夜蜘蛛は殺せ、朝蜘蛛は殺すな。
天井の隅に蜘蛛の巣を見つけて、そんな言い伝えを思い出した。
だが、言葉だけで意味まで思い出せない。何故殺すのだったか、何故殺さないのだったか。
今はどちらだったか。外を見ると、庭には、橙色に滲む光がぼんやりと満ちていた。日が落ちきらない、昼とも夜とも言い難い、曖昧な刻だ。
――斜陽だな。
嘲笑が耳によみがえった。
ふっと体の表と裏がひっくり返るような吐き気がこみ上げて、慌てて口を抑える。腕が卓にぶつかり飲みかけの茶が倒れ、帳簿を染めていく。その色もまた橙に混じっていくような色をしていた。
いっそ殺せ。
あの女のせいだ。あの女のせいでこうなった。憎き女の、忘れ形見――。
飢餓を脱するために神主と名主と自分たちで計画した、生贄の儀式。ついでにあの女を厄介払いし、長年の憂鬱から解放されたと安堵していたところに、あれは黄泉から戻ってきたのだ。その上に士人まで巻き込んで、村人たちに秘事である儀式を暴露した。
自分たちに村人たちから向けられる目は、すっかり変わった。
確かに、人道にもとる行いではあっただろう。だが全て村人のために行ったことだったのに、非難、非難、非難。下女下男たちすら、さっさと働くように命じても、物言いたげな目で見る。
災禍の元凶は、今はよみがえりの巫女としてもてはやされ、いい気になっている。飢餓がいまだに続くのは、ほとんどあの女のせいだと言うのに。
帳簿に書いた文字が、黒ぐろと滲んでいく。
何のための人生だった。
あの女さえいなければ。あの女、あの――。
「いいなあ! 楽しそう!」
庭の方から子の笑い声が聞こえて、はっと顔を上げた。
死ぬ訳にはいかない。今の自分には、ある。人生の意味が。
長らく子どもが出来なかった自分の身に、奇跡のように宿ってくれたあの子。夫に願われていた男児ではなかったけれど、自分にとっては比類ない宝。
あの子を、もっと良い暮らしの出来るところへ嫁がせるまでは、死ぬ訳にはいかない。
無性に顔が見たくなって立ち上がった。あの子は村人共やあの女のような恩知らずではない。自分を母と呼び、慕ってくれる。
濡れた帳簿はそのままに部屋を出る。橙色の光の中、子が乳母に懸命に話しかける姿は、遠い日に見た心地よい夢のよう。
この夢を守るためには、やはり、あの女が目障りだ。あの女がいる限り、下女を生贄にした家という風評はついて回る。
逆に言えば、あの女さえいなくなれば、あっという間に皆忘れていくだろう。皆、情があって嘆いている訳ではない。流れ者の歌曲と同じ、単なる退屈しのぎに過ぎない。
そうとなれば、早い方がいい。
決意すると、夕暮れの風景に溶けるように、心が穏やかになった。
「二人とも、何をしているの?」
「あ、かあか!」
「お、奥様……今は……」
「ねえ、かあかからも姉やにお願いしてよ!」
さっき聞こえたのは楽しそうな声だったけれど、今は何やらご立腹な調子だ。乳母の方は心底困り切って、いっそ青ざめているような――。
「何かしら」
乳母の方に問いかけるが、口ごもる。穏やかだった心に波が立つ。
待ちかねたように、子が答えた。
「みんなお山神社に行くんだって。笹舟競争するんだって。私も行きたいの。だのに、姉やったら許してくれないの。姉やもやったことあるって言うのに。ずるいよ」
「あぁ、お嬢様」
お山神社という単語は聞き慣れなかったが、まずいことになったという乳母の表情に、その意味するところは察せられた。
子の顔を、赤々とした夕日が隠した。
「あの人と、私も遊びたい」
そこからの記憶は、途切れ途切れになっている。
手には草刈り鎌、眼前には高みへと続く石段。踏む度に割れる落ち葉。子供たちの笑い声。夕日に染められたような木々。鳥居。古ぼけた社。
女。
風をまとって現れ、人心をさらい、そのまま天に持ち去った女。
この女が始まりだった。
「奥様……?」
夕日の中でもその顔の白さが分かる。鎌を持ち直すだけで怯えた顔をする。ああ、いい気味。花が散る瞬間を見るような喜び。
もっと怯えればいい。夫がお前を見つめる顔を見た時の私の恐怖は、その比ではなかった。
「何か、ご用向きですか」
「久方ぶり」
「……はい。ご無沙汰しております」
「うちの子が時々ここに来ていると乳母から聞いたの。どうして黙っていたのかしら」
「……何のことでしょうか」
ああ、嘘をつくのね。もう遅いのに。
苛立ちに地面を踏み躙る。とぼけた顔をして、その顔でどれだけの男をたぶらかしてきたことか。
「嘘をつくということはやはり、後ろめたいことがあるんだろう」
「そんなことはありません」
「夫に飽き足らず、子供まで奪うつもりだね」
「は?」
「知ってるんだよ私は。気づかれないとでも思ったか。天女のような面をしていれば騙せると思ったか。男も女もお前を歓迎したが、私だけはずっと前から分かってたんだ」
悪夢から覚める時が来た。
「お前の本性は人を騙して食らう鬼女だ、胡蝶!」
鬼女は目を細めた。
「……奥様、お茶をご用意しますから、そこの社務所でゆっくりお話しませんか。お世話になったお礼も、お詫びも、出来ていませんでしたから」
「ああ、それがお前の手口なんだね。そうやって誘い込んで人を食うんだ」
「違います奥様。何か、少し、思い違いを……。私に……愚図で役立たずの衣織に、そんなことが出来ると思いますか? 落ち着いてください。私、衣織です!」
「衣織?」
聞き覚えのある名に頭が揺さぶられ、一瞬、目がくらむ。鬼女の表情が何か変わるけれど、嘔気がこみ上げて、少しも見ていられなかった。
何でもいい。殺せばいいんだ。
一歩踏み出す。鎌を振り上げる。
下ろす瞬間、燃え上がるように熱かった体に、ふっと寒気が走った。
鎌の向こうに何かいる。憎み続けた鬼女とも違う、冴え冴えとした気迫を持つ者。小指を差し出す女郎のような。死ぬような思いをした獣のような。
肉を切る感触は返って来なかった。
残像を追いかけていくと、その姿を視界に捉え切る前に、横合いから思い切り押された。あえなく体は地面に落ちて、その拍子に鎌は手から離れた。慌てて取り戻そうとすると、紅葉葉のような小さな手が、鎌を拾い上げた。
見上げると、怯えた顔をした子供が、鎌を抱き抱えていた。
「ちょっと、何で出て来て、危ないからっ!」
「で、でも、衣織さん死んじゃう!」
そう言えば、石段を上る前に、子供の声が聞こえていた。笹舟競争、とあの子も言っていた。視界には入っていなかったけれど、どこからかずっとやり取りを見ていたらしい。鎌を抱えて逃げていった先にも、何人か、怯えた子供が立っている。
その表情に、胸で沸々と滾っていた殺意が萎えた。
「奥様、すみません。何かあったのかも知れませんが……私の命はもう、私だけのものではないのです。死ぬことは出来ません」
呆然としていると、頭上から、堅固な意志のこもった声が振ってきた。
聞いたことはある、けれど、何かが決定的に違う。
見上げたそこにいたのは、憎んだ女の面影を持つ、けれどあれよりいかにも要領が悪そうで、生きることに必死そうな、今までに出会った誰とも似ても似つかぬ女。
「代わり……にはならないでしょうが、今日のことは忘れます。生贄になれなかったお詫びと、育てていただいたことの恩返しは、いつかしなければと思っていました。今日をその時とさせてください。
長い間、ご面倒とご心労をおかけいたしました。ご挨拶が遅くなりましたが、お暇をいただきます」
地に倒れたままの自分のそばに膝をつき、地面に頭がつく程に深く頭を下げる。
誰だろうと思いながら、その姿を見ていた。
少ししてすっと立ち上がり、軽く砂を払って、子供たちの方へ歩いていく。追わなければならないような気がして体を起こしたけれど、起こした後は、ぼうっと見守ってしまった。
「みんなも今日のことは誰にも言わないで。お父さんにもお母さんにも。出来れば忘れて」
一様に子供たちは、言葉にしないまでも不満げな表情を浮かべる。女はこちらに背を向け、子供だけを見ながら言った。
「奥様に、生きていって欲しいから……とにかく、生きていって欲しい。そのために忘れてもいい。忘れたことは思い出すことも出来る。それでいつか思い出話が出来る日が来るのを、私は待ちたい」
焦熱のような惨めさが地面からふっと臭った。女の肩越しにじっとこちらを見るいくつもの目に、苦みを覚えた。
倒れた時打ち付けた箇所に鈍い痛みを感じながら、立ち上がって、女に背を向ける。
少しずつ早足になって、鳥居をくぐる時には駆け足になっていた。
階段を下りながら、何故だかずっと昔のことを思い出している。
ある子供が一人消えた。親を亡くし、人買いに売られようとしているところだったから、誰も問題にはしなかった。
数年後、村に、誰の子でもない子供が現れる。
何も分からない様子で立ち尽くすその子に、最初に抱いた感情は憐憫。しかし、その顔にある面影に気付いた時、ぞっとした。他の誰かも気がついて、その子は、神隠しにあっていたのだと不気味がられた。再び排斥されかかった時、「あの女の忘れ形見なら、引き取ろう」そう言ったのは、夫だった。
反対した。流れ者の女から産まれ、しかも神隠しにあっていたような不気味な女は、必ず災いをもたらす。いつか名主の補佐役から脱し、自分たちが名主の座を奪うという目標も、きっと妨げられる。
けれど、当時子供がいなかった自分には、権はなかった。やはり胡蝶の方を娶るべきだったかという言葉に、返せる言葉を持たなかった。
それから、子供が適齢を迎えるまでの僅かな安寧。迎えた後、自分に子供が出来るまでの恐怖の日々。子供が出来てもなお恐怖が終わらないと気付いた時の屈辱と、生贄の話が持ち上がった時の希望。
万華鏡のようなその移り変わり。
階段はあと少し。
本当にあの子が悪かったのだろうか、とふと思う。万華鏡の中、あの子の表情は、常に暗く沈んでいた。
逆に、笑っていたのは。
本当に憎むべきだったのは――。
答えを出しかけた時、降ってきた落ち葉が視界を隠した。
その瞬間、足裏から石段の感触が消えた。
自覚よりも先に、全身からさあっと血の気が引く。しかしもう体は止まらない。ただでさえ勢いがついていた。前のめりに落ちていく。
脛、膝、腰、胸、肩、肩、頭。
「巫女の顔を立て、其方と子は見逃そう」
どこからともなく声が聞こえた。激痛で誰何も問えない中、無遠慮に耳に流し込まれるその声は、奇妙にもこの上なく美しく感じられた。
「しかし、其方の伴侶には随分と世話になった。礼をせねば気が済まぬ。
日の出ている間に家の者らで蜘蛛を殺せ。三度目に、彼の者の魂は肉体の軛から解き放たれ、其方らが神に願った、村を長らえさせる力を得られるだろう」
何とか起き上がって声の正体を探そうとするも、近くには人の気配すらもない。声もそれきり、幻だったかのように、何も聞こえなくなった。
体中が痛いけれど、落ち葉の転がる軽やかな音が、虫の音が、夕日の沈む景色が、痛みを慰めるように覆う。
自然、手を合わせていた。
おわり
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