本来は単なる事務所である社務所には、神社のような格などまるでない。どころか、長年放置されていたが故の欠陥が、衣織が住み始めてからも直し切れずに残っている。だから蜘蛛様がいると、どうにもその威容が浮いてしまう。
だが、当の本人はまるで気にした様子なく、畳の上に豪快にあぐらをかいて、お膳に置いた肉を一摘み。それなりに大きな塊をぺろりと食べてしまった。
「蜘蛛様は、普段のご飯はどうされているんですか」
「食わん」
不思議には思わなかった。やはり人ではないのだと、納得が深くなる。
ただ、食事や、食事のための準備なく、死者への祈りだけを生きがいとしているのなら、勝手とは分かりつつ衣織は少し寂しく感じてしまう。
「お味はいかがですか」
「美味い。紫蘇がいい」
「良かったぁ。食べてくださってありがとうございます」
一安心して、自分でも食べる。味見はしてあるから、味は知っている。けれど、蜘蛛様に褒められた後に食べると、さらに美味しく感じた。
「食わぬと言うより、この身で食事が出来ることを知らなかった」
思わず食べる手を止めると、にらまれた。ぐるぐると考えながらも仕方なく食べ進める。
「この際、全て話してしまうか」
独り言のような言葉の後、蜘蛛様はすぐに話さずに、あの、どこか違う景色を見ているような目をしていた。全てとはどこまでだろうと、もしかして蜘蛛様についても教えてもらえるのだろうかと、少しだけ期待しながら、開く口を見ていた。
「礼は――つまり、それと同じだ。食べてくれて、という感謝。其方が、己の差し出口を受け入れたことに対して」
「差出口?」
「不必要な知識まで教えたり、肉をやったり」
それらを差し出口とこちらが思ったことは一度もないけれど、と不満に思いながらも、言い返そうとしたら口の前に指を立てられたので、黙って耳を傾けた。
「そもそも、其方に生きる術を教えたのは、其方を生かすことだけが目的ではなかった。
死者は今を生きる者に宿る。食わば血肉となり、語れば記憶となる。大切な者を己が身に生かすため、そして、自身の死後を生きる者をそばで守るため、一人ひとりが、培ってきた知恵を連綿と継承する。
――其方らとは異なる流れの中で、そういう習わしを持った民だったからだ。
母や父、友の命を繋ぐため、彼らの知を知らぬ者に伝えるのは、それが誰であろうと当然のことだった。
その上、かつて、己らは滅ぼされ、知を持つ者も、知を贈る先も失っていた」
脳裏に紡がれかけていた見知らぬ人々の生活が、糸を切るようにぶつりと打ち切られた。つまんでいた肉が、ぽろっと更に落ちる。
「滅ぼされた……? な、何で」
「この地を拓き、土地の人々を服従させ、自身の血筋で支配せんとした者がいた。其方らの祖だ。もはや血を辿ることも出来ない程、遠き日のことだが」
とても聞き流せるような話ではないのに、蜘蛛様は話を先に進めてしまう。
「その後、何の因果か己は黄泉帰ったが、もはや知を贈る先はない。当然だったはずの営みは諦めるしかなく、長い時の果てに忘れさえしていた。
だが、其方に知を与える内に、語ることで同胞がそばに戻ることを思い出した。仇の末流と言えど、己らの知が活かされること自体も、殊の外、快いものだった」
恐ろしげな口元には、懐かしむような微笑みが浮かんでいる。
「故に、感謝しているという訳だ」
血を辿ることも出来ないような昔。それは、どれだけ前のことだろう。この辺りに人が住み始めたのだってきっと遥か前、木々に聞かねば分からぬような年月。
今までにした会話、今の人とは異なる蜘蛛様の風貌、人の寄りつかない神社、山にある小さな祠、墓――そして犠牲。
今までのことが重なっていき、影絵のように、黒々とした像を作る。滅ぼされたと簡単に言うけれど、そこにはきっと血も涙も流れたはずで。どれだけ、悲惨だったか――。
けれど、目の前にある微笑みが、それ以上の想像を打ち消した。
いくら想像を巡らせてみても「滅ぼされた」という言葉は、今の生活から遠過ぎる。そこから、笑うことが出来るようになるまでの時間も、孤独も、理解の外にある。同情も慰めも浅くなってしまう。
けれど蜘蛛様のために「何か」したかった。何をしたらいい。何が出来る。
蜘蛛様と、彼の大切な人たちのことを思い、考え。やっと、遅れながら蜘蛛様が「迷いが深くなる」と言っていた理由に思い至った。衣織が生贄になれば、蜘蛛様がつないだ記憶は、結局途切れてしまう。
そんなこと、あっていいはずがない。
蜘蛛様の心配に反して彼の感謝は、迷いを断ち切る一太刀になった。
「それなら私はこれからも、その方々の命を繋ぐために、生きることにします。生贄にはなりません」
言った途端、ふと喉元に緊張を感じた。さっき爪で突かれた時の小さな痛みがよみがえった。
笑顔は変わらないように見えるのに、目の奥に別の感情を感じる。
「其方の言葉には時に、茨のようだ」
確か、鮮やかな色が目立つけれど棘のある花を、彼はそう呼んでいた。褒められているのか貶されているのか分からない。言葉の意味を聞きたかったけれど、聞き返せない空気があった。少なくとも、喜んでくれている、と無邪気に思うことは出来ない空気だ。ただ、嫌がられているとも言い切れない。それ以上の細かな機微まではまだ推し量ることが出来なくて、胸の辺りが不安定に揺れる。
感謝はあってもそれはそれ、これはこれ。衣織が生きていたら面倒事を引き寄せるのは確実だから、そんな風に思われていても、不思議ではない。
目を落とすと、食べかけの肉が視界に入った。手をつけながら、話を振り返る。考えることの多さに、せっかくの肉の味はあまり分からない。憂鬱が、口をついて出る。
「村……やだなぁ」
戻ったところで、歓迎されるはずがない。衣織自身も戻りたいと思わない。戻った後の見通しだって、立ちようがない。けれど、今後も神社に隠れ住むのは現実的ではない。
どうなるにせよ、隠れずに済むよう、一度は村に戻る必要がある。ただ、騒ぎにはしたくない。誰にも見られないように、どうやって戻るか。
最後の肉の欠片を、ごくりと飲み込む。
――他にも、気になることは山程ある。村に戻る時のことを考えるのは、色々と蜘蛛様に尋ねてからでも遅くはないと、箸を置いた。
「蜘蛛様は、侵略者を――侵略者の子孫である私たちのことを、本当は……どう思っておられるのですか」
「つまり、今起きている災いは、己の恨みが引き起こしたものか、か?」
本当にそこまで具体的には考えていなかったから、咄嗟に否定したくなったけれど、根底にその疑念があるのは事実だった。どう思っているのか。今も恨んでいるのか。無礼ではあるけれど、聞いておかなければ、今後の関わりに迷う。
うなずきはせず、蜘蛛様を見返すと、皮肉っぽい笑みを向けられた。
「己には祟り殺せる程の力はない。それに気がついてからは、死者のため祈っていた。意識も失う永さだ。恨みなど忘れていたわ」
加害者側である衣織が思うのは身勝手ではあるけれど、蜘蛛様が気の遠くなるような時を、恨みと共に過ごさずにいられて、良かったと思ってしまう。
その反面、言葉のささくれに引っかかった。
「忘れていた、ということは、思い出した、ということではないのですか」
祟り殺す程の力はなかったと言うけれど、今は、衣織を使えば不可能ではない。衣織にも力はないけれど、村人たちに恨みを持とうと思えば持てるような扱いをされているのは、たぶん都合がいい。
けれど遅れて、蜘蛛様が相手だと言うのに、一度否定されたものを言葉の綾だけで疑うのかと、戸惑いを感じる。
ささくれは、その疑いを思った、自分の方にあるのでは。
疑いの言葉を吐いてから、自分を省みるまで一瞬。すぐに後悔しながら頭を下げようとした。
「生贄が還ることによる混乱くらいは、期待しないと言えば嘘になる。さぞかし愉快だろう」
けれど、反省してから行動に移す隙間に、答えがあった。
混乱とは、どの程度のものを言っているのだろう。愉快だろうと言いながら、今度は笑ってはいない。
薄ら寒い心地がするけれど、やはりどこかでこの憎悪を感じていたから聞き返したのだという納得もあった。遠慮せずに聞いておいて良かった。
ただ、たったそれだけか、という気もする。
もっと怒っていいのではないか。
大切な人を残らず殺され、以来ずっと祈り続け、それすらも踏みつけにされようとしたのに。
村を飢えさせないためにと生贄にさせられたのに。
蓋が開いたみたいに、蜘蛛様にも自分にも、復讐する権利はあると声が湧く。蜘蛛様の言葉に裏があったことが事実なら、蜘蛛様を疑いたくなるようなささくれが自分の方にあったことも事実だった。生贄を辞めると決めたお陰で、無意識に自分に課していた締め付けが緩んだのかも知れない。
いっそ、蜘蛛様と共に復讐に懸ける道を選ぶことも出来る。「混乱などと言わず、思う存分復讐しましょう」、そんな風に請け負う自分を想像するのは容易いことだった。
「ご期待に添えるかは、分かりません」
それなのに、自然とそう言っていた。
首を傾けて流れた髪が、金色の目を隠した。
「不都合を墓に埋め、その上にあぐらをかく連中の顔が土気色になる様を、其方が堂々と出て行くだけで見られるのに?」
それはちょっといいなと思いながらも、強くうなずく。咄嗟の言葉だったけれど、後から少しずつ考えがまとまってくる。
「孤児が少し騒いだところで、皆の記憶には何も残りません。しかも、それで村の人たちから拒絶されれば結局、蜘蛛様が繋いだ記憶も、私で途切れてしまいます」
「忘れられぬ程の災厄をもたらせばいいのではないか?」
恐る恐る窺うと、邪魔臭そうに払った髪の下には、笑みを含んだ目があった。
「答えてみろ」
冗談を言っただけのようにも見えるし、下手な答えならすぐさま殺されそうにも思える。誠実に答えるしかない。
「私は、新しい思い出を作らないようにまでしたのに、日々を生きる中で、両親との思い出を忘れてしまいました。どれだけ大切な記憶も、災厄も、日々には勝てません。
でも、だから、日々を生きる知として大切な人を残す在り方を、尊いと思います。どうせ忘れ去られる復讐で、その在り方を終わらせて欲しくないです」
「……」
少し形を変えた目元から、許しが伝わってきた。
「其方自身に復讐心はないのか?」
怒りを煽り立てるためでなく、気遣いのこもった声に、両親のことを思い出して寂しくなった心が温まる。答えには、少し迷うけれど。
「ないとは言えませんが、自分のことだけだと、あんまり恨み切れません」
生贄を求める程に追い詰められていたのは飢餓のせいで、生贄に選ばれるような人間だったのは、自分のせいだ。穴の中で感じた反省が、矛先を鈍らせる。
「恨みより、蜘蛛様の平穏を祈る気持ちの方が強いです」
「そうか。まあ幾らかは冗談だ。さすがにもう、情が移った。其方を血濡れた道を歩かせるのは忍びない。其方に己の命運を迂闊に預けると、あらぬところへ運ばれそうだしな」
後半の微妙な評価が気にならなくなるくらい、まっすぐな言葉にびっくりした。動揺が過ぎて、何だか聞かなかったような顔をしてしまった。
「蜘蛛様も冗談など仰るのですね」
「ああ……お陰様で」
お肉のやり取りの時にした会話の意趣返しのように、普段はしない言葉遣いで返される。そういう稚気を出す時もあるだろうと特に不思議に思わなかったけれど、続いて蜘蛛様の口から出て来た理由は、予想と違った。
「其方に付き合っていた時点で変化はあったが、今宵は余計に俗に近づいている感覚がある。肉など食べたせいだろう。あるやなしやも曖昧な身には滋養が過ぎる」
「そういうものなのですか?」
お坊様とは違うものだと思って、あまり気にしていなかった。最初は意外に思っただけだったが、段々とその影響に不安を覚える。
「お肉……良かったのでしょうか。私、とんでもないことをしたんじゃ」
「別にいいだろう」
「そんな軽くていいのですか」
「雑念は増えたが、気分は悪くない。もう一つ礼をしてもいいくらいだ」
「いや、これがお礼なのに、お礼なんて……あ」
ついさっきもした話だ。口ごもっていると、蜘蛛様は物を放り投げるようなざっくばらんな調子で言った。
「隠れ蓑をやろう。ただの蓑ではない。まとえば周りの目から消えることが出来る。盗むも忍び込むも思いのままだ」
「それはまた、不思議な……」
受け止めるのに手間取ったけれど、それの具体的な使い方にまで考えが及んだ時、解決方法が見当たらずに目を逸らした問題が、糸口を解かれ、かたわらでふっと光り輝いたような気がした。
そんな物があるのなら、誰にも見られず、当然捕まるようなこともなく、村に戻ることが出来る。
「いるだろう?」
見透かしたような表情に、少しだけ、蜘蛛様を憎たらしく思ってしまった。山で生きるための知恵を授けてもらうのは、蜘蛛様に迷惑をかけないためにもやむを得なかったが、村に戻ることが難しいのは、蜘蛛様とは無関係な、自分たちの都合のせい。面倒をかけっぱなしではあるけれど、甘えることを当然にしたくはない。
そう思うのに、そんな便利な道具があるのなら、村に戻る道筋が簡単に開ける――そう心が揺れてしまう。
「妙な葛藤をしているな」
「……蜘蛛様は、覚のように心が読めるのではないのですよね?」
「あれは面倒そうな力だ。無料でもいらん」
「ありがたいお言葉ですが、隠れ蓑は、い……いりません。いりません。蜘蛛様にはもうたくさん助けていただいておりますし、こんなの、村の不始末ですし」
「では、礼でなく、頼み事の対価として受け取れ」
「蜘蛛様の頼みなら、対価なんてなくても……」
ひと睨みされて口を閉じる。ため息を耳に痛く感じながら会釈すると、厳かとも言える、静かな声が降りた。
「明日の昼、上の祠に来い。あれより奥に、其方らの祖先が踏みつけにした者の、存在の証がある。見て、記憶してくれ」
少しの間呆然としていたが、何だか堪らなくなって目を閉じた。眼裏に、死者とたった一人で向き合い続けてきた、蜘蛛様の姿が浮かぶ。
「対価でなくても……。でも、伺ってもいいのですか。嫌がる方もいるのでは」
「己以外の死者の声が聞こえたことはない。嫌がる者も、安らぐ者も、いるやも知れぬ。己に言えるのはそれくらいだ」
「……では、嫌な方には申し訳ないですが、伺います。それと……もし、良ければ、見るだけでなく、祈らせてはいただけませんか」
誠意のない祈りはいらないと言った時の蜘蛛様の表情が思い出される。今さっき過去を知ったばかりの人間に、誠意があるとは、思ってもらえないだろう。自分でも恐れ多くて言えない。
しかも、たぶん比重として大きいのは、その人々の安寧を祈る気持ちではない。
目の前にいる、自分を救ってくれたこの人を、これ以上独りにしたくない。
衣織の内心を知ってか知らずか、返事は、ほとんど間を置かずに返ってきた。
「許す」

