「蜘蛛様。蜘蛛様にいただいたお肉を蒸し焼きにしました。もし良ければ、いかがですか」
境内に立って、何となく神社の方を向きながら呼びかけると、山で呼びかける時と同じように、風を連れながらその姿は現れた。
気が乗らなければ来てくれない時もある。ほっと胸を撫で下ろしていると、蜘蛛様は目を眇めて、袂の中で腕を組み、賽銭箱の横にある柱に寄りかかった。咎められている気配がある。
「己は「お隣さん」などではないのだが」
理由を問う前に、棘々とした声で指摘された。馴れ馴れしいと思われたらしい。何となくそう思われることは予想していたから、頭を下げながらも、どうにか聞いてもらえないかと考える。
「日頃のお礼がしたくて作ったのです。野草の名や川の場所、まだ上手くできませんが魚の捕り方など、たくさんのことを教えていただきましたし、井戸浚えのお手伝いまでしてくださいました。何もしないままでは私も死ぬに死ねません」
「目障りを除けただけだ。肉もわざわざ狩ったのではなく、ちょうど亡くなったものがいたから」
親切を頑として認めない様に、思わず笑ってしまった。一瞬眼差しが冷えたが、蜘蛛様自身でも無理筋とは思ったようで、呆れたように目がそれた。
「何にせよいらん。其方が食え。先にそのえのき茸のような手足をどうにかしろ」
「そんな。私はしっかり食べておりますから」
「喧しい」
どう食い下がってやろうかと蜘蛛様を見詰めると、再び目が衣織を向いた。
「それを其方からの礼とすれば、道理がねじ曲がる。受け取ることはできぬ」
「道理とは?」
「その猪は己からの礼だ」
耳を疑い、礼を受け取りたくないばかりに頓智でも言い始めたのかとも思ったけれど、蜘蛛様の顔は真面目だった。
しかし真面目に考えてみても、こちらが礼を言われる筋合いが全くない。
「どういうことですか?」
「語る内に肉が固くなる。疾く食え」
「じゃあ、お礼でなく、やっぱりおすそ分けとして」
「諦めの悪い」
「お陰様でございます」
言いながら、自分らしくないことをしていると不安に思う。
正直なところ自分でも、その姿を見るまでは、拒絶されるなら止めた方がいいだろう、と思っていた。そう出来ると思っていた。生贄になる前の衣織は、すぐに引き下がる方だった。すんなりと生贄にされるくらいには、諦めが良かった。
けれど今は、何だか引き下がりたくない。死の間際に感じた色んな後悔のお陰で、少し変わりつつあるのだろうか。それとも、相手が蜘蛛様だからか。
「……でも、分かりました。食べてもらうのは諦めます」
用意した、蜘蛛様に譲ってもらった白膠木から抽出した塩で揉み、蜘蛛様に教えてもらった香草で包んで蒸した、今の衣織にとってはこれ以上ないご馳走は、全部一人で食べればいい。
「けれど、私へのお礼だと言う訳は、聞かせてはいただけませんか。こんな私でも、蜘蛛様にお礼を言ってもらえるような、蜘蛛様のために出来ることがあるのなら、知りたいのです」
蜘蛛様は口を開きかけて、衣織を見返し、沈黙する。その目には、衣織ではないものが映っているような気がする。山でも時々、この目を見ることがあった。何を思っているのだろうと不思議不安相半ばで考えながら、じっと黙って待つ。
「――己が迂闊だったな」
肩がびくっと跳ねた。
「知れば、其方の迷いは深くなるだろう。言わぬ」
目下のところ、衣織の迷いと言えばただ一つ。生贄に戻るかどうか。それがどのように関係してくるのか。
今もまだ、決断は出来そうにない。
ただ、変わったことはある。幼馴染や同僚たち、近所の子供が飢えることにはやはり悩むけれど、よく知らない村人たちよりは、蜘蛛様の方が断然大切だと思うようになった。
唯々諾々と生贄になったあの時は楽だった、と思い返しながらも、迷うこともなくこの地を「生贄が埋められた土地」にしなくて良かった、とも思うようになった。
そして、何故だか、普段の生活でも息がしやすくなった。理由は自分でも分からないけれど、生贄になる前よりも。
迷ってはいるけれど、前に進んでもいる。たぶん、名主様や旦那様、蜘蛛様でもなく、自分の望みに近い方へ。
「迷い切って、今度は自分の意志の下、選びたいのです。どうか教えてください」
それと、と付け加えた。
「いつも用が済んだらすぐ行ってしまわれるから、お話する時間が取れないかという気持ちも、実はあって……。せめてお話だけでもしていかれませんか。蜘蛛様の好きなものなど知りたいです」
ふっと蜘蛛様が動いた。衣織の方へ向かってきて、衣織がこれ以上近づくのは畏れ多いと感じる距離を、彼は何ともないように超える。
手が伸びてきて、喉に軽く爪が刺さった。顎に手を添えられ、強制的に上向かされる。
月のように瞳が冴え冴えと光っている。
「死者に――」
月がまぶたに隠された。
「いや。寝た子を起こすか」
「蜘蛛様?」
「話してやる。上がるぞ」
何か文句を伝えるように、喉を数回、爪でちくちくと刺してから、蜘蛛様は衣織の横を通り過ぎた。
振り返れば、蜘蛛様が社務所に入っていく背中があった。
「あ、え。外か社か、蜘蛛様のところまでお持ちつもりで……社務所の方は何の片付けも出来ておりませんので」
「礼儀はいらん。いつも通りでよい。……肉は、味見程度ならば食ってやる」
「召し上がっていただけるのですか!」
無礼講こそ真の礼儀が要求されるものだとお屋敷で学んだ。第一、友達を呼ぶのにすら今の社務所は相応しくない有り様だ。慌てて社務所に取って返す。
困る。けれど、笑みがこみ上げた。蜘蛛様の居所を整え、料理の支度をしながら、手を握り締める。
お屋敷でもこんな風に旦那様や奥様のために働いていたけれど、その時とは全く心持ちが違う。身寄りのない、しかも愚図な自分を雇ってくれていた二人には申し訳なくも思うけれど、ただ、あの家では何か命じられる度に、手足を柱に繋がれるような気分になった。
それが、今は楽しい。頼まれることが嬉しいとまで思う。恩返しというだけでなく、時間がある時、気づけば自然と蜘蛛様喜ばせる方法や、その姿を見る方法を探している。
思えばお屋敷では、自分から何かしたいと願ったことは、あまりなかった。何か望めば大体怒られるから。
蜘蛛様が神様だったら良かったのに。
それなら生贄になるのも、きっと悪くなかった。蜘蛛様は口こそ悪いけれど実は優しいから、苦しみが長く続かないよう、早く命を取ってくれただろう。

