆け落ちでもしたのか」
「……分かりません」

 奥様や旦那様には怒られてばかりで、両親について聞ける時はなかった。無理やりにでも聞いておけば良かったと思ったこともあったが、あとの祭り。
 そんなことばかりだ。

「他にも、私が生まれるより前に、親と松前様との間で、ごたつきがあったと聞いたことがあります。それも内容までは分かりませんが……」

 一度口を閉じて、改めて蜘蛛様に向き合った。
 蜘蛛様が衣織という人間について尋ねた、その真意は定かではない。けれど、この話をしなければ、自分はずっと蜘蛛様の優しさに怯えるままであることは、今はっきりと分かる。
 それでもまだ心乱れて、口を開くのに躊躇いを感じたけれど、今言わないという選択肢はあり得なかった。

「白羽の矢が立った一番の原因は、私自身のそういう態度の積み重ねだと思います。分からないことばかりです。両親が死んでから充分に時間はあったのに、私は、自分自身にも、身の回りのことにも、何にも興味を持ちませんでした。
 私は、そういう、つまらない人間なんです」

 蜘蛛様は言った。

「そうか」

 許しでも非難でもない、ただの相槌。
 生贄にされるような人間だと烙印を押され、蜘蛛様の優しさを受け取っていい人間だと思えない。そういう感情を、自然に受け止めてくれたことを感じた。

「他に聞きたいことと言えば、人のことがあった。親しい者はなかったのか」

 雨音の優しさが胸に迫った。
 蜘蛛様が神様だったら良かったのに、とは今まで何度も思ってきたことだけれど、今はそれとは異なる心持ちで思う。胸に湧いた感情を、その曖昧な形のままで味わって、それから新たな問いかけに首を傾げた。

「親しい……旦那様と奥様……?」
「その二人は、仮に其方が生贄を辞めたいと言ったとして、味方になり得る者だったのか?」
「私をとらえる場には名主様もいたので、誰であっても味方は難しいかと……。ただ、そういう意味なら、私に逃げろと言ってくれた同僚は、生贄になることを気の毒に思ってくれていたはずです。あと、幼馴染も知っていたら、きっと飛んできたんじゃないかと。私に優しいと言うより、規律に厳しいから、ですが」

 難しいことを考えていそうな顔で、蜘蛛様は少し黙った。
 その間、自ら話したいことがあっただろうかと考える。反省はしているものの、興味のなさは、すぐには変えられそうもない。蜘蛛様に尋ねたいことは、いくらでも出て来るのに。
 蓑を広げて内側に風を送ると、冷たい風が体を撫でた。
 その風が、一つ、思い出させた。

「あの、私からも話をして、よろしいですか」
「うん」

 妙に優しげな返事と共に表情が和らぎ、何となく気恥ずかしさを覚える。そんなに大した話でもないけれど、耳を傾けてくれるのは嬉しい。

「好きな食べ物。村にいた頃のものは思いつきませんが、蜘蛛様に教えてもらったものだと、黄色い木苺が一番好きです。父と母と一緒に、食べたことがある気もして」

 教えてもらったのは最近。空気に夏の風が混じり始めた頃。他の木の実には中々ない甘酸っぱさに、疲れが吹き飛ぶような心地がした。以来、取り尽くさないように気をつけながら大切に摘んでいたのだけど、ある日、胸にぼんやりと光景が思い浮かんだ。(ざる)に入れられた黄色い実の山と、青い空と、二人分の笑い声。
 幻想かも知れない。両親のことは何も覚えていないから、その笑い声が両親のものだという確証はない。けれど、温かな気分になる光景だった。
 話し始めると、他にも話したいことを思いついた。

「あと、好きなことで言うと、蜘蛛様に色々と教えてもらうのは好きです。村にいた時も、怒られるのは嫌でも、仕事自体は嫌いではありませんでした。物覚えは悪いですが、元々、知らないことを知るのが、好きな方なのだと思います。今日も楽しかったです」
「……前から思っていたが、其方は、能力は低くない。そそっかしさは目立つが、じっくりと取り組む時間さえあれば、物覚えはむしろ良い方だろう」

 思わぬ評価に、返事に困る。過分な言葉だという気がしてしまうが、蜘蛛様の評価に異を唱えるのも烏滸がましいだろう。

「ありがたいお言葉です」
「……衣織」

 どきりとしながら、はい、と返事をした。

「死者であっても救いになることがあるのだから、其方が無力であるはずがない。其方の力を奪っていたのは居場所だ」

 続く言葉は、そうだろうか、と不安に思う隙を与えない強さで。

「この地は、其方を歓迎する」

 ああ。と、一つにまとまらない感情が、胸に波紋を広げた。
 生贄にされるような欠点や、優しさを後から取り上げられることへの恐怖を知った上で、手を差し伸べてくれている。振りほどかれることはない。

「蜘蛛様。私――ここを帰る場所にしたいです」
「すればいい。蓑は渡しておく」

 頷く。姿が見えないのだと思い出して、言葉で応えようとするけれど、胸がいっぱいで上手く話せない。

「神に捧ぐ大役たる生贄に、役立たずと呼んできた者を選ぶ矛盾を、選んだ者共は如何に考えているのだろうな」

 独白めいた言葉に確かになぁと内心だけで苦笑しつつ、立ち上がって、蓑を脱いだ。服はまだ少し湿っぽいけれど、透けてはいなさそうだ。
 逸れていた金色の瞳がしっかりとこちらを見る。
 深呼吸して、姿勢を整え。
 深く、礼で返した。
 顔を上げると、少しだけ困っているようにも見える表情があった。

「あ……あの、上手く言葉にならなくて。姿はもう見えているのですよね?」
「見えている。其方の気持ちは伝わった。……眩しかっただけだ」

 振り返ると、洞窟の外は、少し明るくなっていた。

「ほんとだ。晴れそうですね」